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擇木道場

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擇木ブログ - 最新エントリー

風印です。

622日~29日まで当道場で開催された摂心会(せっしんえ)に参加しました。

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摂心会というのは禅の修行の期間で、通常1週間行います。摂心会中は道場に詰め切りで修行をするのが原則ですが、仕事などで止むを得ず外出する時は直日(じきじつ:禅堂の責任者)の許可を得る必要があります。参加者同士の会話は出来るだけ控えて、座禅や作務(さむ:主に掃除ですが、座禅の三昧を動作の中に活かすための修行)を行い、禅の指導者である師家に参禅(公案を用いて禅問答によって境地を開く臨済禅の修行)することも出来ます。

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作務では箒や雑巾を用いて掃除をしたり、草むしりをしたりします。陽射しが強く、気温が高かったので大変でしたが、普段スマホを見たりして過ごすことが多いので、いつもより健康的に過ごせた気がします。食事の前後には「食前(じきぜん)の文(もん)」「食畢(じきひつ)の偈(げ)」を一同で唱和し、静かによく噛んで食物を味わって頂きます。食べ終わったら茶碗にお茶を注いでもらい、沢庵漬けを用いて食器を洗い、布で拭き取ります。最終日の29日には懇親会にも参加し、楽しい時を過ごすことが出来ました。
 

今回、摂心会中の623日に行われた講演会、「チェンジ ユー! ~ 禅は君を変える ~」に参加しました。
 

「自分を変える」とはどのようなことなのでしょうか?

私自身に鑑みると、人間関係を良くしたい、もっと社交的になりたい、どうせなら給料もたくさん貰いたい、などなど様々な欲求があるように思います。

以下、講演会の内容をまとめてみました。
 

禅の見地から考えてみると、自分と他人との関係性(構え)を変えることが、「自分を変える」ことになります。例えば、ある人を「嫌な人だなぁ」などと感じることもありますが、「嫌な人」というのはあくまで自分の捉え方の問題であり、正しくは「私が嫌だと思った人」であって、ありのままに見れば、「嫌な人」そのものは実は存在しないのです。

私たちは、分別心、即ち自我に囚われ感情に流されて、ありのままを見ることが出来ない不安定な状態に陥りがちです。私たちの苦しみはそこから生じているのではないでしょうか。例えば、他人を見て自分より背が高いと羨んだり、逆に背が低いと下に見るような人は、自分に何かしらの劣等感を持っていて、自分自身を受け入れられないために他人を受け入れられないのです。風が吹くと湖面が乱れる様に外界の刺激や情報に心乱されるのは、自分が受け身の姿勢であるために、自分の人生を生きていないと言えます。
 

では、受け身の姿勢を変えて、主体的に自分の人生を生きるにはどうすれば良いのでしょうか?

臨済禅では、数息観といって自分の呼吸を数えながらする座禅を行います。呼吸で自分の心を鎮めることで、心が騒つかずに私自身を感じられ、主体的に自分の人生を生きられるようになるのです。座禅をして自分自身を見つめ、自分が充ちた状態、即ちマインドフルな状態になることが出来れば、自分で自分をコントロール出来るようになり、外界の刺激や情報に心乱されることなく、自分が揺れなくなります。自分や他人に×を付けて否定するのではなく、ありのままに受け入れることが出来れば、○を付けて尊重することが出来るようになります。数息観によって自律神経が整い、交感神経と不交感神経のバランスが取れます。自分に○をつけることができれば、他を尊重することができるようになるので、共感力が上がり、思いやりのある「善い人」になるのです。

ちなみに「善い人」とは、ブッダがなぜ出家したのかと弟子に聞かれ、善い人になりたかったと答えたこと、ハーバート大学の呼吸の研究で5つの効能を指摘しており、その最後に「良い人になる」と指摘していることを踏まえています。
 

私たちの目に見えているのは、大きな生命の中から縁起によって現れ出た現象であり、氷山の一角に過ぎません。自分を形成している全体は見ることができないものです。それは因果全体を指しますが、因果は縁起によって生じ、また自分自身も世界全体の因縁の一原因として生きているのです。このように因縁が充満した状態が「空」であり、「空」があるからこそ私たちが存在するのです。一即一切・一切即一と言いますが、そこには過去も未来も無く、一切が平等です。

座禅によって空を体得出来れば、そこから自他不二の観念が生まれ、慈悲が生まれます。色即是空はあらゆるものの本質は空であり、そこでは一切は平等であると説きます。対して、空即是色は平等な生命の中から縁起によって現れ出てきたものには区別があると説きます。智慧をもって区別を知るからこそ慈悲の念が生じ、他者に対して自然とアクションを起こし、態度と生き方が自ずから変わるのです。行動につながるものが智慧であると大乗仏教は説き、その生き方を菩薩道と言います。

