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擇木道場

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トップ  >  擇木道場創建100周年記念勉強会 第2回 在家禅の発生
第2回 在家禅の発生 11月21日(土)15:00-16:30 
明治初期の両忘会とはどのような会であったのか、どのような人物がしていたのか。また両忘会以外の在家禅会についても研究します。      講師 杉山呼龍




在家禅の発生

両忘会とはどのような会であったのか。擇木道場の歴史とは・・・

平成271121日 杉山 呼龍 於擇木道場

    (在家禅研究家、人間禅布教師、火曜坐禅会担当者)

第一章 明治初期の両忘会(明治8年)とはどのような会であったのか。

第二章 釈宗活老師の両忘会(明治34年)について

第三章 田中大綱居士(大正4年擇木道場を寄進)

第四章 その後の経過   一夢庵大峽竹堂老師、長屋哲翁居士

第五章 人間禅の特徴

 

第一章 明治初期の両忘会(明治8年)とはどのような会であったのか。

明治7年 奧宮慥斎(1811?1877)は広島で今北洪川に会い、『禅海一瀾』の出版を勧めた。

明治85月、今北洪川は広島から上京した。臨済宗十山総黌長となるため。6月芝 金地院で『碧巌録』開講。 総黌が金地院から湯島 麟?院に移る。

同年827日、今北洪川と奧宮慥斎、伊達自得が会って意気投合する。

同年1021日両忘会発足。(今北洪川は114 円覚寺住持職に任命され同28日入山)

慥斎は今北洪川と共に両忘会を発足させた。 

今北洪川は 「遂に(慥斎は)自得居士と相議り山僧(自分、洪川)を以て盟主と為し初めて両忘社会を設け、大いに吾が化門を助く」(『蒼龍広録』)

明治9年における両忘会会員の年齢(かぞえ年)。  

今北洪川(61歳)、 山岡鉄舟(41歳)、 高橋泥舟(42歳)、 鳥尾小弥太(得庵)(30歳)、 済門文幢(53歳)、 奥宮慥斎(66歳)、 妻木頼矩(棲碧)(52歳)、 奥宮暁峰(存斎)(58歳)、 棚橋松村(50歳)、 小野湖山(63歳)、 大内青巒(32歳)、 大沼枕山(59歳)、 田内逸雄(透関)(31歳)、 中江兆民(30歳) 

両忘会とはどのような会であったか ――「両忘社会約」より

両忘会は洪川の麟?院での碧巌録提唱の余暇に開かれた。

各自が所見を述べ洪川に教えを請うた。

終日、詩歌を作ったり書をかいたり画を描いたりして楽しんだ。

古今の歴史を語ったり、風月を話題にし、題目は随意であった。

言論を縦横にすることは各自の随意であった。

入会する者は会員を介し、盟主(今北洪川)に告げることとした。

つまり

両忘会とは、洪川を中心とする参禅問法を前提とした同参同志の会(結社)であった。当時は結社がよくつくられた。 例 明六社(明治6年)、立志社(明治7年)など

 (明治初期の)両忘会はその後どうなったか。

今北洪川は、円覚寺と麟?院の両方を指導していたが、明治109 麟?院の役職(学校長)を辞し、送別会を開いて円覚寺に帰った。

麟?院で今北洪川に参じていた人々は、円覚寺に行くようになったと考えられる。

奧宮慥斎は明治105月に亡くなった。 (慥斎の日記は明治911月までしかない。その月には麟?院に行ったことが窺われる)

奥宮慥斎の修行について今北洪川老師は『蒼龍広録』の中でこう言っている。

(慥斎曰く)馬齢已に晩暮におよび、寧ろ精神を無益の伎に費やさんよりは心を参禅に傾けて、駆の斃るるを待つつに如かざるなり。願はくは人情を挟まず、厳正に予を摂せられよと・・

 山僧其の誠を投ずるの至情を知る、乃ち授くるに兜卒の三関を以てす、之を久しうして頗る得る所有り、・・・(慥斎)曰く・・・我れもし和尚に遇はずんば幾んど一生を空しくせんと・・・

