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擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
TEL 03-3823-7647

当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

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擇木ブログ - 201908のエントリ

擇木座禅会便り

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/8/31 23:18

8月31日 擇木道場 土曜夕方座禅会

 

初めての参加   2人

二回以上参加   0人

会員       3人

 

5分の休憩を挟んで、30分、25分の坐禅を行った。

終了後は居士寮で、冷たいキウィジュースとクッキーで座談会をした。

 

仏教講座の終わりごろ、初めての参加者の気配に気づき階下に行くため禅堂の扉を開けたとき、二人は禅堂入口に現れた。直ちに一階の居士寮に案内して座禅のやり方を説明した。初めてのためか、少し緊張しているようだった。脚は正しく組めたが猫背になりやすいようで、頻繁に助警を回し修正を試みた。座禅終了するころには、座相はかなり改善された。

座談会では座相、数息観のやり方、座禅中の幻覚、腰を入れ過ぎて発する腰痛の回避のしかたなどを話した。擇木道場での催しもの、摂心会の意味、仏教講座の他に、9月禅セミナーのチラシを渡して内容を概説した。話をするうちに打ち解けて笑みがこぼれ、いろいろと話ができた。18:30に座談会を切り上げた。良い印象を持っていただけたと推定する。

尚、キウィジュースは先日の布団作務用に購入したキウィを使ったもので好評だった。龍泉
 

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「座禅するから暇になる」

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/8/29 21:18

「座禅するから暇になる」

春潭

 前回のブログで、「座禅しないから忙しくなる」を書きましたが、「では座禅をしたら暇になるのですか?」と突っ込む人が居ましたので、返答の代わりにこのタイトルでブログを書きます。

 先ず、字のつくりですが、旁の意味はかぶせるという意味で、日へんがついて、所用の日時の上にかぶせた余計な日時ということのようです。

 意味を大辞林で見ますと、名詞(1)仕事や義務に拘束されない自由な時間、(2)休み・休暇、(3)主従などの関係を絶つこと。いとま。形容詞(1)仕事や義務に拘束されず、自由に出来る時間がある様。

 座禅をすると30分から45分の時間は仕事が出来ないことになります。

時間に追われている現代のサラリーマンにとって、朝の出勤前にはこの1時間に満たない時間といえども貴重であり分秒で毎朝戦っているのにとんでもないというのが実態であり、そんな暇はないよ!が本音ですよね。

また電話が鳴りっぱなしとか机の上に処理を待っている書類の高さを見ても、勤務中においてのこの短い時間といえどもこれまた猫の手も借りたい代わりようがない貴重な時間でしょう。

アフターファイブはもう死語であり今ではアフターナインでしょうが、お客さん相手にしても上司相手にしても待たせるわけに行きませんし、そんな暇はありません!!でしょう。

 また逆に、定年になって毎日が日曜日になった途端に暇になりすぎてうつ病になる人もあるとか。

また一時流行った言い方では、家庭の奥さん方にとっては元サラリーマン戦士も濡れ落ち葉だと云われていましたね。(判りますか?乾いた落ち葉であれば掃いても直ぐ集めて捨てることが出来るけれども・・・・、ということのようです。)暇を持て余して家で三食たべてゴロゴロしているからそんなことを言われるのです。

現役時代は気の利いた秘書の作ったスケジュールに従うだけで一日は過ぎ、多くの部下が忖度で仕事を進めてくれていた。こういう人ほど、スケジュールも作ってくれない、忖度もないとなると、チコちゃんに怒られるようなぼおーと生きてしまうのかもしれませんね。

 

人間と時間の関係は不思議な関係ですね。

過去は済んでしまってもうないし、未来はまだなにもないし、あるのは過去と現在の接点である「今」だけしかない。

しかし考える葦である人間は、過去にも未来にも拘束されてしまい、唯一存在している「今」に生きていない状態になりがちです。

 座禅をすると云うことは、「今」をしっかり取り戻すことです。

座禅をすることによって、「今に生きる」がはっきり確保でき、過去にも未来にも煩わされることがなくなるのです。

座禅をすることによって(前回書きましたが)、「忙しい(こころを亡くする)」という言葉と無縁になり、仕事に追われることがなくなり、余裕が出来て暇になります。

また逆に、定年退職などして追いかけられるような仕事から解放され暇になった人が座禅をすれば、暇がなくなります。ここで云う暇は、「やることがなくて手持ち無沙汰」という意味です。

座禅をすることにより、充実した「今」を持つことにより、やることが無限に出てきます。もちろん忙しいということはないけれども、充実した今を生きるということになります。

繰り返しになりますが、総括して云えば、忙しい人が座禅をすれば暇ができ、暇な人が座禅をすれば暇がなくなるのです。


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話せばわかる?

