「人間形成の禅」その効用・効果について

丸川春潭


 
(その0)はじめに「禅の功徳、効用を説くと云うことは」・・・・・・・2P
(その1)「直ぐ(仕事に、勉強に)取り掛かれる効果」・・・・・・・・4P
(その2)「他のことに気を散らさないで今に集中できる効果」・・・・・5P
(その3)「常に平常心を保ってことに当たれる座禅の効果」・・・・・・7P
(その4)「コンプレックスからの解放」・・・・・・・・・・・・・・・9P
(その5)「身体機能への効果」(脳科学の見地から)・・・・・・・・・・11P
(その6)「精神的安定効果(セロトニンの効果)」(脳科学の見地から)・・13P
(その7)「我がまま・自己中心を消滅させる効果」・・・・・・・・・・・15P
(その8)「個性の発揮・セレンディピティ(ひらめき)効果」・・・・・ 17P
(その9)「自律神経のバランスを良くする効果」・・・・・・・・・・・・19P
(その10)「アンチエージング効果」・・・・・・・・・・・・・・・・・・21P
(その11)「自利利他と慈悲心」・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・23P
(その12)「座禅をすることによって仲良くなれる効果」・・・・・・・・・23P
(その13)「人の香りが醸し出される効果」・・・・・・・・・・・・・・・25P
(その14)「禅の功徳は無限大」(終わりに)・・・・・・・・・・・・・・27P
(その15)「禅の功徳は求めるものではない」(蛇足)・・・・・・・・・・29P
 


(その0)はじめに「禅の功徳、効用を説くと云うことは」


 


坐禅の修行の効果は云わぬが華?!


古来より、禅の功徳は無功徳!と云われています。この見地は達磨大師以来の禅の真髄であり、正しい禅の見地であります。それは白隠禅師の云われる「衆生本来仏なり」とも通ずる見地であり、人間形成などと殊勝げなことは本来不必要なものであり、禅で何かを得ようなどと考えることは本来的には間違っているとの見方であります。


 


それはそうではありますが、実際精神的に悩み苦しんでいる人は多いし、救済を待っている人は多いのであります。日本は自殺大国になっており自殺者3万人前後を15年間継続しているわけであります。


「禅は無功徳である!」という第一義(原理原則)を振りかざしているばかりでは、自殺まで思い詰めている人に希望の光を見せてあげられないわけですし、「正しく・楽しく・仲の良い」社会をつくるためには原則論から降りて、みんなが判る言葉で「人間形成の禅」の効用を考え表現してみることもあって良いことと考え、これからお話しをすることにいたします。


 


人間形成とは?


一言で云うならば、公案三昧・数息観三昧・作務三昧の蓄積により、三昧を身に付けることを人間形成と云います。


これには暗に公案の透過だけが進んでも三昧が身に付かなければ、それは人間形成が進んでいるとは云えないということも含んでおります。公案透過においては瞬間的に見えたと云ってもその三昧の境地が本当に身に付かなければ、大脳の記憶として残る禅学問にしかならないのであります。


人間形成というものは、剣道でも書道でも数息観でも作務でもどんなことでも良いですから、三昧を身に付ける「行」の裏付けがなければ、本当の人間形成にはなりません。


 


三昧とは?


古来からの云い方をすると、今やっていることに意識が集中し、それ以外のことに念慮が働かない状態と一言でいえば云えます。


最近の脳科学の知見を私なりに解釈して云いますと、前頭葉(前頭前野)が活性になっている状態が三昧状態であると定義致します。


後からも詳しく何回かに分けてお話しするつもりですが、数息観三昧の脳の状態は、本庄慈眼先生の講話「お釈迦様の脳」にあるラマ僧の瞑想状態と同じで、頭頂連合野がSilentになり、代わって前頭葉が活性になるという場合にそっくり当てはまります。


 


しかし、公案三昧・作務三昧・剣道三昧・書道三昧・茶道三昧・仕事三昧においては、前頭葉のみならず考える中枢である頭頂連合野も活性になっていると考えられます。したがって広い意味での人間の三昧状態を脳科学からの知見も入れて定義すると、(頭頂葉の活性不活性にかかわらず)「三昧状態は前頭葉が活性な状態である。」と云うことだけで良いと考えます。


これは実は小生のオリジナルな言い方であり、今後この考え方・表現方法は結構重要な観点であると自分ひとりで力んでいます。(お笑い下さい!)


 


 


 


 


 


(その1)「直ぐ(仕事に、勉強に)取り掛かれる効果」


 
 座禅は、足を組んで、背筋を伸ばし、数息観法をします。


数息観法は、自分の自然の呼吸を数えて集中力、三昧力を養う東洋の三千年来の心を磨く観法です。


これは、吸う息吐く息で、ひとーつ、ふたーつと数えて行き、息を数えること以外のことは考えない。何か雑念が入ったらまた一からやり直す。これを毎日30分以上続けると、集中力、三昧力が着実につきます。


 


三昧力が身に付いてくると、今やろうとすること・今やらなければならないことに、躊躇なく直ぐ取り掛かれるようになれます。


これは当たり前のように思われるかも知れませんが、自分の若い頃からの経験・反省でもそうですが、これがなかなかできていない。


勉強とか仕事とかのみならず日常の雑務を、それが興味あるかどうかにかかわらず、またしんどいこととか面白くないことでもやらねばならないことであれば何でもさっと躊躇なく取りかかることは、なかなかできていないのです。


 


こういう乗りが悪い心理状態に引きずられることなく、それを意識する前にすぐ取り掛かれることも三昧に裏付けられた人間力の一つであります。すなわち三昧が身に付いてくると、何事に対しても常に躊躇なく直ぐ取りかかれるという体制が準備できているということであります。
 


 これが座禅の効用のひとつです。受験生の学習態度や、もっと一般的に大人の仕事力に、座禅の行を基盤にした「人間形成の禅」は素晴らしい効果を発揮します。
 



 


(その2)「他のことに気を散らさないで今に集中できる効果」


受験生でも社会人でも、勉強なり仕事なりに、100%集中している時間は、それに関わっている時間の内 何割あるでしょうか?その仕事に平均して半分もないのではないでしょうか?


