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トップ  >  見性とその工夫の仕方(初めて参禅をされる方への参考資料)

初めて参禅をされる方への参考資料

――見性とその工夫の仕方――
 この資料は、禅の正脈の師家に入門し、お釈迦様が約2500年前の12月8日の暁の明星を見てつかまれた悟りと同じ絶対の切り口を悟るためのアプローチを示したものであります。
 お釈迦様の悟りは、たかだか100年くらいしか生きることの出来ない生き物である人間(ホモサピエンス)に、即、永遠の命が宿っていることの発見でありましたが、この発見は、老子、孔子、キリスト、ムハンマドがつかんだものと同じであり、ほんとうの宗教に共通する絶対の切り口であります。
 これを書いてから未だ5年しか経っていませんが、ここにかかれてある通りに工夫することによって、何人もの新到者が見性しております。あなたも三昧に徹すれば必ず見性できます。
1.公案と見性

公案とは、「公府の案牘」を省略した言葉で、官公署から出された公文書という意味で権威あるものとされる。禅では、参禅に当たって、師家から学人に与えられる参究の課題のことを公案と呼んでいる。
 現在、公案として残されているものは全て、仏祖方がその鍛錬し上げた通身是道 全身是法という如是法三昧の境涯から、ゴロゴロッと吐き出された一言半句 一機一境なのである。
 何故公案かというと、小我の私の念、すなわち私案から出たものではなく、それ自身が正念の端的であり、如是法の端的であり、公の案なのである。
 『瓦筌集』の瓦とは、門を叩いて案内を乞うところの瓦のことで、筌とは魚を捕らえる為の竹で作った籠のことである。公案は、門を叩く瓦や、魚を捕らえる籠に譬えられるように、案内を乞うて中に入ること、魚を捕らえることが目的であって、瓦や籠(筌)自体に意味があるのではない。公案は悟りに至るための道具である。悟ってみれば、瓦や籠(筌)に用はないのである。要は仏祖の道眼を自分のものにし、仏祖と同じ境涯にまで自分を高めるための方便なのである。 公案参究の最大の目的は、一に見性ということにある。見性を離れて禅の修行はあり得ないのである。
 見性とは、宗祖達磨大師が唱え出された「直指人心見性成仏」を凝縮させた語である。見性とは、仏性を見ると云うことである。「山川草木悉皆成仏」「天地と我と同根、万物と我と一体」という、これが釈尊の悟りであり、大乗仏教の根本教理である。とすれば、我々にもまた、その仏性が本来円満に具有しているはずである。それを単に知識として知るのではなく、はっきりと自分の目で見ること、これだ!と体得すること、それがこの見性である。
 入門が許されると、修行者は師家のもとに参じて公案を授かる。入門当初に授ける公案は、人間禅教団においては、六祖慧能大師の「父母未生以前に於ける、本来の面目如何?」という公案が最も多い。(あるいは趙州和尚の「無字」の公案を授ける。)これは、一切の対立を越えた絶対の世界における「本来の面目」すなわち「真実の自己は何奴か?それを持ってこい!」というのが、この公案の眼目である。禅定三昧を行じて、父母未生以前の世界に入り、そこにおける真実の自己を徹見し、それを師家の面前に呈して、師家にその見解の邪正、深浅を鑑別して貰わなければならない。そして真正であることの証明を得たら、見性成仏したしるしとして道号を授与される習わしである。
2.修行の三要諦「大信根・大疑団・大勇猛心」
 坐禅を組んで公案の工夫に入る際に、心がけなければならないことがある。すなわち、参禅弁道してゆく上において、三つの大切な修行の要諦がある。その三要諦とは、「大信根・大疑団・大勇猛心」である。
 先ず、最初の大信根とは、第一に宇宙に根元的な不滅の如是法が存在することを信ずる。第二に釈尊を初めとする歴代の祖師方は、そのような如是法に体達し、如是法に住して居られ、したがって私的な念慮から言行し云為するものではないことを信ずる。第三には、全ての人間は、ことごとく本来において、仏性を具有しているから、自分も真剣に如法に修行すれば、必ず仏祖と同じ如是法に体達し得るものであることを信ずる。この三つである。
 次に、第二の要件である大疑団であるが、古人は「疑わざるこれ病なり」と云われ、「大疑無くして大悟無し」と云われているのである。大疑というのは、本当の信というものを根底に持って、そこから発する根本的な疑いなのである。
公案というものは、どの則もそうであるが取りわけ、初則の公案は、仏祖の絶対的な悟りそのものであるから、これほど根本的なものはないのであり、日常の思考(相対的思考)では全く想像すら出来ないものである。これと取り組むということになると、公案自体が本質的に疑いの塊であるはずのものである。素直に、公案を正しく受け止め、真正面から取り組んでゆくと、疑いの塊にならざるを得ないものなのである。当に疑の塊の中に入り込むことを避けてはならないのである。このような大疑団の公案と積極的に取り組んで、一心不乱に、疑って疑って疑い抜くという真剣な努力が実践されなければ本当の禅の修行にならないのである。
 第三の要件は、大勇猛心である。この大疑団はそう簡単に容易には解決できるものではない。非常な苦心と努力が必要なのである。白隠禅師が修行の励みとした「刻苦すれば光明必ず盛大なり」の語を残した慈明和尚には、坐禅の修行中に眠気が来ると錐で自分の股を刺して眠気を取って坐禅に打ち込んだという逸話がある。また達磨大師の法を嗣がれた二祖慧可大師が、神光という名の青年時代に、燃ゆるが如き求道心をもって、達磨大師が面壁九年の坐禅三昧に入られて居られた崇山の少林寺に到り、雪中に一夜を立ち明かして、ついには自らの求道の真実をあらわすために、利刀をもってその左の臂を載断して達磨大師の面前に差し出した。達磨大師も不惜身命の神光の志を見て、法器なるものと認めて入門を許されたという。この「慧可断臂」の大勇猛心があるから、今日まで達磨の本格の禅が伝わっていることを常に憶念すべきである。

