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擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
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擇木ブログ - 最新エントリー

 前回のブログの続きです。

 十二因縁は、ブッダが菩提樹下にて悟り得た知見であり、苦しみがどのように生じてくるのかを正しく理解し、苦しみを滅するための原理です。十二因縁により心の嗜癖、パターン、衝動性、自己概念、即ち自己中心性が注入されたものの見方、反応のあり方が明らかになります。
 十二因縁(苦の生起のサイクル) は、無明、行、識、名色、六処、触、受、渇愛、取、有、生、老死(諸々の苦)に分かれます。無明から触までは今までの習慣から無意識に発生する現象です。例えば、ベンチを見て無意識に身体を休めるところだと思うようなことです。花とナイフを見せられてどちらに注目するか、ナイフを果物を剥くものと捉えるか、それとも人を刺すものと捉えるかは人によります。

 無明(アビッチャー)は、ものの見方を知らないことであり、観(ありのままに見ること)と対比される概念です。自分の心身に起こっていることから目を背けたり無視することで、今ここに無いものを想像して事実と思い込んでしまう妄想が生じます。自分の心身に起こっていることが分かっていないから、苦しみや痛みにはまり込んでしまうのです。

 行は無自覚的なあらゆるアクション、識は認識を成り立たせるもの、名色は精神と肉体を言います。
 行について、複雑に装飾する心があるから迷いが生じるのです。シンプルに分かりやすく行動すれば、迷いがなくなります。一期一会の精神で、相手と対しているときは全力で向き合います。たとえ失敗したとしても、その対応次第では逆に評価が高くなることもあります。結果を恐れずに、常に今ここでベストを尽くすことが大切なのです。
 名色に関して、真実諦(勝義諦:しょうぎたい)は、「私」や「あなた」といった視点から見るのではなく、心という現象を細やかに観察することから生じてくる世界観です。
 これに対して、世間諦はコンセンサス・リアリティーとも言え、現実世界でコミュニケーションするために必要な、自我的な視点から見た世界観です。世間諦は世間の真実であり概念に過ぎませんが、世間諦を否定・嫌悪したり「すべてが幻覚だ」と捉えると却って生きづらくなってしまいます。他方で文化のしきたりや習慣に囚われると窮屈になってしまいます。世間諦を認めた上で、調和的な視点を養い、偏らずに見られるようになることが大切です。

 触は認識であり、六処(眼耳鼻舌身意)と、六境(色声香味触法)と、六識(眼識・耳識・鼻識・ 舌識・身識・意識)を合わせたものです。六識により心の癖が生じます。

 受は心のサバイバルセンサーであり、快、不快、中性の何れかに分かれます。瞬間瞬間、目に入るものを美味しいか不味いか区別するのは、生きていくために必要なことです。不快感を感じるのはシグナル(危険信号)であり、それによって生き存える可能性が高まり、生命が守られるのです。不快感がなくただ感じるだけでは危険なのです。
 快を感じると、もっと欲しいとしがみつき、より強く求めてしまいます。これを貪と言います。
 不快を感じると、本能的に反発(斥力)が生じ、不快感を無くそうとしたり、逃げようとしたり、後悔が生じたりします。このように起こってきた現象を見極めずに本能的な反応に任せて反発することを瞋と言います。
 中性と感じると、我を忘れて無視してしまいます。これを痴と言います。

 渇愛は、
 欲愛…感覚経験への渇愛(見たい、聞きたい、 嗅ぎたい、味わいたい、触れたい・触れられたい)
 有愛…存在への渇愛(私はこうありたい(あるべきだ)、これは~のようであってほしい(あるべきだ))
 無有愛…非存在への渇愛(好まない対象を受け入れず、否定したり破壊したりしようとする)
 に分けられます。

 取は執着であり、渇愛がさらに高じて固着化し、そのまま何かにはまり込んでしまう段階です。
 はまり込んでしまう対象には、
 ・自身の欲求に答えてくれるモノ
 ・望みを叶えてくれそうな生き方
 ・伝統形式や方法
 ・自己の渇愛に応える何らかの見解や信念
 ・自己概念(我語)
 があります。取によって怒りと同一化したり、イデオロギーや「私」という概念の虜になったりします。

 有は現存性であり、執着に引きずられた、キャラ/性格(好悪、思想、行動、習慣のまとまり)構築プロセスです。心の中に抱かれた自己イメージと言えます。

 生は自我であり、「我」を意識し、確固たる自我(私はこういうことが好きな人、私にはそんなことはできない)が現れる段階です。生により、自己イメージや自己概念の同一化が生じ、自我の確立が生じます。このようにまとまった自己があると生きやすくなります。対して、自我の確立が出来ておらず首尾一貫性の無い人は付き合いにくいです。生きるためには安定性が必要ですが、それがやがて癖になったり自己同一してしまうことで、「私」が形作られるのです。

 老死は、自我の衰退(老)と消滅(死) を指し、求める生き方や自己イメージが実現できないという恐れ、怯えが生じます。自我を実体として認めるようになると、自我の衰退や消滅を恐れるようになり、自我を守ろうとする意識が働くようになります。老死は痛みを伴うため、作り上げてきた自己を如何に守るかという自己中心的なものの見方や思考様式が生じてしまうのです。移ろいゆく身体と心の変化を逐一明晰に捉えることが出来れば、次第に老死への恐怖が和らいできます。

 そして、老死から再び無明へと、苦のループ (輪廻)へ繋がります。

 苦のループに繋がるかどうかの分岐点は「受」です。「受」(快、不快、中性)から渇愛(貪・瞋・痴)が生じれば苦に繋がります(貪瞋痴反応)。サバイバル機能である「受」を使いこなせずに、動物原理的(非機能的)に反応すると、自己嫌悪や過剰反応が生じ、生きづらくなってしまうのです。また、疑心暗鬼や妄想に駆られて、時間やエネルギーを無駄に消耗することにもなってしまいます。
 これに対し、「受」を信、精進、念、定、慧の五力をもって味わうことが出来れば、滅苦に繋がります(念定慧反応)。自覚を持って正しく価値判断を行い、適切な対応を選択出来れば、苦を滅することが出来るのです。
 受の段階だけでなく、渇愛や取の段階でも良いのですが、快や不快に気付いて受け止めて、五力を実践していくことによって、自分の心に適切に対応できるようになり、心の成長が得られ、対他者に対してもパフォーマンスを発揮したり、他人の態度や言葉に対して受容的に反応できるようになってきます。あるがままの感情を受け止めることが出来るようになることで、囚われから解放されるのです。
 人間関係に問題が生じたとき、自分の言い方はどうだったか、相手に合わせた伝え方が出来たかを省みて、他者のために慈悲の念を持って行動できれば、自他の抜苦与楽の喜びが生じます。これに対し、欲や執着があると失望が生じ、苦しみが生まれます。
 このように、自分自身の実践によって、貪瞋痴反応から念定慧反応へと転換していくことが大切なのです。

