メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2019 9月 » »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 1 2 3 4 5
擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
TEL 03-3823-7647

当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

検索
カテゴリ一覧

擇木ブログ - 201907のエントリ

 擇木道場の風印です。

 市川にある人間禅本部道場で721日~727日に開催された、青年部座禅会(摂心会)に参加しました。

 

 

 

 

 "青年部"と銘打っておりますが、運営スタッフが青年部中心ということで、参加にあたっては年齢不問どなたでもwelcomeです。途中参加、部分参加もOKです。

 私は仕事の都合で参加できませんでしたが、落語会や徹宵(てっしょう:徹夜で座禅すること)なども催されたそうです。普段殆どお酒を飲まないので懇親会でお酒を飲みたかったのですが、それはまたの機会ということで(笑)

 

 以下、私の摂心会体験記を記載します。

 

 朝5時に板木(ばんぎ)の合図とともに起床します。今回私は板木係を担当させて頂いたのですが、板木を叩くタイミングや強さなど中々難しいです。

 

 

 起床したら直ぐに寝具を片付け、禅堂の掃き掃除と廊下の拭き掃除をします。

 掃除が終わったら着替えをして、5時半から静座をします。今回私は聖侍(しょうじ)を担当させて頂きました。聖侍は道場の出入り口に座って、濫りに堂内に出入りするのを許さない役割をします。静座が始まってから堂内に入るときや、静座中に退席するときは聖侍の前に座って挨拶をしなければなりません。先輩方も私に挨拶して下さるので、恐縮する反面、自分が偉くなったような気がして気分が良かったです(笑)

 静座中には、助警(じょけい)が警策(けいさく)を持って、修行者が懈怠(けたい)なく坐禅しているかどうかを見廻ります。静座中に眠くなったり雑念が湧いてきたときは、助警が自分の前に来たときに合掌して上体を前に倒して姿勢を低くすると背中を叩いてもらえます。誤解されている方もいらっしゃるようですが、いきなり叩かれるのではなく修行者の方からお願いして叩いてもらうのが基本です。剣道の師範が助警をされていることもあるので、背中を叩かれると「バシバシ」と良い音がしますが、良い音がするときはそれほど痛くありません。背中を叩いてもらうと眠気が覚めてスッキリします。

 

 6時半から順番に師家(禅の師匠)の元に伺って参禅を行います。参禅というのは公案を用いて禅問答によって境地を開く臨済禅の修行を言います。公案は難しい漢字で書かれた文の意味を理解して暗唱したり、身体全体を使って知性ではなく感性で答えを出さなくてはならないので、とても難しいですが面白いです。参禅によって知力・胆力などが養われるのではないかと思いました。

 

 参禅の後は皆でラジオ体操です。ずっと座っていると足が痺れてしまうので、ほっと一息の時間です。

 

 7時半から朝食です。食事の前後には「食前(じきぜん)の文(もん)」「食畢(じきひつ)の偈(げ)」を一同で唱和するのですが、中々覚えられません(^^;)そのうち覚えようと思います。食事は極力無言で食べ、終わったら速やかに片付けをするので、中々付いていくのが大変です。もっとも初心者の方には丁寧にご指導させて頂いておりますので、ご心配には及びません。

 

 今回は朝食の時間にお茶席でお茶を頂きました。

 

 

 

 

 

 お茶席の周りにはモミジの木が植えられていて、とても風情の良い場所でした。秋には見事な紅葉が見られそうです。丁寧にお茶を点てて頂き、お茶もお茶菓子も大変美味しかったです。不調法な私にはよく分かりませんが、お茶碗もとても良い物のように思えました。

 

 8時半から作務です。今回トイレ掃除を割り当てられましたが、「汚いと思うのも分別ではないか」「釈迦は美女を糞尿袋と切り捨てたではないか」などと考えていたら、便器がピカピカに輝いていました(笑)

 

 10時に作務が終わった後、皆でお茶を飲みながらお茶菓子を食べます。作務で疲れた身体に甘いお菓子はとても有り難いです。

 

 10時半から再び静座、11時半から参禅、12時に昼食を取ります。

 昼食後少し時間があるので、私は禅堂で昼寝をしました。

 

 午後2時からは剣道場で法定の型(ほうじょうのかた)の稽古をします。法定の型は普通の剣道と違って、呼吸を重視し、相打ちを旨とするので(型なので実際に打つことはありませんが)、自分を捨てる、相手と一つになる、我もなし彼もなしという所まで徹することを目指す動く禅とも言えます。掛け声とともに相手に打ち込むのはとても気分が良いです。私は大きな声を出しすぎてかなりのハスキーボイスになってしまい、次の日に職場で「その声どうしたの?」と何度も問い質されました(^^;)