大いなる生命の中から因縁の果てに出てきた身体に×を付けることはないのです。私はこのような因縁で生まれてきたという宿命を受け容れ、自分を分別せずに受け止め切ることが出来れば、次の行動、即ち菩薩道に繋がります。本当に苦しんでいる人こそ、慈悲の念を持てるのです。今仏教講座で講じている『維摩経』では現象である苦楽の価値は本来同格、煩悩即涅槃であると説き、だからこそ苦しんでいる人はその苦ゆえに他への慈悲が生じ、行動となって利他を行ずることができるので菩薩道が生じると説きます。
 

私たちは、自分や他者を判断し、分別しているから受け入れられないのです。悩みに悩んで自分を非難しても構いません。それでも逃げずに自分を受け入れ切れれば、どうすれば良いかが見えてきます。ありのままを受け入れれば、そこには肯定しかないのです。
 

数息観は自分の心に湧き出てくるものを裁かない呼吸法です。何も頼らずに呼吸だけを見つめ、マインドフルな状態を持続して正念相続できれば、自立性、主体性が生まれてきます。自分一杯に成り切ったからこその無私であり、色を乗り越え、何かに依存することなく独りで立てることが本当の自己救済です。執着を離れた先にある空の中で苦楽を区別せずに自分という現象を受け入れるのです。どんな大きな風が吹いても自分自身の足で立ち、自分を大肯定した上で自然と出てくる行動が慈悲なのです。

空から智慧、慈悲が生じ、行動として現れるのが菩薩道です。自分を他者のために育てる誓願を自ら起こすことによって、共に菩薩道を歩んで行こうではありませんか。-----
 

私のメモではこのような感じでしたが、空の概念はとても難解であり、私自身理解出来ていないところが多々あります。また、私は相変わらず外界の刺激に心乱されて菩薩道にはほど遠いです。それでも、座禅や仏教を学ぶようになってから、自他の分別に苦しむことは少なくなってきたように思います。
 

生きていれば心が乱れ騒つくこともあるでしょう。そんな時は是非当道場にお出でになって、一緒に座禅をしませんか?

「チェンジ ユー」、あなたを変える、自分を変えることが出来るのは、あなただけなのですから。

合掌 風印 拝
 

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チェンジ ユー(その1)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/6 13:41

チェンジ ユー(その1

丸川春潭

 

 623日に東京支部摂心会における講演会があり、慧日庵笠倉玉渓老禅子が「チェンジ ユー」のタイトルで講演されました。新到者に判りやすく禅の深いところまでを説きそして感銘を与える良い講演でありました。その後小生はこのタイトルで考えるところがあり、全然別の角度からの話をしたいと思いブログを書き始めました。

自分を変えたい!このままの自分では満足できない。その内実はいろいろなニュアンスの違いがありますが、こういう気持ちを持つ若者が多いと言うことを聞きました。自分を変えたいなどと云う気持ちを持つと云うことは人間しか持ち得ない極めて人間らしい気持ちであると思います。

仕事でも事業でもそうですが、現状肯定の場合は新しい展開も飛躍も望めません。今朝のネットのニュースに、トヨタの社長がこの10年間で最高の収益を上げながら、100年に一回の大改革を大々的に打ち出していました。こういう会社は必ず伸び続けると思います。現状を否定するところから将来の目標が明確に出てくるし、現状に対する不満とか危機感が現状打開のドライビングフォースになるのです。

ただ、自分を変えたいという人の内実を踏み込んでいろいろ調べてみると、ほとんどが皮相的で、人それぞれの好みのようなもので、客観的には別に変わらなくても良いのではと思えるようなことを本人は変えたいと思っている場合が多いようです。そういうものはちょっとしたきっかけで気分が変わってどうでも良くなったり、逆に変わる必要が無いことに気づいたりするのです。

数年前まで自分探しと云う言葉が流行りましたが、チェンジ!と出てくる心情は大体同じところからと思います。そしてこちらの方も、それに対する思い詰めも含めて、皮相的な場合が多かったように思います。

しかしわずかな人においては、自分の現状に不満で今の自分を本気で変えたいと思い、いろいろな娯楽とか趣味とか仕事とか恋愛とか結婚とかでは自分探しもチェンジしたい欲求も紛らわすことができず、思い続けている人がいつの時代でもいるものです。自分の現状に満足できない、しかも表面的なところでごまかすようなことをしても納得できないのですが、得てしてこういう人はどう変わりたいかが明確にわからないものです。まさに自分探しと似ているところです。

皆さん!もう少し本気でどう変わりたいのかを、あるいは自分探しをもう少し深く掘り下げてみませんか?