 慈悲の実践は、見守り、共感、受容、方便、菩薩の誓願(善と真を基盤とした抜苦与楽)、寄り添い(同事、気に掛ける、心配り)の輪であり、慈悲の実践により共にある幸せが生まれるのです。

 
心の成長の三重丸プロセス
タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3

 内側の円は、五遍行(思・作意・触・受・想)」(凡夫パーティー)であり、その課題は「よき縁に触れる」こと。
 真ん中の円は、「五別境(求・勝解・念・定・慧)」(智慧パーティー)であり、その課題は「よき縁となす」こと。
※「求(意欲)」は、やる気、成長欲、向上心、求道心、修行者マインド(学びにするぞ!)を言います。
※ 「勝解」は、純粋な意欲・関心に基づいた自覚的なコミットメント(気づかい、心配り) であり、これにより依存心、優柔不断、意志薄弱が減少し、自己コントロール力、自信、自立心が育まれます。
 外側の円は、「誓願・寄り添い・見守り・共感・方便」(慈悲パーティー)であり、その課題は「よき縁となる」こと。
 です。(プラユキ師Twitterより)

⑤に続く

合掌 風印 拝


タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3


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 前回のブログの続きです。

 四聖諦は、成道後、ブッダが初めての説法(初転法輪)で説き示した教えです。
 ダンマパダ(発句経)冒頭には、
 1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり、行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。
 2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり、行ったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。
 と書かれています。ブッダの説法はこのように身近な例(比喩)を用いて内容を分かりやすく説明し、行動を促す特徴があります。修行に入らせるための方便とも言えます。説法には、真実性、有益性、聞き心地の良さが重要とされますが、ブッダは特に有益性を重視されました。また、ブッダは相手の精神的能力や性質などに応じてそれにふさわしい手段で説法を行う「対機説法」、教えを受け入れやすくするために正解か不正解かではなく、プロセスに応じて説く「次第説法」をされたと言われています。

 四聖諦には、
 ①「苦諦」=苦しみを明らかにする(「観」:苦から目を背けず、ありのままを遍知する)
 ②「集諦」=苦しみには必ず原因がある(「断」:苦の原因=渇愛→除去)
 ③「滅諦」=苦しみは滅することができる(「証」:苦しみの滅→成就)
 ④「道諦」=苦しみを滅する方法がある(「修」:苦を滅するための方法【八正道】→実践)
 があります。

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2


 ①「苦諦」は、苦しみを明らかにすることを言います。苦から目を背けず回避せず、ありのままを見ることを「観」と言います。
 苦は、苦しむものでなく、観るもの、理解すべきものであり、「苦しみがある」ことと「苦しむこと」は別なのです。苦はスタートであり、滅苦(苦しみから解放)がゴールです。苦との取り組みを通して、滅苦のみならず、智慧(悟り)、慈悲、そして真の自由が培えるのです。
 ここで、仏教で説かれる苦しみとは、
 <四苦八苦>
  ・生・老・病・死 ・愛別離苦 ・求不得苦 ・怨憎会苦 ・五取蘊苦
 <三種の苦>
 ・苦苦…身体的な痛みとそれに付随する心理的不安(不快感)
 ・変壊苦…快楽や喜びの喪失に伴う寂しさや悲しみ(喪失感)
 ・行苦…思い通りにいかないイライラ、歯がゆさ(不満感)
 を言います。五取蘊苦(ごしゅうんく)または、五盛陰苦(ごじょうおんく)と言われるように、五蘊への執着が苦しみを生じさせるのです。
 瞑想によって、価値判断を挟まずに苦をありのままに直視することが出来れば、理にかなった対処が出来るようになってきます。苦しみが起こらないようにするのではなく、苦しみが起こってきた都度適切な対応をすれば良いのです。思うようにならないから苦しみが生じるのであって、何が起こってもOKと受け止めれば、認知が変わり、苦しみの矢が飛んでこなくなります。イライラ、落胆などの苦しみに固着すれば苦しみの連鎖、循環が生じてしまいます。そうではなく、瞑想によって苦しみを細やかに見る、気付くことによって、苦しみを起こってきたままに受け止めるのです。怒りは悪いものとして否定したり、瞑想が上手く行かないと自己嫌悪するのではなく、苦しみが生じてきたプロセス全体をあるがままに見れば、智慧が生まれ、世界が違って見えてくるのです。

 ②「集諦」は、苦しみには必ず原因があることを言います。
 ブッダ曰く、「苦しみの生ずる原因は『渇愛(タンハー)』」であり、それを除去することを「断」と言います。
 「渇愛」とは、対象を求める身体感覚に基づいた衝動的な心の働き(「執着(ハマり込み)」) を言います。「渇愛」は欲望ともいえ、あるがままを見ずに欲望に囚われることによって苦しみが生じます。
 「渇愛」には、
 1、感覚経験への渇愛(欲愛) 「見たい、聞きたい、味わいたい、触れたい」
 2、存在への渇愛(有愛) 「こうありたい(あるべきだ)、こう生きたい」
 3、非存在への渇愛(無有愛) 「このようにありたくない(あるべきではない)」
 があります。
 他に、「無明・渇愛・執着」、あるいは「貪瞋痴」とまとめることもできます。
 快を求めるのは本能によるものであり、否定、嫌悪すると却って辛くなったり、苦しみが増すこともあります。渇愛を否定するのではなく、成熟させる、育てることが大切です。無有愛によって自分など居ない方が良いと思ったときは、現実の身体ではなく、心の物語(苦しみ)を終わらせれば良いのです。身体や心の声を聞いて、パッション(情欲)をコンパッション(他者への思いやり)へ移行し、一切衆生を大切に生きていくのです。渇愛をあるがままに見ることで、偏見や先入観から解放され、渇愛も友として感じられるのです。意識的に無能→意識的に有能→無意識的に有能となっていくことを目指します。但し、無理が過ぎると逸脱してしまうので、注意が必要です。