 

 午後3時から再び作務です。今回落ち葉の掃き掃除をしました。大量の落ち葉を見て「こんなの時間内に終わらせるのは無理だろ(^^;)」と思いましたが、意外にも時間内に綺麗にすることが出来ました。密かに「俺って意外とやるな」と感心しました。

 

 午後5時に作務が終わったら、再びお茶菓子を食べて一休み。午後6時から夕食です。

 

 午後710分から講本(提唱で読む文を載せた冊子)の下読みをして、午後7時半から提唱(ていしょう:摂心会の期間中に行われる師家による講座)です。今回講本侍者(こうほんじしゃ)という提唱の準備や合図などを行う重要な役割をさせて頂きました。作法を覚えるのが大変で「こんなの覚えられん。無理(^^;)」と思ったのですが、怒られながらも作務をサボって作ったカンペでどうにか乗り切ることが出来ました。様々な役割を与えられてそれを全うするのは、現実生活への予行演習のようなもので、とても良い経験をさせて頂くことが出来ました。

 

 提唱の後は再び静座と参禅を行います。

 

 参禅の後は、真向法(まっこうほう)という身体を伸ばす体操をします。私は身体が固いのでそんなに伸ばせませんが、身体を伸ばすと気持ちが良いです。

 

 午後10時になると開枕(かいちん)と言って、就寝の時間です。

 これだけやると結構疲れるので、私は直ぐに寝ました。

 

 摂心会はそれなりにハードですし、摂心会中は修行者同士の会話は出来るだけ控える決まりがありますので、道場の者が無愛想に感じることがあるかもしれませんが、それはそういうものですのでどうかお気になさらず、興味のある方は是非参加して頂けると幸いです。

 

合掌 風印 拝

 


  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (207)

7月28日 日曜座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/7/29 20:14

7月28日 日曜朝座禅会

初めての参加   7人

二回目以上参加  4人

会員       4人

 

7:00-7:40 座禅

7:40-7:45 休憩

7:45-8:00 座禅

8:00-8:10 経行

8:10-8:20 座禅

8:20-8:30 読経 般若心経、座禅和讃、四弘請願

終了後は居士寮で座談会。

 

久しぶりに賑やかな日曜座禅会だった。

座談会では『人づくり、肚づくりと禅』の<はじめに>を読んだ。次回から本文に入る予定。

今日、初めて参加された7人はMBA資格を取るために専門の学校に一緒に通っている友人で、座禅体験のために来られた。明け方は強い雨が降っていたので、来られないかもしれないとも思ったが、予定の時間に全員来場した。多人数のため参加表の記入、座禅の説明は二階禅堂で

行った。

座談会で読んだ『人づくり、肚づくりと禅』はMBA取得を目指している彼らには最適だったと思う。<はじめに>に記載されている人間禅「立教の主旨」については、居士寮の壁に掲示してあるものを読んで、簡単な説明をした。初めて来られたうちの二人は、しきりに頷いて理解を示していた。

9:00に座談会を終了して玄関まで見送りして別れた。龍泉 拝

 

7月28日 日曜夕方座禅会

初めての参加   1人

二回目以上参加  0人

会員       7人

 

17:00-17:25 座禅

17:25-17:35 休憩

17:35-17:50 座禅

17:50-18:00 読経 般若心経、座禅和讃、四弘請願

終了後は居士寮で座談会。

 

今日は茶道部稽古日だった。茶道稽古に参加したメンバーが合流したので、賑やかな座禅会になった。

総務会から帰って道場に着いた時、後ろから声を掛けられた。初めてですが、座禅を体験したく参りました、とのことでした。予約は無かったので看板を見てこられた人のようです。

 

座禅終了後は、朝の座禅会に続いて『人づくり、肚づくりと禅』の<はじめに>の部分を読んだ。

初めて来られた方は多分、中間管理職だと思いますが、仕事上で周囲の人との関係に悩みがあるようでした。

私も実際に座禅を始めたのは45歳ぐらいなので、同じような年齢になると同じような悩みが出てくるのでしょう。

擇木道場は座禅の修行によって培われた人間力を自分の立場、職場で発揮していくための道場であることを説明した。龍泉 拝
 

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (117)

7月27日 土曜夕方座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/7/28 9:25

7月27日 土曜夕方座禅会

 

