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トップ  >  会員の声  >  「禅者の死」 小野 円定(2007年2月記)
禅者の死
 
第118回摂心会 法話
平成19年2月9日(金)
 東京第一支部 小野円定
禅 者 の 死
 

Ⅰ はじめに

私たちが住んでいるこの地球は46億年前に誕生し、そして、何10億年か後には滅びるといわれております。人間の命はせいぜい100年であります。地球の命に比べわずか何10億分の100であります。

昔、中国のある皇帝が不老長寿の薬を、財力にまかせ探し求めたといわれています。もちろん、そんな薬はどこにもありません。人は老い、そして、必ず死を迎えるのであります。

平成13年11月4日、一行庵義堂老師が帰寂されました。その年の東京第一支部10月の摂心会で、お茶のお相伴のとき、青嶂庵古幹老師が一行庵老師のご子息から、「癌を親父に告知した方がよいかどうか」相談を受けたとのこと。青嶂庵老師は、「告知すべきである !」と答えられたとのことです。そのあと、「その為に」修行しているのだから、とひとり言のようにつぶやいておられました。

その後、「その為に」ということが気にかかっておりました。この法話を機会に、掘り下げてみたいと思います。 
 

Ⅱ 禅による生死観(霊魂について)

禅による生死観について、磨甎庵劫石老師著『学道用心集講話』の中で、道元禅師は「霊魂」(心性)について取り上げております。

「身体と心性(霊魂)とは、別々のものであって、身体は死ねば無くなるが、心性は不滅であることを明らかに知れば、生死の苦しみから離れることができる。従ってこのように心性が常住であることを了知することこそが仏法の要諦(ようてい)であって、ただ坐禅しても駄目である。」

道元禅師はこれに対して、このような考えは釈尊の開かれた仏法とは全く関係のない、外道(げどう)の誤った妄想であるとして、次のように述べられます。

「ほんとうの仏法というものは、身心一如、性相(心の本性と身体)不二を明らかにした教(おしえ)であって、「生死即涅槃」、「煩悩即菩提」こそが、ほんとうの釈尊の明らめられた諸法実相の真理で、生身(なまみ)の煩悩によってさいなまれている自分の心を離れて、不生不滅の仏はないし、現実のこの世界を離れて極楽浄土というものはない。」

磨甎庵老師は、「これを禅では転迷開悟、つまり迷いを転じて悟りを開くといいます。迷いの五欲七情を捨てるのでなく、その本末転倒の姿を坐禅の行によって、本来の姿にグルッと転化させる。そうすると五欲七情の迷情がそのまま仏の三身四智(さんしんしち)に転化するのです。

ここのところが、臨済宗の見性というものの素晴らしさで、迷いの根源の我見を布団上で殺し尽くして、絶後に再蘇すると本来の面目が甦ってくるということです。これは他般の宗教のどれにも見られない祖師禅独自のもので、世界に冠絶した道行といってよい点です。

ただこれは、口で言い、耳で聞き、知ることができても、実際に脚実地、自分で行証(ぎょうしょう)してみないことには、ほんとうのところは全く分かりません。」と述べておられます。

 

Ⅲ 禅僧の遺偈

以下の記載は主に芳賀幸四郎(如々庵洞然老師)著『一行物』、大森曹玄著『禅の高僧』、古田紹欽著『禅僧の遺偈』を参考としております。

 

1 永平道元 (1200~1253 行年54歳)

日本曹洞宗の開祖、永平寺を開山。

 53歳の秋頃から身体不調となり、名医に看てもらうため弟子の懐奘(えじょう)に伴われて永平寺より京都へ行き、信者の家に宿泊しそこで重病となり54歳の生涯を閉じられる。

<遺偈>

【五十四年 第一天(だいいってん)を照らす

        箇の を打して大千(だいせん)を触破す

       
        渾身(こんしん)覓(もと)むる無く

        活きながら黄泉(こうせん)に陷(お)つ】

「54年の生涯、自分とは何か、その悟りの境涯とは何か、ということを解き明かしてきた。一個の人間ではあったが多くの人々を教化してきた。ああ。懸命に生きたこの渾身にさらに何を求めよう。次の世界、黄泉が自分を待っている。」

