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擇木道場

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トップ  >  2.今まで禅に縁がなかったり、避けてきた多くの方々は
 知的に全てを解釈しようとする。それ以外の重要な方法があるとは考えられない。宗教は迷信盲信の類でインテリにとってはそんなもの莫迦らしくて興味の対象ではない。(小生の大学時代の先輩や友人)

 宗教書、禅書に造詣が深く、また神社仏閣巡りが好き、あるいは禅芸術に興味がある。しかし、その本質まで深く突っ込んではいないし、突っ込もうとも思わない。教養を深くするくらいで満足している。(小生の会社の同僚や部下)

 一昨年来「千の風になって」という歌が、中高年の日本人に愛唱された。日本のみならず、世界にこの詩は共感を集めている。朝日新聞にも、人間の最大関心事は、自己の死であることは避けられない宿命であり、日常の喧噪の中に潜む、必ず死ななければならないと云う命題から逃げることは出来ないことを潜在的に感じて、この歌に惹かれていると解説している。しかし、一般的には、感傷段階に留まっており、宗助の域を抜け出ていないのが実状であろう。

 人間力という言葉を筆頭に、脳力を鍛えるとか、○○力を増強させる、とかいう書物がやたらにベストセラーになっており、サラリーマン諸氏の指向を示唆している。これ自体向上心の発露で、些かも否定することではないが、その対策と実行が枝葉末節であり且つ軽薄に留まっているのが問題であり、ほとんど効果が無く、力となっていないのが問題である。(若いサラリーマン企業戦士に多い)

 更に同じような当世風の特徴に、「チョイカル」(ちょっとした手軽なカルチャーを身につける)指向がある。日本文化にしても歴史にしても技芸道にしてもあるいは禅ブームもその一端かも知れませんが、全く知らないというのは不安であり恥と感じ、知的興味があって、ちょっとでも知って話題に入っていければそれで十分で、その道に深く入って行く気はあまり無い。あくまでデジタル的な知識の小間切れを沢山知っているが、どれ一つとして身に付いていない。だから当然、本人の持っている潜在能力が自信を裏付けにして出てくると云うことにはならない。悔いなく痛快にとはほど遠いと云わなければならない段階に留まっているのです。

 最近の若者の特徴の一つとして、束縛的な雰囲気を本能的に嫌う傾向がある。嘗てのオウム真理教のような事例は例外であり、そういうものをおそれると云うよりは、自由さが少しでも損なわれる感じがすれば、のぞき見はするが絶対に囲いの柵の中には入らない。これは若者の就職観にも反映しており、終身雇用なんてぞっとする、少々給料が低くても気ままにフリーターが良いという気質である。これがどこから来たかは諸説あろうが、無味乾燥な詰め込み偏差値教育の受験時代を肉体的にも精神的にも伸び盛りの時に、手枷足枷につながれていた経緯がトラウマになっているのも一因かもしれないと考える。

 しかし、そのトラウマを克服し乗り越えるかどうかも、その人が本物をつかみ大成するかどうかに掛かっているのである。小生の若い頃の好きな言葉に「自由とは必然性の洞察である」を思い出しますが、自分が受け身的に束縛されると感ずるか、能動的に少々の制約を物ともせず、本物をつかむんだという気概を持つかどうかである。何の束縛もないやりたい放題になっている状態が、本当の自由ではなく、自分の人生を自分で能動的にどんな難関でもそれが本物ならば突き進むと必然性を洞察できたとき、その人は真の自由人である。ここが現代の若者たちの弱点であるかもしれない。新しいタイプの宗助である。
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