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/8/28 11:48

五一五事件の際

「そのことか、それなら話せばわかる」

と言った犬養毅に

銃を持った三上は躊躇した

という話もある

直観的には通じるものがあったのでは。


しかし

ここで引き返せばこれまでの努力が無駄になるとか

仲間に顔向けできないとかを考えて

直観を無視して実行してしまったのだろう


話せば必ずわかるのか?


同じ物を見ても

同じ音を聞いても

同じ物に触れても


五官が受け取ったデータは

神経という通信回路を通って

脳で映像などが再現されるが

覚知できるデータが人によって違うし

データが再現される際

情報は抽象化され、その仕方が

人それぞれ癖があるそうな


我々は同じ世界に生きているように思いながら

別々の世界に生きている


ここが問題

なぜわかってくれないんだ


なぜって?

もともと見えてる世界が違うのだから


分かり合えるにはどうしたら?


自信がない人達は利益を出す

得だから同意するだろうと

でもそれは自分が利益だけで動くことを

自白しているようなものだ


もともと目や耳などの認知内容は異なる

しかも微妙な心の価値観を

非常に抽象的な言葉で表現すると

どうしても単純化されてしまう


じゃあ、分かり合えることはないのか?


五官を通じたデータを

そのまま受け取っているか?

嫌だなとか、損するとか、ムカつくとか、、、

自分の癖に影響されていないか?


自分の癖というフィルターに気付くと

癖の影響から脱することができるかも


その基礎があれば

話せばわかるのでは?


本当は、癖の元である

我儘を消せればいいのだけれど

人間の限界があるから

自分の癖を片っ端から吹き消していく

このもぐら叩きを続けていれば

分かり合えるかも?


日峰


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擇木道場便り

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/8/27 16:58

8月27日

インド出張報告

Sian村のアプサラス(飛天)

擇木道場便り


今年の夏も、仕事のためインド西ベンガル州の片田舎に滞在しています。数年前、近所の池から石像の破片が、村人の投網に掛かって出てきました。村の人たちは気持ち悪がって我々のところに持って来ました。私たちはこの石像を、大切に我が工房の守り神にしています。“末永くインドと日本を往復できますように!”

私が見るところで恐縮ですが、この石像は仏教的なモチーフで、アジャンタ石窟(56世紀)や、4年前に東京国立博物館の表慶館で行われた特別展「コルカタ・インド博物館所蔵 インドの仏 仏教美術の源流」に来ていた仏座像(7〜?世紀)の右上に飛んでいるアプサラス(飛天)に良く似ています。

ここベンガルはかつて712世紀まで仏教が盛んでした。そして、インドの中でも最後まで仏教が残っていた地域でもあります。7世紀初頭から半ばに統治したヴァルダナ朝の王ハルシャ・バルダナの時代に、玄奘三蔵がナーランダを訪れました。(630年頃)当時そこには各地から仏教を学ぶ僧侶が数千人来ていたと、彼は大唐西域記に記しています。ベンガルはこの統一王朝、ヴァルダナの東に位置する緑豊かな大地です。

ベンガルではこの後13世紀のセーナ王朝で仏教は弾圧され、人々はヒンズー教に改宗させられ多数の仏教僧が殺されたそうです。この時代に仏教寺院や仏像が破壊されました。命をのがれた仏教僧はチベット、チッタゴン、ビルマへ逃れました。この後もイスラム勢力、次いでムガール勢力に支配され、さらにヒンズー教から回教に改宗した人々も多い地域です。