初めての参加   0人

二回目以上参加  0人

会員       3人

 

7:00-7:25 座禅

7:25-7:30 休憩

7:30-7:50 座禅

7:50-8:00 読経 般若心経、座禅和讃

終了後は居士寮で冷たいお茶と枝豆で座談会。

主婦の○○さんは夕食支度があるため座談会の前に下山。

『人づくり、肚づくりと禅』の<はじめに>の部分を読んだ。明日の日曜座禅会でも読む予定。

本日は青年部摂心会の徹宵明けで、朝食・懇親会で少しアルコールが入った。本部道場を下山して擇木道場に寄り、汗臭い浴衣を洗濯した。冷蔵庫に残っていた茶豆を茹でて冷蔵庫で冷やした。茹で加減、塩加減が良く、冷たい日本茶にもよいツマミになった。

カリタス学園の事件、元農水次官の息子殺傷事件が話題になった。ひきこもりに絡んだ事件。ひきこもりは家庭内暴力に繋がることが多く、外の人への傷害事件に繋がる確率は少ないと聞いた。心の病が原因と思われる事件が多い昨今、座禅に抑止効果があるだろうか?

人間の行動は心の深いところに依っているので、道徳や規範では対応できない。座禅を毎日継続して、少しずつ心を耕していく地道な行が必要だと思う。

先日の禅フロンティアで町田宗鳳先生が仰っていた。心が内に籠った人が座禅をすると、かえって悪化する。そのような人には発声、動作などで外に発散することが大切、という考えから「ありがとう禅」を始めた。とのことだった。なるほどと思った。

行動を起こす最低のエネルギーは必要。それがあれば、自分を何とかする方法を模索できるが、無い場合は?やはり家庭内での語り掛けが必要ではないかと思った。龍泉
 

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (121)

7月25日 木曜夜座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/7/28 9:15

7月25日 木曜夜座禅会

 

初めての参加   0人

二回目以上参加  2人(Mさん、Ⅰさん)

会員       2人

 

7:00-7:25 座禅

7:25-7:30 休憩

7:30-7:50 座禅

7:50-8:00 読経 般若心経、座禅和讃

終了後は居士寮で冷たいお茶と菓子で語り合った。

 

Mさんは禅フロンティア、火曜座禅会にも参加して擇木道場では数ケ月の経歴。Iさんは火曜、金曜にも参加するが木曜夜座禅会の常連さんです。

Iさんに擇木坐禅会の参加が長いので、如何ですかと聞いたところ、座禅の効果を感じている。良く眠れるし思い悩むことが少なくなった、とのことでした。Mさんも同様でした。二人の感想を聞いて嬉しく思いました。

日曜座禅会では座禅、経行、読経をやっているが、全て三昧力の向上を目指したものです。摂心会は座禅、参禅、「法定の形」、作務、提唱聴聞、決められた日課に従って修行する期間ですが、それは三昧力向上のためのものに他ならない。三昧力の向上こそが人間形成という人間力の向上です。座禅だけでも三昧力の向上は可能ですが、一週間の摂心会に参加すると効果が高まります。機会が有ったら、是非、参加してみてください、と案内した。龍泉
 

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (113)

 前回のブログの続きです。

 十二因縁は、ブッダが菩提樹下にて悟り得た知見であり、苦しみがどのように生じてくるのかを正しく理解し、苦しみを滅するための原理です。十二因縁により心の嗜癖、パターン、衝動性、自己概念、即ち自己中心性が注入されたものの見方、反応のあり方が明らかになります。
 十二因縁(苦の生起のサイクル) は、無明、行、識、名色、六処、触、受、渇愛、取、有、生、老死(諸々の苦)に分かれます。無明から触までは今までの習慣から無意識に発生する現象です。例えば、ベンチを見て無意識に身体を休めるところだと思うようなことです。花とナイフを見せられてどちらに注目するか、ナイフを果物を剥くものと捉えるか、それとも人を刺すものと捉えるかは人によります。

 無明(アビッチャー)は、ものの見方を知らないことであり、観(ありのままに見ること)と対比される概念です。自分の心身に起こっていることから目を背けたり無視することで、今ここに無いものを想像して事実と思い込んでしまう妄想が生じます。自分の心身に起こっていることが分かっていないから、苦しみや痛みにはまり込んでしまうのです。

