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擇木道場

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東京都台東区
  谷中7-10-10
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トップ  >  会員の声  >  「長屋哲翁老居士について」 藤井 紹滴(2006年11月記)
『長屋哲翁老居士について』
藤井紹滴(平成18年11月8日)


[目次]
1. 私の略歴
2. 長屋先生との出会い
3. 長屋先生の略歴
4. 長屋先生の語録と思い出
5. むすび

[本文]
1. 私の略歴
 略歴は禅に入る理由を主とします。中学二年の時、漢文の教科書に論語に「朝聞道夕死可矣」があり、夕べに死んでも良いと云う道とは何かとの疑問が起き、参考書を読んだがわからない、中学、高校中ズット気になっていた。20歳代に入り漢文を学び始め、20歳代一杯思案してもわからず仕舞。

2. 長屋先生との出会い
 漢学の研究機関の無窮会東洋文化研究所の研究仲間の原田先生と偶々擇木道場で会うことになった。(昭和48年(1973)11月、32歳)大衆の道場から二階の隠寮に上がる階段の脇に応接の椅子があり、原田先生との用件はすぐ終わったが、そこへ長屋先生が現れ、話をしていくうちに、原田先生は長屋先生の娘婿であることを告げられた。原田先生とは現在まで40年の研究仲間であるが、当時儒学上の疑問に苦慮していたし、解決法を求めていた私は初対面の長屋先生に迷うことなくこの道場で坐らせていただくことをお願いし、言下に承諾をいただいた。当日は先生がドイツより帰国され4、5日あとであるとのことでしたが、「月曜日の夕方に道場にいらっしゃい」と云われました。このあと一緒に食事を誘われ、先生のご家族にもご挨拶が出来ました。奥様からも「冬からの修行は大変らしいですよ」とからかわれたりしました。この時、先生のご令息崇さんがおられたが、その後、擇木道場内でさまざまの指導と面倒を見てもらうことになる。当時、人間禅教団も擇木道場にて東京第一支部を設立した直後であるが、擇木道場では人間禅教団とは別に年中行事として、
①毎朝の暁天坐禅
②日曜坐禅会 10時~11時
 第一日曜、10時~12時は講本「禅海一瀾」による講話。以前は王陽明の「傳習録」も用いられていた。
③木曜の静坐会7~8時
 があったが、とにかく月曜は夕暮れ迫る道場で四書の一つ、「大学章句」を読んで待っていました。やがてあらわれた先生は「ここではそういうものは読みません」と第一声、「ああ、不立文字を指してのことか」と了解しました。そしてすぐ坐相の指導。
① 背筋はまっすぐのばしてあごを引く、坐具の高さは自由。
② 目は半眼にして三尺程前に落とし、見るともなく見る。目はつぶってはいけない。
③ 足の組み方は結跏でも半跏でもよい。
④ 唇は軽く結び、舌は上あごに添える。
⑤ 両肘は脇につけず、軽く前に離す。
⑥ 息はゆっくり長く、切羽詰るようなのはダメ、赤ん坊が寝ているときのように。
⑦ 姿勢を正せば腰が据わり、肩の力が抜け、自然呼吸も整う。
⑧ 構えが出来たら今日あったいいことも悪いことも吐き出すように息を全て出し切ること三息したのち、目を一杯に見開いてから静かに前に落とす。
⑨ 足袋、靴下をはかない。

以上の後、擇木道場での静坐は先生の引磬の響きとともに始まりました。最初の一柱香は20分でしたが、実に長い長い時間であったことを覚えております。十二分に緊張していたためです。それ以後毎週先生に坐っていただき坐相は特に厳しく指導していただきました。そのうち擇木道場に以前からいらしていた方たちも月曜日に参加され、月曜日は10人位になりました。その中にはドイツの方も3~5人位居りました。私も他の曜日にも参加し、ことに第一日曜の講座は坐禅和讃で始まり、人間禅の提唱と基本的には変わらぬかたちながら講坐台は畳二畳位、高さ20センチくらいの簡略化されたものが用いられていました。

