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擇木道場

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擇木ブログ - 201911のエントリ

座禅会だより

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/11/30 13:29

11月24日 日曜座禅会


日曜朝座禅会

初めての参加   1名

二回目以上参加  4名

会員       6名

5分の休憩を挟んで、40分、25分の座禅、経行、読経を実修した。

終了後に居士寮で日本茶、雷おこしなどをいただき座談会を行った。                  


久しぶりに『人づくり肚づくりと禅』のP58-61 3-1見性とその工夫のしかた、3-2公案と見性を読んだ。

数息観座禅をして意識を呼吸に集中して数息観そのものになると、外の音などの外乱が気にならなくなり脳の活動による思念が収まる。よく例えられるが、湖面に映った月の形は、湖面が風によって細かい波があると月の姿は乱れるが、湖面が鏡のように静かになると月がはっきりと写される。なかなか難しいけれど、数息観に熟達すると誰でもそのような三昧状態に至ることができる。私は摂心会の座禅ではそのようになるように努めた数息観の後で公案を工夫している。工夫とは公案を脳みそに焼き付けるように深く念じて公案そのものになることで、その状態になると見解が湧いてくる。その見解を老師に提示して正邪を判定してもらう。こうして三昧力を鍛えているつもりです。摂心会は三昧力、人間力の向上のための大切な期間と位置付けている。

昨日宿泊されて、座禅会に同席された道風庵老居士、翠松支部長に公案に関して分かり易く解説していただいた。


日曜夜座禅会

初めての参加   1名

二回目以上参加  3名

会員       2名


5分の休憩を挟んで、30分、25分の座禅。終了後に居士寮で日本茶、雷おこしをいただいて座談会をした。

『人づくり肚づくりと禅』のP58-61 3-1見性とその工夫のしかた、3-2公案と見性を読んだ。

袁○禅子から座禅のやり方で、脚を上手く組めないことに対する質問があった。脚を組んだ時に左右の膝が座布団に接地するように尻当ての高さを調節するという一般的な説明のほかに、胡坐を崩した方法や座禅椅子を利用する方法を説明した。右ひざを少し痛めた私自身も、摂心会などの座禅では座布団を使って半跏趺坐で坐るが、通常、個人的に坐るときは坐禅椅子を使っていることを話した。坐る形よりも呼吸に意識を集中することが大切だと思っています。龍泉

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小さな旅

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/11/29 22:18

11月29日 大江戸線の旅

毎年恒例の都立庭園巡りをやっています。

11/20に上野岩崎庭園に行った。11/29は大江戸線を使って3ケ所を回りました。

1.清澄庭園 

大江戸線の清澄白河を下車、徒歩5分ほどで着く。ここは紀伊国屋文左衛門の屋敷跡だった。享保年間に下総国関宿城主・久世大和守の下屋敷になり、庭園の基が作られた。

明治11年、岩崎弥太郎が買い取り社員の慰安や貴賓の招待場所とした。庭園造成を進めて明治13年に「深川親睦園」として開園した。

大正11年関東大震災で大被害を受けた後、岩崎家から東京市に寄付された。東京市はこれを整備して昭和7年に一般公開した。

伊豆の磯石、伊予の緑石など見事な石が配置してある。池の水面には落ち葉などは無く、手入れが行き届いている。昨年は鼈を3匹見つけたが、今年は気づかなかった。中島に植えられたハゼの木はかなり赤くなっていた。

2.深川江戸資料館

清澄庭園から10分ほど離れたところにある。江戸時代の庶民の生活が判るように展示してある。二八そば、天ぷらの屋台、火の見櫓、米屋、八百屋、船宿、その店で商売する人の長屋など実物大展示してある。部屋の中に立ち入ることができる。長火鉢を前に薄い座布団に坐ると江戸時代にタイムスリップしたようである。調度類は必要最低限な物しか必要なかったのでしょう。外と隔てているのは障子一枚、小さな火鉢ではさぞかし寒かっただろう。背中に「深川」の文字を染めた法被を着た説明員が説明してくれた。

資料館を出たところの「深川めし」という看板に誘われて昼食を摂った。江戸時代の漁師が船上で食べた「ぶっかけ」、明治時代の大工が食べた「炊き込みごはん」と煮物、漬物、みそ汁のセットで\2,150。食後のデザートには「葛切り」が出された。