 「苦しみと向き合う」段階(苦諦)で多くの人がつまずく(向き合えない)原因には、
 苦しみへのハマり込み(執着・耽溺)
 苦しみとの闘争
 苦しみからの逃走
 苦しみの抑圧
 苦しみを他に転嫁(投影)
 があります。
 具体的には、五感+対象物への耽溺、不毛な善悪論争、「私は○○である」といった固定的な自己イメージ、方法論や形骸化した儀式へのこだわり、無駄な疑心暗鬼などです。
 「耽溺・闘争・逃走・抑圧・投影」を「信・勤・念・定・慧」へと変容させることが必要です。

 ブッダによって否定された「苦しみの原因」についての3種類の言説には、
 「過去世のカルマによる(宿命論)」
 「神の意思による(神意論)」
 「偶然の産物である(偶然論)」
 があります。

 また、
 「今世における過去の悲惨な出来事」(トラウマ)
 「特定他者による虐待経験等」(アダルト・チルドレン理論)
 のように、過去の悲惨な出来事や特定他者による虐待経験等を苦の原因とみなす心理学的理論がありますが、それには、苦しみに圧倒され極度の混乱状態にある人や自己を責め苛み自虐状態に陥っている人に意味を与え、一定の安心を担保する応急処置的な機能(方便)があり、方便による安心感の醸成から根本的な苦しみの解決へ向かわせる有効性があります。
 トラウマやアダルト・チルドレン理論は過去の記憶や特定他者の言動それ自体を苦しみの原因とみなしているのに対して、仏教の観点では、それらは苦しみの原因ではなく条件に過ぎず、そうした記憶や言動に対する心のアクションが苦しみの根本原因であると考えます。
 すなわち、仏教では、原因+条件によって苦悩が生じるとみなしますが、条件をどう捉えるかが大事であるということ。また、心をしっかりと整えていくに連れて、智慧、慈悲という資質も生じる。たとえ自分を否定したり、価値が無いと考えてしまったとしても、そうした事実をあるがままに受け止めることを繰り返していれば、智慧や慈悲が育ってくるということです。
 タイでは、毎朝僧侶が村を托鉢して歩く姿が日常的に見られます。僧侶に対しての親の敬虔な姿を見ることによって、子供にとって親の存在は相対化され、より大きな存在を認識することによって、親に与えられた過去の虐待などの辛い経験は小さな事になっていきます。
 親への囚われがあると過去の経験を受け止めにくいです。しかし、周囲の適切なサポートがあれば、周りの人の心の状態が子どもに浸透して自分に向き合うことが出来るようになり、より本質的なものを見られるようになるのです。他方で過保護になりすぎると心が弱くなってしまいます。
 周囲のサポートにより、定と勤(精進)を兼ね備えることが出来れば、モチベーションが上がって実践に繋がります。瞑想がすぐすぐ上手く行かなくてもOKです。誰でもブッダになれる潜在的な可能性があるのです。信は重要ですが、慧が無いと上手く行きません。やってみた結果を受け止めて吟味し、信頼と智慧を携えて次のアクションを起こしていくことが大切です。

 ③「滅諦」は、苦しみは誰でもが滅し尽くすことができることを言います。苦しみの滅尽を成就することを「証」と言います。
 瞑想により、「苦しみ」や「渇愛」が自然に消えゆくのを見届ける作業、「無常」の洞察を行い、苦に関する気づき、体験をもとに、自身の思考の癖、行動パターン、生活習慣までを変えていくのです。
 具体的には、
 1、「気づきの瞑想」によって、心を覚醒させ、気持ちを落ち着ける(定)
 2、相手や私に向ける「怒り」に気づく(如実知見)→増幅が止まる
 3、切なさ、悲しみのあるがままの受容(切なさや哀しみの受容:Samvega
 4、願い、期待を理解し、手放す(離欲)
 5、心の自由を得る(解脱)
 を言います。
 瞑想により、心の動きや不快感を明らかにし、自然の法則に従って苦しみも無常で在ることに気付けば、苦しんでいる私も無我であることが分かるでしょう。無我と言っても無になりきるわけではなく、生じてきた思考や気分をあるがままに見ていくのです。蚊に刺されても痒さを感じつつ囚われないのです。苦しみを追いかけて囚われるのではなく、味わうのです。あるがままに一部始終を観察すれば、不快は快に変わり、痒みもやがて消え無常であることが分かるでしょう。オープンハートに起こってくるものを楽しむことが出来れば、智慧や慈悲の心が起こってきます。瞑想を日常的にすることによって、怒りを鎮め、今自分に出来るベストを尽くせるようになり、それが日常生活に浸透して行くのです。

 ④「道諦」は、苦しみを滅する方法があることを言います。苦を滅するための方法(八正道)を実践することを「修」と言います。
 【八正道】は、苦しみを滅するための八つの正しい実践の道です。身口意の三業(しんくいのさんごう)を清らかにして正しい生活をすることを目指しますが、正しいかどうかは自他の抜苦与楽を促すかどうかを指標とします。
 1、正見は、「正しいものの見方」(人生の苦しみについてのありのままの洞察=如実知見)であり、四諦や縁起で物事を見、特定の見解にハマりこまない中道的な見方を言います。
 正見によって、無意識的な見方の癖を看破し、新しいものの見方の再学習(リフレーミング、パラダイム転換)をすることが出来るようになります。

 2、正思は、「正しい心の向け方」であり、「欲」や「怒り」に染まった思考、対象を破壊したり傷つけよう(害意) といった思念パターンを自覚して、分かち合い、調和しあう方向に心を向ける思考を言います。
 正思によって、「欲」を分かち合いに、「怒り」を思いやりに、「害意」を自覚的で適切な支援に変えていきます。

 3、正語は、「正しい言葉」であり、偽らず(⇔嘘)、優しく(⇔粗野、粗暴な言葉)、調和を育む(⇔仲たがいさせる陰口)、 有意義な言葉(⇔無駄口)を語ることを言います。

 4、正業は、「正しい行い」であり、いのちを傷つけたり、盗んだり、性的に無責任な行為などから離れることを言います。

 5、正命は、「正しい生活」であり、生命の売買、武器や麻薬の取り引きなど、他者や社会に害を与える職業を離れ、自他に有益な生業をすることを言います。

 6、正精進は、「正しい努力」であり、
 ・悪を予防する(まだしたことのない悪いことはこれからもしない)
 ・悪を取り除く(いま自分にある悪いところをなくす)
 ・善を発生させる(今までにまだやったことのない良いことをする)
 ・善を維持し育み、完成させる(いますでに自分にある良いところをもっともっと増やす)
 ことを言います。
 私たちに与えられた任務は何かしらのご縁、即ち縁起に基づくものであり、苦しむのではなく、全うすることが大切です。上手く行かなくても結果に囚われず、ベストを尽くすことが大切なのです。