3. 長屋先生の略歴 
先生は明治28年(1895)8月28日 岐阜県武儀郡板取村杉原に生れる。家は神官。長良川の支流板取川に沿う。小学校4年迄保木口小学校。高等科がなく、郡上郡の八幡高等小学校へ2年通学、岐阜中学2年でやめ板取村に帰り百姓をしながら通信教育で独学。
大正3年 京都中学4年に編入 5年で卒業
大正5年9月 旧制第七高等学校造士館文科に入学
大正8年4月 東京帝国大学文学部倫理学科へ入学
大正11年3月 卒業 卒論「動的意志決定論」
大正11年9月~12年3月ベルリン大学留学
大正12年~14年末(1925)マールブルヒ大学留学
幼い頃よりの疑問は「意志の自由」は存在するか?「自由と云うものは存在するか?」であった。留学中これの解明に努力。そこでギリシャ哲学までさかのぼり、自由の問題を理論的に究明したが、体究による自己の自由の境涯は得られなかった。新カント派でも実存主義でも「意志の自由」は存在しなければならないとしながらも獲得法は示されなかった。ここをもってドイツに渡ったが結論を得られず。(30才)

○ドイツ留学時の恩師
哲学 ナトロープ(1882-1950)、ニコライ ハルトマン(1889-1976)、マルチン ハイデガ-(1897-1945)、心理学 ジェン 
神学 ルドルフ オットー(1869-1919)「聖なるもの」の著作で有名、ヘルラー
帰国前オットー教授の送別の夕食で「日本へ帰って何をするか?」
『禅の修行をする決意です』
「日本のどこへ帰るか」
『禅堂は方方にある』
「大峽教授は、たしかに何かを得た人だ。知らないなら紹介するから大峽教授の所へ帰りたまへ」
大峽教授の著書(独文)(オットー教授序文)
「禅―日本における生ける仏教」を渡たされる。
シベリヤ鉄道で帰国し、小倉市戸畑在住の大峽秀栄教授(一夢庵竹堂老師)をたずね、そのご紹介で釈宗活老師をたずねる。

大正15年1月 釈宗活老師に入門(31歳)(1926)
昭和2年 旧制静岡高校教授 東京帝国大学講師 日本大学文理学部講師
昭和2年3月28日 島名寿子氏と結婚 九子を得る。
昭和4年 東京高等師範学校教授
昭和12年 宗活老師の両忘会市川道場新築に伴い、一夢庵竹堂老師擇木道場創立、購入、改造す。ここで修行。
昭和12年10月~昭和17年10月 文部省教学局教学官
昭和17年11月~昭和21年1月 文部省教学官 社会教育官
昭和21年8月16日 一夢庵大峽竹堂老師帰寂(64才)
昭和21年 公職追放により収入の道を断たれた。復帰迄の間、「本当によく坐った」と坐禅三昧。
昭和23年 擇木道場主管者を継承。
昭和27年5月 専修大学教授となる。
その他 国学院大学、東洋大学、日本女子経済短期大学、日本大学、南日本短期大学、法政大学 等で倫理学、ドイツ語を教鞭する。
昭和41年3月 専修大学退官
昭和40年古希のお祝い、そのお祝い金で
① 一夢庵大峽竹堂老師の著書 「禅」(独文)の復刻
② ドイツ各地への禅の巡錫。ドイツへの坐禅行脚は一年間病気によるとりやめを含め、昭和62年(1987)迄毎年5月~11月の間20年間実行された。
のちドイツにとどまらずスイス、オランダ、オーストリア等、ドイツ語が通ずる所にも及ぶ。
平成5年(1993)6月6日 擇木道場にて帰寂。(97才) 

3. 長屋先生の語録と思い出
① 「坐ってみなくちゃ、しゃーない。」
 背筋を伸ばして、天地を尻にしドーンと坐ってみる。経験第一で、坐ってみなくては何もわからぬ。口先だけではなににもならぬと云われた。人間は経験を通してでないとわからぬことを教えた語。「まず坐れ!」「只坐れ!」も良く聞かされた。