 行は無自覚的なあらゆるアクション、識は認識を成り立たせるもの、名色は精神と肉体を言います。
 行について、複雑に装飾する心があるから迷いが生じるのです。シンプルに分かりやすく行動すれば、迷いがなくなります。一期一会の精神で、相手と対しているときは全力で向き合います。たとえ失敗したとしても、その対応次第では逆に評価が高くなることもあります。結果を恐れずに、常に今ここでベストを尽くすことが大切なのです。
 名色に関して、真実諦(勝義諦:しょうぎたい)は、「私」や「あなた」といった視点から見るのではなく、心という現象を細やかに観察することから生じてくる世界観です。
 これに対して、世間諦はコンセンサス・リアリティーとも言え、現実世界でコミュニケーションするために必要な、自我的な視点から見た世界観です。世間諦は世間の真実であり概念に過ぎませんが、世間諦を否定・嫌悪したり「すべてが幻覚だ」と捉えると却って生きづらくなってしまいます。他方で文化のしきたりや習慣に囚われると窮屈になってしまいます。世間諦を認めた上で、調和的な視点を養い、偏らずに見られるようになることが大切です。

 触は認識であり、六処(眼耳鼻舌身意)と、六境(色声香味触法)と、六識(眼識・耳識・鼻識・ 舌識・身識・意識)を合わせたものです。六識により心の癖が生じます。

 受は心のサバイバルセンサーであり、快、不快、中性の何れかに分かれます。瞬間瞬間、目に入るものを美味しいか不味いか区別するのは、生きていくために必要なことです。不快感を感じるのはシグナル(危険信号)であり、それによって生き存える可能性が高まり、生命が守られるのです。不快感がなくただ感じるだけでは危険なのです。
 快を感じると、もっと欲しいとしがみつき、より強く求めてしまいます。これを貪と言います。
 不快を感じると、本能的に反発(斥力)が生じ、不快感を無くそうとしたり、逃げようとしたり、後悔が生じたりします。このように起こってきた現象を見極めずに本能的な反応に任せて反発することを瞋と言います。
 中性と感じると、我を忘れて無視してしまいます。これを痴と言います。

 渇愛は、
 欲愛…感覚経験への渇愛(見たい、聞きたい、 嗅ぎたい、味わいたい、触れたい・触れられたい)
 有愛…存在への渇愛(私はこうありたい(あるべきだ)、これは~のようであってほしい(あるべきだ))
 無有愛…非存在への渇愛(好まない対象を受け入れず、否定したり破壊したりしようとする)
 に分けられます。

 取は執着であり、渇愛がさらに高じて固着化し、そのまま何かにはまり込んでしまう段階です。
 はまり込んでしまう対象には、
 ・自身の欲求に答えてくれるモノ
 ・望みを叶えてくれそうな生き方
 ・伝統形式や方法
 ・自己の渇愛に応える何らかの見解や信念
 ・自己概念(我語)
 があります。取によって怒りと同一化したり、イデオロギーや「私」という概念の虜になったりします。

 有は現存性であり、執着に引きずられた、キャラ/性格(好悪、思想、行動、習慣のまとまり)構築プロセスです。心の中に抱かれた自己イメージと言えます。

 生は自我であり、「我」を意識し、確固たる自我(私はこういうことが好きな人、私にはそんなことはできない)が現れる段階です。生により、自己イメージや自己概念の同一化が生じ、自我の確立が生じます。このようにまとまった自己があると生きやすくなります。対して、自我の確立が出来ておらず首尾一貫性の無い人は付き合いにくいです。生きるためには安定性が必要ですが、それがやがて癖になったり自己同一してしまうことで、「私」が形作られるのです。

 老死は、自我の衰退(老)と消滅(死) を指し、求める生き方や自己イメージが実現できないという恐れ、怯えが生じます。自我を実体として認めるようになると、自我の衰退や消滅を恐れるようになり、自我を守ろうとする意識が働くようになります。老死は痛みを伴うため、作り上げてきた自己を如何に守るかという自己中心的なものの見方や思考様式が生じてしまうのです。移ろいゆく身体と心の変化を逐一明晰に捉えることが出来れば、次第に老死への恐怖が和らいできます。

