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トップ  >  会員の声  >  「大法に不可思議なし」 ― 科学と全く矛盾しない宗教、禅 - 紀平 恭謙(2007年6月記)
東京第一支部第120回摂心会法話 (H19.6.12)
「大法に不可思議なし」 ― 科学と全く矛盾しない宗教、禅 ―
 
2007年6月12日
紀平 恭謙
 
0.      イントロ

(ア)  本日は「大法に不可思議なし」 - 科学と全く矛盾しない宗教、禅 ということでお話させていただきます。私は理工系の大学を出て、卒業後は永いことIT関係の仕事をやってきましたが、サイエンスが大好きで、今でも新聞やテレビでサイエンス関係のニュースを見かけると何をおいても先ずチェックするというところがあります。
 

(イ)  禅をやっていてつくづく思うのですが、禅は科学と全く矛盾しないということです。神や霊魂、あるいは来世や輪廻転生をうたう宗教がたくさんありますが、そのような宗教は科学が新しい発見をして、その発見がその宗教の教義に反する、あるいは矛盾するようなことになると、科学の成果を否定したり、科学を攻撃したり、あるいは科学の成果を折り曲げる解釈をしたりするようなことが多く見受けられました。例えば地動説に対する天動説 「地球は動いてはいけない、太陽が地球の周りを回るとか、ダーウィンの進化論に対する創造説「ノアの洪水は実際にあった、神がすべてを創造された、地球の年齢は1万年以下である」というような類のものです。
 

(ウ)  禅はそのように科学の成果を否定するようなことは全く言いません。本日の法話の要旨を最初にお話いたします。それは以下の5点です。
 

1.      はじめに (法話の趣旨)

(ア)  科学の進歩が人間の倫理観や一般の宗教に混乱をもたらしている面があります。
 

(イ)  科学が示す結果を受け入れることは、倫理観の否定や神の存在の否定につながる時があります。それでは人間は救われません。
 

(ウ)  科学が示す結果と折り合いをつけるために、科学を否定したり、折り曲げた解釈をする動きがあります。しかし、それらは、一時しのぎであり、それに対する反発が返って科学を進歩させています。西洋における自然科学の発展はまさにそのようにしてなされてきたと思います。一時しのぎの解釈は歴史的に見て長続きしません。そして、我々人間は愈々救われなくなっていきます。つまり拠って立つ避難場所がなくなってしまうからです。
 

(エ)  禅は科学が示す結果と折り合いをつける必要が全くありません。「山川草木悉皆成仏」です。多くの宗教や倫理は、生命と非生命を区別して取り扱いますが、「山川草木悉皆成仏」は、生物、無生物を問わず成仏です。
 

(オ)  科学が進歩すればするほど、愈々禅が必要になってきます。禅は、「山川草木悉皆成仏」ということを悟らせるばかりでなく、では、どう生きるべきかということも示します。
 

 

2.      科学の進歩が人間の倫理観や一般の宗教に混乱をもたらしている面

(ア)  妊娠中絶 (どこからが人の命なのか)
 

①       法律上の線引き: 12週以上の中絶に関しては死産届けを保健所に出したり、(戸籍に乗ることはありませんが) 胎児を火葬するというような手続きが必要
 

②       倫理面からの議論: そもそも中絶は生命を殺すことになるので断固反対という議論
 

③       では科学的に見るとどこからが人の生命なのか?: 受精卵からが生命なのか? その前は? 精子卵子は生命ではない? 受精卵から生まれた胚性幹細胞 (ES細胞) はどうなのか? 胚性幹細胞は再生医療等に利用する目的で研究が進められているが、受精卵から生まれた細胞であるため、倫理面での大きな議論があり、国によっては公費による研究を禁止したり、研究そのものを禁止しているところもある。 科学は実は線引きをしていないが、生命という線引きを人は倫理的な面で見直す必要に迫られている。
 

④       人が倫理面から線引きしていたことに関して、自然科学は線引きは無いのだということを突きつけてくる
 

(イ)  ウィルスとプリオンたんぱく質 (どこからが生命なのか?)
 