私は「ぶっかけ」のほうが美味しかった。七味唐辛子を効かせるとうまいです。もう少し先に行くと深川めしを安く食べられる店もありました。ここはなかなか面白い街ですね。

3.芝離宮恩賜庭園

大江戸線の大門で下車、徒歩10分程度。65歳以上の人の入園料金は\70。こんな安いお金で美しい庭園を見られる。池の底の水草の緑が鮮やかだった。嘗てここは海だったが明暦のころに埋め立てた。延宝6年に老中・大久保忠朝の邸地となった。忠朝は小田原から庭師を呼んで作庭して「楽壽園」と命名した。その後、幕末に紀州徳川家の芝屋敷となった。明治4年に有栖川家御屋敷になった。明治8年に宮内省が買い取り、9年に芝離宮となった。大正12年の関東大震災で建物、樹木のほとんどを焼失したが、昭和天皇のご成婚記念として東京市に下賜された。その後、庭園の復旧整備をして「旧芝離宮恩賜庭園」として一般公開された。

4.浜離宮恩賜庭園

大江戸線の汐留で下車するのであるが、芝離宮から30分歩いた。

この地は将軍家鷹狩りの場だった。承応年間に松平綱重の別邸となり庭園として造成され、甲府殿浜屋敷と呼ばれた。綱重の子供の綱豊が六代将軍家宣となるに及び浜御殿と命名され、大いに改修が進んで、将軍家の行楽、接待の場として使われた。明治維新後は宮内省所管となり、浜離宮と改名されて迎賓・謁見の場として利用された。

昭和20年には東京都に下賜された。

池の中島の茶店で抹茶を飲むことが、私がここに来たときの習慣でしたが、11月から来年2月までは茶店の改修のため利用できなかった。

着物を着た女性の集団、外国人観光客の集団も多かった。近畿日本ツーリストの観光バスや外国人観光客のための観光バスなど7台が大門前に停車していた。


浜離宮を出て、有楽町を経由して東京駅まで歩いた。雲一つない快晴に恵まれた。少し肌寒いがとても良い気分で、小さな旅を満喫できた。このような庭園を個人で所有したら大変なお金がかかるが、\150程度で満喫できるのは幸せだ。スタンプラリーの庭園巡りは、残り2か所、来週の水曜日には残りを制覇して、来年の庭園カレンダーを貰いにいくつもりです。最後は六義園です。龍泉

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時間なんてあるのかな

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/11/29 13:34

時間なんてあるのかな



コーヒーに入れた砂糖は

溶けるのに5分かかるが、

砂糖の溶解という実在のプロセスと

5分間と認定する時間規定は別物


様々な実在プロセスを測定し、

互いに理解し合うために

便宜上設定されたのが時間規定


ところが、

我々は

自己とは無関係に設定された

公共的な尺度である時間規定を

客観的に昔から存在するものとして

受け入れてしまっている


その結果、

大きな客観的な時間プロセスの中に

後から我々が参加したように認識してしまう

偶然、この世に生み落とされた自己は

あっという間にこの世を去っていく存在で

当の自己自身は無きにも等しい

小さな存在だと思ってしまう


一方、

過去のものの現在が記憶

現在のものの現在が直観

将来のものの現在が期待

であると

アウグスティヌスは言ったらしい


大きな現在の心の中に全てがあり

時間とは、

振り返ったり

見回したり

行く末を思ったりする

心の作用


自己とは、

過去を引き受け記憶し

現在の覚知と統合し

将来の予測と結びつけて

一貫した自己というものとして

創造してゆく生命活動そのもの


1600年に関ケ原の戦いがあり、

1603年に家康が江戸幕府を開いた

という知識そのものには意味がない

その知識が

自己という創造活動に活かされて

初めて意味を持つ


ただ

この自己は死すべき運命の下

有限の存在

死に至る

かけがえのない自己という生命活動を

いかに創造してゆくか

ここに全てが帰着する


自分とは無関係に存在する客観世界など、

恐らく意味はない

時間も実在しないのかも


日峰

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ローマ教皇フランシスコ

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/11/26 12:41

ローマ教皇フランシスコ

丸川春潭

ローマ教皇の長崎での演説(2019.11.23)に感動し、いろいろなことを考えさせられました。

先ずは、世界情勢の中でまことに真っ当な正論を聞き溜飲が下がりました。それは我が意を得ての痛快にさえ感ずるものでした。

日本のマスコミはテレビも新聞も断片的でしかも重箱の隅をつつくような報道や解説しか流さないし、政府にしてもまさに政治発言以上のものを期待するのが無理と期待できないし、野党の方も足を引っ張る、ためにする論議ばかりで、長年鬱積が溜まっていました。