 そして、老死から再び無明へと、苦のループ (輪廻)へ繋がります。

 苦のループに繋がるかどうかの分岐点は「受」です。「受」(快、不快、中性)から渇愛(貪・瞋・痴)が生じれば苦に繋がります(貪瞋痴反応)。サバイバル機能である「受」を使いこなせずに、動物原理的(非機能的)に反応すると、自己嫌悪や過剰反応が生じ、生きづらくなってしまうのです。また、疑心暗鬼や妄想に駆られて、時間やエネルギーを無駄に消耗することにもなってしまいます。
 これに対し、「受」を信、精進、念、定、慧の五力をもって味わうことが出来れば、滅苦に繋がります(念定慧反応)。自覚を持って正しく価値判断を行い、適切な対応を選択出来れば、苦を滅することが出来るのです。
 受の段階だけでなく、渇愛や取の段階でも良いのですが、快や不快に気付いて受け止めて、五力を実践していくことによって、自分の心に適切に対応できるようになり、心の成長が得られ、対他者に対してもパフォーマンスを発揮したり、他人の態度や言葉に対して受容的に反応できるようになってきます。あるがままの感情を受け止めることが出来るようになることで、囚われから解放されるのです。
 人間関係に問題が生じたとき、自分の言い方はどうだったか、相手に合わせた伝え方が出来たかを省みて、他者のために慈悲の念を持って行動できれば、自他の抜苦与楽の喜びが生じます。これに対し、欲や執着があると失望が生じ、苦しみが生まれます。
 このように、自分自身の実践によって、貪瞋痴反応から念定慧反応へと転換していくことが大切なのです。

 慈悲の実践は、見守り、共感、受容、方便、菩薩の誓願(善と真を基盤とした抜苦与楽)、寄り添い(同事、気に掛ける、心配り)の輪であり、慈悲の実践により共にある幸せが生まれるのです。

 
心の成長の三重丸プロセス
タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3

 内側の円は、五遍行(思・作意・触・受・想)」(凡夫パーティー)であり、その課題は「よき縁に触れる」こと。
 真ん中の円は、「五別境(求・勝解・念・定・慧)」(智慧パーティー)であり、その課題は「よき縁となす」こと。
※「求(意欲)」は、やる気、成長欲、向上心、求道心、修行者マインド(学びにするぞ!)を言います。
※ 「勝解」は、純粋な意欲・関心に基づいた自覚的なコミットメント(気づかい、心配り) であり、これにより依存心、優柔不断、意志薄弱が減少し、自己コントロール力、自信、自立心が育まれます。
 外側の円は、「誓願・寄り添い・見守り・共感・方便」(慈悲パーティー)であり、その課題は「よき縁となる」こと。
 です。(プラユキ師Twitterより)

⑤に続く

合掌 風印 拝


タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑤プラユキ師の法話-

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑥プラユキ師の個人面談


  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (530)

 前回のブログの続きです。

 四聖諦は、成道後、ブッダが初めての説法(初転法輪)で説き示した教えです。
 ダンマパダ(発句経)冒頭には、
 1、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも汚れた心で話したり、行ったりするならば、苦しみはその人につき従う。――車をひく牛の足跡に車輪がついて行くように。
 2、ものごとは心にもとづき、心を主とし、心によってつくり出される。もしも清らかな心で話したり、行ったりするならば、福楽はその人につき従う。――影がそのからだから離れないように。
 と書かれています。ブッダの説法はこのように身近な例(比喩)を用いて内容を分かりやすく説明し、行動を促す特徴があります。修行に入らせるための方便とも言えます。説法には、真実性、有益性、聞き心地の良さが重要とされますが、ブッダは特に有益性を重視されました。また、ブッダは相手の精神的能力や性質などに応じてそれにふさわしい手段で説法を行う「対機説法」、教えを受け入れやすくするために正解か不正解かではなく、プロセスに応じて説く「次第説法」をされたと言われています。

 四聖諦には、
 ①「苦諦」=苦しみを明らかにする(「観」:苦から目を背けず、ありのままを遍知する)
 ②「集諦」=苦しみには必ず原因がある(「断」:苦の原因=渇愛→除去)
 ③「滅諦」=苦しみは滅することができる(「証」:苦しみの滅→成就)
 ④「道諦」=苦しみを滅する方法がある(「修」:苦を滅するための方法【八正道】→実践)
 があります。