今やっていることに没頭して、他のことにチラッとも気を散らさない状態をキープすることはなかなか難しいものです。


チラチラ他のことを考えながら仕事をしている状態では、本気で取り組んでいるとは言えず、能力を100%出しているとは到底言えないでしょう。


こうなると勉強の成績とか仕事の出来不出来は、頭の善し悪しでも、能力のあるなしでもなく、集中力というメンタルな面での差が大きく効いてくると言っても過言ではないでしょう。


 


しかも突っ込んで云えば、集中しているという部分においても、レベルの高い低いが大きいのです。しかしここでは「気を散らさない」レベルの比較的低い集中度の話ということにして以下お話しします。


 


例えば、ホームページ用のブログを書いているとき、遠くで消防自動車のサイレンが鳴り出した。それが耳に入り、どこかで火災が起きたんだなあ、と思う。そのサイレンからの連想で、子供の頃に弟が消防自動車好きでサイレンが鳴るといつも駆けだして行ってしまっていたことを思い出す。そして次に、一昨日その弟から倉敷の「群すずめ」という銘菓を貰ったことを思い出し、急に腹が減っていることに気づき、群すずめを食べようと冷蔵庫に取りに行く・・・。


 


こういう消防自動車のサイレンの類いの「気を散らす」材料は、日常において事欠きません。これを座禅では「二念を継ぐ」と言います。「うーうーうー」の音波を消防自動車と認識するのが一念です。それから「弟」が二念であり、「群すずめ」が三念です。


 


座禅では普通、数息観法を行って、集中力・三昧力を養います。(数息観法が判らない方は、「人間禅 数息観のすすめ」をネットで検索して調べて下さい。)


この数息だけに意識を集中して、数息以外の念慮は全て切ることを徹底して追求するのですが、これが「二念を継がず」の訓練であり、これをしっかりやることが大切です。


 


座禅を組んで数息観法をしっかりやると云うことに二つの留意点があります。


一つは、この実践行に熱心に気合いを入れて取り組むことです。


二つ目は、これに取り組む時間と頻度ですが、線香一本点るのが大体45分ですが、先輩方からの言い伝えは、少なくとも半炷香(25分)以上、毎日、365日、5年、10年、20年、30年・・・・死ぬまで継続することであると。馬鹿正直に続けられるかどうかが、その人の人間としての資質に関わる器の大きさになります。


 


この「二念を継がず」が数息観で出来だせば、それだけでも大変な人間力増強になります。それは呼吸を1から10まで数える間の約1分間だけの「二念を継がず」で良いのですが、数息観を試みた方はお判りでしょうが、このたった10までのたった1分間ほどの二念を継がない数息が大変難しいのです。


 


毎日30分以上を365日、10年間熱心に数息観の修練(一日一炷香)を継続して三昧力を磨いた人でも、100人の内数人くらいしか到達できない難しいことです。しかしこれができ出すと相当な人間力が付くことになり、日常生活において様々な素晴らしい効果が発揮できるようになります。


 


1分間の「二念を継がず」の三昧が身に付いてくると、どんな喧噪な環境の中でも気を散らさないで、今やっていることに集中できるようになります。


どんな物音や人声が聞こえてきたとしても、目の前の今の手元が疎かになるということはなくなります。


 


また、済んでしまったことを引きずったり、未だこれからのことに気を患わせたりすることはなくなり、すかっと「今に生きる」ことができるようになります。


どんな環境条件の中においても、今の目前のことに集中し、他に念慮が動かない。こうなると学習効果も仕事力も上がるわけです。


単に仕事ができると云うだけでなく、精神的に安定かつ意欲的状態に常に自分を整えておれるのです。


 


これは才能に関係なく、老若男女、貴賤を問わず、人種を問わず、実践行を継続するかどうかです。ローマは一日にしてならず。大人物も一日一炷香(30分以上の数息観法の実践)を継続したかしないかに掛かっています。


 


一人でやるとなかなか継続できませんが、各地区で人間禅(在家禅)の静坐会が開催されています。あなたもネットで検索して参加し、みんなと一緒に頑張って下さい。


 


(その3)「常に平常心を保ってことに当たれる座禅の効果」


 


情報過多社会、時間に急かされる社会の中においては、ともすれば周りに引きずられて、自分を見失いがちであります。


 


三昧が身に付いてくると、どんなに忙しくなっても、慌てるということはなくなり、しっかり自分を整えることができます。


慌てるということは、呼吸が上がって上呼吸になっているのです。


書道においても剣道においても呼吸を下げることを重視するよう注意を喚起しています。


 


日頃から座禅を継続することによって三昧が身に付いてくると、常に正しい呼吸ができ、常に冷静に対処でき、優先順位通りに「今」に全力投球することができるようになるのです。


 


現代は、人類が経験したことのない情報過多、精神的ストレスの多い時代です。精神的ストレスの蓄積により、自律神経失調や鬱病症候群に罹りやすい時代です。ほとんどの人が程度の差はあれ、こういう状態に陥っていると言っても過言ではないかと思います。こうなるとその人の活性度を著しく落とすばかりでなく、その組織、その会社は、生き生きとした仕事ができなくなります。


 


脱俗出家しない一般社会人は、一つのことにだけ専一に取りかかれば良いということはあり得ません。常に多重な課題の処理に追われて生活しています。これが精神的ストレスを引き起こす源泉になっているのです。


 


特に精神的ストレスが未だrelease(解き放つ)できていない状態に、次の新しいストレスが重なり、それがどんどん積層化してくると、人間の心は直ぐには正常な状態に復帰できなくなり、心の病になってしまいます。


 


真面目な人ほど責任感が強く、まずいことになれば責任を背負い込んで自分を責める。したがって結果を気にしすぎて全てに臆病になり尻込みがちになってしまう。真面目な人ほど現代病と言われる鬱病症候群や精神統合失調へと段々と病膏肓(やまいこうこう)に入り、自殺予備軍にもなるのです。


 


自然の中で自然と一体になった生活をしていた時代は、人の心も自然な状態を安定して保つことができやすかったと思われますが、現代は人間の心の自然な状態を確保することが難しい時代です。すなわち本来の人間の自然な平静な状態は各人が意識して確保しなければならない時代なのです、現代は。


 


ことほど左様に、生き馬の目を抜く情報過多な現代において、人間の心の自然を保持するのに無策では大変危険です。意識的な施策が不可欠になるわけですが、その施策の骨子は、ときどき頭頂連合野(人間の脳のデジタルコンピューターに該当する部署)をご破算にしてやる(ゼロに戻す)ことです。


