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擇木ブログ - 20190813のエントリ

敷居の高さ

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/8/13 2:18

敷居の高さ

丸川春潭

 敷居が高いと外からの人が入って来にくく、敷居の高さが低いと外からの人が入りやすい。これは一般的に使われている言葉ですが、禅門への入門に対してもよく使われる言葉です。

 明治以前の禅宗の寺院での入門は、庭詰め・旦過詰めと云って修行を志して入門をお願いする際になかなか入門が許されない。先ずは庭先で数日、そして門内に入って数日、更に玄関で数日と云う具合に志の堅さを試されてからやっと入門の座につけるという手順がかっての僧堂では遵守されて、それは今日まで形式的になっているようであるが続いているようです。まさに敷居が極めて高い見本です。

 この敷居の高さの源流は、6世紀に菩提達摩がインドから中国に渡って来て仏心印(言葉では届かないお釈迦様の悟り)を中国人の二祖慧可に伝えたのですが、慧可が達摩大師に入門するに際して有名な二祖の断臂が行われた故事がまさに敷居の高さの源流になっています。道を求める志の覚悟の強さを示すために慧可は自分の臂を絶って示したのです。

 もう一つ、この二祖の断臂と並んで敷居の高さ・入門の厳しさを教える故事として有名な故事に雲門の折脚があります。これは9世紀の終わり頃の話で雲門が命をかけて禅門に入ろうとして寺の扉に足を挟んで折ったという故事です。

 これらの故事は氷山の一角であり、その精神が中国から日本へと連綿として守られ遵守されてきました。この敷居の高さの厳しさがあったからこそ正脈の法が1500年間絶えることなく21世紀の今日まで生きて伝えられたと考えられます。この精神というものの中身が問題ですが、それは後から詳しく延べるとして、ここでは表面に現れた敷居の高さに戻りたいと思います。

 すなわち現在の人間禅においての敷居の高さはどうかと云えば、極めて低いと認識しています。人間禅という名前に変わってからもそうですが特に小生が総裁を務めた期間は一段と低くなったと思っています。意識して低くしたのです。

 ではその精神はどうなったのか?ということが懸念されますが、これを考える前提として、伝統的禅宗の僧堂が禅修行を志す者に対して敷居を高くしてきた意味は何だったのかと云うことを先ず考えましょう。それが次の4項です。

 (1)本当の人物を求めるため。狙いは嗣法者たり得るかの選別をする。

 (2)不退転の強い志を決意させるために。高い敷居に立ち向かう中で醸成させる。

 (3)滴々相承された法を軽忽にしないため。軽々になると禅学になり法は断絶する。

 (4)裕福な外護者がない場合(布施だけ)で修行する寺院は、物理的と運営面で人数制限をする必要性があった。

 これらは明治以前の禅宗僧堂での敷居の高さについての意味でありますが、明治以降の在家禅の場合にはこの4項目がどうなるかを注意深く検証する必要があります。

 在家禅の誕生は明治8年東京の湯島の麟祥院に蒼龍窟今北洪川禅師(円覚寺初代管長)を拝請して奥宮慥斎・山岡鉄舟・高橋泥舟・鳥尾得庵・中江兆民等10数名(全て一般社会人)が参禅弁道の修行をすることで誕生した両忘会に起源を発していますが、これは僧堂中心であった臨済禅に一時代を画する歴史的な在家禅の誕生でした。

 この両忘会を起源として始まった在家禅は、第二次世界戦争の終結まもなくの昭和23年に人間禅に引き継がれ、更に一段と在家禅の特徴を明確にして創立されました。その特徴は、『立教の主旨』に明記されているように、江戸時代までの禅宗が「伝法のための伝法」であったのに対して、在家禅が「布教のための伝法」に進化した点であります。

 もともとのお釈迦様の原点では、一般社会人の教化・救済が前面に出ており、伝法はそのために必要なものと云う位置づけでした。これは形として「布教のための伝法」であり、まさに在家禅は釈迦の原点への復帰であります。そうすると結果的ですが明治以前の僧堂禅の「伝法のための伝法」は一般社会人の教化・救済を先送りしていた時代であったと考えられます。伝法さえ続いておればいつかは教化・救済が全面的に可能になる時代が来るという見方です。まさにその先送りされたのが明治以降の在家禅であり、人間形成の禅が社会教化・救済そして正しく・楽しく・仲の良い地域社会づくりをする時代になったのです。

 この僧堂禅の時代から在家禅の時代になって、敷居の高さに対する考え方もガラッと変わるべきであります。すなわち先述の(1)、(4)は在家禅においては不要でありあってはいけない項目です。すなわち在家禅は宗旨として教化・救済すべき一般社会人を取捨したり、選別してはいけない(全て受け入れる・来る者は拒まず)のです。

2)については、そうあるに越したことはないのですが最初から高く強い求道心を入門の条件にせず、入門してから徐々に醸成してゆくのもしかたがないとして許すのが在家禅の慈悲であります。従ってこの項も在家禅では消されることになります。人間禅の創始者である耕雲庵英山老師は入門の動機は何でも良い、神経衰弱を直したい、こころを落ち着かせたい、書道家が良い字を書きたいから等まさに些細な動機から入っても良いとはっきり言われておられました。

また(4)項においても多々ますます弁ずである在家禅では人数制限はありません。そうすると残るは(3)項だけになります。

 この(3)項「滴々相承された法を軽忽にしないため。軽々になると禅学になり法は断絶する。」は、在家禅といえども欠くことが出来ない必須の事項であり、これさえあればあとは何とでもなるというものです。在家禅の「布教のための伝法」においても当然伝法は不可欠であり、これが途絶えたら教化・救済はできなくなります。ここでは簡単に延べておき後述で詳しく述べますが、人間禅の公案集「瓦筌集」の後半になるほど、そして200則終わってからの聖胎長養に及ぶまで、その質とともに厳格さは絶対に保持されなければならないものです。

 選別せず来る者は拒まずで敷居の高さは極力下げて、しかも「法を軽忽にしない」ことを在家禅では両立させなければならないのです。そこに師家の力量がより高度に厳しく求められており、また支部長・禅会長の苦労するところです。

 在家禅では、社会に役に立つ人物をつくることを第一目標にしており、この中には情報社会においての厳しい精神状況にあってともすれば精神疾患に陥りやすい状況の中で正常な精神状態を常に保持するという役目を担わなければならない。と同時に有力(うりき)の人物の更なる見識を高めまた人間力を養成し社会で役に立つ人物を輩出しなければならないという役割も合わせ担っています。すなわち在家禅は対象者に対して幅の広い対応が求められているのです。従ってかっての僧堂での高い敷居ではサッサと弾かれているような人も手を広げて受け入れ、また同時に本格に道を求めて来る人物をも同じく受け入れるのです。

そして更に肝心なことは、この事の修行は長年月にわたる継続が前提であり肝要であるだけに、僧伽(修行集団)の形成が不可欠であります。選別していないから様々なレベルの人が来る、また多様な文化と思想の違いを持った人たちが来参する。こういう様々な人たちをまとめ、求心力を持った組織として行事を運営しなければならない困難さを在家禅会は大前提としているのです。

 困難を伴うといえども多様な重い使命を果たすべく我々は極力敷居を低くし、低くしたための困難性をしっかり克服してゆかねばならないのです。(つづく)

 

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