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擇木ブログ - 20190906のエントリ

私は何故座禅を始めたか?②

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/9/6 23:03

そこで見つけたのが鉄舟会という座禅会でした。臨済宗系の道場ですね。大森曹玄という老師の開いた道場ですが、既に老師は病に倒れご存命ではあったが、座禅の指導等出来る状態では残念ながらありませんでした。直日(じきじつ)のみいて座禅会を指導している状態でした。しかし、その直日の方が非常に親身に私の話を聞いてくれたのを覚えています。無論他の参加者に対しても熱心な方でした。

これは大事な事で、他人の不幸を我事のように共有しようとしてくれる人は、もしかしたら座禅会の看板を掲げる場でも、案外少ないのかも知れないと思います。一口に座禅と言っても、そのようなタイプの指導者がいくらでも転がっているわけではなく、自身で苦労して探す必要があるのです。私は老師不在の座禅会ではありましたが、取り敢えず自分の居場所を得たと思い、そこで修行することにしました。ここでまた二つ問題が生じます。

1.その鉄舟会の直日さんもその年の冬、田舎の大分に帰る事になった事

2.座禅を始めた事で先ほども申した通り、異常な緊張感から解放され、一定の落ち着きを取り戻した事。それならそれで良いのではないか?とお思いでしょうが、それはいけないのです。人は手前勝手なもので、喉元過ぎれば熱さを忘れるのです。直ぐに惰気を発し座禅等やる気を無くすのです。

必死に道を求めると言う事は、そうしなければ命も危ないという状態で、初めて成立するものなのか?とその頃思いました。僧堂で修行するのとは違い、在家者で緊張感を持続しながら正念工夫するにはどうするか?娑婆には何かと誘惑が多いですから。

正念工夫→正念相続

その時に公案禅をやってみたいと思うようになりました。公案についてはそれまでも本で読んだり、鉄舟会で大森老師がお元気だった頃に行われていた様子等を聞きかじってはいました。何だか良く分からないまま、兎に角公案がやりたかったのです。

何れにしろ、また良き指導者を探す必要が生じたのです。しかも公案禅の指導をしてくれる方です。そしてまた探しました。そしてそれが意外と早く意外と自分の住居の近くにあったのです。

今度は曹洞宗の大光寺というお寺でした。船田鉄門老師という方が住職をされていました。場所は井の頭線の西永福でした。井の頭線の線路端にある小さなお寺です。電車が通れば寺ごと揺れました。ご存じの通り曹洞宗では一般には公案禅は用いないのですが、その船田老子の法系ではお爺さんに当たる、原田祖岳老師という方の系列のみ公案指導をするのです。曹洞宗では非常に希少な法系になります。

私が初めてその大光寺を訪問したのは、座禅会の日ではなかったので、老師と対で面談したのを覚えています。私は今日お話ししたような事を、老師にお話ししたと思います。老師からのお言葉で今も覚えているのは、最近座禅は身体の悪い人が健康のためとか言って始めたりするが、それは健康法であって、本来アンタみたいな悩みを持っている人がやるものだと言う言葉と、それと特に用事がなければ、私はいつも此処にいるから、時間を見つけて来なさい。と言われました。この二つを覚えています。

そのようなお言葉もあり、2回目に訪れたのは次の日だったように思います。その時昨日私が使用した座布団の棚の前に連れていかれ、私の収納の仕方について叱られたのを覚えています。それは座布団の縁と棚の縁をぴたりと合わせて仕舞え。と言うことでした。そう言われ私の入れた座布団の仕舞い方を見ると、酷いものなのに始めて気がつきました。

その後も日常的な事細かな事につき注意を受ける事が多々ありました。例えばトイレから出た後、手を洗う時水道の水を必要以上に流すなとか、その水が周囲に飛び散ったら必ず拭けとか、色々でしたが今思えば、大上段に構えて人間とは何か?だの、悟りを開きたいだの言う前に、自分の行儀の悪さを知れ。それが今のお前だ。と教えてくれていたのだと思います。

禅僧恐るべしで、人を見る時その人の肩書や、お話の内容よりもその人の一挙手一投足を見逃さない物だと思いました。つまりこの人の前では嘘も取り繕いも通用しない。自分はいつも素っ裸の自分をこの人の前に晒しているのだ。という事です。このことは後にその老師に独参する事で痛感するのですが、全く誤魔化しようのない素の自分しか通用しない恐ろしさと、普段自分が如何に世間を誤魔化そうとしながら生きているのか。その事が眼前に突きつけられてきたのです。


続く


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