 


それには座禅をして数息観法を修することが最もシンプルで、しかも効果も大きいのです。数息観法は三千年前からの東洋的観法です。座禅を組んで数息観を継続的に実践することにより、だんだんと三昧が深くなります。


数息に三昧になると云うことは、頭頂葉をSilentにし、感性を司る前頭葉を活性にすることです。


 


数息観法を継続して実践していると、三昧が少しずつ身に付いてきます。この数息観の継続を一日一炷香できちっと行取していると、精神的ストレスを後に残さないで、精神的疲れの蓄積をしないで、済んだことに引きずられないで、未だ先のことにくよくよ気を揉まないで、常に平常心を保って、「今」をしっかり安定して生きることができるようになるのです。


 


これは才能に関係なく、老若男女、貴賤を問わず、人種を問わず、ただ一日一炷香(毎日線香一本の時間 30分以上座禅をする)の座禅を継続するかどうかに掛かっています。


一人でやるとなかなか継続できませんが、各地の週例座禅会に出席して、みんなと一緒に頑張りましょう。
 
 
 


(その4)「コンプレックスからの解放」


 


 素直な人はいろいろなものに興味を持ち続け、その一つ一つに秀でてきます。人の言うことを素直に吸収する人は成長します。この素直さを妨げているものの一つにコンプレックス(優越感・劣等感)というものがあります。


 


コンプレックスが素直に学ぶことを妨げるのです。教えられることを嫌う、教えられることが自分を卑下していると考えてしまうのです。謙虚に学ぶことに全力投球で打ち込むことができないのです。


 


コンプレックスは、チッポケな「我」が生み出す二つの迷いの一つです。


一つは優越感(Superiority complex)で人と比べての増上慢になるもので、鼻持ちならない嫌われ者です。


 


もう一つのコンプレックスが、自分を過度に卑下し、素直さを妨げる劣等感(Inferiority complex)です。これは、増上慢の裏返しで、卑屈になり、他人の幸せを羨み、そして引きこもり、対人恐怖症まで広範な症状になり、その人本来の持っている能力を押し殺してしまいます。


鼻持ちならない優越感と卑屈な劣等感は、チッポケな自我の表裏であり、出所は同じチッポケな自我から出てきているのです。


 


人間形成とは三昧を身に付ける修行であり、座禅を継続実践していくと、だんだんと三昧が身に付いてくる。すなわち人間形成が進んでくる。その進歩に比例して、チッポケな吾我がだんだん薄くなり、それと入れ替わって大きな自我が身に付いてきます。


 


これは脳科学の方で云いますと、相対的思考の頭頂連合野だけの活躍から自他の区別を取り払う前頭葉の活性化と云う見方と、もっと奥深い旧脳の扁桃体からの吾我の念を空ずると云う見方とがあり、どちらも人間形成の進行に比例しています。この後者については次にもう少し説明を加えておきます。


 


三昧が身に付いてくると、チッポケな「我」がチラッと顔を覗かせても、それにすぐ気づいてそれを未然に押さえ込むことができるようになります。これができるようになれば、つまらぬ劣等感も、鼻持ちならない優越感もだんだんとなくなってきます。


 


これらを総合して、三昧が身に付いてくると、常に平静な心の持ち様になります。これが素直な心です。


素直なこころが安定して保持できるようになれば、目下の者にも頭を下げて教えを請うことができ、何でも吸収し勉強し成長することができます。


そして、さばさばと何の屈託もなく、自然体であらゆる事に積極的に対応できるようになります。


 


三昧を身に付けるということは、才能に関係なく、老若男女、貴賤を問わず、人種を問わず、ただ一日一炷香(毎日線香一本の時間 30分以上座禅をする)の座禅を継続するかどうかに掛かっています。


 


人間形成の禅の基本は、毎日線香一本の時間(約45分間)を朝起きたときとか寝る前に座禅を組んで数息観法を行ずることにあります。しかし仕事が忙しいとか、疲れたとかと云ってなかなか継続することが難しいものです。


 


一人でやるとマンネリになってなかなか継続できませんが、時々は人間禅の各支部・禅会のHPにある週例座禅会に出席して、みんなと一緒に座禅三昧を行じ、お互いに励まし合って座禅をすることも、一日一炷香の継続のために必要なことです。


そして、素直なこころを常にキープし、コンプレックスから解放され、はつらつと学び、仲良く手を携えて成長して頂ければと念じております。
 
 
 


 


 

 


(その5)「座禅の身体的効果について」(最近の脳科学から)
 


座禅の効用は精神への作用ばかりではなく、体の健康にも多大な効果があるのですが、それが医学的にどういうメカニズムになっているのかを最近の脳科学の知見を引用してお話しします。


 


先ず、座禅の三昧に入ると、脳はどう変化するかが、最近の医学研究の情報から段々判ってきています。


「数息観三昧に入ると頭頂連合野がSilentになり、それと入れ替わるようにして、前頭葉が活性になる。」、これが座禅の脳科学の基本現象です。


 


この現象がアメリカの脳科学者の実験で確証されてから既に10数年経過しております。この知見は、京都大学医学部名誉教授の本郷巌先生(人間禅名誉会員)によって紹介されたものです。


 


前頭葉が活性になると、脳からα波が生じます。このα波の生成についてはかなり早い時期から(約50年前)日本でも明らかになっておりました。


しかしα波が出る状態になると、脳内物質のセロトニン物質が生成されるという実証は最近の医学の進歩の中で明らかになってきたことです。


 


因みに、セロトニンの第一人者である東邦大学医学部名誉教授有田秀穂先生を日暮里にある人間禅択木道場にお招きして、禅フロンティア「最近の脳科学と禅」を第20H12.4.1に開催したことがあります。(禅フロンティアは、現在は隔月で開催し、平成16年1月で第五十回になります。)


 


セロトニンとは「ノルアドレナリン」や「ドーパミン」と並んで、体内で特に重要な役割を果たしている三大神経伝達物質の一つです。


セロトニンは人間の精神面に大きな影響を与える神経伝達物質であり、セロトニンはノルアドレナリンやドーパミンの暴走を抑え、心のバランスを整える作用がある伝達物質で、セロトニンが不足すると精神のバランスが崩れて、直ぐ感情的になったり、暴力的(キレる)になったり、うつ病を発症すると云われています。


 