 7、正念は、「正しい気づき」であり、今ここで心身(身体、感受作用、心、自然の法則)に起こっていることをありのままに自覚することを言います。
 瞑想の実践によって、今ここで身体に何が起こっているか、それをどう感じているか、心がどんなエネルギーに染まっているのかなどを繰り返し見つめていきます。

 8、正定は、「正しい心の安定」であり、男性的な確固たる心の安定性と女性的な深い包容力を兼ね備えた成熟した「受容力」を備えることです。
 外界、内面にどんな状況が生じてきても、動揺することなく、確固と安定した状態で落ち着いていられる能力を培う(大きな心の器、深いふところ)ことを目指します。

④に続く

合掌 風印 拝


タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3


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 擇木道場の風印です。
 私は当道場に所属していますが、別に仕事を持っていて、仕事の合間に座禅や瞑想をしています。道場で座禅するだけでなく、各地の座禅会や瞑想会に参加してその度にブログを書いています。道場と無関係なブログの掲載を許して頂いているのも、禅の懐の深さと受け止め感謝しております。
 プラユキ師のことは、昨年10月にNHKEテレで放送された『こころの時代~宗教・人生~「”今ここ”に気づく」』を見て知りました。それ以来手動瞑想をするようになり、今年2月に実施されたプラユキ師主催の『向春の1日リトリート』に参加した際にスカトー寺瞑想合宿のことを知り、参加させて頂くことにしました。
 以下、スカトー寺瞑想合宿でのプラユキ師の法話の内容をまとめてみました。
 大変お忙しい中、ブログの内容をチェックして頂いたプラユキ師に心より感謝申し上げます。

 ブッダの語られた【智慧】とは、「世界や心はいかにあるか?」即ち「あるがままの真実を理解すること」であり、悟り/涅槃(苦の終滅)を目指します。また、【慈悲】とは「私たちはいかに生きるべきか?」即ち「人としてこの世を善く生きること」であり、自他の抜苦与楽を目指します。
 実相法(真理)とは、一切のものの姿(パターン=相)と一切のものの自然の成り行き(プロセス=働き) を明らかにするものであり、自然界全体を貫く構造や法則(システム=ダルマ)を知ることです。
 実践法(倫理)とは、知り得た実相を実際の生活や人生に役立たせることであり、自他の抜苦与楽がその指標となります。

 ブッダの教えられた「三つの善なる行為」には、①「布施」…自身の持っているものを他に与える、②「持戒」…身(行動)と口(言葉)をととのえる、③「瞑想」…意(心)をととのえる、があります(三福業事=「施・戒・修」)。
 ①布施には、
 1、金品を与える(財施)
 2、知識や技術、智慧を与える(法施)
 3、安心や思いやりを与える(無畏施)
 があります。金品や知識などを与えるだけでなく、恐れを与えずに許しを与えることも布施になります。得たものを分け合い(シェア)、共に喜び合うことも布施です。
 布施により、
 →不貪(手放すこと)の基礎練習
 →自由・幸福感の転換(得から徳、自分から他者へ)
 →与えること、分かち合いによる幸せを知る
 ことが出来ます。

 ②「持戒」には、
 1、生き物をむやみに殺さない
 2、他人のお金やモノを盗まない
 3、よこしまな男女の交わりを結ばない
 4、嘘をつかない
 5、自分を失うようなお酒を飲まない
 の五戒があります。
 持戒により、
 →周囲との葛藤や後悔の少ない健康的な生活習慣
 →安定した心の基盤づくり(三学=戒定慧)
 が得られます。
 戒を守ることで、身体行動と言語行動のコントロールが可能となり、心の奴隷にならずに済みます。戒を守っても直ぐには結果は出ないこともあります。また、戒への執着が生じれば、それもまた苦しみとなります。それから、世界が味気なく見えてしまうこともあります。戒にとらわれ過ぎないことが大切です。

 ③「瞑想」は、止観ともいい、
 「止」=サマタ : 心をひとつの対象に繰り返し向けて安定させ、<集中力>を養う。
 「観」=ヴィパッサナー : 心身に起こっていることに繰り返し気づき、覚醒力(サティ)を養い、 ありのままに見つめることを繰り返しながら、洞察力 (パンヤー)を培う。
 の2つに分けられます。
 手動瞑想(チャルーン・サティ)はヴィパッサナー瞑想の一つですが、サマタ瞑想の要素もあります。ヴィパッサナー瞑想では、マインドフルネス、即ち瞬間瞬間立ち現れてくる体験に対して、今の瞬間に、判断せずに、意図的に注意を払うことによって実現される気づき、を重視します。
 瞑想により、
 1、ストレス状態から、リラックス状態へ、
 2、散乱状態「雑念」から、集中状態「無」へ、
 3、今ここに心あらず・とらわれの状態から、目覚め・気づきの状態へ
 と至ることが出来ます。
 私たちは快・不快に基づく、レスポンデント条件付け・オペランド条件付けにより、無意識に心の癖を持っています。
※レスポンデント条件付け…刺激と刺激を時間的に接近させて呈示することによって、その関係を学習させる条件づけの方法
※オペランド条件付け…報酬や嫌悪刺激(罰)に適応して、自発的にある行動を行うように、学習すること
 瞑想により、心の癖を看破し、安定した心の土壌を持って物事を見極めることが出来るようになるのです。

 仏道修行者の修めるべき三つの要目には、戒定慧の三学があります。
 ①戒学とは、身体的行為と言語行為を調え、悪を止め、善を修すること。
 ②定学とは、心の散乱を防ぎ、安定させていくこと。
 ③慧学とは、すべての事柄の真実の姿を見極めること。
 を言います。

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 三学のそれぞれの関係は、
 ①戒をまもり生活を正すことによって、心の安定を助け、
 ②安定した心を基盤として、智慧を発しやすくさせ、
 ③真実を正しく見極めることにより、真理をさとる(如実智見→滅苦)
 となります。

 三学には、二つのベクトル(菩薩の二大徳目) があり、
 ①上に向かって悟りを求める智慧を「上求菩提」
 ②下に向かって衆生の教化をなす慈悲を「下化衆生」
 と言います。
 三学は「真善美」という価値と対応しており、真=慧、善=定、美=戒という対応関係があります。
 戒を守り、定を修し、智慧の獲得に至るのが智慧の道であり、智慧に基づき、善なるハート、美しい言動や表現で、一切衆生の抜苦与楽を具現化するのが慈悲の道です。

③に続く

合掌 風印 拝


タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3


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(続)人は何を遺すか?