そういう人が出てきた時にどうお話ししどう対応するか、小生なりの見解を次回に申うさせていただきます。(つづく)
 


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 東京荻窪支部の英風です。
 
 今年6月23日の慧日庵玉渓禅子による「第3期仏教講座 維摩経第7回」を受講していたところ、確か翌日、M禅子から「昨日の仏教講座のこと、擇木道場のブログに書いてくれない?」と頼まれました。
 経緯はわかりませんでしたが、私自身、この回の仏教講座の内容については、勇気づけられること大であり、自分自身何らかの形でブログに書きたいなと思っていたので、快諾させていただきました。
 
 維摩経の仏教講座も、七回目ということで、「香積品仏品第十」が扱われました。
 この部分のテーマは、「この娑婆世界とそこではたらく菩薩の意味と菩薩であるための心得など」です。
 
 禅修行の目的は、衆生済度ですから、私たちは、「自未得度先度他」の精神の下、己のことはさておいても、どうやったら他の人の幸福を実現できるか悩み、反省しながら、短者は短法身とはいえ、他の人の幸福を実現する活動に日々邁進しているところです。
 今回の仏教講座では、その実践の上で、大切だと思われる心得に触れられたことが、私にとって、とても意義深いことでした。
 
「衆生のためにはあらゆる利益になることをするが、果報を望まないこと」(レジュメ12頁)
 
 利他行為をするに当たっては、この“果報を望まないこと”ということが、まず大切だと思っています。
 人間禅は在家禅であり、日々の仕事をするなかで、利他行為をはしてはいるのですが、それは、「売上」「報酬」「給与」等の対価に結び付いたものであり、それを期待しながらやってしまうきらいがありますから、そのことに問題意識を持たねばならないところです。
 「売上」「報酬」「給与」等の対価を期待する限り、私たちの心は現在の行為を離れ、不確実な将来にある結果の有無に一喜一憂し、自己を離れた存在である他者に自己を委ねざるを得なくなります。
 本当に自由自在、独立独歩で生きるためにも、「果報を望まない」ことはとても大切なのではないかと思っています。
 
 釈宗演老師も
“徳行とは即ち善い行いで換言すれば解脱の道である。(略)
 宗教的善行は隠徳に属するものであって、報酬を求むる心の無い善行が隠徳である。然るに人の情として、小善も広く伝わらんことを希い、大悪も人に知られざらんことを望むの弱点がある。(略)
 左手に善事を行うて右手に知らしむる勿れと云う箴言もある位で、隠れたる善行は絶対的に善行である。右手に与えて左手に受けんとする相対的善行を卑しむべきものである。”
(釈宗演『最後の一喝』129~130頁)
と仰るところです。
 
 しかし、このような「果報を望まない利他行為」などは、非現実的なものだと思う人もいるかもしれません。 
 なぜなら、私たちが実際に生きている世界が弱肉強食の競争社会であることも明白な真実だからです。
 禅堂の中では、座禅をして心の波立ちを押さえ、分別はよくない、謙虚でなければならないと口では言っていても、禅堂から一歩出れば、他人を蹴落とし、自分や家族の食いぶちを確保することに窮々としているのが、私たち一人一人の“真実の姿”なのではないでしょうか。
 そのような私たちの“我他彼此根性の塊である真実の姿”からすると、果報なしに、利他行為をするなど述べることは、私たちの“真実の姿”から目を背けた不遜なことではないかとも思われます。
 
 私は、今回の仏教講座を聞いて、維摩経には、この点に対する答えも書いてあるのではないかと思われました。
 維摩経では、「菩薩がなすべき十法」というものが語られているそうです。
 
「布施をすることで、貧乏な者を導きます。
 戒を守ることで、戒を破る者を導きます。
 常に耐え忍ぶことで、怒りを懐くものを導きます。
 精進することで、怠ける者を導きます。
 禅定に入ることで、心を乱す者を導きます。(後略)」(レジュメ11頁)
 
 慧日庵老禅子は、この十法について
 
「菩薩は衆生にこのように接しなさい、という方向だけでなく、菩薩道を歩むものはすべからくこの行為によって自らが救済されるのだという方向も押さえておかねばなりません。
 未熟であろうとも菩薩道を歩み始めたものは、この善法をよすがにするべきですし、これによって救済が成就されます。逆に読めばわかります。」(同12頁)
 
と指摘された上で 
 
「貧困にあっても布施を積む
 戒を破る存在だからこそ戒を積む
 憎悪を抱くときは忍辱を積む
 怠惰であるからこそ精進を積む
 心が散乱するからこそ禅定を積む……」(同12頁)
 
と解説をなさいました。
 
 ここでレジュメから離れておっしゃっていたこととして印象に残った内容は、大乗仏教における戒についてのことでした。
 
「戒は禁止事項ではなくて、禁止できないことを前提とする。
 たとえば、不殺生戒についても、日常生活で徹底することできない。
 戒は、できない自分を省みるためのもの。
 できないとして、ではどうするか?を考えて実践するのが大乗仏教」
 
