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トップ  >  会員の声  >  「入 門 の 頃」 栗原 道妙(2006年10月記)
入 門 の 頃
 
H18.10.4
観話会担当 栗原道妙 

  私は昭和41年に入門し、今年で40年になります。入門したのは鎮西道場(福岡県北九州市)であります。入門時の老師は拈華庵翠屏老師でした。今日はテーマとして「入門の頃」について話す事になっています。その頃の思い出として次の3点について話したい。

1 足の痛さについて
2 入門の動機について
3 禅の修行について

1 足の痛さについて
 私は足が大変痛く、今でも思い出すのですが、初めの頃あまりに多く脂汗を出すので、助警の人が来て、君、もう立っていいよ」言われた事があります。体や関節特に膝が硬く坐禅の姿勢に入ること自体が苦痛を伴うものでした。従って、どうしても逃げ腰でなるべく坐禅の回数を少なくするにはどうしたら良いかなど考えたものです。とにかくひどい時は足の痛さで数息観が全く出来ない程でした。では「辞めればよかったのでは」と言われそうですが、改めて後の3で話しますが、禅の不思議な魅力で今日まで続いたとしか言いようがありません。足の痛さばかりでないのでしょうが、同じ頃道場に来ていて続かない人は大勢います。足の痛さで私の言いたいことは「我慢比べ」でないので痛い時はその場で立つことである。しかし、ある程度我慢することが必要なことも事実です。できれば坐禅三昧に入り、足の痛さを超越して欲しい。そのうち、慣れてくるものです。

2 入門の動機について
 私は高校を出て、すぐ化学会社に入りました。会社で仕事をし、通勤の行き帰りでは段々ものたらなくなりました。何かをしたい、しかし何を すればよいのかがわからない。その頃会社に出入りしている本屋から「禅」の本を何気なく買ったことがありました。著者は確か京都大学の教授であったと記憶しています。今思うと、禅の専門家が書いた訳でもなく、それほど修行した人の本ではないのです。それでもこの本を読んで、禅に は何かがある、自分の求めていたものではないだろうかと思い、ある人の紹介で人間禅教団を知りご縁ができたわけです。もともと このまま生きて何の意味があるのかと、漠然とですが思っていました。
 小さい頃は田舎にいたので、犬・猫は勿論、鶏・小鳥、蛇・蛙・蜥蜴・など小動物を身近に見慣れていました。これ等の動物の「死」を見るにつけ、「何故死ぬのか、死んだらどうなるのか」などと思っていました。自分は魚や肉を食べて生きるだけの価値があるのか。こう考えて行くと、判らなくなってしまうのです。子供の頃、仏教で言う所の無常観を感じたことが二つありました。これが私がこの道に入った大きな動機のような気がします。

① 小学校の上級生の頃であったと思う。蛇が雀の子や蛙を飲み込むの見るにつけ蛇を憎み、殺したものです。それも私達子供が2~3人で追うものですから、蛇も逃げおおせずほとんど捕らえていたと覚えています。蛇の死に行く様を平然と見ていたのですが、ある時、これで良いのかという考えを持つようになった。何となく蛇が可愛そうになったのです。

② 父の勤めていた会社のレクリェーション行事に毎年恒例の春は潮干狩り、秋は魚つりがありました。それらの行事に参加するのは、私達の大きな楽しみの一つでした。その魚つりの時でした。その年は大きな湖に行ったのです。私は父から言われたとおりに仕掛けをし魚を待っていました。魚が掛かったので竿を揚げたところ、小さな鰻が掛かっていました。苦し紛れに尾を糸に巻きつけているのです。これを見たとき、魚に悪いことをした気持ちになったものです。それまで魚つりが大好きで釣った魚は小魚であろうと全部食べ、釣りの上手な人を尊敬の目で見ていました。ところが、これを見てから、急に釣りがつまらなく思えてきました。

 今思うと、①は蛇は餌として、雀の子や蛙を飲んでいたわけで至極当然の事なのです。殺した蛇には悪い事をしたと思っています。また②は趣味や遊びで他の動物の命を奪ってはいけないと思い始めたのです。現在釣りはしないし、狩猟を趣味にしている人は私は嫌いです。

3 禅の修行について
  結論から言うと、苦しいことが多い。先に行けば楽しみも出てくることを信じることです。ただそれはやる人の心がけ次第のところが大きい。丁度、鐘を強く叩けば強く響き、弱く叩けば弱く響くようなものです。理想的には、入る時から必ず終わりまでやり遂げる意志を持ち、眼が開け力がついた時には、利他(他人の役にたつ)に打って出るということだと思います。「心」に関する修行なので、その「成果」がすぐ出て来るというものでない。自分自身焦らず少し長い目で見るようにしよう。決してそれを怠ける言い訳にしない事が肝要です。
 周囲の人に対し、急進的に説明や説得をせず、穏やかにする方が良いと思う。日本では公立の学校では宗教教育はできず、従って関心があり自分で研究している人を除き、大多数の人が宗教について「白紙」状態と言っていいでしょう。幹部が殺人事件を起こした某宗教団体の影響は非常に大きく、「だから宗教は怖い」というのが大多数の人の一般的感情と思われる。こちらにしてみれば「玉」と「石」を同じにしないで、と言いたいところだが。
 私達の禅は臨済宗と言います。宗祖・臨済禅師は「疑わざるこれ病」と言われています。つまり「疑いなさい」と言われているわけです。臨済禅師は今から約1100年余り前の中国・晩唐の頃の方です。これは今でも立派に通用する理念ではないかと思っています。私は他の宗祖方を詳しく知っている訳ではないのですが、少し調べた限りではこんな事を言われた方を知りません。例えば、キリスト教では「信ぜよ、信ずる者は救われる」と説き、浄土真宗・親鸞聖人は「学問一つ、理屈一つ知らないでもただまっしぐらに仏を信じる方々は本当に往生間違いなし」と説かれています。普通宗教は「信」に依って成り立つと言われていますが、千年以上も前から「疑え」と言われているのです。直接的には偉大な発見や不正の摘発は初めは小さな「疑い」が出発点とはよく聞く話です。私は大きくいえば人類の進化・発展はこの「疑う」ことが 非常に寄与していると思っています。また公案の工夫で「大疑団」といい、とても重要な事です。もし臨済宗についてよく判らないから修行をためらっている方がいるなら、こんな素晴らしい宗祖がおられるところですと言いたい。
以上
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