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擇木ブログ - 20190918のエントリ

「死」が軽い現代!

~~敬老の日に因んで~~

H30.8.23 丸川春潭

今の子供達は核家族になっているために家族の死別の悲しさを知らないで大人になる場合が多くなっている。私は父母の親(お爺さんお婆さん)が死んだときの父母の涙と悲嘆を子供心に強烈な印象で覚えている。それは大人になってからの実の父母の死よりも鮮明で強い印象になって残っている。それは子供の時の方が死の悲しさを感受性強く受けるからなのであろう。

肉親の死でもって「人間の命」を肌で感じ、肉親の死別によって深い悲しみを知る。三代、四代の大家族は、必然的に祖父母、曾祖父母の死に遭遇し、家族が死別を悲しむ様子を幼いなりに受け止める貴重な経験に遭遇することになる。

 幼少期に人に死があり、死別がどんなに悲しいことかを知ることにより、「命の大切さを知る」ことになる。これはどんな教育にも勝る大切なことである。また人間にとって悲しいことを知ることは、嬉しいことを知ると同じようにその人の人格形成にとって極めて重要である。

現代の幼児期から学童時代の子供達は、ゲームにどっぷりであり、そのゲームの仮想社会で悲しみの伴わない死を繰り返し繰り返し日常茶飯事的に積み重ねて大人になっている。

その結果が、横須賀の施設の大量殺戮や子供や親を殺めることに繋がっていると考えるのは短絡であろうか?

また、自死者がやっと年間3万人から2万人台になったとは云え、阪神淡路大震災の死者数6千数百人はもとより東日本大震災の死者数1万5千人強よりも多くの人が毎年 掛け替えのない命を自ら絶っている。弱者を殺めることと、直ぐに切れやすく自死してしまうのは、根っこは同じであり、命が軽い現代社会の病根から来ているのではないか?今の世の中は実に人の命の尊厳が希薄な時代である。何とかしなければならない。

高年齢社会になってきているが、孫や曾孫と一つの屋根の下で住んでいる老人は少なく、独居老人が多くなっている。そして一人で亡くなって行く人も多い。樹木希林さんは癌の闘病で入院していたけれども死ぬときは家に帰りちゃんと孫に自分の死を見せて亡くなられたそうであるが、マクロ的に云えば、ほとんどの老人は老人の果たす最後の役割を果たせていない。

次の世代に対する最大の教育として、「人の命の大切さ」を死別の悲しさから示す「死に様」を前向きに老人は意識しなければならないと思う。もちろん個人的な努力のみならず社会的にも「死別の悲しさ」をもっと大切にし、そして人の命の大切さ重さを日常的に感じられる人間味の豊かな社会にして行かねばならない。


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囲碁を楽しむ人は囲碁が上達しない!

春潭

 楽しいことは大体において良いことですよね。

人間禅のモットーは「正しく・楽しく・仲よく」です。

ただ、禅による人間形成の修行が楽しいかと問われると、なかなか答えにくいものがあります。

若い頃、師事していた囲碁の先生(関西棋院の亀山七段)に囲碁の仲間が、「囲碁をやっていて強くなる人と、いつまでも強くならない人といますが、囲碁が強くなるかならないかの差はどこにありますか?」と問うたとき、先生が「いつまで経っても碁が上達しないのは、囲碁を楽しんでいるからです。強くなりたい人は囲碁を楽しんではいけません!」と答えられました。その言葉は厳然としたもので、今でもはっきり覚えています。

「禅によって人間形成を積めば、人生を楽しみ味わうことが出来るようになる。」とは云えますが、人間形成の修行というものは元来、自己の殻を破る修行ですので、厳しく自分に妥協せず克己が必要であり、したがってその途上において楽しいと云うことは本来そぐわないことでしょう。

亀山七段の教えを禅的に解釈すれば、囲碁を楽しむと云うことは、勝ち負けという相対の場において勝った優越感を楽しみとしているのであり、囲碁道という人間形成の要素が欠落していることを突いているのです。囲碁の上達も負けを反省し、克己し、苦しんで研鑽しなければ自分の棋力を向上させることはできないということでしょう。

もちろんプロのように棋力の向上一筋ではない我々アマチュアにとっては、ひとときの指談(残月軒道聳さん命名の造語)を楽しむ囲碁はあって良いのですが、棋力を上げるとか囲碁道として囲碁を通じて人間形成をすると云うと、勝ち負けの楽しみだけでは駄目だと云うことでしょう。

新しく禅門をたたいて来られる方で、公案修行を楽しんで居るのではないかと思われる方がたまに居られます。われわれは来る者は拒まず去る者は追わずで、こういう方も勿論受け入れます。ただ若干困るのは、摂心会や参禅会などで大部分の人が公案の工夫や正念の工夫で自己の内に向かって集中している場にあって、楽しげに周りの人に話しかけられることで、そういう場合はちょっと控えて下さいと云わなければなりません。こういう人は公案修行を知的興味の対象として捉えているのでしょう。

磨甎庵劫石老師は摂心会や参禅会で、「無駄口をたたくな!」「白い歯を見せるな!(大口開けて笑ったりしゃべったりするなということ。)」と常々厳しく仰っておられました。

楽しんで修行するに超したことはありませんが、そして楽しんでいるから人間形成が進んでいないとは必ずしも云いませんが、長い目で見ていると楽しんで修行をする人は、得てして長続きがせず途中で挫折してしまう場合が多いものです。公案が進んでいるときは知的興味も可能でしょうが、公案は必ず何度も壁に当たるものです。そうなると知的興味だけでは続かなくなります。楽しくなくなっても自分を向上したいという本来の公案修行の軌道に、知的興味の軌道から転換しなければ修行は継続できません

以前にも申しましたが、修行の最初はどういう動機でも良いと耕雲庵英山老師も云われています。修行を継続する中で段々と修行に向かう志が本物になって行くのを見越されて言われたのだと思います。継続は正しくなければ継続できないし、継続しているのはその取り組みが正しくなっているからなのです。

 

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