との趣旨のお話でした。
 
 私たちは、実社会生活の中では、他人を蹴落として生きる至らない存在であるからこそ、どこかで埋め合わせをしなければならない。
 人格的に優れているから、利他行為をするのではなくて、人格的に至らないからこそ、利他行為をしなければならないということなのではないか、と捉えました。
 
 利他の精神が端的な思いとして自然と現れるのが本来的なものだとは思います。
 しかし、なかなかこのような境涯までは至らないでしょう。
 おそらく、私たちの多くは、このような境涯に至る前に死ぬのです。
 至らないとして、「できないとして」、どうやったら利他行為に邁進していけるのかの気持ちの整理としては、このような考え方でもよいのかなと思っています。
 
 こう考えると、利他行為の実践といっても、理想の高い遠いものではなくて、身の丈にあった身近なものに感じ取れるような気がするのです。
 
 利他行為に邁進する元気の出るよいお話で、次回の講座も楽しみです。
 
 ちなみに、今回、聴講者に配布されたレジュメはオールカラーでした。
 擇木道場のコピー機でカラー印刷すると費用がかさむことから、これまで白黒印刷だったようなのですが、R前支部長がカラー印刷をした場合の費用が擇木道場でカラーコピーするよりも安くなる印刷業者を見つけてくれたそうでして、低価格でカラー印刷が実現したとのことでした。
 これまでも慧日庵老禅子の手持ち資料としてはカラーのものがあったようなのですが、私たちも、カラーの美しい資料を手にすることができ、講座終了後、G禅子が「『空』の泡の図が新しくなりましたね!」との感動の声を挙げたのに対し、速攻で、慧日庵老禅子の「変わってないから、今まで白黒だったのがカラーになっただけだから」とのツッコミが返されるほほえましいやり取りもあったところです。
 カラーの資料というだけでも気持ちが変わるところもありますから、これを安くできる手段があるということもご参考までに。
 
合掌 英風 拝
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「道眼(胆識)を付けるには」(その5

丸川春潭

 

臨済宗の公案修行は古来から途中でやめるくらいなら最初からやらない方が良いと言い伝えられています。理由はいくつかあるのですが、臨済宗の公案修行は頂上を極めるのに最短距離で真っ直に急勾配に登るのではなく、ジグザグに大きく左右に振りながら急勾配を避けて登らせているので、途中での中断は真上の頂上が視野から外れたところで止まってしまうことにもなります。またもう一つは、頂上まで上がり切らないと四方の眺望ができないのですが、得てして途中でやめた人間ほど自分の通ってきた路だけがこの山の全貌だと思い込みやすく、自分の外れた見地からや部分的な見方であることが判らず、他にその偏見を拡声してしまい大いに世間に誤解をまき散らすことになります。ということで、途中で止めるくらいなら初めからやらせない方が良いと昔から云われてきているのでしょう。

ただ小生は今の時代はもう少し柔軟であっても良いのではと考えております。多様性の時代であり、人間形成の禅もワンパターンでなくて多様な価値観の中で禅が多様な文化とコラボレーションするのは当然の流れであり、見性入理の初関の透過だけで例え終わったとしても、そこまででもその人の素晴らしい個性を引き出し、その人のこれからの思想・行動に精彩を加えるのは間違いないと確信しています。勿論うたた登ればうたた高く、うたた入ればうたた深い東洋的無が臨済禅(公案修行)によって拓かれてゆき、その淵源を極めることは人間として生まれてきた特権だとは思いますが、何が何でもそこまで行かなければ全面否定的なかっての伝法のための伝法の禅の呪縛から、現代の実社会に浸透する臨済禅(公案修行)を解放して行くべきと思っています。

前置きが長くなりましたが、前回は見性入理についてお話ししましたので、今回は更に進んだ公案の修行(後悟の修行)について簡単に触れておきます。

次の段階は見性悟道でありこの代表的な公案が、五蘊皆空という則(人間禅の瓦筌集142則)です。この則では、見性入理では想像もできない細やかな人間の精神構造が明められ、その五つの蘊の性格を明確に認識するとともに五蘊の一つずつの空じ方を師家に参じて会得してゆきます。これはインドから中国へそして日本へ伝えられた仏教の素晴らしい重要な法財の一つです。これを日々の座禅行によって毎日毎時毎分毎秒において蘊を空じて行く、すなわち五蘊皆空の修練をするのです。これを見性悟道といいます。