 

2 宗峰妙超(大燈国師)(1282~1337 行年56歳)

京都大徳寺を開山。

永年患っていた足を、死ぬときぐらい言うことを聞け、といって自分の手で足を折り曲げて結跏趺坐された。そのとき血が出て法衣が真っ赤に染まり、そのまま坐亡された。

<遺偈>

      【仏祖を截断(せつだん)し、

        吹(すい)毛(もう)常に磨く。

         機輪転ずる処、

          虚空牙(きば)を咬む】

「仏祖さえも否定超克(ちょうこく)して、吹毛の剣にも比せられる性根玉(しょうねだま)をいつも磨いてきたその心の機は、まさに虚空が牙を咬む。」

如々庵老師は、「吹毛とは、フッと吹きつける毛をス-と截断してしまうほど、鋭くよく斬れる剣のことである。文殊菩薩がかまえている金剛王宝剣のことで、一切の相対的な見所をズカリズカリと截断してしまう、文殊根本の大智慧のことである。」と述べております。

この遺偈について、中国からきた南禅寺の大鑑清拙禅師は、「思わざりき、日本にかくの如き明眼の宗師がいたとは。」と感慨されたとのことです。

<遺誡>

【---- 或いは一人あり、野外に、一把茅底(いっぱぼうてい)(小さなあばらやに住み)、折脚鐺内(せつきゃくしょうない)(われなべ)に野菜根を煮て喫して日を過ごすとも、専一に己事(こじ)を究明せる底は、老僧と日日相見報恩底の人なり。誰か敢えて軽忽(きょうこつ)せんや。勉旃(つとめよや)、勉旃。】

 

3 関山慧玄 (1277~1360 行年84歳)

京都妙心寺を開山。

関山国師の禅は、師の大燈国師の遺誡(前述)を身をもって実践され、峻厳そのもので、坐禅と作務をもっぱらとし、読経その他の形式を嫌い、「貧」に徹せられた

1冊の著書もなく、伝えられている言葉は「本有(ほんぬ)円(えん)成仏(じょうぶつ)何としてか迷倒の衆生となる」、「慧玄が這裡に生死なし」、「柏樹子の話に賊機あり」だけだと言われており、また残した真筆も「黙」の1字だけといわれております。

夢窓国師が随従を多く引き連れて御所に向かう途中、妙心寺の前を通られたとき、関山国師は黙々と落ち葉を掃き集めて焚き物をしておられた。その姿を眼にした夢窓国師は、「関山こそ、後には我が法孫も皆関山の会下たるべけれ」と感嘆されたといわれております。

予言通り、夢窓国師の門下は絶えてしまい、「応・燈・関」の禅が現在わが国臨済禅の唯一の法流となっております。

旅装をととのえ、弟子の授(じゅ)翁(おう)1人を伴って妙心寺の風(ふう)水(すい)泉(せん)(井戸の名)に来られたとき、突然松の老木によりかかり動かなくなられた。授翁がいぶかって駆け寄ると立ったまま静かに息を止められた。そこで最後の遺誡(下記)を授翁に訓示され、「さて旅立とうとするか」と言ったままに杖を持ち、目を閉じられそのまま立亡(りゅうぼう)(立ったまま亡くなる)された。

<遺誡>

(要約)「私は花園上皇の招きで妙心寺の開山となった。しかしその私を育ててくれたのは大燈国師とその師大応国師の2人だ。だから後に私のことを忘れてもいいが、大応、大燈の2人の祖師の恩を忘れたら私の児孫とはいえない。どうか本当の自己を究明(其の本を努めよ)することに全力を尽くしてくれ。」

 

4 一休宗純 (1394~1481 行年88歳)