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/22 22:34

(続)人は何を遺すか?

丸川春潭

 恩人のご逝去に際し、「人は何を遺すか?」を自分に当てはめて考えはじめ、人間形成の禅をもってひとづくりをして「人を遺す」ということになったのが前のブログです。

この「人を遺す」ということに似たものは、職人が弟子を鍛え育てて後継者を残すのにも見られます。陶工の楽家の伝統もその一つでしょう。明珍の火箸を先年かっての同僚と姫路まで見学に行きました。ほとんど家内工業ですが技術の伝承が脈々と平安時代から900年間にわたって繋がっているのを目の当たりに見ました。ここではその伝統の火造技術を身に付けた人を遺し続けているのです。

昨日、擇木禅フロンティアで新しい禅の講演を聴きました。講師は数奇な人生経験者であり話は面白いし凄い人であり、やられていることも立派なことをやられていると感銘を受けました。未だ70歳だし多くの現代人を救済しまた熱烈なファンを持ち財もなされるであろうと思いました。

しかし昨日拝聴した限りでは、自分と同じような後継者を遺すことはお考えにないように思いました。悩み迷っている多くの人を救済するという実績は遺されるでしょうが、向上心のある人物をそれぞれの個性に応じて年月かけて育成する人物づくりの視点はお持ちでないようです。あまりにも非凡な講師と同じような後継者は出て来にくいと云うこともあるでしょうが、あくまで自分一人の個人プレーで終わりになるでしょう。一人が一代でやられることとしては大きいでしょうが、次には繋がらないということです。

人を遺すということは、遺した人がまた次の人を残すということによって永遠につづくその端緒を残したということであり、一代でなすことへの視点だけではなく、未来への視点を持ちつつ「今」をやっているところが、彼我の違いです。

しかも我々の人間形成の禅の歴史を振り返るとこの道の端緒は2500年前のインドのお釈迦様が遺したものからであり、6世紀1500年前の菩提達摩が中国へ渡って来て中国にそれを伝え遺し、さらに13世紀大応国師が中国からその法を継承して日本に保ち帰って来て今日にまで到ったものです。したがってこう見てくると、先ほど端緒と書きましたが、現在はその歴史の先端部分と捉えるべきでしょう。

ただこの人づくりのための伝承は、臨済禅の歴史の最初からあったわけではない。従来からの僧堂の禅は一個半個の「伝法のための伝法」が第一であり、その時その時代での広がりよりは将来への視点が強く、またその伝承は個でなされたものでした。しかし明治以降に誕生した在家禅は「布教のための禅」となり、そして更に71年前の人間禅の誕生により「布教のための伝法」が確立した。そこからは個ではなく集団(僧伽)で布教し、集団(僧伽)で法(嗣法者)を遺すことになったのです。

昨日の講演者は一人で布教をやられていましたが、人間禅の場合は師家も布教師も輔教師も総勢200数十名が一斉に全国各地で今の布教をしています。また戦前までの禅界においての伝法は個から個でしたが、人間禅になってからは集団で個(嗣法者)を遺すという体制になりました。特に伝法を組織的に行うと云うことにより法の断絶という危険は減じ、未来への布教が盤石になったのです。すなわち禅による人間形成を社会に広げ、正しく楽しく仲の良い社会をつくる志とシステムを未来へ確実に遺すことが可能になったのです。

人は何を遺すか?において、人を遺すと云うことの素晴らしさに気づき、またそこに個の名前ではなくみんなと一緒にその一端を担えることの痛快さをつくづく噛みしめることができた次第です。(おわり)


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金曜朝座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/7/19 11:03
719
金曜朝座禅会
初めての方           1
2回目以上           0
会員                     4
 

早朝座禅会にアイルランドから来日し、3ケ月滞在する予定の男性が初めて来られた。看板と英文のチラシを見て参加された。
通常どおりの受付をして15分で座禅のやり方を説明。6:15から6:55まで座った。胡坐を組む経験はなく、当然、半跏趺坐はできないので崩した胡坐で両膝が座布団に付くように坐具高さを調整して座ってもらった。だいたい良い姿勢でしたが、途中で疲れたようでした。母国ではヨガ道場に数回通って15分程度は坐ったことはあるが、40分という長い時間は初めてとのことでした。新到者への配慮が不足していました。

早朝座禅会では、時々、5分の休憩を挟んで25分ずつの座禅をやることがありますが、新到者がいるときはそのようにしたほうが良いですね。「また、参加する」との言葉を交わして別れました。東京支部員は英語を使えるようにしましょう。龍泉
 

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人は何を遺すか

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/18 21:55

人は何を遺すか

丸川春潭

 住友金属時代の大先輩であり恩人である栗田満信氏が4月にご逝去された。享年94歳でした。氏は多くの部下に慕われ、氏を中心に年に2回の懇親会を永年にわたり東京と関西で一回ずつ開催されてきました。これほど多くの部下をこのお年まで慕い続けさせ、死して尚その薫陶を及ぼし続ける人徳は、小生寡聞にして他に知りません。私も薫陶を受けた多くの部下の一人でしかないのですが、自分も多くの知友と一緒に自分が死ぬまでその薫陶を抱き続けるでしょう。

 この大先輩の遺されたものをつらつら考えて、人は死んで何を遺すのかを考えました。

 ニュートンは万有引力を遺し、アインシュタインは相対性原理を遺し、ピカソは前衛絵画を遺し、トルストイや夏目漱石は文学を遺し、利休は佗茶を遺し・・・と見てくると、その人のなしたものが後世に大きな影響を及ぼしたからそれを遺した人の名前が残ったと考えられます。

更に考えを進めて、名前はどうでもいいとして、人は生を受けてこの世に生きて後に何を遺せるのか?の考えに到ります。子供を産んで育てて孫が生まれてと云う子孫を残すという遺し方もあります。先の栗田先輩は多くの後輩に薫陶を遺されました。芸術家はその作品を遺す。その遺した物の大きさとか価値は時代背景もジャンルも違いますので容易に比較したり尺度したりすることはできません。しかしその影響がいつまで残るかはある程度尺度できます。