更にその先も公案修行はいよいよ佳境に入ってゆきます。登山で例えれば七合目あたりから頂上まで、臨済宗のみならず曹洞宗の法財も含めて人類の最高の精神文化の凝縮としての公案(祖師方が工夫し残された1500年間の公案)が瓦筌集の中に収納されており、これを師家の指導の下に一則一則明めてゆく見性悟道から見性了了底の修行になるのです。 

見性入理、見性悟道、見性了了と臨済禅の修行階梯は明確であり、その登る高さにつれての眺望の素晴らしさがあり、志の高いインテリゲンチャには格好の人材開発ツールであります。

歴史的にも鎌倉時代から武家のしかも為政者層に支持され継承されてきた日本の臨済禅の特徴である公案修行が現代に生き生きと伝わっているのです。新しい時代の担い手の、一人でも多くの人のバックボーンになり見識(胆識・道眼)になることを願って、この拙いブログ「道眼(胆識)を付けるには」シリーズを終わります。(おわり)
 

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「道眼(胆識)を付けるには」(その4

丸川春潭

 

公案修行は修行系の最たるものであり、余程の覚悟がなければ入門を許さないというのが、伝統的な臨済宗のやり方です。すなわち庭詰め(注1)とか旦過詰め(注2)という入門を安易に許さない伝統的な儀式が現代でも臨済宗のお寺では残っています。江戸時代には本当に命がけという覚悟を見定めるまでは入門を許さないというのが常識であったのでしょう。このルーツは達磨大師に対する二祖慧可の断臂に由来しているのは当然です。現代の在家禅(人間禅)では入門(参禅修行を始めること)のハードルは下げていますが、実際に公案修行が始まれば人情涓滴を施さずで、公案修行はいつの時代でも厳しいもので厳しくなければ公案修行にならないのです。

公案修行はこれで自分を変える修行(ちっぽけな自我を大仏のような大きな自我に変える修行)ですから、当然「楽行」ではなく「苦行」になります。公案修行が楽な時は成長していないと考えた方が良いし、公案に詰まり打開するのに苦しいときこそ人間形成の飛躍する好機であると勇猛心をかき立てたら良いのです。(楽しいことを期待し、癒やしを求めて来られたのなら、公案修行の前の段階に戻ってしっかり数息観を修されるのがいいでしょう。)公案に詰まり二進も三進も行かなくなるのが修行の真骨頂であり醍醐味なのであります。公案が詰まると云うことは、そこに自分の弱点があると云うことです。弱点は百人百用でありしたがって詰まる公案も人によって当然異なります。まさに公案は個々人に焦点を当ててその人の人となりを照らし出してくれる鏡になるのです。

公案に詰まり苦しいときが当に飛躍の秋であります。したがってそういうときの対処法は、公案さえ通れば良いというような卑しいやり方ではなく、オーソドックスに真正面に公案を据えて全身全霊で取り組むことが大切です。古来から師家に参ずることを炉鞴に身を投ずると言います。そこで千鍛百錬するのです。

公案に詰まった苦しさを乗り越える王道は修行の原点に返ること、すなわち三昧を深めるしかありません。三昧が深まり公案に込められた三昧の深さに到ればがく然として今までの壁が崩壊し全てが展望できる見地に自然に到るものです。そしてちっぽけな自分の殻が破られた時に心から快哉を叫び、法喜禅悦に浸ることができるのです。こういう修行の楽しみは世間の楽しみとは全然違う自分を深くうけがい納得できる喜びなのです。(つづく)

(注1)庭詰:禅寺で入門をお願いする儀式で、玄関で頭を下げたまま何時間でもお願いし続けなければ中に入れてもらえない。

(注2)旦過詰:中に入れてもらってもひたすら一人で座り続けるだけを一週間続けないと相手にしてくれない。

 

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擇木道場の風印です。

613日~620日に行われた、「プラユキ・ナラテボー師とともに タイ・スカトー寺院瞑想合宿の旅」に参加しました。

今回はツアー形式の合宿に参加させて頂きましたが、スカトー寺に行きたい場合には、勝手に押しかけると大変ご迷惑になりますので、必ず良き縁ネット(https://blog.goo.ne.jp/yokienn)を通して、プラユキ師のご了承を頂いてから行くようにして下さい。

また、プラユキ師は日本で活動されていることも多く、いつもスカトー寺にいらっしゃる訳ではありませんので、その点ご了承下さい。

スカトー寺は、途中で見かけたカラフルなお寺と異なり、修行の場に相応しい渋い色彩の外観が印象的でした。

タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

 今回のツアーでは、割り当てられた小屋に他の参加者の方と2名で寝泊まりさせて頂きました。

タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

 プラユキ師は、お寺で最も古く、見窄らしい小屋に寝泊まりされているそうで、新人僧侶が都会に比べるととても不便で、虫も入ってくる小屋の生活に嫌気がさしたときに、ご自分の小屋を見せられて、「ここよりはマシだろう」と励まされるそうです。