風狂の禅を説き、奇怪な行動をされた。

正月になると人間の骸骨を棒にさして、<正月は冥土の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし>と謡って、街を練り歩かれたという。

<遺偈>

   【須(しゅ)弥(み)南畔(なんばん)

     誰か我が禅を会(え)す

       虚堂来(きた)るも

         半銭に直(あたい)せず】

如々庵老師は、「この世界には、わしの禅のわかるものが居るであろうか。いや1人もおらん。よしんば、わが尊敬する虚堂和尚が今ここに出現してきたとしても、半文銭ほどの役にもたたんわい、わしの禅をいかんともすることはできない。

一休のこの遺偈は単なる傲慢不遜でない。実は禅の究極のところは親知らず子知らずであり、この父子不伝の場ばかりは、虚堂はもとより釈迦・達磨が出てこようとも、半銭に値せずである。この偈の真の肚はそこにある。」と述べておられます。

 

5 快川紹喜(じょうき) (?~1582)

信長が軍勢を送り恵林寺に火を放ったとき、快川は弟子たちに「いまこの火炎の中にあって、いかようにして仏法の教えを説くべきものであるかを知らなくてはならない。各々のものはこの最後に臨んで、そのことについて一言いって見よ」と説き、自らの問いに自ら答えて曰く、<安禅は必ずしも山川を須(もち)いず、心頭を滅却すれば火(ひ) 自(おのずか)ら涼し>と述べ、猛火が衣に燃え移っても恬(てん)然(ぜん)として動ずることがなかった。

耕雲庵英山老大師は、これは「火定三昧を歌ったものである。多年鍛錬し上げた境涯から去住自在、従容として死につかれたのである。いくら百万の経典を暗記しても、哲学・科学を究めても、理屈や道理では実際に真似することすらできん。」と述べておられます。

 

6 沢庵宗彭(そうほう) (1573~1645 行年73歳)

品川東海禅寺を開山。

沢庵和尚は弟子に遺偈を求められたが断り切れず、代わりに「夢」の1字を大書された。『東海夜話』の中で夢について

「この世は夢であり、いつまでも続くものではない。たとえば財宝をたくさんに集めて得意になっても、一寝入りの夢のなかで金銭を手に入れて実の金銭と思い有頂天になっても、夢がさめたとき実の金ではないようなものである。----- 人と争うのも夢だから、願わしいのは勝つことを悦ばず、負けることを怒らぬ心になって、夢の勝負に熱を入れず、勝ちもせず負けもせぬ人になってはどうか」

<遺誡>

「全身を後の山にうずめて、只、土を俺うて去れ。経を読むこと勿れ。斎(とき)を設くること勿れ。道俗の弔賻を受くること勿れ。衆僧衣を着、飯を喫し、平日のごとくせよ。塔を建て像を安置する事勿れ。碑を立つ事勿れ。謚号(死者に送り名すること)を求むる事勿れ、木碑を本山祖堂に納むること勿れ。年譜行状を作る事勿れ」

 

7 道鏡慧端(正受老人)(1642~1721 行年80歳)

 19歳の時江戸へ出て至道無難禅師に師事、20歳にして奥義に達する。その後信州飯山に正受庵を立てて隠棲する。白隠禅師の師として知られている。

 正受老人の『一日暮し』の中に有名な<一大事と申すは今日只今の心なり>という句があります。

「----- 一日一日とつとむれば百年千年もつとめやすし。一生と思ふからにたいそうである。一生とは永いと思へど、後の事やら翌日の事やら、----- 死を限りと思えば、一生にはだまされやすし、と。<一大事と申すは今日只今の心也。>それをおろそかにして翌日あることなし。総ての人に遠き事を思ひて謀ることあれども、的面の今を失ふに心づかず。」

また、師の至道無難禅師には、<生きながら、死人となりてなりはてて、おもひのままにするわざぞよき。>という句を残されております。

正受老人の逸話として、63歳のとき狼が一番集まりそうな所へ行き、7夜坐り抜くことを誓い自分の力量を試そうと決められた。夜になると狼がいずこともなく続々と集まってきて、正受老人を四方から囲み威嚇したが少しも動揺されなかった。ついに根負けしたのか狼は姿を消した。正受老人は、<妄念は虎狼(ころう)より恐ろしきものなり>と言われております。