② 「行住坐臥禅」
 立っていても、坐っていても、寝ていても、食事のときも、便所に居ても、背筋が伸びていなければいけない。摂心中は背筋が伸びていても、終わると背筋が曲がるようでは駄目、電車に乗っても、銀行のようなところで待たされてもスッと背筋を伸ばす。長生きする人はみな背筋が伸びている。私も背がまるまっている自分に気が付くと、ハッとしてこの語を思い出し、背筋をのばす習性が身に付いてしまった。

③ 「息はゆっくり、長く、息の長い人が長生きなのです。」
 ゆっくり息をして、足のうらから出し入れするように。いつも右手でゆっくりと鼻からの息の出入りを示された。

④ 「歩く時はひざのうらに力を入れてシッカリ伸ばすこと。」
 90歳を過ぎてからの先生からのご注意である。歩行の様子も今でも脳裏に残る。先生の足音は青年の如きであった。

⑤ (私が書道を学んでいるので) 「一時間書く時間があったら、その半分は坐ってから書いてください。何か違いますよ。」
  その教えに従い、今でも10分書くなら1時間坐って書きます。逆に、坐らなければ書きません。私が人間禅教団に入団する以前は、擇木道場でよく徹宵夜坐をしてから書に取り組んでいたのは先生の教えを延長してのことである。何か違った書を求めて。

⑥ 「ドイツでの摂心会」
 各地で一週間。カソリック教徒が多い。ドイツ人は禅をやるのに一番ふさわしい民族だ。彼らは思索的民族であり、神秘主義の伝統の語「無」に相当するnichtsもある。

⑦ 「喝」
 下腹からの力のこもった喝はよく聞かされたし、又「喝」をよく揮毫してもらった。

⑧ 長屋先生の書
 草書に妙あり、力強く長年の修行できたえた書。人間禅のどなたも及ばない、現代人にはない書。

⑨ 「堂内を歩く時は人の邪魔にならぬよう静かに歩く。」
 人間禅で摂心の時でさえ静坐中ガサガサ出入りするものがいるが、先生がいらしたら即刻大喝されることだろう。

⑩ 「道徳教育はやりたいのだが教える人がいないのだ。」
 戦後文部省での授業に道徳教育復活に尽力された先生の嘆き。

⑪ 「食事は食べ過ぎないこと、私はこんなに少ない。」
 食事をしながらの閑話は楽しかった。先生の箸使いもよく覚えている。

「(私の書に対して) 如何にして文字を超えるか!? 書はまさに手が書くものではない。およそ日本の文化はすべて道の文化である筈なのだが、今日堕落して大道に徹していない。茶道然り。華道然り。『書道』も又その名称に反する。」

5.むすび
 長屋先生は若い頃より、「自由と云うものは存在するか?」を解決するために、禅にたどりつかれ、一夢庵大峽竹堂老師の独文の「禅」と云う本に出会ったのが転機となり、擇木道場へのご縁を得て、本格的禅の修行をなさった。
 長屋先生とは比べるのもおこがましいが、私も儒学の立場から、若い頃よりいだく疑問「道とは」、「明徳とは」を解決するために、長屋先生に出会い擇木道場に縁を持った。さらに、洪川和尚の「禅海一瀾」と耕雲庵立田英山老師の提唱録「禅海一瀾抄講話」と云う本が決定的転機をなし、人間禅教団での修行となった。そして、その修行の表現を書に求めた。嘗て、日曜日の静坐会のあと、先生とよく書を稽古した。そして、「如何にして文字を超えるか!?」との書と道の問題も突きつけられた。思い返せば不思議なご縁であった。


坐
長屋先生筆 「坐」
「こんな風に、ドーンと坐ってください」

寿
長屋先生筆 「寿」
長屋先生坐禅
長屋先生と筆者


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