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 お寺の敷地はとても広く、橋の架かった池もあります。

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私は散歩しているうちに敷地外に出てしまい、迷いそうになりましたが、お寺の犬がいて道案内してくれているように感じ、無事お寺に戻ることが出来ました。

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お寺には犬、鶏、リスなど様々な動物がいて、虫も日常生活に当然のように割り込んでくるため、人間も自然の一部なのだと強く感じました。他の生き物を排除するのが当たり前の都会では味わえない感覚です。

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スカトー寺では、朝4時から本堂の2階で朝の読経があります。読経の始まりを告げる鐘の音は、日本で良く耳にする音と異なり、重低音でとても迫力のある音でした。

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夕べの読経

読経は「パーリ語-タイ語、パーリ語-タイ語と交互にお経を唱えていく」(注1)そうです。カタカナの読みと翻訳を書いた冊子をお借りして、僧侶に合わせて読経します。読経の後に説法がありますが、タイ語での説法のため、内容は分かりませんでした。説法の内容については、「浦崎雅代のタイの空(Faa)に見守られて」というブログで日本語に翻訳して下さっています。

530分から僧侶の後ろに参加者が一列に並んで農村に托鉢に行きます。

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タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

僧侶が通り掛かると村人が食べ物を持って出てきて下さるので、僧侶がそれを受け取ります。全て受け取った後は僧侶が村人の前に横一列に並び、参加者は僧侶の後ろに屈んで合掌し、僧侶がお経を唱えます。

托鉢が終わった後に、村人が何の屈託もなく心からの笑顔を浮かべられているように感じ、お布施とはこういう事かと心打たれました。

托鉢中、野良犬が吠え掛かって来ることもありましたが、托鉢に同行してきたお寺の犬が、野良犬を牽制して僧侶に吠え掛かるのを止めていました。僧侶を守っている様に思えました。

托鉢の後、7時半から食事になります。食事を取るお堂に集合し、食前の読経と説法を聞いた後、托鉢で頂いたものやお寺で用意した食物を、お皿にバイキング形式で盛り付けます。

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托鉢で頂いたもの

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食事は朝食のみになりますが、11食となっているのは、何回も托鉢をすると村人の負担になることや、瞑想などの時間を多くとるためとプラユキ師が仰っていました。私は食事を山盛りに取りましたが、とても美味しかったです。

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今回のツアーでは9時からプラユキ師の法話をお聞きしました。前述のようにプラユキ師がいらっしゃらない事もあります。

法話の後、参加者は自由に過ごして良いとのことでしたので、私はお寺の敷地内を散歩したり、瞑想をして過ごしました。お寺の敷地内には長い石が置いてあり、その上を歩いて歩行瞑想をします。

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 その他、本堂の1階で歩行瞑想をすることも出来ますし、歩ける広さがあればどこでも瞑想できます。

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 お寺の敷地内には、手動瞑想のやり方を示した仏像があり、私は歩行瞑想の後、本堂で手動瞑想をしました。

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18時から夕べの読経と説法があり、今回のツアーでは19時過ぎからプラユキ師と参加者全員で一日の振り返りをしました。

その後は自由時間ですが、私は次の日に備えて21時くらいに就寝しました。スカトー寺での最後の夜には、参加者数人で満月を見に行きました。

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②に続く

合掌 風印 拝

1 プラユキ・ナラテボー『「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語』,株式会社佼成出版社,2009830日,P.67

タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3


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「道眼(胆識)を付けるには」(その3

丸川春潭

 

 見性という言葉は6世紀に達磨大師が「直指人心見性成仏」と言う言葉を残されたのがはじめてと言われています。見性入理とは初則の公案を手がかりにオンリーワンな存在である自分に絶対の自己(永遠の命・普遍的な命・本当の自分)が不二一如に備わっていることを徹見することであります。悟りは境地であり見性は紛れもなくはっきりしているのですが、言葉で表現することはこの程度が限界です。そして人によってはズバリと徹底した見性をする人からじわじわと見性する人とか百人百様であり、長い目で見るとどちらが良いとか云々することではありません。

 この初則による見性は色即是空をさとることであり、これだけに限って云えば生命科学者の柳沢桂子氏も長年の闘病の中で独自に見性されています。また一流のアスリートあるいは秀でた芸術家で禅師に師事することなく独自に見性しているなと思われる方は結構おられます。それらの人は独自の方法で三昧に入り見性されており色即是空を悟られているのですが、空即是色まで見性しているなと思われる人は希有であります。すなわち臨済宗の師家の下でないと見性入理も完成し得ないと思います。ましてや見性悟道・見性了了の境涯へはどうしても臨済宗の公案と明眼の師家に長年師事するということがなければ不可能です。

