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擇木道場

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トップ  >  会員の声  >  「妙峰庵佐瀬孤唱老師のこと」 小野 円定(2006年12月記)
妙峰庵佐瀬孤唱老師のこと
小野円定  平成18年12月13日


1 はじめに
 私が人間禅教団に入門を許されたのは、昭和42年5月大学3年のときです。その年に人間禅東京第一支部がこの擇木道場に設立され、妙峰庵老師が初代担当師家となられました。昭和42年から、帰寂された昭和51年までの9年間ご指導をいただき、その間老師が千葉県松戸に開かれた学生生活を送りながら禅の修行をする五葉塾で2年間生活を共にいたしました。ご指導いただいた期間は短いのですが、お側で修行させていただき一生を左右する大きな存在の方となりました。そういうことで観話会の幹事から妙峰庵老師の思い出を話すようにとのことでしたが、弟子が師のことを話すのは難しく嫌なものであります。それで思い出というよりも、語録のようなものが参考になるかと思い、30分ほど話させていただきます。なお詳細をお知りになりたい方は、老師の遺稿集『無隠』をご覧になってください。

2 略 歴
大正3年11月3日 父学・母操の長男として台湾に生まれる。俗名 佐瀬一(はじめ)
昭和8年9月   中央大学専門部入学。
昭和11年2月  2・26事件に関係。
昭和11年4月  中央大学法学部入学。
昭和11年5月  三菱地所(株)にて傭人となり苦学生活に入る。
昭和12年     中央大学五葉会(禅の会)に入会。
昭和12年7月  両忘庵釈宗活老師に相見、入門を許される。
昭和13年11月 「孤唱」の道号を授与される。
昭和14年3月  中央大学法学部卒業。
昭和14年4月  南満州太興入社。
昭和14年9月  糸久景子と結婚 3男1女をもうける。
昭和15年1月  兵役に服す。
昭和21年1月  中国より復員 各社役員を歴任、後、経営コンサルタントとして活躍。
昭和35年6月  松戸五葉塾開設。初代塾頭となる。
昭和40年5月  「妙峰庵」の庵号を授与される。
昭和42年5月  師家分上(大事了畢) 東京第一支部初代担当師家に任命される。
昭和44年5月  人間禅教団 第二世総裁に推戴される。
昭和51年12月24日 帰寂 行年62才

3 老師が禅をはじめたキッカケ
 老師は学生時代血気盛んで社会運動の方向へと進み、天下国家を論じる青年となりました。昭和11年の2・26事件にも関与され、そのためブタ箱にも入ったことがあります。その後三菱地所でアルバイトをしていたとき、同じ仲間の中央大学五葉会(坐禅の会)の会員から数息観を勧められました。これが禅をはじめられたキッカケとなりました。

(以下『』内、無隠より抜粋)

 『毎日坐禅の行を重ねているうちに、数息観という簡単な事が実は教えられた様に中々できない。今までのぼせていた自分の不甲斐なさ、偉そうに思っていた自分に対する懐疑反省となって外を向いていた目が自分の内の方に向いて、坐禅への関心が高まっていった。そして、市川の摂心会で耕雲庵英山老大師のご提唱を拝聴して、この人以外に自分のつく師匠はこの世におらぬ、と深く心に定め入門のお許しをいただいた。
 昭和13年の摂心会で見性入理することができた。その時の喜びは人生これ以上の喜びはなく、意気まさに天をつき、風の音も、雨の音も電車の音も世のもの挙げて私を祝福してくれているようであった。』そして。昭和42年大事了畢。後年「俺には親父(耕雲庵老大師)しかいなかった。親父を信じ、ただ親父の言うとおりやってきただけだ。」と述懐されておられます。

4 老師について
 老師は小さい頃から熱心に剣道をやっていたこともあり、ガッチリした体つきで古武士のような風格の方でした。どなたに伺っても、「豪快かつ繊細で、こわい方であったが半面非常にやさしい方であった」、という印象を述べられます。ただそのこわさとやさしさが半端じゃなかった。徹底した方でありました。
 「?(かく)湯無冷處(とうれいじょなし)」という禅語がありますが、老師はこの禅語のようにたえず煮えたぎっているような方でした。こわい方であったにも関わらず、多くの方から親しまれたのは、「相手のために」という、自分のことよりも本心から相手のことを思いやる暖かさ、やさしさからだったと思います。お側におりますと勇気が湧き、安心感を与えてくれた方でした。