芸術家の作品はそれが時代を超えて感銘を残すものであれば人類が生存するかぎり残ると云えます。先生からとか親から受けた教えや愛情や薫陶のような対人関係で遺されたものは、それを与えた人と受けた人の関係性でできたものですので遺されたものを受けた人が死ねばそれはほとんど消えます。しかしそれが受けた人の人格形成にまで大きく関わるものであれば、受けた人の働きや遺した物に与えた人の影響は必ず及ぶと考えられます。

しからば振り返って、「人間形成の禅」でもっての人づくりの場合はどうかを考えてみたい。人づくりは人物づくりであり人間力が付きます。これによりその人の持って生まれた資質と個性が最大限に発揮されることになります。そのジャンルは政治・経済・科学・芸術全てのジャンルに多面的に及びそれぞれの職業や居場所で光を放つことになります。更に人を育てて残すと云うことは多面的な影響と云うより次々に人づくりが伝承するということになり、未来への繋がりと発展の可能性が広がります。すなわち人づくりによって人物を遺すと云うことは、芸術家の遺す作品とか科学者の発明と同じように人類がつづく限り残るものです。

人間形成の禅を進める人間禅はまさに人づくりをするために創られた集まり(僧伽)であり、人を育て人物を遺して来た伝統を受け継ぐものであります。この人づくりの伝承は少人数の師家だけでできるものではなく同じ志を持って集う僧伽全体でなされるものです。私はその多くの道友の中の一人としてそれに関与していることに思いをいたすとき、はじめて大きな生きがいを感ずるのであります。すなわち一人ではできない人づくりの伝承の一端を担ぎ、みんなで人づくりの輪を広げ、また未来へ向かってこの伝統を遺すのです。(つづく)


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”カウンセラーやあなた自身に、聖者の代わりが務まるとは思われないでしょう。
 われわれは聞き手として、じっくり相手の話を聞き、話し手が自分自身で自分の人生の知恵を見いだすことを促進する以外に有効な方法がないのです。”
(東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』85頁)
 
 東京荻窪支部の英風です。
 (その1)の続きです。
 前置き長くなって、やっと本の内容の紹介です(^_^;)
 

傾聴に興味を持ったのは、ボランティア活動をやろうと思い、地元のボランティア団体をネットで検索したところ、老人ホームで高齢者の話を聞いたり、私が実際に活動している自死した方のご遺族などから話を聞く活動をしている団体のあることを知り、「聞くだけなら短法身の自分でもできるかもしれない。」と安易に考えたことが一つです。
 

もう一つは、傾聴の技術的基礎には、心理的なカウンセリングの技術のうち、「来談者中心療法」があるのですが、同じ頃、興味本位で、臨床心理学の本を読んだときに、この方法を知り、その手法が、仏教的、あるいは、禅的な感じがしたので、関心を持っていたからでした。
 初期段階(?)で読んでいた本には、来談者中心療法について、カウンセラーが診断・指示をせず、自由に表現できる雰囲気をつくって、来談者の話を聞くことを通して、来談者が、「安心して自分自身を見つめ、今まで気づかなかった内面に気づき、解決策を見つける」(松原達哉『図解雑学心理カウンセリング』89頁)との話が出ていました。
 「自分自身を見つめ、今まで気づかなかった内面に気づき」というのが仏教や禅っぽく感じました。
 
 また、来談者中心療法のポイントとして
「① 自分をごまかすことなく来談者に接する
 ② 来談者を条件なく受けいれる
 ③ 来談者の私的な世界をあたかも自分自身のもののように感じとる」
ということも出ていました(前掲書同頁)。
「ごまかすことなく」、「条件なく受けいれる」、「自分自身のもののように感じとる」というのも、それっぽいもののように感じました。
 
 何よりも、この手法の理論的基礎には、「来談者が自ら解決する能力をもっている」という事実があるのですが、これが「衆生本来佛なり」という感じがして、強い興味を抱いていたのです。
 それで、「傾聴」なら、これまでの仏教や禅の知識を生かしつつ、人の役に立つことが出来、実際的な知識の応用もできるのではないかと考えました。
 
 とはいえ、傾聴をすると言っても、やり方がわからないことから、試しにいくつか「それっぽい本」を読んだところ、出会った本が、「来談者中心療法」を扱った東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』でした。
 読んでみると、やはり、抽象的だった禅で捉えたものを、実践的に活かす具体的な方法のように感じ、大変参考になりました。
 先にも述べたとおり、来談者中心療法は、メンタル的な問題を抱えた来談者自身に自己の問題を解決する能力が備わっていることを前提にして、来談者に対し、積極的な指示や助言をするのではなく、来談者の話を聞くことを通して、来談者自身に、自分の問題を解決する洞察を得させようとするものです。
 たとえば、仕事上の疑問が生じたときに、上司、先輩、同僚に相談をしているうちに、相談相手から、具体的な回答があるわけではないのに、どういうわけか心の整理がついて肚が決まるという経験は、誰しもあるのではないでしょうか。
 
 来談者中心療法の基本的な発想には、「抑圧された感情を意識化させること(無意識の意識化)によって生活の改善を目指す」(杉原和明監修『はじめて学ぶ人の臨床心理学』26頁)という自分の抱えている問題を明確化することにより、その問題が心理面で解消されるという精神分析の実践の基礎づけがあるようです。
 このことを、この本では
“フロイトは、抑圧していたもの(略)古代遺跡と同じで、発掘されたときから風化する、と述べています。秘密は話したときから風化します。抑圧されている秘密も風化させることが大切なのですが、急に風化させますと破壊されます。”(204頁)
と表現しています。
 
 本書には、このように自分自身に問題解決をする能力があることを前提とする記述が繰り返し出てくることに勇気づけられます。
  抽象的な思想ではなくて、臨床学的な裏付けがあるのが安心ですね。
 この辺りが、「相対」である科学のありがたいところです。
 
“自分の考えは自分にしか適用できないことが多いものです。実際は話し手が考えているほどの効果はないのです。なぜなら、経験・学習というのは、実地体験しないとわからないことのほうが大きく、自分の体験は、そのときのタイミングや状況に合って、うまくいったことなのです。同じような機会はまずありません。もし、あなたの体験が一般的な知恵を含んでいるのなら、その箇所だけは役に立ちますが、多くの聞き手にとってそうしたことは他からも聞いていたりするものです。”(5455頁)
 
“カウンセラーは相手の話を聞くことによって、話し手自らが洞察を得るようにしているのです。言い換えるなら、カウンセラーは相手の話を聞くことによって、話し手自らが洞察を得ようにしているのです。言い換えるなら、カウンセラーは相手の心を映す鏡になるように訓練されます。けっして相手の心に侵襲し、自分の個人的影響を与えてはいけないと教えられているのです。”(5859頁) 
 