 最後に見性した後の大切なことを申しておきます。見性し道号を授与された一年くらいの期間が公案修行で最も危ない時期です。参禅した室内で師家が初関透過を許したときは紛れもなく三昧に入り前頭葉で悟っているのですが、摂心会が終わって家に帰って日常生活に戻った日から三昧は急激に落ちて行き、前頭葉で悟った本来の面目の感性の境地はみるみる薄れてしまい、それは頭頂葉の知性の記憶に移行してしまいます。そうすると見性の感激も納得も夢から覚めたように消えて行き、取り戻し再現することは大変難しくなります。下手をすると公案修行がつまらなく思えて人間形成の修行を継続するモチベーションも下がる危機となります。またそこまで行かない人においても、数ヶ月後の次の摂心会が始まっても前の摂心会の見性直前の三昧の境地までなかなか戻りにくいということになり、次に師家から授与された公案に大変苦労することになります。こうなる理由は公案修行に入る前の道力(胆力)が未だ貧弱であるということが第一原因であり、第二原因としては摂心会後の生活の中での一日一炷香が精彩を欠いていることです。こういう場合は見性した三昧の境地を長くキープできないのです。

 私は見性したときにまた道号を授与したときに、一日一炷香で本来の面目(注1)を毎日呼び起こすようにと強く指導しているのですが、なかなか難しいようです。

 擇木道場ではこれを埋める一つの施策として、入門から道号授与一年未満の人を対象に「初関会」を開催しています。兎に角見性直後こそしっかり座れ!と申し上げたいのです。(つづく)

(注1)人間禅の公案集『瓦筌集』第一則「本来面目」:父母未生以前における本来の面目如何?」

 
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丸川春潭


 公案修行は、公案の数を多く見るのが目的ではなく、公案を手がかりにしてちっぽけな自分という殻を破り、自意識などで濁った眼の鱗を落とすための修行です。


公案というものは全て非常識なもので頭頂葉(知性)では理解しがたいものです。この公案に対する真正の見解は知識の引き出しをいくらかき回してもそこにはありません。公案に込められた宗旨や境涯に公案三昧になって近づいてゆき、公案と一体になれば自然と見解は見えてくるものです。これは全て絶対樹の場で行われることであり公案の宗旨も境涯も前頭葉(感性)で悟るのです。世に「公案解答集」の類いが出回っておりますが、何らかの手段で公案の見解を外からの情報で知り得たとしても知識が増えただけであり相対樹は充実しますが、そんなものでは人間形成は一歩も進みません。公案修行は公案に対する見解を知性で言い当てようとするのではなく、公案に込められた祖師方の深く高い境涯に感性として迫ってゆき、その境涯に自分の境涯を高め近づけることに意味があるのです。実はまたそれが取りも直さず公案透過の秘訣というか王道なのです。公案修行は公案透過が目的ではなく、どう公案を透過するかの過程(プロセス)が大切であり、このプロセスを真摯に修行することで人間形成が進むのです。すなわちこの公案透過のプロセスにおいて前頭葉が活性になり道眼(胆識)が開かれるのです。師家はその邪正を判別するだけでそれを悟るのはこのプロセスの中で本人自身が前頭葉を活性にして悟るのです。


 道眼を開くとは初関を透過することを指し、道眼を磨くとは後悟の公案修行によって差別の妙所を一つ一つ明らかに掴んでいくことを指しております。そしてまた公案修行の全貌を見性入理・見性悟道・見性了々とも云っております。


臨済禅の世界宗教界に冠たるところは見性入理だけに留まらないで更にその後の見性悟道・見性了々まで、人間形成を完成させる行程が完備していることです。 


その全貌を申し上げるにはブログででは紙数が足りませんが(拙著『人づくり肚づくりと禅』に少しは掲載しています)、最初の見性入理についてもう少し次のブログで説明いたします。(つづく)

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6月17日 早朝座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/18 2:54

6月17日 早朝座禅会

 

初めて参加 5名(坐禅体験3名、記者、撮影者が各1名)

リピータ  0名

会員    6名

 

毎日やっている早朝座禅会に関して、サンケイリビング新聞社の取材を受けた。City livingは会社に配達される情報紙で、特集に朝の座禅を取り上げたとのこと。記者1、撮影1、座禅体験3名が道場を訪れた。全員30代の仕事をしている女性で、全員が揃ったのは5:55だった。座禅のやり方を15分説明して、6:15から6:50まで坐った。終了後は居士寮でハブ茶と菓子をふるまい、質疑に回答して取材を受けて以下のようなことを話した。