年寄られても気力が少しも衰えず、病気らしい病気もなく、朝早く遺偈を書かれ、和歌を読み、坐禅をされたままカラカラと大笑せられ、そのまま坐死された。

<遺偈>

   【末後一句   (末後の一句) 

     死急難道   (死急にして道(い)い難し)

      言無言言   (無言の言を言とし)

        不道不道】  (道(い)わじ道(い)わじ)

「とつぜん死というやつがやってきたので、末期の一句というやつを言おうと思ったが、何もないよ。無言の言を言とした。道(い)わじ道(い)わじ!」

 

8 白隠慧鶴 (1685~1768 行年84歳)

日本臨済宗中興の祖。

白隠禅師の逸話として、20歳のとき禅に疑問をもたれたとき、『禅関策進』の中で慈明楚円の道心堅固で朝夕修行に励み、夜眠いときは錐で股を突きさして坐禅をしたという、その故事を知って猛省し禅道一途に生きることを決定された。

 84歳を迎え身体の不調を感じるようになり、暁天に高いいびきをかきながら眠っていて、にわかに「大吽(うん)一声」して、遺偈も残さず寂された。

 

9 千利休(1522~1591 行年70歳)

<辞世の句>

    【人生七十   (人生七十)

       力(りきい)希(き)咄(とつ)   (力(りきい)希(き) 咄(とつ))

         吾這宝剣   (吾が這(こ)の宝剣)

            祖仏共殺】  (祖仏共に殺す)

如々庵老師は、「70年のわが生涯を顧みると、そこにはまことにさまざまな事があった。しかし、その人生とも今やおさらばじゃ。といって、今のわしには生への執着もなければ死への恐怖もなく、恩も怨みもなければ愛憎もない。! 咄! 一切合財、これでご破算じゃ。百雑砕(ひゃくざつさい)じゃ! わしのこれから一超直入(いっちょうじきにゅう)する世界、そこは悲喜も苦楽も、得失もさらには迷悟も生死もない絶対の世界である。さあ、これから、その絶対の世界で思う存分、自由に遊戯三昧しょうぞ。! 咄(とつ)!」と述べておられます。

 

10 山岡鉄舟 (1836~1888 53歳帰寂)

 剣と禅を極め、江戸開城で功績を残す。

山岡鉄舟の逸話として、死期が近づいたと感じたとき、「今日は一人一人稽古をつける。もし今日の稽古がいつもとちがっていたら、無刀はおれの死んだあとぶっつぶせ。」紐を自分で結べないほどの衰弱ぶりだったという。高弟の佐野が立ち上がるや否や、面から体当たりに行った。ところがまだ鉄舟の体に触れない前に、何かものすごい力で押しつぶされ、自身の方が引っくり返っていた。若い自分が力一杯かかったのにどうしたことか、そのときのことは今も合点がいかぬ。」と後年語っていた。

残された句に、<晴れてよし曇りてもよし不二の山 元の姿はかはらざりけり>があります。

帰寂される日の早朝鳥の鳴き声を聞くと、<腹張って苦しき中に明烏>という句を示して「まあこんなものですな。」と言って、人払いをして静かに床を離れ、皇居に向かって結跏趺坐をされた。しばらくして団扇を右手にとり、目をつむったままで団扇の柄で左の掌に何か字を書いておられたが、急に呼吸が迫ってきて大往生された。

絶命してなお正座をなしびくとも動かなかった、といいます。諸人の生仏(いきぼとけ)を拝ませてくれとの求めにまかせ、2、3日そのまま諸人に拝ませていたとのことです。

 

11 妙峰庵孤唱老師(1914~1976 行年62歳)

人間禅教団第二世総裁。

『人間禅』誌第92号(1975)巻頭言より。 

「人生長しと云い、短かしと云い、国広しと云い、狭しと云うも、畢竟コップの中の見に過ぎない。宇宙の命脈は広大無辺・無始無終にして、人間の都合に依って方域を定め、年月を刻して測ることは出来ぬ。この大生命の当体として、この宇宙の中に生まれたる人間がその一生を夢の如く、幻の如く、コップの中で右往左往過ごして何のかんばせかある。

人生再度来たらず。人の命は今生を以って限りとする。しかも生死は入息出息の間、今をも期し難い。覚悟や如何?