現代の人類が抱える様々な事柄を何が幹で何が枝葉なのか、そして一つ一つの位置づけを本質的に判断して断言されました。素晴らしいことです!内容においてもその直向きさにおいても感動しました。

そして宗教者が最も政治的に正しい発言をするものだ!という驚きを感じました。何者にもとらわれない見地から正しい歴史認識と評価をすることが出来るのは宗教者だけなのだとあらためて納得しました。

またキリスト教が仏教なかんずく禅宗と違って、政治経済に直接関わってゆこうとする方向性を持ち発信をしていることをあらためて認識し直しました。特に、人間禅は在家禅を標榜しているのですが、見習わなければなければならないことだと思いました。そしてよく深く歴史を勉強していることに敬意を感じました。人間禅の創始者の耕雲庵英山老師が、人間禅創立(昭和23年:終戦から3年)直後から人間禅の会員に向かって「世界観と歴史観」をしっかり勉強し保持しておかなければならないことを力説されていたことを思い出しました。

また別の観点から、テレビを通じてのフランシスコ教皇の人となりを垣間見て、一神教も多神教も道を極めて行けば本質において全く変わらないと云うことを実感しました。

人間禅ならではの使命をしっかりと押さえながらも、これからの時代の新しい在家禅者の生き方に大きな勇気となすべきことの方向性の示唆を正受したしだいであります。

 

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天の声を聴く

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/11/22 6:20

天の声を聴く



禅の教えはもとより

現象学などの近代哲学でも

考えないことが大切だとされる

いわゆる「無」の状態である


でも、何も無いのか?


我々は脳や知識だけを根拠に

生きているわけではなさそうだ


寝ていても生きているし

生活の中で無意識の時間も多い


生まれてから後天的に植え付けられた

価値観や世間体に左右されて

勝手に、妬ましい、欲しい、嫌いだ

という意識が出て来て

苦しんでいる


だから何も考えるな、

その訓練を行えという教えが

古来からあるのだろう


では、何も考えていない時は

我々は何を感じて生きているのだろう


暑さ、寒さも含め、微妙な空気

様々な因果の流れの中に生きている


ニーチェは、静かに耳を澄まし

「存在の声」を聴こうと呼びかけた

孤独の沈黙の中で

ありとあらゆる生成流転が

その秘義を語り始めようとするかのようだ

と告白した


生成流転を感じ、

その流れに沿って生きる時

その時、我々は天の声を

聴いていると言えるのかも


天の声が日本語や英語を話すはずもないが

存在の真の姿を感じさせてくれるのだろう


実は、我々が天の声を聴いているのではなく

天の声が我々の心と身体を使っているのでは


後天的な世間体や価値観が邪魔しなければ

天の声との一体感を知るのだと

古来から先哲たちが教えてはいるが。


日峰


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 擇木道場の風印です。

 1115日~17日に開催された、さいたま座禅会摂心会に参加しました。

 さいたま座禅会はさいたま市での座禅会で、毎週水曜の夜、「仲町公民館」や「しみん会館うらわ」で座禅をしています。

https://profile.ameba.jp/ameba/saitamazazenkai

 摂心会は宿泊する施設が必要なため、さいたま座禅会の摂心会は当道場で行われます。


 私は東京支部に所属しており、所属外の摂心会では基本参禅が出来ないため、ひたすら座禅と作務のみをする摂心となりました。

 参禅の無い摂心は初めてだったのですが、公案の工夫をせずにただ坐るのも良いものですね。




 摂心会中に「芭蕉と禅」という講演会が催されたのですが、私は所用で参加出来ませんでした。

 摂心円了後の懇親会で講演の内容を少しお聞きしたのですが、「古池や蛙飛びこむ水の音」などの芭蕉の句は、確かに禅の境地を詠んでいるようにも思えます。今まで芭蕉と禅の関係について考えたことがありませんでしたので、とても勉強になりました。

 懇親会で道友の皆さんとお酒を飲むのは何よりの楽しみです。

 今度はさいたま座禅会にも顔を出してみようかな。


合掌 風印 拝


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ごきげんよう!
青年部の玉道です。さて、今週23日(土)の朝8:45~ 第7回人間形成と禅の輪読会が開催されます。
今回の内容は、「Cほんとうの宗教の在り方」「Ⅰ客観的情勢からみた新しい宗教」「16教理の合理性」からになります。