有田先生は、心の怪我を薬という他力を使わず、自力でセロトニンという脳内物質を分泌させて、克服するためにセロトニン道場(御徒町)を開設され、呼吸法などのリズム運動の実践を主体にして、セロトニンの分泌を促進させて治療に当たっておられます。


 


有田先生の研究では、学生に呼吸法をさせて、セトロニンの生成を実証実験され、呼吸法を始めて5分ほどするとセロトニンが増えだし、25分ほどの呼吸法の終了後もセロトニン物質はKeepされていることを実証されています。


 


そして先生は、数息観法とか呼吸法で三昧に入り前頭葉が活性になるとセロトニンが生成され、精神のバランスが保たれると述べられています。


 


京都大学医学部名誉教授本庄巌先生(人間禅名誉会員)は、「お釈迦様の脳」を研究され、座禅で三昧に入り前頭葉を活性にすることを長年継続すると、前頭葉の活性化が小脳化すると云われています。すなわち前頭葉の活性化機能が日常的に増強されると云うことです。


この本庄先生の「前頭葉の活性化が小脳化する」ということこそが「人間形成とは三昧が身に付けることである」と云うことの医学的表現です。


 


毎日線香一本焚く時間の30分から50分の座禅の推奨を、「一日一炷香のすすめ」として昔から言い伝えられてきていますが、その大切さ意義深さを最近の脳科学は、臨床的に証明しているのであります。


 


今回は、座禅の効果が、脳科学的にどう生じているかについてのお話しに終わりましたが、次回は、今回のお話しに出たセロトニンが、肉体的精神的にどういう効果を発揮するかについてお話しします。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(その6)「精神的安定効果(セロトニンの効果)」(脳科学の見地から)
 
 ここでは、前述の座禅によって生成されるセロトニンが、身体的精神的にどういう効果を発揮するかについて医学的メカニズムにも触れながら、座禅の身体的・精神的安定効果についてお話しします。


 


先ず、座禅の三昧に入ると、脳はどう変化するかを、最近の医学の情報から概説します(一部復習も含めて)。


数息観三昧に入ると頭頂連合野がSilentになり、それと入れ替わるようにして前頭葉が活性になります。これが座禅の脳科学の基本現象です。この現象をアメリカの脳科学者が実験で確証してから既に10数年経過しています。


 


前頭葉が活性になると、脳からα波が生じます。このα波の生成についてはかなり早い時期から(約50年前)日本でも明らかになっておりました。しかしα波が出る状態になると、脳内物質のセロトニン物質が生成されるという実証は東邦医科大学の有田秀穂教授を中心にした最近の医学の進歩の中で明らかになってきたことです。


 


このセロトニン物質の生成により、三大神経伝達物質がバランスを保ち、精神的に安定するといわれています。


精神的ストレスによって起こりやすい身体的不調には、胃腸障害などの消化器系統の病気や、心臓の血流不整に関する循環器系統の病気や、喘息発作などの呼吸器系統の病気が直ぐ上げられますが、精神と肉体は表裏一体ですから精神的不調は、身体的不調の全ての原因になり得ると言っても過言ではありません。


 


最近では、癌の治療に免疫力増強が効くことを臨床医によっても、また向井元九工大教授や水津心海居士のような民間療法においても指摘されて来ています。そしてこの免疫力を上げるのに精神的安定が非常に有効であると云うことが定説になってきています。


 


逆に言いますと、精神的ストレスが蓄積され精神的に不安定になると、自然治癒力が下がるということです。心海居士は、医者から癌を宣告されて絶望するから免疫力が下がり癌に負けると言い、自分は必ず直るのだと強く前向きに心を安定させると免疫力が増し、癌が縮退してしまう事例を皆さんに紹介され、実際にも多くの方が癌から解放されているようです。


 


座禅の効果として精神的安定(心の安心確保)は昔から云われてきていることです。それは座禅によって三昧境に入れば、誰でもが直ぐ自覚されることであり、セロトニンの効果が明らかになる前から、座禅を実践されている人は知っていることです。


 


それを医学の方からも、座禅によって前頭葉が活性化され、α波が発生し、セロトニンが分泌され、精神が安定すると云うように、そのメカニズムの解明が進んできているのです。


 


老若男女の全ての方々において、ストレス過多が原因でのセロトニン不足が指摘されている現代でありますが、一日一炷香の座禅を習慣づけることにより、常にセロトニンの分泌を正常に保つことができます。


逆に言いますと、現代人にとっては、情報過多から来る精神的ストレス対応施策として、一日一炷香の座禅が不可欠であると云うことになります。


 


一人でやるとなかなか継続できませんが、人間禅各地での週例静坐会に出席して、みんなと一緒に継続させて下さい。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
(その7)「我がまま・自己中心を消滅させる効果」
 
 ここでは、座禅に「我がまま・自己中心を消滅させる効果」があることをお話しします。


この我がまま・自己中心の思考は、本人がほとんど自覚していないと云う特徴があります。「いや自分はそれをよく意識していて、それと戦っていますよ!」と云う人も居られるでしょうが、その人は反省心の強い人で大変結構ですが、こういう人でも、意識しているのは、本当は氷山の一角でしかないのです。


 


これは実にやっかいな課題であり、人間形成の最大課題と云ってもいいでしょう。


 


さて今までの流れとして引き続き、脳の話から入って行きます。


座禅をして数息観三昧により頭頂連合野がSilentになり、前頭葉が活性化されると、他と区別する意識が減退することを最近の脳科学者が指摘しています。


脳の頭頂連合野はデジタルコンピューターであり、相対的思考を行う場所です。そして自分の位置を常に考える場所です。


 


すなわちこの頭頂連合野は自他の区別を常に意識するところであり、この頭頂連合野が原始脳と呼ばれる扁桃体(生命の本能の根源)と結びつくことにより、吾我の念が発現されると考えられます。


そして前頭葉が活性化されない状態で頭頂葉と扁桃体だけが活発になりますと、我が儘な自己中心のエゴ意識が活性になるのです。


 


これに対して前頭葉は、相対ではなく絶対的な感性を司っている脳の部位であり、人格を形成するところです。


悟りはまさにこの前頭葉の働きであり、天地と我と同根、万物と我と一体を感得するところです。


したがって三昧が身に付いて、前頭葉が活性に保持されてくると、ちっぽけな自我が空じられます。


すなわちエゴの野放し状態が改められ、自と他のバランスが取り戻され、我が儘な自己中心が発現しなくなるのです。


 