第二章 釈宗活老師の両忘会(明治34年)について

両忘庵釈宗活老師について

明治3年東京市生まれ。親は入沢家 代々の蘭方医。

11歳の時、母の死にあう。12 父も死去。

明治22  20 叔母の紹介で本郷の麟?院で今北洪川に入門、見性、石仏の道号を授けられる。3年間在家として修行。洪川老師の逝去にあい、24 歳の時釈宗演のもとで得度、宗活の法諱を与えられ、円覚寺の僧堂に入る。

29歳、大事了畢、輟翁の表徳号を授かる。2年間外遊インドに行く。

明治33(31) 帰国 、知人4人から居士の会設立の要請をうける。世帯人情を観察する。

明治34(32)両忘会を設立する。

釈宗活老師 両忘社の創立の主旨(明治344月)

これは明治初期の両忘会を再興するという意味があった。

「・・・今や斯道盛ならず、社会亦甚だ腐敗せり・・・争か之を黙視するに忍びん・・・是れ衲の浅学不肖を顧みる遑あらず、新に居を這裡に卜して吾門旧参の諸彦と与に両忘社を創むる所以なり・・・」(両忘社創立主旨?に希望口演)

(両忘老師の) 亀鑑

諸大徳 此の事 智にも属せず不智にも属せず、仏に在って増さず、凡夫に在って減ぜず、八解六通心地に印し、三身四智体中に円かなり。心外に向って求むること勿れ。

人身得難く、仏法聞き難し。此の身 今生に向って度せずんば、更に何れの生に向ってか此の身を度せん。

諸大徳 参禅を要すや、須らく放下着すべし。箇の何をか放下せん?箇の四大五蘊を放下し、無量劫来の業識を放下し、自己脚跟下に向って推し窮めよ。これ何の道理ぞと。

工夫は須らく頭燃を救うが如く急切なるべし。精神を奪起し、片時も放遅すること莫れ。無理会の処に向って窮め来たり窮め去り、窮め窮めて止まざれば、即ち心華発明して十方刹を照さん。

謂つべし、これを心に得、これを手に応じ、便ち能く大地を変じて黄金となし、長河を撹いて酥酪となすと。豈平生を暢快にせざらんや。

只管冊子上に言を念じ、禅を訪ね道を訪ぬること莫れ。禅道は冊子上に在らず。

古徳許多の艱難を喫して方に此の道を得たり。我 豈独り然らさらんや

宜しく二祖の断臂と雲門の折脚を思うべし。 勉旃勉旃。

両忘会の場所について(両忘老師の文から)

1  東台山後の根岸の里、御隠殿坂の辺に仮に草庵を卜し

2  狭隘になったので日暮れの里に居を遷し、

3  更に再転して居を卜したのが渡米前の両忘社

(此の日暮里の道場は地所四百余坪、付属の建物があった。)

●両忘老師は、明治39年から42年までアメリカに布教に行った。成功しなかった。(後に曹溪庵佐々木指月がニューヨーク支部をつくった。

4  帰国後、谷中初音町に家を借り、法を挙楊し参禅を聞いた。

5  大正4 田中大綱居士が(擇木)道場を寄進した。 

第三章 田中大綱居士(大正4年擇木道場を寄進)

道場寄進の経緯(両忘老師の「悼 田中大綱居士」から)

(田中大綱居士は)田中増蔵、慶応元年(1865)生まれ。人となり「卓犖不羈  音吐絶大  仁侠 義心鉄の如し」。露天商から身を起こし、医療書籍販売の吐鳳堂主人となる。神社信仰が篤く、商売を始めて事業に成功したら石華表を寄進しようと考えていた。   

両忘老師に参禅するようになって、それよりも多くの修行者が参禅出来る居士専門道場を建てた方がもっと世のため人のためになると考えが変わった。そして両忘老師に申し出て受け入れられた。 大正36月入門(50)7月道号授与、11月禅堂寄進の念を起こし、12月両忘老師の快諾を得た。