Cほんとうの宗教の在り方」の本文から引用です。
 とにかく、私が、新しいほんとうの宗教を打ち立てると申したのは、こんな意味で、要は脱皮するにしても、新しく創設するにしても、文化人に納得がいく要素を持たなければ、これからは宗教の使命を達成することはできません。で、その新しい宗教たる条件を、私は、客観的情勢と主体的要素に分けて検討してみたいと思います。
I客観的情勢からみた新しい宗教

新しい宗教として、その客観的情勢に即して、どうしても備えなければならない条件として、私は、次の三つを指摘したいと思います。それは、視野の世界性と教理の合理性と制度の民主性であります。もし、この三つの条件に適わないならば、それは古い宗教として時代から置きさられてしまうと思います。


今回の輪読会は、この3つの条件「視野の世界性」「教理の合理性」「制度の民主性」の2つ目「教理の合理性」からスタートになります。教理の合理性では、宗教の独自性、一切の神秘を説かない教理、科学は常識、理外の理、神仏・霊魂・因果の解釈、理釈と事釈。制度の民主制では、宗教改革、特権階級的意識、超人的生活様式、封建的制度、法務と事務、俸給制度、葬式においての内容に触れていきます。
毎回思いますが、いま読んでもそのまま通じて伝わる、丁寧で説得力がある熱い内容になっています。みなさん一緒に勉強しましょう!お待ちしております!!

第7回『人間形成と禅』輪読会は今週です!


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数息観座禅における質的向上のためのノウハウ(その2

丸川春潭

 

 数日前(11月上旬)に、後期数息観座禅(数息観座禅が段々と深まった段階の座禅)における工夫(ノウハウ)の一つをブログ「座禅の工夫」にしてご紹介しました。

 それは、数息をしないで10呼吸を一区切りとする高度な数息観座禅(正息観座禅)だったのですが、どうもこのブログを読んだだけではよく判らなかったようです。

そこでもう少し説明を加えます。

これはまさに数息観の質的向上をはかるための小生が考案したノウハウなのです。『数息観のすすめ』の後期数息観は呼吸を数えない数息観になるのですが、これをいきなりやってもなかなか座禅三昧に深く入ることが難しいのです。難しい理由の一つが、数息する場合は1から10まで数息すると一区切りとして反省ができ、またそれが向上のためのモチベーションにもなるのですが、数息しない只管打坐になるとエンドレスで雑念を切る座禅になるためになかなか深く三昧を掘り下げることが難しいのです。

そこで人間は数を数えなくても、前・中・後のような三段階は認識できるので、三呼吸(済んだ呼吸・今の呼吸・次の呼吸)を三回と一呼吸で10息の区切りとする正息観(呼吸を数えない数息観)のやり方を編み出したのです。

これを始めて未だ一年くらいしか経っていないのですが、朝晩の座禅で実行した結果が想定以上に効果があるので皆さんにも紹介したのです。

以上は前回の補足であり、以下が今回の新しいノウハウの紹介です。


 息は数えないが10息の正息観を数本順調にやれたら、次のステップに進みます。これは数息しないけれども呼吸に意識をしっかり残した座禅になります。本来エンドレスのものでなかなか深まらない高度な座禅ですが、上述の正息観をしっかりした後であれば十分に出来ます。これも数分間順調にできれば次のステップに行きます。

 次のステップは、完全に呼吸から離れる忘息観・離息観です。

このステップへ移行するときにちょっとしたしかし重要なノウハウがあるのです。それはしばらく呼吸を止めたままの座禅をするのです。苦しくなるほどする必要はありません。これが入ると、今までの呼吸に意識をしっかり残した数息しない正息観から全く呼吸を意識しない忘息観に切り替えがキチッと出来るのです。この忘息観はまさに宝鏡三昧であり、座禅の醍醐味がここにあります。

 試みてみて下さい。(つづく)


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親父の認知症の度合いがここへきて急激に進み、とくに夜から朝にかけては手足の上げ下げの仕方、

