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擇木ブログ - 20190905のエントリ

私は何故座禅を始めたか?

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/9/5 23:59

私は何故座禅を始めたか?

荻窪座禅会 水谷心舟


年齢は33歳、当時私は仕事は高円寺で飲食業のマスターをしていました。店を開店して丁度5年が経過した頃でした。自分なりのやり方も何とか身につけ、また景気も良い時代だったのでしょう、仕事は順調に運び始めたそんな時期でした。

その頃仕事とはまた別に店に来る常連客の何人かと、同人誌等作ったりしていました。何でそのような事をしていたか?と言えば、その時代より更に遡り、学生時代の頃より、今ここにある自分とは何か?そんな疑問に囚われる事があり、自分を追いかけ回してみたいと言う欲求がありました。その方法として文学というものに何となく興味を持ち始めていました。

それから年月が流れ、その33歳の時、非常に深い心の穴倉に落ち込むという経験をしました。これはある日突然とてつもない穴倉に落ち込んだ。そのような経験でした。

それを一言でいえば

虚無(ニヒリズム)

これです。

もう少し噛み砕けば、例えば人は産まれた事も、死んでいく事も、自身の責任ではない。そして私の身体の機能が勝手に動いて命がある事も、私の責任ではない。私の命を持続する上で私とは何か?今思えば全くの観念の遊びのようなお話ですが、それに明快に答えないことには、一瞬たりとも落ち着かない。その様な心境になってしまいました。そのような考えに至ったと言うよりは、全身全霊がニヒリズムに成りきった。それでした。生きている事を自我が了解しなければ一瞬たりとも落ち着かない。そのような異常な精神状態でした。

自我の芽生えの以前に既に命はある。命の意味を自我は元々問う立場にはない訳ですが、この当り前の厳然たる事実が、当時の自我ばかりが突出している私には不快だったのです。

一度この課題にとり付かれた人の選択は三つしかないと、これは漱石の行人と言う小説にあった言葉だったかもしれないのですが、その三つは(自殺か発狂か宗教か?)そんな言葉がリアルに当時の私に()し掛かりました。少なくとも自殺と発狂は嫌なのですが、理屈っぽい人間の性として宗教も厭なのです。特に神仏にすがれという他力宗、これは疑問だらけの渦中にある人にとってはダメなのです。

そんな時たまたま家の本棚にあった鈴木大拙という人、有名な禅者ですがその人の(無心ということ)という本を手にとってみたのです。自分の家にあるので、以前読んだ事があるのかもしれませんが、記憶にはない本でした。そこに何が書いてあったかも今となっては良く分からないのですが、兎に角禅について書いてある本なのです。そしてその本を読むうち、その本の文字に自分が引っ掴まれるような不思議な感覚がありました。書かれている事を理屈で解釈して成るほどという了解ではなく。何かそこに今自分が抱えている苦痛の解決の糸口があるように思われました。

そして次の日、以前少しかじった事のある座禅を見様見真似で家でやってみました。それがまた不思議なことに、それまで緊迫していた自分の心理状態が沈静し、緊張感が和らいでいくのが実感されました。これはどうにも理屈ではない。兎に角そうなのだから仕方がないのです。

そのような体験から、ちゃんと座禅指導をしてくれる所を探し、座禅を始めてみようと思いました。今のようにインターネットがあるわけでもなく、探す方法はやはり本でした。座禅指導をしてくれる道場、等と良く紹介されていました。良く分からないまま片っ端から電話をかけてみたり、直接出かけてみたりしましたが、中々これはと思える所に出会えませんでした。まずまともに話を聞いてくれる所が意外と少ないのです。自身の悩みを語れば、貴方の言っている事は分からない。座禅より精神科の先生に診てもらえ。等とも言われたこともありました。


続く


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私は何故座禅を始めたか?

私は何故座禅を始めたか?②

私は何故座禅を始めたか?③


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