臨済禅に入門すると師家から公案を授けられます。最初に授けられる公案は、「1.本来の面目 父母未生以前における本来の面目如何?」です。


 


この公案を透過すると人間禅では地大級から水大級に進級したとして、道号が授けられるのですが、この初則の公案を透過するためには、一瞬でも良いから頭頂葉を完全にサイレントにし、前頭葉を活性にする必要があります。


 


これは三昧に入ることによって、相対の頭頂葉の思考から絶対の前頭葉の感得への移行です。


これにより本来の面目(本当の自分)と一体になり、絶対の自己(無相の自己)を悟ることが出来るのです。(無相の自己という表現は、京都大学名誉教授久松真一郎先生の云われている表現です。)


 


しかしこの初則の透過は、未だ人間形成の最初の一段を踏み上がっただけで、我が儘な自己・我が空じられてはいません。


仏教に於ける、そして禅に於ける人間形成はちっぽけな自我を空ずることであり、これが人間形成の最大の難課題です。


 


この自我・吾我・エゴを空ずるには、後悟の修行に励み、数息観を深め、三昧を身に付け、前頭葉が常に活性に保持されるようにならなければできないことです。


 


ここら辺の境涯は、深くそして素晴らしい人間形成のレベルではありますが、一番骨の折れる時代でもあります。


ここで如何に座禅三昧に打ち込んで、吾我を空ずるまで三昧を深められるかどうかです。人知れず研鑽を積んだ人のみが、人間形成として大成するということになります。


 


こういう臨済禅の深いところはいきなり経験できませんが、座禅を初めて間もない人でも理屈抜きに、座禅の姿勢での数息観が20分以上やると、特定の腹立ちやイライラが自然に低下し、30分以上になるとそんなに腹を立てる事でもないと自然に思えてきたりして、焦燥感やイライラが低減します。


 
 座禅による数息観の実践は、初心の人でも30年以上修行している人にも、「我がまま・自己中心を消滅させる」ために必要であります。これは老若男女、修行の長短にかかわらず同じように効果があります。肝心な事は実践です。


 


是非、実践実証して確かめてみて下さい。独りで出来なければ、週例会の静坐会でみんなと一緒に坐禅して下さい。
(その8)「個性の発揮・セレンディピティ(ひらめき)効果」
 


(1)個性の発揮は、知性ではなく、感性であります


 戦後個性の発揮がやかましく称揚され、ちっぽけな自我をそのままにした個性の発揮が自己中心症候群を蔓延させている現在の日本であり、本来の個性の発揮が社会的にも押さえつけられており、個人的にも自信の無さと自覚の無さで殻をかぶったまま窒息している状況であります。


人間は一人一人only one な存在であり、十人十色、百人百様であり、全ての人に本来備わっている個性を、その殻を破って発現させることは、一回しかないその人の人生を大切にする意味においても、日本あるいは世界的見地からも、進めなければならないことであります。


 


本当の個性というものは、ちっぽけな自我が幅を利かせている状態では、すなわち前頭葉が活性になっていない状態では、その人の本来持っている個性は発揮されないものであります。


頭頂連合野と扁桃体の結びつきだけでは、個性の発現にはならないのであります。まさに三昧が身に付くほどに個性というものは発現されてくるものであります。


 


(2)知識の蓄積だけでは創造はできない。感性が不可欠。


人間形成は知識の蓄積ではなく、感性を磨き豊かにすることであります。三昧力が身に付くと感性が豊かになるのであります。


創造性・独創性というものは、知識も必要ではありますが、感性が豊かに磨かれていないと発現できないのであります。


 


セレンディピティとは、思いがけないひらめきであります。


理論に加え、いろいろな知識経験を総合しても所詮人知であり、隠れた宇宙の真理はまだまだ大部分が未知であります。


その未知の存在に気が付くには、人知を越えたひらめきが必要であり、このひらめきは知性ではなく感性の働きであります。


ノーベル賞のような発明発見の場合は、例外なくこの感性のひらめきがあってのことです。独創力のある人のひらめきは、集中力・人間力に比例し、感性豊かな人にあるものです。


 


しかし、そういう人類の最先端のことではなく、仕事の場における営業活動にしても、物づくりの技術開発においても、知識の積み重ねだけではなく今までにない何かを提案できる感性あるひらめきこそが価値を生むプロの仕事になるというものであります。またもっと卑近な人間関係から日常の家事においても、感性溢れるひらめきが、あるいは気付きが「ものを言う」のであります。ここに三昧が身に付いているかどうかが働きとして発現するのであります。


 


 


(その9)「自律神経のバランスを良くする効果」
 
 その6,その7で「座禅の精神的安定効果(セロトニンの効果)」について、最近の脳科学の知見もご紹介しながら、座禅によってセロトニンの分泌を促し、精神的なストレスレリースを図り、精神を安定させる方策とすると云うことを述べましたが、今回は、その続きとしてセロトニンの効果の具体的な事例を上げてご紹介したいと思います。


 


座禅によってセロトニンの分泌が促されると前々回書きましたが、このセロトニンが自律神経と非常に密接に関わっているようです。即ち正常に機能する自律神経にはセロトニン物質が必要のようです。


 


自律神経とは、胃や腸を動かす、呼吸する、体温を調節するなど、 人の生命を維持するシステムの調節に関わっている神経のことであります。 血流の善し悪しが体に与える影響が大きいことは既にいわれていますが、 血流をコントロールしているのも自律神経であります。


 


自律神経には相反する働きをする二つの自律神経(交感神経と副交感神経)があります。このうち、 心身が興奮するときに優位に働くのが交感神経で、心身がリラックスするときに優位に働くのが副交感神経であります。


これまで、この自律神経の二つの働きはシーソーのように入れ替わり、どちらかが高くなるとどちらかが低くなるといわれてきました。


 しかし、小林先生(順天堂大学医学部教授小林弘幸先生)によれば、それは正しくないようです。すなわち健康上、理想的なのは、交感神経の働きも副交感神経の働きも、ともに高い状態を維持できていることが大切であり、双方の差が大きく開き、どちらかの優位性が過剰になってしまうと、 血流が悪くなるとか免疫力が低下するなど、さまざまな弊害があらわれると云われています。


 