「数息観」は数字を思い浮かべて数えるのではなく、意識を呼吸に集中して呼吸していることを観察しながら、心の中でそれを数える。数字を思い浮かべるのではなく呼吸に集中する。自分は今、ここに在るのであって、昨日や明日には居ない。今、ここにある自分を観ることにより三昧力(集中力)が養われる。三昧力が養われると明日の不安を悩んだり、昨日の失敗を後悔することはなくなる。もし、不安が有ればその基を今、ここで確認して対処するので失敗はなくなる。その結果、行動力、判断力が増強され、仕事のパフォーマンスが向上する。それは人間力の向上につながる。

擇木道場は社会人が座禅の修行によって培われた人間力を社会で発揮できる自分になるための修行道場です。入門している我々は、老師の指導のもとで、生涯を通じて人間らしい人間になることを目指して毎日の生活に座禅を取り入れて実践している。具体的には、摂心会という一週間の修行期間もあります。

坐っていると色々なことを思い浮かべる。祖母のことが浮かんできた。どうすれば無くせる?

今やっている「数息観」以外は全て雑念です。雑念に気付いたら意識を呼吸に戻せばひとりでに消えます。雑念を無くそうと努力するのは、かえって雑念が渦巻いてしまう。雑念が湧いてしまう自分を否定したり、批判するのはいけない。呼吸とともに雑念を流すようにします。

どのくらいやれば、できるようになりますか?

数ケ月、毎日やっていると「数息観」のやり方、コツのようなものは掴めます。私も座禅を始めたころは腰が痛くなって困った。背筋をのばしたために腰椎が前に出過ぎたことが原因と思われたので、臍を少し後ろに引いて坐ったり、腰当ての形状や、厚さを工夫して落ち着いた。

6/23の「チェンジ ユ―」講演会と擇木道場のチラシを渡した。講演会は「座禅に関する初期の疑問について、座禅の目的や効果について判りやすく説明され、実習があります」と案内した。今週の土曜日から来週の土曜日までやっています。都合のよい時間帯に参加できるので、興味が有りましたら参加してみてください、と案内した。龍泉
 

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丸川春潭


我々の禅は、人間形成を目的とした禅であります。したがって「本当の自分探し」とは云いますが、いわゆる宗教ではありません。すなわち葬式とか法事とかしかやらず人間形成の面が抜けている現代の宗教とは一線を画したいという思いで人間形成の禅は宗教ではないと云っています。


人間形成は知性のジャンル(相対樹)ではなく感性のジャンル(絶対樹)の充実にあります。そして人間形成を進める両輪として道力を付ける車と道眼を磨く車があります。道眼を開き磨く車の推進はお釈迦様の悟りを追体験しお釈迦様をはじめとした仏祖方の境涯に近づくことです。


お釈迦様の悟りを追体験(見性)し、それを身に付ける手段として最適な方法が臨済宗の公案修行です。世に癒やし系から修行系からいろいろの修養法がありますが、お釈迦様の悟りを直に掴ませることを中心に持っているのは、臨済系の伝法の印可があるところ(僧伽)だけです。


お釈迦様の悟りを追体験することができると云うことは大変なことです。すわちこんな素晴らしいというか凄いことが現代で可能なことはまさに驚きです。


臨済宗の公案修行をする場合に気をつけなければならない点があります。それは特に現代のインテリゲンチャが陥りやすいのですが、ともすれば知性のジャンルである相対樹に居たままで公案修行をしてしまい勝ちです。人間形成は知性知識が増えるのを目指するものではなく、したがって禅学をいくらしても人間はできません。公案修行は絶対樹の場での修行です。そのためには相対樹から絶対樹に移らなければ公案修行はできません。この相対樹から絶対樹に移る力が道力であり道力の基盤の上に公案修行が成り立っています。したがって道力が付いて来なければ公案修行は途中で涸れてしまい、人間形成は深まらずそしてこの修行は続かないということになります。


逆にぼつぼつでも道力を付ける修行を積めばという前提条件の下で云えば、公案修行は全ての人(全く無学文盲の人間にも)に開かれた無二の法門であり、公案修行に向かない人はいないと考えています。自分は公案修行に向かないと思うのは、こちら側の説明不足と本人の誤解があるからです。


人間形成の禅は全ての人に必要であり、それは信仰・宗旨の違いを超えるものでありますが、これを人に勧めるのに拙速は厳に慎まねばならないことは言うまでも無いことです。


 お釈迦様の悟りすなわち世界宗教の創始者の掴まれたものを追体験できるのは臨済禅だけであると云うことを考え、誤解を恐れず云いますと全ての宗派の宗教家が臨済禅の手法で見性し道眼を開くことをしたら、全ての宗教はそれぞれが誕生した原点に立ち返ることができ、全ての宗教は本当の宗教性を取り戻し、排他的セクトがなくなり、宗教的対立が地球上からなくなるはずであると考えています。(つづく)
 

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