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2


 ①「苦諦」は、苦しみを明らかにすることを言います。苦から目を背けず回避せず、ありのままを見ることを「観」と言います。
 苦は、苦しむものでなく、観るもの、理解すべきものであり、「苦しみがある」ことと「苦しむこと」は別なのです。苦はスタートであり、滅苦(苦しみから解放)がゴールです。苦との取り組みを通して、滅苦のみならず、智慧(悟り)、慈悲、そして真の自由が培えるのです。
 ここで、仏教で説かれる苦しみとは、
 <四苦八苦>
  ・生・老・病・死 ・愛別離苦 ・求不得苦 ・怨憎会苦 ・五取蘊苦
 <三種の苦>
 ・苦苦…身体的な痛みとそれに付随する心理的不安(不快感)
 ・変壊苦…快楽や喜びの喪失に伴う寂しさや悲しみ(喪失感)
 ・行苦…思い通りにいかないイライラ、歯がゆさ(不満感)
 を言います。五取蘊苦(ごしゅうんく)または、五盛陰苦(ごじょうおんく)と言われるように、五蘊への執着が苦しみを生じさせるのです。
 瞑想によって、価値判断を挟まずに苦をありのままに直視することが出来れば、理にかなった対処が出来るようになってきます。苦しみが起こらないようにするのではなく、苦しみが起こってきた都度適切な対応をすれば良いのです。思うようにならないから苦しみが生じるのであって、何が起こってもOKと受け止めれば、認知が変わり、苦しみの矢が飛んでこなくなります。イライラ、落胆などの苦しみに固着すれば苦しみの連鎖、循環が生じてしまいます。そうではなく、瞑想によって苦しみを細やかに見る、気付くことによって、苦しみを起こってきたままに受け止めるのです。怒りは悪いものとして否定したり、瞑想が上手く行かないと自己嫌悪するのではなく、苦しみが生じてきたプロセス全体をあるがままに見れば、智慧が生まれ、世界が違って見えてくるのです。

 ②「集諦」は、苦しみには必ず原因があることを言います。
 ブッダ曰く、「苦しみの生ずる原因は『渇愛(タンハー)』」であり、それを除去することを「断」と言います。
 「渇愛」とは、対象を求める身体感覚に基づいた衝動的な心の働き(「執着(ハマり込み)」) を言います。「渇愛」は欲望ともいえ、あるがままを見ずに欲望に囚われることによって苦しみが生じます。
 「渇愛」には、
 1、感覚経験への渇愛(欲愛) 「見たい、聞きたい、味わいたい、触れたい」
 2、存在への渇愛(有愛) 「こうありたい(あるべきだ)、こう生きたい」
 3、非存在への渇愛(無有愛) 「このようにありたくない(あるべきではない)」
 があります。
 他に、「無明・渇愛・執着」、あるいは「貪瞋痴」とまとめることもできます。
 快を求めるのは本能によるものであり、否定、嫌悪すると却って辛くなったり、苦しみが増すこともあります。渇愛を否定するのではなく、成熟させる、育てることが大切です。無有愛によって自分など居ない方が良いと思ったときは、現実の身体ではなく、心の物語(苦しみ)を終わらせれば良いのです。身体や心の声を聞いて、パッション(情欲)をコンパッション(他者への思いやり)へ移行し、一切衆生を大切に生きていくのです。渇愛をあるがままに見ることで、偏見や先入観から解放され、渇愛も友として感じられるのです。意識的に無能→意識的に有能→無意識的に有能となっていくことを目指します。但し、無理が過ぎると逸脱してしまうので、注意が必要です。

 「苦しみと向き合う」段階(苦諦)で多くの人がつまずく(向き合えない)原因には、
 苦しみへのハマり込み(執着・耽溺)
 苦しみとの闘争
 苦しみからの逃走
 苦しみの抑圧
 苦しみを他に転嫁(投影)
 があります。
 具体的には、五感+対象物への耽溺、不毛な善悪論争、「私は○○である」といった固定的な自己イメージ、方法論や形骸化した儀式へのこだわり、無駄な疑心暗鬼などです。
 「耽溺・闘争・逃走・抑圧・投影」を「信・勤・念・定・慧」へと変容させることが必要です。

 ブッダによって否定された「苦しみの原因」についての3種類の言説には、
 「過去世のカルマによる(宿命論)」
 「神の意思による(神意論)」
 「偶然の産物である(偶然論)」
 があります。