ストレスの多い現代人は、とかく交感神経が優位になりがちであり、しかも近年、自律神経のバランスは、加齢によっても変化することがわかってきているそうです。


小林先生が男女の年代別の自律神経の働きを計測したところ、交感神経のレベルには大きな変化は見られなかったが、 副交感神経のレベルは、加齢とともに低下するようであります。この副交感神経の働きの低下こそ、寿命の差や健康状態、体力の低下、免疫力の低下に大きく影響していると考えられます。まさにエイジング効果として、何もしなければ自律神経の力は次第に低下していきます。


 


中年以降、健康や若さを維持したいなら、副交感神経の働きを意識して上げることが必要になるわけです。


この副交感神経の働きを意識的に上げる工夫が、アンチエージングになるのですが、それに打って付けなのが座禅行であり、数息観法です。


 


座禅を組んで数息観を行い三昧が深くなって20分くらいするとセロトニンが分泌して自律神経のバランスが良くなる。これを日常化して行くと、三昧が身に付き、常に自律神経のバランスをキープできる。アンチエージングに最も効果がある誰でも出来る方法です。なお膝が悪いなど坐禅が組めない場合は、椅子座禅でもほとんど効果は変わりません。要は、継続習慣化が鍵になります。


 


六十才以上になって暦年の老化に個人差が大きく発現されるのは、こういう人間形成の実践行に裏付けられたものがあるかないかであり、医学的にも必然性のあることです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


(その10)「アンチエージング効果
 
 (その8)で自律神経のバランスをとるとアンチエージング効果があるお話しをしましたが、ここではその続きとしてセロトニンの効果の具体的な事例を上げてご紹介したいと思います。
 


睡眠効果(アンチエージングの事例―1)


若い頃は寝つきもよく夜中に目が覚めることも無かった方が、中年を過ぎたあたりから、寝つきが悪くなったり、夜中に目が覚めたらその後眠れなくなったりするものですが、それは交感神経に比べて副交感神経の働きが低下することにより、睡眠を司る自律神経が機能しなくなって睡眠障害が生じるものと考えられます。


これに対する対策としての入眠促進法として西洋では、「羊が一匹、羊が二匹・・・」と数えることによって眠りにつく方法が一般的にあるようであり、日本では数を数えるのが一般的なようです。


私は息を数えて入眠するのを50歳代くらいからやってきましたが、これら羊を数えたり数を数えることは、頭頂葉の働きを沈めて交感神経を押さえ、また副交感神経を活性にすることによって、両方のバランスが取れ、自律神経が機能しだすものと考えられます。


 


しかし50代は数息観法で直ぐ眠れますが、60代、70代になると更に副交感神経が低下してきますので、また更に副交感神経を活性にするために、より深い三昧が必要になります。すなわち数息観法も本当に深い数息観法ができなければ、自律神経を正常に機能させて寝たい時に眠れるということが難しくなるのです。


 


先師磨甎庵老師からお聞きした話で、老齢になられた両忘庵宗活老師が体調を崩され、医者の診察を受けそして医者から少しお休み下さいと云われて、医者が後片づけをしている間に直ぐ寝息を立てて眠られたということで、その場に居合わせた医者や弟子が驚いたということであります。


磨甎庵老師からこの両忘老師の三昧力の凄さに感心されていることを一度ならずお聞きしました。


 


小生の経験でも、息を数えない忘息観法による方が、息を数える数息観法よりも入眠しやすい経験を持っております。これはエイジングによる自律神経機能の低下につれて通常の数息観法の段階では、頭頂連合野が呼吸を数えるということで未だ少しは動いているが、息を数えない正息観法または忘息観法が徹底できると頭頂連合野がより完全に活動を停止し、交感神経を更に低く押さえ副交感神経をより活性にすることができるためではないかと考えています。


 


一般的生理現象(アンチエージング事例―2)


交換神経が強く働くときの私たちの精神状態はどんな状態なのかといえば、ストレスが非常にたまっている状態であります。現在は精神的ストレスの負荷の大変掛かる時代であり、老若男女精神的ストレスにさらされている状態であります。ストレスがたまってくると交感神経が異常に高ぶり、副交感神経とのバランスが崩れ、自律神経障害が生じてくるのです。


 


一般的生理現象として、精神的胃腸障害にしても、心臓を中心にした循環器不全にしても、性機能不全にしても精神的ストレスから来る自律神経障害が原因になっているケースが非常に多くなっていると云われています。


 


これら生理現象がエージングによって増加することは一般的傾向だと認められていますが、これらの経年生理現象が人によって大きな差が生じているのは、前回も申しましたが、人間形成のレベルの差によるもので、それは三昧が身に付いている度合いが生理現象の大きな差になるからです。


三昧が身に付けば、自律神経を正常に機能させ、いわゆる年をとらないで壮年状態を永く保てるのです。
 
 
 


 


(その11)「自利利他と慈悲心」
 
 いままでのところでは、人間形成の禅の効果効用は、ただ自分だけが人間形成によって力を付け、一人で良い気分になるように受け取られる危惧もありますので、座禅の目的や方向性について、少し述べさせて頂きます。
 


利他心・慈悲心が出てくるのは、効果効用とは少し違いますが、一見関係がないと思われる三昧の境地と利他心が密接に関係していることを検証しておくことも必要かと思い座禅の効果の項目に入れました。


 
・自利と利他について、


人間禅『立教の主旨』の第一項は「人間禅は、自利利他の願輪を廻らして本当の人生を味わいつつ、世界楽土を建設するのを目的とする。」でありますが、ここにある「自利利他の願輪を廻らして」の中の自利の部分は「本当の人生を味わいつつ」であり、利他の部分は「世界楽土を建設する」に符合すると一応は考えられるのですが、もう少し掘り下げて検証する必要があります。


拙文『立教の主旨』の提唱録(『禅』誌など)を参照いただきたいのですが、自利と利他は表裏の関係で、実は別物ではないのです。


 


先師磨甎庵老師は常々正しい発菩提心について説かれ、利他心がなければ自分の修行を全うできないと強調されておられました。大乗仏教に於ける人間形成の修行においては、自利だけということはあり得ないのです。


