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トップ  >  会員の声  >  「武士道について 栗原 道妙(2008年4月記)
平成20年4月8日
武士道について
栗原道妙
はじめに

最近無差別殺人、所謂「相手は誰でもよかった。とにかく人を殺したかった」という事を犯行後犯人が自白している事件が相次いで起き人々を震撼させた。事件の解明はこれからであろうが、私は日本人の社会全体の精神レベルはここまで落ちたか、という感を深くした次第である。そこで物質的には貧しくてもこのような事件が起きにくい社会全体のルールであったと推定される「武士道」について述べてみたい。


神道 ○主君に対する忠誠   ○先祖への崇敬  ○孝心

 仏教(禅)

○運命に対する安らかな信頼の感覚 ○不可避なものへの静かな服従 ○危険や災難を目前にした時の禁欲的な平静さ○生への侮蔑(生きることに執着しない)○死への親近感

儒教     武士道の最も豊な源泉となった   それぞれについて解説する

○義  ○勇  ○仁  ○礼  ○誠  ○名誉  ○忠義

1.義について

「決断する力」で道理に任せて決定して猶予せざる心をいふ也。武士の規範のなかで最
 も厳しい教え。孟子は「義は人の正路なり」といった。もう一つの意味は利害を捨て、
 人道・公共のために尽くすこと。

   例  赤穂浪士の討ち入り(1702年)

2.勇について

  勇気は「義」によって発動されるのでなければ、徳行の中に数えられる価値はないとされた。孔子は「論語」で「義を見てせざるは勇なきなり」といった。いいなおすと「勇気とは正しいことをすることである。」となる。死に値しないことのために死ぬことは「犬死」とされた。武士の若者で「大義の勇」と「匹夫の勇」の区別を教わらなかった者はなかった。親はときには残酷とみまがう苛烈な手段で子弟たちの胆力を練磨した。食物を与えられなかったり、寒気に肉体をさらさせたりすることは忍耐に慣れるための大変効果的な試練と考えられた。年端の行かぬ少年が全く面識のない人の所へことづてを託されて行かされたり、日の出前に起こされて、朝食前に冬の中を素足で師匠のもとへ通い、素読の稽古を受ける。処刑場、墓場、幽霊屋敷などあらゆる種類の薄気味わるい場所を巡ること、斬首が公衆の行われていた時代には、幼い少年達はその恐ろしい光景を見に行かされた。また暗闇の中を一人でそこへ行き、その証拠にさらし首に自分の印をつけてくるように命じられた。
  勇気の精神的側面は落ち着きである。勇気は心の穏やかな平静さによって表される。平静さとは、静止の状態における勇気である。果敢な行為が勇気の動的表現であることに対して、これはその静的表現である。彼らは戦場の昂揚の中でも冷静である。


  例  江戸城草創者である太田道灌は槍で刺されたとき、道灌が歌の道において達人であることを知っていた刺客はその一突きとともに、「かかる時さこそ生命の惜しからめ」と上の句をよむと、息も絶えだえの猛将はその脇腹に受けた致命傷に微塵も怯まず、「兼ねてなき身と思ひ知らずば」と下の句を続けた。


 3.仁について

愛、寛容、他者への同情、憐憫(あわれみ)の情はいつも至高の徳、すなわち人間の魂が持つあらゆる性質の中の最高のものと認められてきた。それは二つの意味で王者らしい徳と考えられてきた。それは高貴な精神が持っている性質の中でも最も王者らしいものであり、また王者にこそ最もふさわしい徳であった。孔子や孟子は、幾度となく民を治める者が持たねばならぬ必要条件の最高は仁にあり、と説いた。出羽米沢藩主・上杉鷹山は「国家人民の立てたる君にして、君のために立てたる国家人民には之無候」と宣言した。

例 上杉謙信は武田信玄と14年にわたって戦っていた。その信玄の死が謙信につたえられるや、謙信は「敵中のもっともすぐれた人物」を失ったと慟哭した。信玄の領地は海からへだたった山間の甲州であった。彼は塩の供給を北条氏の所領に仰いでいた。北条氏康は信玄の勢力を弱めたいと願っていたので、この重要な物資の供給を断ってしまった。謙信はその敵である信玄の窮状を聞き、自領の海岸から塩を得ることができるので一書を信玄に寄せた。「我、公と争ふ所は弓箭(ゆみや)にありて米塩(かて)にあらず。(こう)、今より以往(さき)塩を我国に取られ候へ。多寡唯命のままなり。」と(やが)売人(あきうど)に命じ価を平にして之を給しける。(常山紀談)→格言「敵に塩を送る」の出典

  4.礼について

  礼とは他人の気持ちに対する思いやりを目に見える形で表現することである。それは物事の道理を当然の事として尊重するということである。礼はその最高の姿として、ほとんど愛に近づく。私たちは敬虔な気持ちをもって、礼は「長い苦難に耐え、親切で人をむやみに羨まず、自慢せず、思い上がらない。自己自身の利を求めず、容易に人に動かされず、およそ悪事というものをたくらまない」ものであるといえる。礼は武人特有のものとして賞賛され、それに相応する価値以上に評価された。そのためかえってにせものが存在するようになってしまった。伊達政宗は「度を越えた礼は最早、まやかしである」といっている。