①       現在でも自然科学は生物・生命の定義を行うことができておらず、便宜的に、細胞を構成単位とし、代謝、増殖できるものを生物と呼んでおり、細胞をもたないウイルスやプリオンは、非細胞性生物または非生物として位置づけられる (出典:ウィキペディア)。 細胞は無機物のように結晶になったりしないが、ウィルスは結晶化する。プリオンはたんぱく質そのものであり、到底生命と呼べるものではない。
 

②       ウイルス (virus) は、他の生物の細胞を利用して、自己を複製させることのできる微小な構造体で、タンパク質の殻とその内部に詰め込まれた核酸からなる。ウィルス、ビールス、濾過性病原体、病毒と表記することもある。ウイルスは細胞を構成単位としないが、他の生物の細胞を利用して増殖できるという、非生物と生物の特徴を併せ持つ。しかし、遺伝物質を持ち、生物の代謝系を利用して増殖するウイルスは生物と関連があることは明らかである。(出典:ウィキペディア)
 

③       狂牛病やヤコブ病の原因となるプリオンは人が通常持っているたんぱく質であるが、それが異常な形に変化すると、正常なプリオンたんぱく質を次から次へと同じ異常形に変化させ病気を引き起こす。ウィルスや他の生命が自己の核酸をCOPYさせて増殖するのに対して、異常プリオンは、他の正常プリオンを自己と同じ異常形に変形させる。これは増殖というよりは感染というイメージ。子孫を作るというよりは同じ思想の仲間を増やすというイメージ。
 

(ウ)  人とロボットとの境目
 

①       禅誌16号、68ページ、黒崎政男氏、「人間とは何か」より抜粋
 

②       「(前略) ・・・一方ロボット工学の分野では、ホンダの二足歩行ロボットASIMOやソニーのパートナー型ロボットAIBOなどの興味深い存在が登場してきた。つまり遺伝子レベルで、ヒトと他の生物を分かつ境界線はあいまいとなり、他方、歩行や簡単な動作というレベルではあるが、ロボットとの境界も分明とは言えなくなってきた。 (中略) ・・・サルと我々とがほとんど連続であり、もう一方で機械と我々がほとんど連続であるという構造の中で、人間はゲノムとロボットの挟み撃ちに直面する。もともと両者の間には境界がなかったのに、我々が人間中心主義によって、人為的に境界を設定してきただけだったのかもしれない。」
 

(エ)  科学は倫理観や人間中心主義によって設定されていた人と他者との境目や生命と非生命との境目を、元々なかったものであることを明らかにしてしまう。
 

 

3.      倫理観の否定や神の存在の否定

(ア)  倫理観に対する挑戦: 「生命活動は、DNA/RNAによる自己複製と個体維持」。
 

DNA/RNAという言葉に馴染みのない方も居られると思いますが、要は核酸という酸であり、大変大きな高分子で、且つ二重螺旋構造という立体構造を持っています。我々生命を構成している全ての細胞は核を持っていますが、その核の中にあるのが核酸であり、遺伝子の本体といわれています。この核酸は細胞分裂する際には二重螺旋構造を解いて1本ずつの鎖になり、それぞれが自分の鎖の相方を合成します。相方が出来たところで独立する、つまり細胞分裂が完了します。また、生殖細胞の場合には、1本ずつの鎖のまま細胞を構成し、相手の生殖細胞と結合したところでそれぞれの核酸がよじれあって結合して新たな鎖を構成し、その細胞が受精卵として細胞分裂して新たな生命体が出来上がるということになります。つまり生命活動は畢竟するに核酸による自己複製と個体維持ということになります。我々は核酸による自己複製を未来永劫続けさせるために一時的に構成されている船のようなものであるとも言えます。我々の体が船であり、船に乗っているのは核酸という構図です。なんだか味も素っ気もないですね。ところで、生命活動をこのように捉えると、次のような問題が発生してきます。
 