釈迦と同じ悟りを開くための仏道修行、人生の根本問題を自力で解決し生き甲斐ある人生を送るための禅の修行をやる以上は、この大勇猛心・大憤志が絶対に必要な要件なのである。「釈迦も人なり、我も人なり」と、釈迦に出来たことが同じ人間である自分に出来ないことはないと発憤し、どのような困難に遭おうとも断じて挫けず、根気強くやり抜くべきである。この猛烈なる不退転の決意と自信、大勇猛心が禅の修行をやり抜く上の原動力である。
 
3.見性のための工夫
 禅の修行において、数息観の工夫とか公案の工夫とかよく云われているが、新到の人には、この工夫すると云うことが判らない、どう工夫したらよいか判り難いので、禅門における工夫ということについて述べる。
 科学と宗教の違いは、いろいろな角度でいうことが出来るが、一つの見方・言い方として、科学は相対的な追求であり、宗教は絶対的な追求であると云い分けられる。どちらが良いとか悪いとかでは無く、異なる二つのものであり、この追求の仕方が、逆になったり混同したりしてはいけないと云うことである。
 相対的な追求は、大小、多少、長短、強弱、新旧、遠近、濃淡、老若、自他等、客観的に尺度・表現・伝達できるものである。一般的現世的ではデジタルがその象徴である。デジタルIT時代は、社会現象的において人間も含めて全ての事象を相対的にデジタルに解釈し尽くすばかりに見える。

この中で、自他の区別について考えてみると、これは戦後日本が、個人主義、個性尊重の潮流に加えて、私有財産性を中心にした金の尺度を強く持つ資本主義に染まってゆく歴史的過程が背景にあると考えられる。良きに付け悪しきに付け、自分と他人をはっきりと区別する価値観が現代の日本の世風となってきた。この思想の根源には、自己のエゴががっちりと存在しているのである。だから他との区別を峻別するということになるのである。現代ほど自己のエゴが強く顕示され、誇張される時代はないといえる。すなわち相対的思考、相対的価値観の強い時代の中に現代人はどっぷりと浸かっているのである。
 これに対して、絶対的な追求は、相対的な追求では、まったく届かないのである。相対的な思考ではまったく理解できないものである。演繹法も帰納法も哲学を含めて大きくは科学の領域であり、絶対的な宗教の領域とはまったくことなり、そういう相対的な比較尺度では、絶対的な追求は不可能である。