例 茶道

5.誠について

孔子は「中庸」のなかで誠をあがめ、超越的な力をそれに与えて、ほとんど神と同格であるとした。すなわち「誠なる者は物の終始なり。誠ならざれば物なし」と。そして孔子が熱心に説くところによれば、誠は次のとおりである。まず至誠は広々として深厚であり、しかもはるかな未来にわたって限りがない性質をもっている。そして意識的に動かすことなく相手を変化させ、また意識的に働きかけることなく、みずから目的を達成する力をもっている。嘘をつくこと、あるいはごまかしは、等しく臆病とみなされた。武士は自分たちの高い社会的身分が商人や農民よりも、より高い誠の水準を求められていると考えていた。「武士の一言」は断言したことが真実である事を十分に保証するものであった。武士の言葉は重みを持っているとされていたので、約束はおおむね証文なしで決められ、かつ実行された。むしろ証文は武士の体面にかかわるものと考えられていた。「二言」つまり二枚舌のために死をもって罪を償った武士の壮絶な物語が数多く語られた。また武士がその気にあれば家庭菜園で農耕をすることもできた。だが銭勘定ごとと算盤(そろばん)は徹底して忌み嫌っていた。

例 ローマ帝国衰微の原因の一つは貴族が商業に従事することを許可し、そのためにごく少数の元老とその家族が富と権力を独占したことにあった。

6.名誉について

名誉という感覚は個人の尊厳とあざやかな価値の意識を含んでいる。名誉は武士階級の義務と特権を重んずるように、幼児のころから教え込まれる武士の特色をなすものであった。「人に笑われるぞ」「体面を汚すなよ」「恥ずかしくないのか」などという言葉は過ちをおかした少年の振舞いを正す最後の切札であった。名誉はこの世で「最高の善」として賞賛された。些細な挑発に腹を立てるのは「短気」として嘲笑された。

7.忠義について
主君に対する臣従の礼と忠誠の義務は封建道徳の顕著な特色である。自分の主君に対する不忠は許されなかった。

例  芝居「菅原伝授手習鑑」(主君への忠義の為、我子を犠牲にする物語)


 8.女性について

女性の心の直観的な働きは、男性の「算数的理解力」をはるかに超えている。武士道が説く女性の理想像は著しく家庭的であった。また女傑的な特性も求められこの二つは武士道においては両立するのである。武士道は本来、男性のために作られた教えである。したがって武士道が女性について重んじた徳目も女性的なものからかけ離れていたのは当然であった。「自己自身を女性の有する弱さから解き放ち、最も強く、かつ勇敢である男性にも決して負けない英雄的な武勇を示した」女性を讃えた。若い娘達は、感情を抑制し、神経を鍛え、武器、特に長い柄の「薙刀(なぎなた)」と呼ばれる武器を操り、不慮の争いに対して自己の身体を守れるように訓練された。一つは個人の為であり、いま一つは家のためであった。女性は夫たちが主君の身を守るのと同じくらいの熱意で我が身を潔く守った。女性の武芸の家庭における効用は、息子達の教育にあった。少女達は成年に達すると、「懐剣」という短刀を与えられた。その懐剣は時には彼女達を襲う者の胸に、また場合によっては彼女自身の胸に突きつけられた。自害の方法を知らないというのは恥とされた。貞操は武士の妻にとって最も貴とばれ、生命を賭して守るべきものであるとされた。また芸事やしとやかな日常生活が要求されていた。音曲、歌舞、読書をすることは決しておろそかにされなかった。幼い頃からわが身を否定することのみを教えられた為に女性の生涯は従属的な奉仕献身の一生であった。

考察

1.武士道とは武士の「品性」を高める道具、つまり方策・手段であり、武士の日常生活の規範であった。武士はその体現者である。

2.武士道は一般社会にも深く浸透していたと推定される。武士は江戸時代になって、「無産」階級ながら、「士農工商」の最上位に置かれ、社会的指導者の役割を担った。

3.歴史的に見て、武士道はおよそ百年かけて完成した。つまり江戸開府から元禄までである。その完成には二つのことが作用した。一つは平和になり武士に時間の余裕ができ「武士はどうあるべきか」を考え、実行するようになった。もう一つは鎖国(1616年)の実施である。オランダ・中国を除き外国思想が入らず、既成の儒教・仏教・神道が発展した。

4.幕末(1853年)米国・ペリーの来航で彼ら一行が驚いた事が3点あった。
 

   ・町が綺麗であった。(汚物の循環システムができていた。)

   ・性風俗がしっかりしていた。(一夫一婦制がきちんと守られていた。)

   ・全国的に統一された度量衡があった。(尺貫法や畳など)

特に②は武士の奥方・夫人達の努力の結果と言われている。一方で当時男性の一大歓楽郷である吉原遊郭があった。

5.ポール・クローデル(昭和10年頃の仏の日本大使であった外交官で詩人)は「世界で一つだけ民族を残すなら、日本人」と言った。武士道の影響が大きいと思う。
 
 以上
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「大法に不可思議なし」 ― 科学と全く矛盾しない宗教、禅 - 紀平 恭謙(2007年6月記)
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