 

①       核酸レベルで捉えると、人の命と野菜の命に差はないではないか。細菌の命も同じ。
 

⇒ 野菜を食らうことや細菌を殺すことと、人の命を奪うこととに差があるのか?  (酒鬼薔薇聖斗事件:  「これからまた野菜をひとつつぶします」)
 

②       実際のところ、人は多くの命を損なわないと個体維持が出来ない。人の命だけが何故尊いのか? その根拠は? それは人間中心主義の勝手な線引きでは無いか? その線引きも戦争となったら平気で放棄している。
 

③       一方で人は社会生活を営でいるから、お互いに殺しあっては社会を維持できない。人殺しをしないというのは、社会を維持するための人間の都合による線引きではないか?
 

④       菜食主義は、「動物は人間と同じ仲間であり殺してはいけないが、植物は違う仲間なので殺しても良い。」あるいは、「動物は痛みを感じるが植物は痛みを感じないのではないか」という勝手な人間の思い込みで倫理観との折り合いをつけようとしたものですが、不十分であり、自己満足にしかなりません。実際のところ、私は植物も心を持っており植物なりの痛みを感じていると思います。鉢植えした植物は水がないと本当に水を欲しそうにしています。丁度今頃ですが、あるとき雑草の大毛蓼を移植しようと掘り出したときに、激しいショックを受けたように、移植までのつかの間ももたずにみるみる枯れてしまったことがありました。まさにショック死のように見えました。
 

⑤       線引きしているのは人の勝手な都合であり、科学はその人による線引きに根拠の無いことを明らかにしてしまう。
 

(イ)  生命と非生命も究極では差がない
 

①       生命活動は分子化学反応
 

②       それは物理法則の表れ
 

③       それは大宇宙の法の現れ
 

⇒ 星が生まれて死ぬ、あるいは地球上で台風が生まれて消えるのと根本的に差があるのでしょうか?生命も非生命も大宇宙の法則にしたがって形を変えていっているだけと言えると思います。
 

⇒ 生命と非生命すら根本的には差は無く、線引きしているのは人間の倫理観ということになります。(生きているものは我々の仲間だからないがしろにしないという)
 

④       禅は「一滴の水にも一滴の命がある」。生命と非生命を区別していません。
 

(ウ)  神の存在の否定:  愈々人は救われなくなる。
 

①       この世界は神が作られた。全ての生き物も神が作られた。神は自分の姿に似せて人を作られた。このような主張に対して科学は疑問を投げかけます。
 

②       天動説; 神が作られたこの地球が世界の中心であるべき。地球は動いてはいけない。
 

⇒ 地動説により、ひとつ根拠が崩れました。更にこの太陽を中心とする太陽系も銀河系宇宙という何千億の太陽からなる島宇宙の中心からずっと離れた辺境に位置しており、その銀河系も、また、宇宙全体から見れば、何千億とある島宇宙の1つにしか過ぎないということが現代の宇宙像で示されています。
 

③       最新の宇宙理論によりますと、宇宙は無から始まり、ビッグバンを経て今の姿になったといいます。今もどんどん形を変えつつあり、恒常的に存在するものは何一つとしてありません。地球も、太陽系も、生と死があります。原子核を構成している陽子の平均寿命も10の30乗年ということです。つまり物質の基本構成要素もいつか崩壊することが判っています。
 

④       神の存在する場所はどこでしょうか? 地球も50億年後には膨らんでくる太陽に飲み込まれてしまいます。太陽は水素をヘリウムに変換するという核融合反応によってエネルギーを放出していますが、やがて核融合反応はだんだん重い元素に移っていき、それにつれて太陽の大きさや温度が変化していきます。私たちの太陽も50億年後には赤色巨星となって地球の軌道をその中に含んでしまうほど膨れてしまいます。
 