歩き方すらわからなくなっている。譫妄状態の親父を夜中とか朝方に風呂場に連れて行って汚物を処理して体を洗ってやるのは

結構苦労で、今のところまだいつもいつも、というわけではないが、そういう状況が確実に増えつつある。


そんな状態の親父ですが、これがゴルフのクラブを持たせると俄然、往年の時代の立ち姿にもどる。

家の中でパターの練習セットをひろげると、クラブの構え方も振り方も全然昔のまんまで、実際に打ってみると、玉もそれなりに穴に入る。


そういうわけで、先週の土曜日に、ためしに近くのゴルフの打ちっ放し場に連れて行ってみた。僕にとっては生まれて初めてのゴルフ体験でしたが。


全く不思議です。


やっぱりスイング(っていうねでしょうか?)姿はやっぱり昔のまんまだし、きちんと玉はまっすぐ正面にとんでいく。

そこだけみていると、とても84歳の認知症老人には見えない。目もシャンとしている。

ド新到者の私にドライバーの打ち方をアドバイスしたりしている( 「もっと足を広げた方がいいよ」 以外は意味不明だったけど)。


嘘だと思うなら、今度の月曜座禅会の時に見せてあげます。ケータイ電話で動画を撮ったので!


やはり親父は親父なりにゴルフについては長年真剣に、集中力をもって取り組んでいたということなのでしょう。

そして、集中する、それも身体全体でもって集中する、という種類のことに長年にわたって取り組みつづけていく、というのは、

人間であり続けるためにも、とても重要なのだと感じました。


月曜座禅会の後でそんな話を聞いてもらおうと思っていたのに、どなたかからのご供養のバランタインの17で頭がいっぱいになって思い出すことなく終わってしまったため、

この場を借りてご報告です。 ぼくもまずいなぁ・・・



寺嶋 徳隆(月曜担当)

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座禅の工夫

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/11/12 9:48

座禅の工夫

丸川春潭

 本題に入る前に、現在広報担当部長を中心にして鋭意人間禅のHPの刷新をすすめています。従来のHPは各支部・禅会毎に立ち上げて、個別のHPとしてネット広報を他の僧堂や禅会と競っていたのですが、いろいろな観点(スマホ対応、人間禅としては弱小分散などなど)を考えて、HPの刷新を決意しました。

これからは基本的に、人間禅は一つのHPを全支部・禅会全会員でもって盛り上げ、ネット広報における競争力を上げようとするものです。今年度中には完成し、順次新HPへ結集することになります。そしてわれわれがなす努力はブログをしっかり書き続けることです。

 ブログ書きは、自分のために書き続けるものと心得て、新HPが出来るまででも、出来てからも書き続けて頂きたいと思います。自分の心境、感動したこと、同じ志を持つ人への問題提起等を書き続けると、一年経って振り返ると大変意義深いことが判ります。

 

 後期数息観座禅(数息観座禅が段々と深まった段階の座禅)における工夫(ノウハウ)について参考までにブログにします。

 耕雲庵英山老師の数息観のすすめに言われる後期数息観は、数息しない数息観座禅であり、座禅経験2030年でもなかなか踏み込みがたい深い三昧レベルです。具体的に小生がこれを、息を数えないが呼吸に意識を集中する正息観座禅と、数息に全く意識をしない忘息観(離息観)座禅の二つに分けられると解説してきています。

 本日の工夫は、後期数息観の前段の正息観座禅についてです。

 これは一般的には上座仏教とか曹洞禅の只管打坐と相通ずる座禅であり、なかなか人間形成として日進月歩させることが難しいものです。その根拠の一つが、今実践した正息観座禅がOKなのかNOなのか自覚しにくい点です。

 そこで小生は、数息はしないで10息を一区切りとする正息観座禅を現在実行しています。もう少し詳しく申しますと、数を数えなくても三息は意識の中で保持できます。これを三回続けると9息になり、締めの一呼吸で10息とします。判りやすく云えば3息を三回、息を数えずにつづけるのです。息を三回数えるのであればまことに簡単ですが、息を数えないとなると厳密な1から10までの数息観(70点)を連続5回出来るよりももっと上の三昧力がなければ出来ない高度な座禅になります。ただ客観的に云えば、正息観の前段階といっても良いかと思います。

 この10息正息観法は、10まで完璧に出来たかどうかが明確であり、数息観点数としてこれを5本通して81点とすることが出来ます。ここがミソです。

 小生の朝晩の数息観実践では70点の数息観を23本通したらすぐこの正息観で10までを数本通し、そして次にステップアップすることにしています。(今日はここまで、明日はまた別の工夫を)


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