 
・利他には、吾我が残っていてはできない。


利他の基本は「他に合掌する」ことであり、その基盤は色蘊空であり、仏教の根源と密接にに繋がっているのです。


すなわち「天地と我と同根 万物と我と一体」が肚に入っていてはじめて、他を我が面と見、自他の畦を切ることができるのです。


この「天地と我と同根 万物と我と一体」には、ちっぽけな吾我はいささかも入ってはいないのです。そして他に合掌するということにおいても同様であり、利他行の中にもいささかも吾我の意識が入っては利他行にならないのです。


 


ちっぽけな自我が残った状態では、利他ができない、利他行に対して腰が引けてくるものです。ちっぽけな吾我が少しでも混じった利他では、その成果が直ぐ気になったり、なかなか思ったように届かなかったりすると直ぐ疲れたり厭になったりするものです。


また他に対する働きかけがどんどんできたとしても、ちっぽけな自我がまざっていては、相手の方が嫌がるというものであります。


 
・利他には必ず自利は包含されている。


自利は自分の中にある仏を明確にしていく修行であり、自分の中の仏に合掌することであり、この自利は自己中心の自利とは全く違います。


このちっぽけな自我が入らない自利が源になって、ここから利他は湧き出てくるものなのです。そして「天地と我と同根 万物と我と一体」となって、自分の中の仏と同じものを他の中に見ることから始まる利他には、自利と地続きであることが本来的であり、自利から切り離された利他はあり得ないのです。


 


この本当の自利が進められるということは、三昧が深まることであり、その地続きの利他行が自然に働き出すのは、三昧が身に付かなければできないことです。


 
・慈とは与楽、悲とは抜苦。
 利他の究極は慈悲でありますが、慈悲の慈は他に楽を与えることであり、悲は他の苦を抜くことであります。まさに菩薩行であり、まさに三昧が深く身に付き相続されなければできないことであり、此処まで来ると、自利とか利他とかの区別のできないそういうものを超えたところの自然の働きであります。これが深い三昧から自然に出てくる菩薩行なのです。
 ことほど左様に、三昧の効果というとおかしいですが、菩薩行は座禅三昧と離れては無いものなのです。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


(その12)「座禅をすることによって仲良くなれる効果」
 
 多くの友人を持ち多くの後輩から慕われる人と、頭が良く仕事は出来るが、敬して遠ざけられて孤独な人とが居る。
 
 他人の悪口をよく言う人は、他人から悪口をよく言われるものであり、自分が嫌いだなあと思っている人からはどんなに演技しても必ず嫌われるものである。
 逆にも言えて、他人を尊敬する人は、他人から尊敬されるものである。
 


友人の多い人は、大体において他人の良さをよく見て知っている人であり、その人を尊敬しているから、その気持ちが相手からも跳ね返ってくるのである。


友人の少ない人は、他人の欠点ばかりを見て、それを自分と比較し軽蔑している。その気持ちは隠しても相手に必ず伝わるものである。


 


友人の少ない人は、大体において自己中心の我が儘な人である。


友人の多い人は、大体において自分のこともさることながら、他人の利を考える人である。


 


三昧状態にあるときは、他を我が面と見、自他の境界の畦が無いのである。従って当然、自己中心の我がままは三昧状態にはないのである。三昧になればどんな人でも自己中心のエゴは消えている。


座禅を継続していると、少しずつ三昧力が付いてくる。三昧力が身に付いて来ると、自己中心の我がままは少しずつ少なく弱くなるものである。


 


座禅を継続して実践し、三昧力が身に付いてくると、苦手な人とか嫌いな人がだんだんと少なくなってくる。


そして誰にでも気さくに話しかけることが出来るようになる。また、誰にでも丁寧に対することが出来るようになる。


そして、誰とでも仲良くなれて、友達が自然に増えてくるのである。
 
 
 


(その13)「人の香りが醸し出される効果」
 
 この項目は、効果効用の表現にはなじまないことですが、三昧が身に付くということと密接に関連していることですので簡単に触れておきたいと思います。
 
 三昧が身に付いてくると、「我」を空ずることができるようになります。すなわちチッポケな吾我の念が出てきたとしても、その吾我の念がでてきたと云うことに直ぐ気がつき、それを即座に摘み取ることができる。すなわち吾我の念を空ずることができるのです。
 


したがってチッポケな自己中心の我欲に、知らず知らず引きずられ、人を傷つけ、自分を傷つけることを未然に自制することができるのです。


もちろんこうなるには余程三昧が身に付き、しかも一日一炷香で、それを日々に新たにし、生き生きした三昧が身に付いていないとこうは参りません。


 


人の香りは百人百様ではありますが、人としての香りがある人に共通して言えることは、チッポケな吾我の念が常に空じられている人と云うことが言えます。


 


幾ら人間力があり、幾ら深い学識があり、目端が利いて頭が良いと云っても、チッポケな吾我が空じられていない人には、その人に香りというものはなく徳は付かないのです。


すなわち人の香りとか徳というものは、チッポケな我が空じられた状態になって初めてその人の香りが出てくるし、徳が香るというものです。


 


人の香りにしても、徳にしても、本人はほとんど自覚しないものです。こういうものは、本人ではなく他人が気付くものです。
 
 「徳は孤ならず 必ず隣有り」(論語里仁編)という言葉がありますが、この徳は言葉で表現できるものではありません。


徳はその人の香りとして発せられるものであります。この人の香りというものは、百人百様の個性から発せられる自然の存在感が雰囲気として香るものですが、共通して云えることは、三昧が深く身に付いた人格から出てくる雰囲気であります。


顧みて恥ずかしい限りでありますが、また励みにもなる言葉であります。
 


(その14)「禅の功徳は無限大」(終わりに)


 


 「人間形成の禅」?その効用と効果?、と題して八王子道場のホームページにブログを投稿しました。最初に申し上げましたように、「禅は無功徳!」が第一義でありますが、しかしそれだけでは未だ禅に縁が無かった人、あるいは人間形成に志そうとしている人に対して不親切ではなかろうかと考え、第二義に下りて禅の効用について説いてきました。


禅の第一義から云えば、要らざることをして眉毛が抜け落ちたのではないかとの危惧と同時に、逆に禅の効用効果は宏大で深く、とても説き尽くせるものではないということも、あらためて思い知った次第であります。


 


 法理的に云いますと、色即是空の空の切り口で見ますと、禅は無功徳と言い切ります。


そして白隠禅師の『坐禅和讃』にあるように「衆生本来仏なり」であり、本来全て備わっていますので、敢えて功徳などと云うものは何も必要が無いというものです。これは真理です。