“カウンセリングを受けた経験がある人は、カウンセリングが何かをしてもらう作業ではないことを知っています。神さま、仏さまならいざ知らず、人間がしてあげられることなどは、冒頭に述べたようにかぎられているのです。大切なことは自分のことが自分でできる能力をつけることです。悩みや心理的葛藤に関しても同じで、自分で解決できる能力をつけることです。”(62頁)
 
“助言として自分の体験を相手に話す人がありますが、このような話が意味をもつことはあまりありません。
 われわれは聞き手として、じっくり相手の話を危機、人格と乖離した助言を避け、話し手が自分自身で自分の人生の知恵を見いだすことを促進する以外に有効な方法がないのです。
 聞き手は話し手より偉くはないことを自覚しているべきです。それでもついつい人の悩みを聞くと、自分がその人より偉いと感じ、助言をしてしまうことが多いものです。話し手との平等性を確保している聞き手は、尊敬していい人です。“(8485頁)
 
かなり長い引用になりましたが、「話し手自らが洞察を得る」、「悩みや心理的葛藤に関しても同じで、自分で解決できる能力をつける」、「話し手が自分自身で自分の人生の知恵を見いだす」など一貫して、クライアント自身が、自分の抱えている人生の問題を解決する能力があることを前提とする考え方が、やはり、「衆生本来佛なり」という感覚と近くて気持ちよく感じました。
 また、禅に興味を持つ人には、「実地体験しないとわからない」とか、「カウンセラーは相手の心を映す鏡になるように」とか、「話し手との平等性を確保」とかいった記述も味わい深いのではないでしょうか。
 
  ほかにも、
 
“人生においては、正答のある質問や疑問などはほとんどないといっていいのではないでしょうか。(略)
 では、納得する答えとはなんでしょう。それは一人ずつ異なります。人生の疑問に対する答えは主観的なもので、納得した答えがその人なりの正答です。一般的な答えは、第三者の人びとを納得させはしますが、それは自分にとってなんの答えにもなっていないのがほとんどです。
(略)その人の人間性を高めないと答えが出ないような質問に対しては、「むずかしいですね」としか答えません。むずかいしから、むずかしいと答えているのです。つまり、正解は「むずかしい」なのです。
 でも、「むずかしい」を正答としては、納得しない人も多いでしょう。それらの人びとは、むずかしさを避けたいのです。考えるしんどさ誰かに肩代わりしてもらいたいのです。本当は誰も肩代わりできないのですが。“(7579頁)
 
“正しいことばかりを言う人はどこか信用できない(略)。なぜなら正しいことを言いつづけようとすると、自分は何もできないからです。自ら何かをしますと(略)、正しいことをしても失敗するのです。失敗するとそれは間違っていたと非難されるからです。何もしないことが失敗を避ける最良の手段です。だから、評論家の域を脱せないのです。”(137138頁)
 
といった記述も琴線に触れる人が多いのではないかと思います。
 
  とはいえ、本に書いてあっても、本当に妥当するかは別ですから、臨床心理にかかわる仕事をしているF居士に聞いてみたところ、F居士も持っていて参考にしているとのこと。 
 ちなみに、M居士もお持ちだということで、禅や、仏教で学んだことを実社会生活に本当に活かしたいという人には本当に参考になりそうです。
 
 さて、以上は本の話で、肝腎の傾聴ボランティアの実際ですが、私が初めて参加したのは、数名で、相互に「悲しい経験」を自己開示する活動でした。
 
 センシティブなプライバシーにかかわる話なので、具体的な話をかけませんが、痛感したのは、私自身が本当に平穏な人生を歩んできたのだなということでした。
 「人生、こういう別れもあり得るのか」と大変勉強になった反面、私自身には、そのような経験はなく、一緒に活動をしていってよいのか、少し悩みました。
 しかし、翌日、団体の代表の方から、次のイベントへの参加の誘いのメールをいただくことができました。
 多少は、役立てさせていただくことができそうなので、ありがたいことです。(終)
 
合掌 英風 拝
 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
 私の所属する東京荻窪支部は次の座禅会を定期的に実施しています。
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」
JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。
ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵
善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
(連絡先)中川香水
 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com

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“人間は自分中心でものごとを考えています。

そのくせに、あるいはその罪滅ぼしのゆえに、他人に何かをしたくなります。

しかし、相手がしてほしいと思っている肝心のことはなかなかできないのです。“

(東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』65頁)
 
 東京荻窪支部の英風です。
 
  傾聴のボランティアを始めようと考え、自死した方のご遺族などからお話を聞くボランティア団体の活動に参加するようになりました。
  禅の修行の究極的な目的は、衆生済度、今風に言えば、「愛すること」です(注1)が、どうもやり足りない。
  しかも、そのための十分な時間もないのではないかという気がして、仕事以外でも何をかやらなければならないと思ったからです。
 
  一月ほど前、勤務先で受けた健康診断の便潜血反応検査の結果が「FF」という最悪のもので、「再検査」を受けました。
 ネットで調べると、統計的には、便潜血反応が出た人の50人に1~2人が大腸がんなのだそうです。
  再検査の結果は、担当医曰く「盲腸から直腸まで、とても綺麗で健康そのもの。ただ、処置の必要はないけど『ぢ』がある」とのことでした(/ω)

とはいえ、検査をする前には、「ついに、我が道力を試すときが来たか!」と心湧き立つものがあり、身の回りのことを少し整理しました。
 50人に1~2人でも、四十代半ばの私がその立場になってみると、50人に48~49人のような感じがしたからです。
  また、同じころ、以前の勤務先でお世話になった方が、散歩途中に突然生じた脳梗塞により48歳で亡くなりました。
  こんなことがあったので、以前より「いつ死んでもおかしくない」という気持ちが強くなりました。
 
 生きるとは、愛することです。
 
 私にとって、座禅を含めた禅の修行は「愛するための訓練」です。
 座禅は、周囲のものに手を出さずありのままでいさせてやるという意味で愛する行為ではありますが、やはり、本質的には「修行」にすぎない。
  私は、とても好きなのですが、厳しい見方をすれば、所詮は「訓練」にすぎず、「実戦」ではない。
  「訓練」のない「実戦」は、不安定だが、成立し得る。
  しかし、「実戦」のない「訓練」は、無価値だ。
 