5 語 録
① 老師の座右の銘
 「絶対に法を信ずる。絶対に修行を断絶せず。絶対に他に頼らず。」これを壁に掛けてやってきた。

②「道心あるところ必ず食輪転ず」
 (以下『』内無隠より抜粋)
 『一昔前に職業を後回しにして禅の修行を中心とする生活設計を立てた。先輩からそれでは生計が立たないだろうという忠告を受けた。事実一時期団費も払えない事もあり、某居士が代わりに払ってくれたのを今でも感謝している。しかし結果としてこの方針を押し通して、修行も完遂できたし仕事の方も上向きになった。』
磨甎庵劫石老師(人間禅教団第三世総裁)も「衣食あるところ道心なく、道心あるところ衣食あり」という難中の難の古人の語を、身を以って実践された方である。と無隠の中で評されておられます。

③「忙しい」という言葉を嫌った。
 経営コンサルタントとしてご活躍され、人間禅教団の総裁としての重責を担い、人の3倍も4倍も活動された方ですが、忙しいという言葉は嫌いな方でした。
 「本当に忙しければ忙しいという言葉は出ないはずだ」これが老師の口癖であり、何度も耳にしたことがあります。

④「出所(でどころ)」が違う
 私が20代の頃、摂心会のお茶のお相伴のとき老師へお尋ねしたことがあります。
 老師と私が勤めている社長とがよく同じようなことを言われます。たとえば老師は「他のせいにするな」と言われます。社長も「自分の城は自分で守れ」と言います。
 すかさず老師は、それは「出所が違う」と言われました。その言葉が後まで気になっておりました。
(以下『』内無隠より抜粋)
 『坐禅とは無念無想でポカーンと坐っていることではない。内観の法といって静かに「自分で自分を観る」のである。何を観るかというと「本当の自分」とは何かを観るのである。頭も体も火の玉のようになって「本当の自分とは何か?」と押しすすめるのが坐禅の姿である。
 心の働き(嬉しい、悲しい、楽しいという感情)の出てくる根元、それが本当の自己でありその「根元」をつきとめるのである。私たちは間違って、憎い、可愛い、嬉しい、悲しいといっている自己を本当の自己と思い込んでいる。そんなものは50年、100年経てばなくなってしまう。メシを食って、地球上をはいずり回っているうちに死んでいってしまう。そんなものを相手にしていてはだめだ!
この憎い、可愛い、こんちくしょう、という心の根元を探さねばなりません。世間でいう正直、誠実、勤勉等ということでは届かない。どうしても修行を重ね自分でつかむ。これが人生のすべての出発点であり、ここに常に立っておりここを常に居場所としていることが、人生の基調でなければならないと考える。』
 この心の根元が出所であり、擇木道場は心の根元をしっかりとつかみ、そしてそれを磨いていき、人生を快適に生きていくことを目的とした仲間の道場であります。

6 老師の思い出
 私がはじめて人間禅道場に行ったのは昭和41年夏、大学2年のとき本部道場(市川)で行われた学生修禅会です。その後ときどき毎週行われる坐禅会に参加しておりました。翌年の昭和42年2月、水曜坐禅会に参加しようと本部道場に行った所玄関が閉まっておりました。真冬の寒い夜、玄関の前でコートの襟を立てて誰かが来るのを待っていました。
 誰も来ないので今日は休みなのかなと思っていたとき、カツカツカツと勢いよく歩いて来る方がおりました。私を見て驚いたように「なにをしているのだ!」と言われました。私は「今日の坐禅会はお休みなのでしょうか」と答えた処、「ちょっと待っておれ」と言われ鍵を取りに行きました。そしてその方が直日をやられ、二人で坐ったことがあります。坐禅を終えて私がお礼を申し上げると、その方は静かに合掌して「ご苦労さま、気をつけて帰りなさい」と言われました。帰り道"この道場はどこか違うな"と深く感じるものがありました。それから引き続き坐禅会に参加し、その年の4月に入門させていただきました。あとでその方が妙峰庵老師だとわかりました。耕雲庵老大師の所から帰られる途中でした。
 もしあのとき誰も来なかったら、"いい加減な所だな"と思い、それからは多分道場へは行かなかったと思います。40年前の有難い出会いと思っております。私が毎週の坐禅会を特に大切に取り扱うのもこういう理由もあると思います。

7 おわりに
 大東京への布教として東京第一支部を創られたのは、妙峰庵老師の強い思いからであります。東京第一支部42名の内、現在直接老師をご存じの支部員は4分の一の約10名と少なくなっております。老師の思いを薄らぐことなく引き継いでいくことが、私たちの大きな使命であると思っております。
合掌
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