 


しかし、色の切り口で見ますと、衆生(一般の社会人)はいろいろ悩み苦しみ、水の中にいて渇を叫んでいる状態が世間に満ちているのです。


すなわち功徳を渇望しているのです。こういう事事無碍法界の社会の巷間においては、人間形成を積み、禅の功徳が必要不可欠であり、人間社会の中でこの人間形成の禅は、無限大にその功徳を発揮できるのです。


 


ここに取り上げた禅の功徳は、ほんの一部の事例でしかありません。応病施薬という言葉通り、新しく発現してくる病も含めて、効能を発揮します。


ネガティブな病の超克とか云うことではなく、もっと自分の能力を上げて行きたいと云うようなポジティブな面でも、いろいろな職業においていろいろな社会活動の中で、人間形成の禅は効果を発揮し、更に大きく深く人間社会を発展させる可能性を持っています。


 


禅は学問ではありません。知ると云うことでは人間形成にはなりません。最初から最後まで行を伴う実践で三昧を身に付けるものです。


したがって禅の無限大の効用効果(功徳)を聞き知っても、本人が自ら人間形成の禅を実践しなければ、何の効果も出てきません。


 


自ら人間形成の禅を継続実践し、三昧が身に付き、人間形成の境涯が進んで初めて、禅の功徳が絶大なものであると云うことが自分自身で納得できるし、実生活の中で禅の効用効果を遺憾なく発現できるものです。


まさに「もし同床に伏せずんば、如何でか被底の穿たるることを知らん」であります。


 


絵に描いた餅を眺めるだけでなく、また効能書きを読んで認識するだけでなく、如実に人間形成の禅を毎日実践して、ご自分で禅の効用効果を無限大に発現して頂くことを祈念して、拙話を終わりにします。


(その15)「禅の功徳は求めるものではない」(蛇足)
 
 「人間形成の禅」?その効用と効果?、と題して、人間禅八王子支部のHPにブログを13回にわたって投稿し、それを見た心印居士の要請によって一連の読み物に書き直しましたが、やはりどうしても最初に書き出しにある「禅の無功徳!」の根拠と、人間形成の禅の修行の位置づけを付け加えておかねばと思い、蛇足を更に付けました。
 
 人間禅の第三世総裁磨甎庵劫石老師の不朽の名著『槐安国語抄講話』の一節を以下に引用致します。
 
 「修行をしている学人を見ていると、公案は透過し、見地は拓けてくるが、人間としての香りや徳が身につかず、その人柄が人を惹きつけることがなく、専ら禅学になっている者と、そんなに旧参ではないが、隠徳を積んで、その日常の言行の行持が篤く、他に親切で、自然と人から慕われる者とがある。
 何処にその相違があるかといえば、結局は、その修行の原点となっている道心の純・不純と打ちこみの実・不実の違いにあるといってよい。
 自分一己の得力を求め、勢誉に傾斜する者と、仏の誓願を純一に護持し、行道に打ち込む者との違いといってよい。こればかりは隠すことができない。自らを欺くことができないからである。
 禅の修行というものは、どんな動機から入っても悪いことはない。神経衰弱を治したい、意志を強くしたい、集中力をつけたい、自分を取り戻したい、自分が一番緊要としている目的のために入って差し支えない。
 しかし本格の祖師禅の修行は、そのような他のためにする行ではない。行それ自身が目的である、無上道の行修である。
 それは、人間としてこの世に生を享けたこと、そのことの本旨を明らかにし、生きることの大眼目を明らかにする見性悟道を目指すものである。
 見性とは、自己の本性を如実に見ることである。それによってこそ、真実に人間として生きることの尊さ、有難さがつくづくと噛みしめられる。
 自分というものが本来仏であることが証得されるからである。仏の三身四智が開示されて、仏の慈悲と智慧と戒律の心が自ずと現れ、そして四弘誓願が生々世々と転じられてゆく。
 故に、修行というものは、あくまでも道のためにして、己の一身の名利勢誉のためにしてはならない。そうでないと、その辱さが骨身に沁みて分からず、徳というものが身につかないのである。
 これは畏るべきことで、隠すことができない。」
  槐安国語抄講話 磨甎庵劫石老師著 第三十則「大随問僧」よりの抜粋
 


これは 「参学の功、自ら其の充ることを知らざれども、自ら四体に溢る矣」に対する講釈ですが、実に味わい深い一文です。


人間形成の禅の進むべき方向を明確に示されており、われわれ在家禅者の日常における規範であると思い、30年前から茨城支部の亀鑑にしています。


 


この中で、禅の功徳の位置づけが明確に示されていると思います。すなわち、
「禅の修行というものは、どんな動機から入っても悪いことはない。神経衰弱を治したい、意志を強くしたい、集中力をつけたい、自分を取り戻したい、自分が一番緊要としている目的のために入って差し支えない。」と、自分のための功徳を求めて禅を始めるのは結構であるとされています。十人が十人と云っても良いくらいそうでしょう。小生も十人の中だったと思います。
 
 しかし禅をやり出し、深く入れば入るほど、当初目的にしていた功徳が何と小さな目的であったかと恥ずかしくなるほど、禅には大きな功徳があることに気づかされるのです。


功徳があるとかないとかと云うことではなく、功徳を超えたものと云いましょうか、この槐安国語の文章の中にある「名利勢誉」を超えた次元の違う大事なものが禅にはあると云うことに気づくのです。
 
 しかし深く禅に入れば入るほど功徳から離れると云うことではない。むしろ人間形成の禅が深まれば深まるほど、(その1)?(その13)までに書いた功徳は強く大きくなります。そして未だ禅に縁の無い方には、その素晴らしさを回向したいと自然に想うようになってくるのです。
 


ただ、人間形成の禅を究めてゆく動機が、功徳を求めてやるということではなく、強いて云えば道そのものを求めるということになるのです。


つまり功徳は、道の修行の後から自然に付いて来るのです。それを求めなくても付いて来ると云うことであり、何かのためにするのは本当の禅の修行ではないということです。


また大なり小なり誰でも功徳を求めて禅の修行に入ってくるのですが、想定もしなかった予見の出来ない異次元の功徳に出くわし、当に先人の例えようもない凄い法乳を頂くということになるのです。


 


鴻恩は尽きること無しを、しみじみ噛みしめ、燓香 九拝するのみです。合掌