この手のひらほどの石の塊により、この地に住む過去の人々や、文化、宗教、生活まで、一気に想いを馳せることができるのが不思議です。

何もなかったかのように雨季のベンガルでは地平の果てまで稲が植えられ、渡る風は稲の香りがします。1ヶ月の滞在を終え、もうそろそろ残暑の東京に帰ります。飛天に旅の安全を祈りつつ。

日暮里擇木道場 日曜座禅会員 西岡由利子


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擇木道場便り

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/8/27 10:10

8月24、25日

布団乾燥作務

 

参加者 25名

会員  18名

一般   7名

 

擇木道場では、毎年8月の土曜、日曜日を利用して、道場にあるすべての布団類、毛布、座布団を乾燥、殺菌しています。専門業者に依頼して、2台の乾燥車内に布団類を運び込み100℃で50分間晒して乾燥します。今年は8月24、25日にやりました。

8月24日の夕方から道場二階や隠寮(担当師家の居室)の布団、座布団類を一階に降ろして25日に備えます。出し終わった部屋の畳にダニアースを注入し、その後でアースレッドを焚きます。

こうして、部屋、畳からダニなどを駆除します。翌日の25日の6:45には乾燥自動車が道場の前に到着して7:00から作業を始めます。数年前、二日目の大事な日が雨で布団の乾燥車への出し入れに難儀したことがありましたが、今回は晴天に恵まれ、参加者も多かったので順調に作業は捗り、13:30には全て終了しました。第一日目の作業が終了したら、懐に優しいイタリアレストランで夕食兼懇親会を行い、第二日目の昼食は辛いカレーを食べることが例年の倣いです。

8月25日の昼食のカレーは○水さんのご主人が腕によりをかけて、チキンと豆の二種類のカレーとサラダを作ってくれました。玉ねぎ8ケのみじん切りを2時間かけて炒め、トマト、複数の香辛料を使ったカレーはとても美味しかった。インド・ネパール料理店に出して、お金を取れると思えるほどの素晴らしいカレーでした。カレーには結構うるさい私も、とても満足しました。是非、作り方を教わりたいです。

中学3年のお嬢さんは、デザートとして白桃ゼリーを作ってくれました。嘗て、道場の茶道部稽古に○水さんが参加していたとき、時々、同伴していた女の子が、美しい女性になっていた。久しぶりに会って「高校生ですか?」と聞くのが精いっぱいでした。

食事の後は、老師用の布団を二階に持ち上げて、13:30には全ての作業を完了しました。例年よりも1.5時間早い仕上がりになりました3歳、4歳、1歳の子供連れの参加もあり、賑やかで楽しい作務になりました。東京、座禅会、擇木道場 龍泉
 

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 擇木道場の風印です。今回はスカトー寺などでのプラユキ師の個人面談の内容や、質問させて頂いたことをQA形式で纏めてみました。


Q:臨済宗には公案という禅問答があるが、公案の透過に手動瞑想が役立つか?

A:役立つ。私たちは心の癖、思考様式に囚われがちであるが、手動瞑想をすることで、そこから離れた世界に気付く事が出来る。それが出来れば、公案の透過に繋がる。


Q:悟れる者と悟れない者の違いは何か?

A:根本的には無明が晴れるか晴れないかの違い。無明から渇愛、渇愛から執着が生じる。テーラワーダでは、無明、渇愛、そして執着から自由になることを目指す。


Q:中道は一つか?

A:「中道は一つか?」という問いの意味はよくわからないが、テーラワーダ仏教でも大乗仏教でも、中道を歩むことはもちろん出来る。


Q:では、悟りは一つか?

A:悟りの解釈はいろいろあるようだ。それぞれの宗派が目指す悟りには様々な意味合いやイメージの違いがあり、同一とは言えないと思う。いずれにしても、智慧と慈悲を持って正しいものの見方と行動様式を身に付け、自他の苦しみからの解放や人間関係の改善を目指すのが仏教だと思う。それには意識的に瞑想と実生活をリンクさせる自覚的な努力が必要である。


Q:いつも他人との優劣を考えてしまい、自分は正しい、偉いと思ってしまうのですが…

A:自分と他人との関係を縁起に沿って見ていくことで、「私」への囚われは軽減する。また、他人と自分を比較する「慢」の煩悩は「怒り」や「欲望」が消え、最終的には一切の無明が晴れた阿羅漢の段階になって初めて滅するものである。ゆえにそうした「慢」があっても気にせずに、まずはそれを健全な自尊心として育み、他者と切磋琢磨する自己研鑽のためのパワーとして活用していけば良い。


Q:座禅や瞑想をしなくても幸せにやっている人がいるのは何故か?