  生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人
 
 人生は、いつ終わるかわからない。
  「訓練」に力を入れすぎて、「実戦」不足のまま人生を終えるのはつまらない。
 
 「境涯」は魅力的だ。
 よい心持の方がよいように思うし、何らかの「境涯」があった方が愛しやすくなりそうな気がする。
 そこに、私が禅の修行を続ける価値がある。
 
 とはいえ、「境涯」は、心の問題にすぎない。
  仏教によれば、心は、単なる現象であり、実体はない。
  現代的にいえば、心と称する現象は、脳の神経系の電位変化により生じる電気信号にすぎないのだから、確かに実体はないのだろう。
  そうであれば、こだわる必要はなく、愛することができれば、何らかの「境涯」に至ることによる人生の満足は後回しでもよいと思う。
 
 境涯の至らない者には、何が本当に愛することになるのかは、きっと、わからないのだろう。
  だから、愛することは、究極的には、独りよがりだ。
  独りよがりだから、対価を求めてはならない。
  独りよがりだから、本当に望まれることは何なのか悩み、迷い、苦しむべきだ。
  さしあたりの所で決意してやる以上、やった後も、それが本当によかったのかを反省し、悩み、迷い、苦しむべきだ。
 
 愛することは、悩み、迷い、苦しむことだ。
 したがって、人生とは、悩み、迷い、苦しむことだ。
 というより、死ぬまで、悩み、迷い、苦しむべきなのだ。
  仏教で、一切皆苦といい、その第一に、生きることの「苦」を挙げたのは納得が行く
 この「苦」を解消しようとするのは誤りだ。
  「苦」を引き受けることの中にこそ、私の真の人生があるのだと思う。
 
 釈宗演老師が
“迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。迷いの中へ飛び込んで、大自在を得る。”(『無門関講話』39頁)
とおっしゃり、釈宗活老師が
“大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。”(『臨済録講話』221222頁)
とおっしゃる趣旨はそこにあるのだと思う。
 
 そんな考えで、自分なりに始めてみることにしました。
 
合掌 英風 拝
 
(注1)「衆生済度」がこのように広く解されるべきことについては、釈宗活老師が
「禅の目的は畢竟如何と云えば、上求菩提下化衆生に外ならぬのぢゃ。(略)斯う云うと、否な吾々は在俗であるものを、下化衆生抔(など)と云う者があるかも知れぬが、夫れは飛んだ心得違いぢゃ、下化衆生と云うても、経を読んだり、法話を為したりする許(ばか)りが、衆生済度でない、大乗仏教を修したら、修し得た丈けの得力を、直ちに仁義道中の上に用いて、士は士として、農は農として、工は工として、商は商として働かすので、婦の夫に仕うる、子の親に孝たる等、是れ皆大乗門中の説法と云うものぢゃ。」
とおっしゃっています(『悟道の妙味』5~7頁)。
 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
 私の所属する東京荻窪支部では次の座禅会を定期的に設けています。
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 

JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵

善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
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チェンジ ユー(その3)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/11 22:12

チェンジ ユー(その3

丸川春潭

  自分を変えたいがだんだんと深まって本当の自分探しまで行き着き、本当の自分を掴むことで根本的に自分を変えるという観点を前のブログで書きましたが、「禅は君を変える!」というキャッチコピーからもう一度、何を変えるのかと考えたときのそのanswerの一つを追加しておきたいと思います。

 小生のいつもの相対樹と絶対樹の図を先ず掲げてそれで説明します。

一般的に変わりたいという場合はその99%がこの図の左側の相対樹での思考になっているのですが、禅を修する(座禅において数息観三昧になる、あるいは公案修行において公案三昧になる)ことで、感性の場にはじめて入り込むことができます。すなわち禅をやることによって、相対思考(知性)に加えて絶対思考(感性)も併せて持つことができるようになる。これは大きなチェンジです。

チェンジするユーが多く集まって社会現象になれば、世の中がチェンジすると確信します。みんなで把手供行して、相対樹から絶対樹に渡り、正しく楽しく仲の良い社会にチェンジしましょう!!合掌
 


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チェンジ ユー(その2)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/10 12:16

チェンジ ユー(その2

丸川春潭

 自分の顔や容姿のような外見的な皮相のことではなく、自分に自信が持てない自分をなんとかしたいとか対人関係における拙劣さを変えたい、落ち着かない性癖を何とかしたい等の自己の内面的な観点から自分を変えたいと本気で思うことは、人間形成の第一歩になる大切なことです。この思いの背景をよくよく考えてみると将来何かになりたいという思いが出てくるその前に自分を反省した結果であることに注目します。深く反省しているからこそ、これではだめだと奮起し向上心をかき立てるのです。

小生が20歳前後の学生の頃、耕雲庵英山老師の侍者をしていたときに、老師がわしは夜中に2回 目が醒めるのだが、その都度 前日の自分を反省しているんだと諭されました。すなわち反省が成長の前提にあり反省なくして成長はないという教えだったのです。その時老大師は70数歳でした。こういうことは年齢には関係ありません。若くても反省心がなければ成長しないし、年取っても反省して奮起すれば、何歳になっても自分を変えられると云うことです。
 次は、深く自己を反省した上で、今のままではだめだから自分を変えたいと奮起した人がそれを実践的にどう取り組むかということが問題になります。そしてこれにはいろいろな方法手段があり、沢山のハウツウ書籍が出版されています。ここまで追求して来る人も少なくなっていますが、ここから更に正しい解決策に巡り会える確率は極めて低いのが古今を通じた現在の日本の実態です。
 変わりたい自分をもう一度振り返り見つめ直して、変えられる部分と変えようがない自分に先ず分けて考える。そして変えようがない自分を更に詳細に見える部分と見えない部分に分けて追求してゆく。この見えない部分の追求が深まれば自然と「自分は何なのか」という本質的根源的課題に突き当たることになります。これはもうscienceでも知性でも解決できず、spiritすなわち感性の場でそれを探求するしかありません。この本源的な追求になるとひょっとしたら自家の珍宝を発見することができるかもしれません。こうなると自分がチェンジしたいと思っていたどんなことでもチェンジできているでしょう!!なぜなら本当の自分が掴めているのですから。こうなるとその人は全き自由を手にすることができ、はじめて個性が真に発揮できる状態になります。(つづく)

(補遺1)見えない部分の追求の方法が座禅での黙想(数息観法で良い)です。この詳細は、先のブログ「道力(胆力)を付けるには」シリーズ(その1)~(その4)をご参照下さい。
(補遺2)見えない部分の正しい追求の具体的仕方については、同じくブログ「道眼(胆識)を付けるには」シリーズ(その1)~(その5)をご参照下さい。
 


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