⑤       これらの事実が示すところでは、人間は大宇宙の悠久たる営みの中に泡のように生まれて直ぐに消え去るはかない存在であり、自分ばかりでなく、人類も、地球も、太陽系も、この宇宙すら恐らく、やがて消え去り、現在の痕跡を残さないということになることが突きつけられますので、泡のような存在の人間としては、やるせなく、その事実を受け入れがたく、なんとか絶対でありたいという願望との葛藤が生まれます。
 

⑥       神は己の姿に似せて人を作ったという話の否定;
 

考古学者はさまざまな化石とその化石の発掘された地層の年代を調べて、木が枝を次々と分化させて成長してくるように、生命も生命という木を生長させてきた(進化論)ということを示しました。これは様々な生物のDNAの調査でも裏づけられています。このことは、神は己の姿に似せて人を作ったという話を否定してしまいます。神の子が、細菌を含めた他の生命と同列になってしまいます。
 

 

4.      科学が示す結果と折り合いをつけるために、科学を否定したり、折り曲げた解釈をする動き

(ア)  進化論の排斥
 

①       アメリカ合衆国、特に南部では公立学校で進化論を教えるべきかどうかについて対立があります。ダーウィンの進化論に反対して、聖書にあるように全生物は創造主が個別に創った、ノアの洪水は実際にあった、地球の年齢は一万年以下という主張を行う創造科学(科学的創造論)というものがあります。神を信ずる人々、あるいは信ずるものを広めたいと願う人々の気持ちはわかりますが無理があります。あきらめが悪いと私は思います。
 

(イ)  人間原理
 

①       この宇宙が無から発生した後にすぐにまた無に帰ることなくビッグバンを経てやがて星が生まれ (そして生命が生まれる) 現在の形まで成長する確率は、ある理論計算によると10のマイナス1230乗と試算されています。人間原理とは、そんな低い確率が選ばれたということは神の意思以外の何物でもなく、人間がやがて生まれることを仕組んでいたというものです。光速やプランク定数を始めとするこの宇宙のさまざまな定数が、ほんの少しずれただけでこの宇宙は(従って人間も)存在しなくなってしまう。宇宙は人間のために存在すると言うものです。神はこの宇宙を作り、その仕組みを解明させるために人間を作った、というような考え方です。
 

(ウ)  これらの主張には願望が入りすぎており無理があると私は思います。それらは、一時しのぎであり、それに対する反発が返って科学を進歩させることになり、一時しのぎの解釈は歴史的に見て長続きしていません。そして、我々人間は愈々救われなくなっていきます。
 

 

5.      禅による解決;

(ア)  禅は科学が示す結果と折り合いをつける必要が全くありません。むしろ、究極を示しています。「山川草木悉皆成仏」です。皆、仏の大光明を放っています。生物、無生物を問わずです。どこにも線引きはありません。
 

(イ)  無益な殺生をしない。一滴の水にも一滴の水の命がある。粗末にしない。
 

(ウ)  では、虫けらや細菌の一生と我々は同列であるとして、どう生きるべきでしょうか?  良く夏になると、街灯の周りをセミやらカブトムシやらカナブンやらがブンブン飛び回り、朝には力尽きて死んでしまうのを見かけますが、あの虫たちの一生と我々の一生に差がないというのでしょうか?あるいは、豚や牛のように食用にされるために生きて、やがて死んでいく生き物と我々の一生は変わりないのでしょうか?あるいは徴兵で戦争に駆り出されていく兵士たち、己の気持ちに反して敵を殺し殺されていくその一生はどうでしょう。
 

(エ)  私は、修行は大して行っておりませんので偉そうなことは言えませんが、禅の公案の多くはこのどう生きるかということを自得させるように思います。そして、それは、「真の自己として誠実に生きる」ということです。言葉で言うのは簡単ですが、なかなかできません。数息観すらままなりませんから、日々様々な場面で右往左往しています。しかし、最後はそういうことだと思います。
 

(オ)  科学が進歩すればするほど、愈々禅が必要になって来ると思います。
 

 

ありがとうございました。

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