A:環境条件が整っていて、親から受けた教育や、親のものの見方、考え方、生き方が引き継がれることによって、意識しなくても気付く訓練が出来ていたり、対人関係の処世術などが身に付いているからだ。瞑想を行えば、そのような条件が整っていなくても、その人なりのペースで苦しみを解消し、幸せになっていくことはいくらでもできる。また、「隣の芝は青い」というように、外から見ると幸せにやっているように見える人でも、実際にはそうではないことも多い。表面だけ見ても、本当にその人が幸せかどうかは分からないものである。


Q:人間関係などで恐怖感を感じたときにどう対処すれば良いか?

A:今起こっていることを、「これが恐怖感ね」と味わってみる。恐怖感は自分の癖や体質から生じ、自分が何を求めているのか、どうありたいと思っているかのシグナルになる。自分を大きく、高く見せようとするのではなく、今の自分の状態を手放し、明け渡し、気持ちを緩ませると恐怖感や不安感が軽減する。恐怖する体験を繰り返すと恐怖に恐怖する恐怖体質になってくるが、自分を明け渡してみることを繰り返すと、恐怖体質から安心体質へと変わってくる。


Q:手動瞑想はどのくらいの速さで手を動かせば良いのか?

A:ゆっくり動かしすぎても、速く動かしすぎても集中しすぎてしまいがちだ。集中しすぎにならず、自分にとって丁度良い速さで行えば、智慧なども生じてきやすい。


Q:職場で怒鳴られたり、厳しい叱責を受けたりすることもあるのですが…

A:不安を生じるのも生体反応である。瞑想訓練などにより、そのような人間的な回路+αが鍛えられる。心の器が大きくなったり、懐が深くなったりして、何を言われても余裕を持って受け止められて、明晰な意識で対応を考えることができるようになる。たとえ怒鳴られても、背後にはその人なりの願いがあることを理解し、そうした気持ちを汲み取れるようになる。このように周りの人の心を有り様を一つ一つ丁寧に理解することを重ねることで、次第に生きた智慧が身につき、慈悲心が溢れてくるようになる。


Q:私が余計なことを言ったせいでトラブルになってしまった気がするのですが…

A:素直に伝えてみることは決して悪いことではない。時にはそれによって相手の心証が悪くなったりすることもあるかもしれないが、それもいい経験だ。それによって、人、TPOによって言い方のニュアンスを考え、調和した言いまわしなどができるようになっていく。たとえ失言したとしても、その都度吟味して、こう言うとこうなることもあるというようなことが理解されていき、バランス感覚が養われるプロセスが大事である。


Q:般若心経の「空即是色」は間違っているのでしょうか?

A:「色即是空」は無我をゴールにするが、そこで止めずに菩薩道に至るのが「空即是色」である。十牛図の八図「人牛倶忘」で自分も悟りも忘れた修行者が、九図「返本還源」、十図「入鄽垂手」で再び世俗に戻っていくのと同様である。

 「色即是空」のみ正しいというのは、チェスのように取られた駒は使えないというルールに従ったものの見方であり、「空即是色」もありというのは、将棋のように、取られた駒を再び活躍させることができるというルールに基づいたものの見方である。このように「これあれば彼あり、これなければ彼なし」といった縁起的な観点から見れば「空即是色」は間違いと言うのも、「空即是色」もありというのも、何ら矛盾することはない。


Q:テーラワーダ仏教は自分の悟りを目指すだけで、利他を重視しない「小乗仏教」なのでしょうか?

A:ブッダの元々の教えは利他的行動を実践することにある。実際にテーラワーダの「開発僧」と呼ばれる僧侶達は、農村の貧困問題などの社会問題に積極的に取り組んでいる。


Q:良かれと思ってしたことでも、却って反感を買ってしまうこともあります。利他と言っても主観的なものに過ぎないのではないでしょうか?