 また、
 「今世における過去の悲惨な出来事」(トラウマ)
 「特定他者による虐待経験等」(アダルト・チルドレン理論)
 のように、過去の悲惨な出来事や特定他者による虐待経験等を苦の原因とみなす心理学的理論がありますが、それには、苦しみに圧倒され極度の混乱状態にある人や自己を責め苛み自虐状態に陥っている人に意味を与え、一定の安心を担保する応急処置的な機能(方便)があり、方便による安心感の醸成から根本的な苦しみの解決へ向かわせる有効性があります。
 トラウマやアダルト・チルドレン理論は過去の記憶や特定他者の言動それ自体を苦しみの原因とみなしているのに対して、仏教の観点では、それらは苦しみの原因ではなく条件に過ぎず、そうした記憶や言動に対する心のアクションが苦しみの根本原因であると考えます。
 すなわち、仏教では、原因+条件によって苦悩が生じるとみなしますが、条件をどう捉えるかが大事であるということ。また、心をしっかりと整えていくに連れて、智慧、慈悲という資質も生じる。たとえ自分を否定したり、価値が無いと考えてしまったとしても、そうした事実をあるがままに受け止めることを繰り返していれば、智慧や慈悲が育ってくるということです。
 タイでは、毎朝僧侶が村を托鉢して歩く姿が日常的に見られます。僧侶に対しての親の敬虔な姿を見ることによって、子供にとって親の存在は相対化され、より大きな存在を認識することによって、親に与えられた過去の虐待などの辛い経験は小さな事になっていきます。
 親への囚われがあると過去の経験を受け止めにくいです。しかし、周囲の適切なサポートがあれば、周りの人の心の状態が子どもに浸透して自分に向き合うことが出来るようになり、より本質的なものを見られるようになるのです。他方で過保護になりすぎると心が弱くなってしまいます。
 周囲のサポートにより、定と勤(精進)を兼ね備えることが出来れば、モチベーションが上がって実践に繋がります。瞑想がすぐすぐ上手く行かなくてもOKです。誰でもブッダになれる潜在的な可能性があるのです。信は重要ですが、慧が無いと上手く行きません。やってみた結果を受け止めて吟味し、信頼と智慧を携えて次のアクションを起こしていくことが大切です。

 ③「滅諦」は、苦しみは誰でもが滅し尽くすことができることを言います。苦しみの滅尽を成就することを「証」と言います。
 瞑想により、「苦しみ」や「渇愛」が自然に消えゆくのを見届ける作業、「無常」の洞察を行い、苦に関する気づき、体験をもとに、自身の思考の癖、行動パターン、生活習慣までを変えていくのです。
 具体的には、
 1、「気づきの瞑想」によって、心を覚醒させ、気持ちを落ち着ける(定)
 2、相手や私に向ける「怒り」に気づく(如実知見)→増幅が止まる
 3、切なさ、悲しみのあるがままの受容(切なさや哀しみの受容:Samvega
 4、願い、期待を理解し、手放す(離欲)
 5、心の自由を得る(解脱)
 を言います。
 瞑想により、心の動きや不快感を明らかにし、自然の法則に従って苦しみも無常で在ることに気付けば、苦しんでいる私も無我であることが分かるでしょう。無我と言っても無になりきるわけではなく、生じてきた思考や気分をあるがままに見ていくのです。蚊に刺されても痒さを感じつつ囚われないのです。苦しみを追いかけて囚われるのではなく、味わうのです。あるがままに一部始終を観察すれば、不快は快に変わり、痒みもやがて消え無常であることが分かるでしょう。オープンハートに起こってくるものを楽しむことが出来れば、智慧や慈悲の心が起こってきます。瞑想を日常的にすることによって、怒りを鎮め、今自分に出来るベストを尽くせるようになり、それが日常生活に浸透して行くのです。

 ④「道諦」は、苦しみを滅する方法があることを言います。苦を滅するための方法(八正道)を実践することを「修」と言います。
 【八正道】は、苦しみを滅するための八つの正しい実践の道です。身口意の三業(しんくいのさんごう)を清らかにして正しい生活をすることを目指しますが、正しいかどうかは自他の抜苦与楽を促すかどうかを指標とします。
 1、正見は、「正しいものの見方」(人生の苦しみについてのありのままの洞察=如実知見)であり、四諦や縁起で物事を見、特定の見解にハマりこまない中道的な見方を言います。
 正見によって、無意識的な見方の癖を看破し、新しいものの見方の再学習(リフレーミング、パラダイム転換)をすることが出来るようになります。

 2、正思は、「正しい心の向け方」であり、「欲」や「怒り」に染まった思考、対象を破壊したり傷つけよう(害意) といった思念パターンを自覚して、分かち合い、調和しあう方向に心を向ける思考を言います。
 正思によって、「欲」を分かち合いに、「怒り」を思いやりに、「害意」を自覚的で適切な支援に変えていきます。

 3、正語は、「正しい言葉」であり、偽らず(⇔嘘)、優しく(⇔粗野、粗暴な言葉)、調和を育む(⇔仲たがいさせる陰口)、 有意義な言葉(⇔無駄口)を語ることを言います。

