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擇木ブログ - 20190701のエントリ

「道眼(胆識)を付けるには」(その5

丸川春潭

 

臨済宗の公案修行は古来から途中でやめるくらいなら最初からやらない方が良いと言い伝えられています。理由はいくつかあるのですが、臨済宗の公案修行は頂上を極めるのに最短距離で真っ直に急勾配に登るのではなく、ジグザグに大きく左右に振りながら急勾配を避けて登らせているので、途中での中断は真上の頂上が視野から外れたところで止まってしまうことにもなります。またもう一つは、頂上まで上がり切らないと四方の眺望ができないのですが、得てして途中でやめた人間ほど自分の通ってきた路だけがこの山の全貌だと思い込みやすく、自分の外れた見地からや部分的な見方であることが判らず、他にその偏見を拡声してしまい大いに世間に誤解をまき散らすことになります。ということで、途中で止めるくらいなら初めからやらせない方が良いと昔から云われてきているのでしょう。

ただ小生は今の時代はもう少し柔軟であっても良いのではと考えております。多様性の時代であり、人間形成の禅もワンパターンでなくて多様な価値観の中で禅が多様な文化とコラボレーションするのは当然の流れであり、見性入理の初関の透過だけで例え終わったとしても、そこまででもその人の素晴らしい個性を引き出し、その人のこれからの思想・行動に精彩を加えるのは間違いないと確信しています。勿論うたた登ればうたた高く、うたた入ればうたた深い東洋的無が臨済禅(公案修行)によって拓かれてゆき、その淵源を極めることは人間として生まれてきた特権だとは思いますが、何が何でもそこまで行かなければ全面否定的なかっての伝法のための伝法の禅の呪縛から、現代の実社会に浸透する臨済禅(公案修行)を解放して行くべきと思っています。

前置きが長くなりましたが、前回は見性入理についてお話ししましたので、今回は更に進んだ公案の修行(後悟の修行)について簡単に触れておきます。

次の段階は見性悟道でありこの代表的な公案が、五蘊皆空という則(人間禅の瓦筌集142則)です。この則では、見性入理では想像もできない細やかな人間の精神構造が明められ、その五つの蘊の性格を明確に認識するとともに五蘊の一つずつの空じ方を師家に参じて会得してゆきます。これはインドから中国へそして日本へ伝えられた仏教の素晴らしい重要な法財の一つです。これを日々の座禅行によって毎日毎時毎分毎秒において蘊を空じて行く、すなわち五蘊皆空の修練をするのです。これを見性悟道といいます。

更にその先も公案修行はいよいよ佳境に入ってゆきます。登山で例えれば七合目あたりから頂上まで、臨済宗のみならず曹洞宗の法財も含めて人類の最高の精神文化の凝縮としての公案(祖師方が工夫し残された1500年間の公案)が瓦筌集の中に収納されており、これを師家の指導の下に一則一則明めてゆく見性悟道から見性了了底の修行になるのです。 

見性入理、見性悟道、見性了了と臨済禅の修行階梯は明確であり、その登る高さにつれての眺望の素晴らしさがあり、志の高いインテリゲンチャには格好の人材開発ツールであります。

歴史的にも鎌倉時代から武家のしかも為政者層に支持され継承されてきた日本の臨済禅の特徴である公案修行が現代に生き生きと伝わっているのです。新しい時代の担い手の、一人でも多くの人のバックボーンになり見識(胆識・道眼)になることを願って、この拙いブログ「道眼(胆識)を付けるには」シリーズを終わります。(おわり)
 

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