A:結果を見て考える。自分が利他的な実践だと思うことをして、良い結果が出ればそれは利他の行為だったことになる。もし相手がそれで反感を持ったり、苦しんだりしたならば、より良き対応を探ってみるが良い。結果は相手が出すものであって、こちらの思い込みは利他ではない。

 瞬間瞬間に①私②他者③関係性の3点を現在進行形で考えて、悪い結果になりそうであれば言葉や行動を吟味して軌道修正すれば、利他を実現できる可能性は高まる。


Q:阿羅漢は煩悩を滅尽した聖者と言いますが、煩悩が無くなると生気も無くなってしまうのではないでしょうか?

A:煩悩が少なくなれば不必要なエネルギーを費やすことが無くなるので、むしろ生き生きと活気が湧いてくる。煩悩に囚われている時間とエネルギーを節約して、健全な慈悲の心を育む実践をするのが良い。


Q:自力と他力の違いはどこにあるのでしょうか?

A:自力は自分の力で問題を解決したり、成長を遂げていったりすること。他力とは他者に頼ることであるが、まずは善友に頼るなど他力を借りることももちろん良いことだ。それで元気が出たら自力にシフトしていけばいいだろう。

 「他力主義」みたいなイデオロギーで相手を断罪するようなことは無駄事だ。そうではなく、受容性をもって相手の状態に応じて様々な方便を用いて対応していくことが大切である。


Q:いくら座禅や瞑想をしても、実務的な努力をしなければ悩みは無くならない気がするのですが…

A:タム・チット(心で行なうべきことを、行なう:心の修行)と、タム・キット(身で行なうべきことを、行なう:実務的な善行動)のどちらも大切である。両方を実践することによって、無駄にエネルギーを消耗せずに、理にかなった有意義な行動を行えるようになり、結果をどんどん出せるようになっていく。


合掌 風印 拝


タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑤プラユキ師の法話-4

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑥プラユキ師の個人面談


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「座らないから忙しくなる」

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/8/26 17:54

「座らないから忙しくなる」

春潭

 現代は忙しい時代だ!と云う言い方に、ほとんどの人は異論なしでしょう。

 禅会の周辺で、「この頃、忙しいからしっかり座れていない。」という会話が聞かれますし、自分の中での思考も、「忙しいから座れないのも仕方がない。」という屁理屈がまかり通っているようにも思います。

また一般的にも「忙しい」が社会的に認知され、一種のステータスにまでなっているのが現代社会とも云えます。すなわち忙しい人はよく仕事をしている人であり、忙しくない人は社会的に評価できない的なニュアンスがまかり通っているように思います。

 先ずは、この「忙しい」を禅的に検証しみたいと思います。

 忙しいという字は、立心偏すなわち偏が心で旁(ツクリ)が亡でこの字が構成されている。すなわち心を亡くした状態が忙しいということであり、この字の構成が「忙しい」とはどういうことかを全てを物語っています。

 すなわち現代はこころを失った人が多い時代だということになります。にもかかわらず忙しいと云うことが大きな顔をしてまかり通っているのです。忙しいことは、本来は恥ずかしいことなのに、忙しくないと恥ずかしいというところに、現代の精神的混迷の根源があると思います。

 ではこころを亡くさなかったら忙しくないのか?ということになりますが、もちろんYesです。掲題の「座らないから忙しくなる」は逆説的皮肉ではなく、心を亡くしているから忙しいのであり、心を亡くさなかったら忙しくない!のです。座れば忙しくなくなる!のです。この論旨にYesしますか?


 一国の宰相であろうが、定年になって毎日が日曜日の人であろうが、生きている人間にとって使える時間は全く変わらぬ24時間です。やらなければならないことがいくら多くてもこの時間をどう割り振りするか、何を優先にして何を割愛するかというだけの問題です。やらなければならないことができない場合にはどうするかと云うことの判断もそれを割愛することも対処の一つですが、後に回すとか誰かにお願いするのも対処の一つです。

 小生は、忙しいと思ったことはほとんど記憶にありません。少なくともこの数十年はないと思います。サラリーマン時代から人間禅にどっぷりになっている今に到るまで、半分冗談に暇だから何でも云ってくださいよ!で通して来ています。