 芭蕉翁云く“昨日の発句(ほっく)は今日の辞世、今日の発句は明日の辞世、われ生涯いいすてし句一句として辞世ならざるはなし”と。茶人曰く“一期一会”と。正受老人云く“天下の一大事とは、今日唯今の心なり”と。新年頭に際し、古人先(せん)聖(せい)の上来一句、相い共に肺肝に銘すべし。」

昭和51年12月24日、妙峰庵老師が急逝されたとき、雲龍庵老師は<今ごろは三途の川で水遊び>と読まれました。

 

12 一行庵義堂老師 (1924~2001 行年77歳)

人間禅教団師家

『合掌』追憶特集号によりますと、「一行庵老師は道場に来られるときはいつもニコニコした顔で“道場に来るのが一番楽しい。”と言っておられました。師家になられる前は道場を我が家の如く、道場の行事がない時でも週に2、3度、多い時には毎日のように夜、静坐のために来山されておりました。」

帰寂される2週間前、葬式、導師、香典の取り扱い、会葬御礼状の文案等、平常と変わらぬご様子で死後の段取りをされ、そして、熊本支部の修禅会を見守るように、円了するのを待ってしずかに帰寂された。

平成13年新年の句 <元旦や癌もめでたきもののうち> 

最後の句      <秋天や今はの際の懺悔文>

青嶂庵老師は、一行庵老師の追憶摂心会ご提唱の中で、【生も亦風流 死も亦風流】と、獅子吼されたとのことです。

 

13 青嶂庵古幹老師 (1925~2007 行年81歳)

 人間禅教団第四世総裁。

ご長男の葬式のご挨拶の中で、帰寂される1週間前に立つことも無理な状態にも関わらず、ご自身でトイレに立たれようとされたこと。2~3日前にはお孫さんとお別れの挨拶をかわし、ご家族には感謝の言葉を述べられたこと。前日には喉につまった痰をとることを、ご自身の意思で拒否されたこと。ご自身の意思で死を迎えられた、老師らしい立派な尊厳死だったとのことです。

また、葬式は「しめっぽいよりも楽しい方がよい。」と話しておられたとのことです。

 

Ⅳ おわりに

昨年夏、親戚が57歳の若さで胃癌のため亡くなりました。奥さんと海外旅行をもっとしたかった。後は悔いのない人生だったとのことでした。死を恐れないその強さはどこからくるのかわかりませんが、立派だと思いました。ただ、本当に死を解決したのかどうかとなりますと疑問を持ちます。

「どのように生きるのか」、「死んだらどうなるのか」、この問題とは真正面から取り組み、自分で明確な「答」を用意しておかなければ、ほんとうの人生を送ったとは言えないのではないかと思います。

絵の好きな人は絵を、音楽の好きな人は音楽を、あるいは仕事の好きな人は仕事を、「生きがい」は禅以外の方法でも見つけられるかもわかりませんが、「死にがい」、「死後の世界」についての正しい「答」は、「禅による修行」、これしかないと思います。

生きているときは一生懸命生きればよいし、死ぬときは一生懸命死ねばよい。当たり前のそのことがなかなかできません。

私がいずれ死を迎えたとき、にっこり笑って死を迎えるのか、恐れながら死を迎えるのかそれはわかりませんが、いまはどちらでもよいと思っております。ただ、禅者らしい死を迎えたいと念じております。

そのことが、「その為に」ということへの、「答」と思っております。

合掌

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