宗教の領域、とりわけ禅の悟りは、典型的に絶対的なものの追求なのである。したがって、禅の悟りは、悟ってみれば極めて明快であるが、これを客観的に伝えることが出来ないのである。そして禅の悟りを追求するためには、相対的な思考を先ず完全に捨てなければならない。数息観にしても、公案の参究にしても、この相対的な思考を捨てなければ進まないし深まらないのである。
 相対的な思考を捨てて絶対的なものを追求することを、「工夫する」と云うのである。すなわち、単に考えるとか思索するとかではないのである
 然からば、工夫をどのようしたらよいかというと、それは、三昧になるということを通して初めて可能になる。
 三昧になるということは人間生活のいろいろな面で極めて重要であるが、特に禅門における公案参究は、三昧にならずして一歩もすすまないと云って過言ではない。だから、入門に先立って、数息観法をしっかり修して三昧力を養成するということが当然の原則になっているのである。初則の透過がなかなか出来ない修行者の中に、公案参究に入る前の段階でウロウロしているように見えるものが多い。坐相に拘りすぎたり、参禅するのを最初からするとかしないとか決めてみたり、老師にどう思われているかを気にしたり、自分が悟りに近いとか遠いとかを考えてみたり、見性した後の気持ちを想像してみたり、全て公案参究の工夫に未だ入っていないのである。公案に取り組む以前の状態である。
 公案の透過が難しい、公案の工夫が難しいというのは、三昧にならずして世間的な追求の仕方・相対的に考え、とらまえようとしているからである。初関を透過するのに何年もかかっているのもやはり、公案を相対的に考えようとする追求の仕方にはまりこんでいるからである。現代の偏差値教育の中で教育を受け、デジタル思考に染まってしまっているインテリほど、この相対的思考から脱却して三昧になって工夫するという絶対性の追求への切り替えがなかなかできないのである。
 公案の工夫・参究、初関の透過は決して難しいことではない。公案に成りきる、公案と一体になる、公案三昧になることができれば、直ぐである。一超直入如来地とはこれをいったもので、ひとたび相対的思考を放擲し、自己を殺し尽くすとその場は即、悟りの世界であると。
 よく蒲団上で死んで来い!と師家に云われるのは、まだまだこの三昧になる工夫が、不十分で、頭の隅で相対的な解析、解釈をしているからである。頭の隅でちっぽけな自己が相対的思考を続けている状態から脱却せよ! 自己のエゴを三昧に成りきることで殺し尽くせよ!といわれているのである。
 初則だけでなく200則の全ての公案は、どの則も全て相対的には全く解釈できない捉えられないものである。三昧になって頭の素てっぺんから足のつま先まで全身全霊、公案と一体に成り切ってゆく、すなわち公案の工夫三昧に入ることなしには、祖師方がその則に吐露している絶対的切り口は見えてこないのである。
 したがって公案の工夫とは、坐禅を組み、三昧力・禅定力のついた状態において、公案を静かに念提(心の中で提起)し、それを繰り返し繰り返しして、他に余念を交えない。公案以外に何もない三昧状態に到る。徹底してその状態に浸り込んで動かないことを工夫三昧というのである。
 父母未生以前に於ける本来の面目如何? 本来の面目? 本来の面目?  本来の面目? ―――