 小生の対処の仕方において最初に考えるのは、自分しかできないこと・自分がやらなければならないこと・自分がやりたいことを雑多な懸案課題の中から選び、次にそれの処置しなければならない期限を考える。ここまでではあまり重要性については考えません。ただ処置するために時間的に重なる場合や重なる恐れがある場合に重要性の判断をして優先度を決めます。これで24時間以内に入ったことを片っ端から捌いてゆく、というのが最近のやっている実態です。24時間以内に入れなかったことに対しては次の日以降のことでの懸案メモは残すとしても出来なかったという思いはスパッと切ります。

この一日の課程の中に忙しいという思いは入ってきません。処置し捌いてゆく中で、予想以上に時間が掛かり予定していたことができないことも結構ありますが、出来なかったという事態に対する処置はちゃんと打てば良いことであり、どうしてもやらなければならないことはほぼやれていると思っています。

 朝起きたときと寝る前に座ると云うことにしていますが、これもほぼ(98%以上)できていると思います。できなかった場合で一番多いのは、朝座の時間に面談が飛び込んでくる場合ですが、これも最近は、午前中のどこかで挽回する対応になってきています。宴会があって調子よく飲んでも夜座ができないことはほとんどありません。この朝座と夜座の間に小生の全ての活動が優先順位に従って詰め込まれており、楽しんでやっている訳です。

特にと云えば、今日やらねばならないことは明日に延ばさないことを心がけています。【禅】誌の巻頭言の原稿が4ヶ月毎にやってきますが、言われた期限を越えたことは未だないと思います。ただ最近老人ぼけで、約束していたことをポロと忘れてしまっていたと云うことが多くなり、皆さんに迷惑をかけているとは思います。

 サラリーマン時代は特に若い下積みの頃は、上からの指示で重要度も優先度も決められ、それだけで仕事がオーバーフローすることもしばしばありましたが、そういう場合は率直に優先度を上司と相談して決めればいいことです。小生は上司も部下も巻き込んで楽しんで仕事をしていましたから、現役時代も忙しいと感じたことがなかったのだろうと思います。

 これらの忙しいという言葉がない背景には禅で云う、段取り・真剣・尻拭いに努めていると云うことと、一行三昧が身に付いてきているのが効いていると思います。前者は法話等で先輩方がよく話されていることでこの解説は割愛し、後者について少し注釈します。

 一行三昧の一行は、今行っていることであり、今やっていることに三昧で打ち込んで行き、その他の念慮を差し挟まないということです。人間は考える葦ですから、何かやっている最中でも過去のことから未来のことから今やっていることと関係のないことについつい思いを馳せたがるものです。一行三昧を純粋に行うことは難しいけれども素晴らしいことです。すなわちこの一行三昧の一日は、忙しいとは無縁になります。

この一行三昧が出来るようになるのが人間形成の修行なのです。そしてその基本が、一日一炷香にあるのです。少なくとも一炷香(45分)座禅をして、その定力(三昧力)を付けその日一日の一行三昧を実践するのです。

きちっと一日一炷香が出来れば、一行三昧になり忙しさはなくなる。座らなければ、今やっていることに集中できず忙しくなるのです。重要な仕事にたずさわっている人ほど寸暇を作って座禅をしなければならないのです。座禅をしないから忙しいのであり、座禅をすれば忙しくなくなるのです。


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第3期仏教講座第8回「維摩経」(8)

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/8/26 5:05

「妙喜世界の請来と阿閦如来との会見
如来と菩薩を語る」見阿閦仏品第十二


維摩は「極めて楽しいところ」の「不動である如来」のもとからやってきたのだ。

byブッダ

いよいよ終わりに近づき、まとめに入ります。今回は釈尊が維摩に「如来を見るとはどういうことか?」つまり覚りとは何か?と尋ねます。

作者は維摩の口を通じて、大乗仏教の真理を整頓していきます。

まるで仏教の教科書です。勉強しておくと全貌がわかります。

 そして、維摩のあまりのスゴ腕に、舎利子は驚いて正体を問うのです。

すると釈尊は上記のように答えました。この答えこそが「空」。さあ、手綱を緩めず、ご一緒にラストスパートです!!