大正4年(19151月起工 、3月上棟式、66日完成 獻堂式を行う。8月病に侵される。1110日両忘老師が見舞いに行く。 2日後11月12日 午後6時半帰寂。 享年51歳。

第四章 その後の経過

大正14 両忘会は財団法人となり両忘協会となる。

昭和11年千葉県国府台に新道場(現在の本部道場)が完成すると

12年本部を新道場に移し、日暮里の道場は一夢庵大峽竹堂老師の主催する学生寮(擇木寮)となった。一夢庵老師は寮の経営の為に旧制成蹊高等学校教授を退職した。

15年 宗教団体法施行により両忘禅協会となる。

昭和21年一夢庵老師は前年の脳卒中が原因で病死。

長屋喜一(哲翁)先生が跡を継ぐ。

   一夢庵大峽竹堂老師(大峽秀栄教授)年譜

明治16(1883)山形県米沢市生。

34 県立米沢中学から仙台二高に入学。

377  東京帝国大学文学部哲学科に入学

379  両忘庵釈宗活老師に師事し禅の修行に入る。

3712(1904) 竹堂の道号授与。

40  帝大卒業、茨城県立土浦中学校教諭 同44年宮崎県立宮崎中学教諭、大正7年(北九州)明治専門学校教授。

大正10(1921)大事了畢、庵号授与(一夢庵)。

大正105月文部省より教育事情視察の為、外遊を命ぜられる。

  ハイデルベルク大学で哲学、教育の研究に従事し著述を完成させる。Zen  Der  Lebendige  Buddhismus  in  Japan『禅?日本における生ける仏教』

大正14  両忘禅協会布教師となり、鎮西支部長となる。 昭和元年  東京に移住。

2年 成蹊高等学校教授、昭和6(1931) 師家分上(49)

同 9年 両忘禅協会東北支部長となる。

11年 成蹊高等学校を辞し、禅塾擇木寮を開設する。

15年 両忘禅協会霞城支部長となる。

17(1942)釈宗活老師に嗣法し両忘禅協会師家となる。

21816(1946) 帰寂(64)

長屋哲翁居士(長屋喜一先生)略歴

明治28(1895)岐阜県武儀郡板取村に生まれる。家は神官。

大正5年旧制七高入学、大正8年東京帝国大学倫理学科に入学

大正11?14年ドイツ留学(ベルリン大学、マールブルグ大学に学ぶ)。「意志の自由」は存在するかという問題になやんだ。帰国の際、オットー教授から大峽秀栄教授(大峽竹堂老師)のドイツ語の本を紹介された。

大正15年 釈宗活老師に入門(32歳)

昭和2年から(旧制)静岡高校教授、東京帝国大学講師、東京教育大学教授を歴任し、昭和12年文部省教学局教学官。 23年擇木道場主管者。

41年(72歳)から21年に渡って毎年6ヶ月間ドイツに坐禅指導に赴いた。

第五章 人間禅の特徴

人間禅は立田英山老師を第一世総裁として昭和24年発足。擇木道場においては昭和42年に支部結成(現在の名称は東京支部)した。

白隠下の臨済禅を継承している。 全国に16の道場、28の支部禅会、師家15

2 禅を近代的な表現に言い換えた。 禅は人間形成である。正しく、楽しく、仲よく

3 修行の仕方が明確に示されている。 公案と数息観という車の両輪

4 『十牛図講話』(立田英山著)に示されるように境涯の扱いが明確である。 

   見性入理→見性悟道→見性了々底

5 『碧巌録』や『無門関』を難易の境涯の順に並べ替えた。

6 修行者に公案を公開し瓦筌集(公案集)をつくった。

 

田中大綱居士(大正4年擇木道場を寄進) のお墓
谷中墓地 擇木道場のすぐそばにあります。

手前の門柱には、「日面仏 月面仏」と書いてあり、有名な公案にもなっています。




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