狗子に仏性有りや また無しや? 無! 無! 無! 無! ――― 

どの公案においても、三昧になり、公案と自己が一体になることなしに、性を見ることは出来ない。すなわち、見性することは出来ない。
 禅定三昧の工夫こそが、唯一の公案透過の方途なのである。それ以外に道はないのである。公案に成りきる三昧状態の工夫によって、仏祖が徹見した悟りの境涯に近づき折に触れて、祖師方がその則に吐露している絶対的切り口がはっきりと見えてくるのである。これを見性というのである。初則から最後の200則まで一貫して見性をするのである。
 坐禅の公案参究は、難しい謎解きでもなく、沢山な知識がいる訳でもなく、難しい人間関係の解決でもなく、純一無雑に公案になり切りさえすれば、10人が10人必ず公案は透過でき見性できるのである。
 公案の工夫三昧になるための Know-how を二つ述べる。
 一つは、一日に少なくとも一回は参禅することである。生きた仏祖がそこに居られることの、恐ろしいほどの有り難さを思い起こし、全身全霊でもって室内に身を投じてゆくことが、見性の境涯にまで登りつめるのに不可欠といっても過言ではない。一人で工夫三昧になることに比べ何層倍も三昧が深まり、本当の工夫が深まるのは、御力のしからしむる処なのである。
 もう一つは、静坐の定が解かれた後、如何に工夫を継続するかが、大変大切と云うことである。古来の伝記を見ても、生活のあらゆる場面で見性され、大悟されているか、枚挙にいとまがないほどである。食事の最中も作務の最中も、作務の後もお茶の時も、便所に入っているときも寝るときも、24時間工夫出来るのが摂心会の有り難いところであり、工夫の継続無しに見性はあり得ないと云っても過言ではない。これには、摂心会の全体の雰囲気も極めて重要である。したがって役位の責任は重いのである。(旧参の者で、余裕的に摂心会中に多弁の者がいるが、厳に注意しなければならないことである。)
 
4.公案と境涯
 公案は全て、仏祖方がその鍛錬し上げた通身是道 全身是法という如是法三昧の境涯から、ゴロゴロッと吐き出された一言半句 一機一境の悟りの端的なのである。このさとりの端的は、初関の公案から200則の最後の公案まで全て、
公案工夫三昧の行を通じて自らの境涯をその公案の境涯にまで高めることにより初めて透過できるのである。
 人間形成の禅とは、公案に三昧の行で参じ、自らの境涯を、古則の中に塗り込められている仏祖方の境涯にまで高めていく修行のことである。初則もそうであるが、悟後の公案参究においても一則一則別解脱で、一つ一つの公案に成りきり、工夫三昧になることにより、一歩一歩境涯を高めてゆくにつれて道眼が開かれてゆく。これが禅による人間形成の道である。素晴らしい道が拓かれ残されているものである。

これに対して、前に見た公案の見解だとか、提唱録を読み囓ったり、師家の言葉を頼りに推論して、たとえ透過したといっても自分の実境涯を高めることには成らないのである。こういう修行を禅学と呼び、修行者の鬼門としているのである。

骨折りが大切であるとよく云われるが、小さい殻の中に閉じこもっている境涯を、公案を目標にして打破して、より大きなより高い境涯へと人間形成してゆくときに、骨折りということは避けて通れないものである。骨折りが大きければ大きいほど飛躍が大きいものである。

骨を折るということは、工夫三昧に努め工夫三昧に徹することである。

骨折りを惜しんではいけない、避けてはいけない。皆それぞれに立派な素質を持っている。しかし幾ら素質があるからと云っても、この人には見えない骨折りがなければ、玉は光り出さないのである。この骨折りが、見性悟道の王道(正しい道)であり、これ以外にないのである。
5.終わりに
 禅の悟り、見性は、言葉で表されるものではありません。

この言葉・言語・科学を超えるものは、茶道などの技芸道や、剣道などの武道と軌を一にする「人間形成の道」であり、人類の素晴らしい精神文化の究極であります。

この見性の境地は、技芸道や武道を深め奥義を究める為に有効であり、技芸道、武道の修練は、見性・悟道をより高く精彩を付けることに効果があります。その共通項は、深い三昧であります。         合掌 丸川春潭 拝

 

平成16年8月4日

改訂平成20年5月31日

 再改訂平成21年1月23日
 

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