講師:慧日庵笠倉玉溪

禅の修行歴35年 人間禅特命布教師。

お経の講座、いす座禅講座など 多数主宰。

講演、禅書道、企業顧問


<日付> 831()

<時間>2時開始。230分まで前回の復習。参加する方は145分に受付開始します。

<受講料>1回 3,000

<場所>擇木道場

110-0001 東京都台東区谷中 7-10-10 TEL:03(3823)7647 FAX:03(5815)5921


*禅の指導者、老師も参加されます。本格的な禅の話も聞ける勉強会です。


ご予約は→こちら


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布団作務に参加しました

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/8/25 21:08

 擇木道場の風印です。

 当道場で824日、25日に行われた、布団作務に参加してきました。

 泊まり込みで座禅をする方のために道場には大量の布団があるのですが、布団作務は布団や毛布、枕、座布団などを業者に依頼して乾燥させる作務です。

 ①全ての布団のカバーを外して洗濯する。

 ②布団などを1階に下ろす

 ③畳にダニアースを注入する

 ④バルサンを噴霧する

 ⑤布団を業者の布団乾燥車で乾燥させる

 ⑥布団などにカバーを付けて元の場所に収納する

 という内容でした。

 暑い中で乾燥器で加熱して乾燥させた布団を運んだり、カバーを掛けたりするのは大変ですが、道友の皆さんと協力して普段する機会の少ない作業を行うのは中々面白かったです。

 24日は作務の後に懇親会がありましたが、気心の知れた仲間と話すのが楽しくてついつい飲み過ぎてしまいました(^^;)

 作務の休憩時にはスイカや梨などが振る舞われましたが、今回小さなお子さんが参加されていて、男の子が女の子に飲み物を勧めたのに、女の子が「つーん」とそっぽを向いているのを見て、男女の軋轢はこんな小さな頃から始まっているんだなと感心しました。その後で仲良く遊んでいましたけどね(^o^)

 25日の昼ご飯は道友のご夫婦が、ルーから手作りのカレーを振る舞ってくれました。普段手料理を食べることが無いのでとても美味しかったです。

 道場は昔の家のような雰囲気でとても落ち着きます。仕事以外にも素敵な居場所を持てて有り難いです。


合掌 風印 拝


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囚われないこと

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/8/24 14:48

 擇木道場の風印です。


 私は子どもの頃から内向的な性格で、いつも考え事ばかりしていました。自分の中のネガティブな感情(煩悩)を見つけては自分は駄目な人間と思い込んでいたのです。それは、自分が煩悩に塗れているのだから他人もそうに違いないという人間不信にも繋がりました。

 親鸞上人は心は蛇蝎(じゃかつ)のごとくなりと言ったそうですが、私は自分の煩悩を注視することで却って煩悩に囚われてしまい、苦しみが増していたのではないかと思います。

 しかし、最近再開したTwitterで様々な方の意見を聞いているうちに、煩悩は本能的な生存欲に基づくものでどうにも止めることは出来ない。煩悩に気づいたら責めるのではなく囚われなければ良いのではないかと不意に気づいたのです。仏教書で似たような内容を読んだことはありましたが、頭での理解ではなく、体験としてそれが分かったような気がして、40年来の苦しみの一端が見えたような気がしました。

 今まで自分の苦しみへの救いを求めて僅かばかりの仏教書を読んできましたが、頭では分かったつもりでも本当には何も分かっていなかった。自分や他人の心の有りように気づくには、人との関わりが不可欠ではないかと実感しました。

 一人で本を読んでいると、だんだんと自我が肥大してきてそれに囚われがちな気がします。TwitterのようなSNSでも直接相手と対面して会話をするわけではないので独善に陥る可能性はあると思いますが、それでも多くの方の意見に触れる機会が得られるのは私のように人付き合いの乏しい人間にとってはとても貴重であり、ただ本を読むよりもずっと価値が高い気がします。

 私はすぐに自我に囚われてしまうので、自分一人で人として成長していくことは難しいです。やはり実際に人と会って会話したり、一緒に体験することが一番と思いますので、当道場や他の瞑想会などに参加して得た縁を大切にして、皆様と一緒に学びを深めて行くことが出来ればとても幸いです。


合掌 風印 拝


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