 4、正業は、「正しい行い」であり、いのちを傷つけたり、盗んだり、性的に無責任な行為などから離れることを言います。

 5、正命は、「正しい生活」であり、生命の売買、武器や麻薬の取り引きなど、他者や社会に害を与える職業を離れ、自他に有益な生業をすることを言います。

 6、正精進は、「正しい努力」であり、
 ・悪を予防する(まだしたことのない悪いことはこれからもしない)
 ・悪を取り除く(いま自分にある悪いところをなくす)
 ・善を発生させる(今までにまだやったことのない良いことをする)
 ・善を維持し育み、完成させる(いますでに自分にある良いところをもっともっと増やす)
 ことを言います。
 私たちに与えられた任務は何かしらのご縁、即ち縁起に基づくものであり、苦しむのではなく、全うすることが大切です。上手く行かなくても結果に囚われず、ベストを尽くすことが大切なのです。

 7、正念は、「正しい気づき」であり、今ここで心身(身体、感受作用、心、自然の法則)に起こっていることをありのままに自覚することを言います。
 瞑想の実践によって、今ここで身体に何が起こっているか、それをどう感じているか、心がどんなエネルギーに染まっているのかなどを繰り返し見つめていきます。

 8、正定は、「正しい心の安定」であり、男性的な確固たる心の安定性と女性的な深い包容力を兼ね備えた成熟した「受容力」を備えることです。
 外界、内面にどんな状況が生じてきても、動揺することなく、確固と安定した状態で落ち着いていられる能力を培う(大きな心の器、深いふところ)ことを目指します。

④に続く

合掌 風印 拝


タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑤プラユキ師の法話-4

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑥プラユキ師の個人面談


  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (540)

 擇木道場の風印です。
 私は当道場に所属していますが、別に仕事を持っていて、仕事の合間に座禅や瞑想をしています。道場で座禅するだけでなく、各地の座禅会や瞑想会に参加してその度にブログを書いています。道場と無関係なブログの掲載を許して頂いているのも、禅の懐の深さと受け止め感謝しております。
 プラユキ師のことは、昨年10月にNHKEテレで放送された『こころの時代~宗教・人生~「”今ここ”に気づく」』を見て知りました。それ以来手動瞑想をするようになり、今年2月に実施されたプラユキ師主催の『向春の1日リトリート』に参加した際にスカトー寺瞑想合宿のことを知り、参加させて頂くことにしました。
 以下、スカトー寺瞑想合宿でのプラユキ師の法話の内容をまとめてみました。
 大変お忙しい中、ブログの内容をチェックして頂いたプラユキ師に心より感謝申し上げます。

 ブッダの語られた【智慧】とは、「世界や心はいかにあるか?」即ち「あるがままの真実を理解すること」であり、悟り/涅槃(苦の終滅)を目指します。また、【慈悲】とは「私たちはいかに生きるべきか?」即ち「人としてこの世を善く生きること」であり、自他の抜苦与楽を目指します。
 実相法(真理)とは、一切のものの姿(パターン=相)と一切のものの自然の成り行き(プロセス=働き) を明らかにするものであり、自然界全体を貫く構造や法則(システム=ダルマ)を知ることです。
 実践法(倫理)とは、知り得た実相を実際の生活や人生に役立たせることであり、自他の抜苦与楽がその指標となります。

 ブッダの教えられた「三つの善なる行為」には、①「布施」…自身の持っているものを他に与える、②「持戒」…身(行動)と口(言葉)をととのえる、③「瞑想」…意(心)をととのえる、があります(三福業事=「施・戒・修」)。
 ①布施には、
 1、金品を与える(財施)
 2、知識や技術、智慧を与える(法施)
 3、安心や思いやりを与える(無畏施)
 があります。金品や知識などを与えるだけでなく、恐れを与えずに許しを与えることも布施になります。得たものを分け合い(シェア)、共に喜び合うことも布施です。
 布施により、
 →不貪(手放すこと)の基礎練習
 →自由・幸福感の転換(得から徳、自分から他者へ)
 →与えること、分かち合いによる幸せを知る
 ことが出来ます。

 ②「持戒」には、
 1、生き物をむやみに殺さない
 2、他人のお金やモノを盗まない
 3、よこしまな男女の交わりを結ばない
 4、嘘をつかない
 5、自分を失うようなお酒を飲まない
 の五戒があります。
 持戒により、
 →周囲との葛藤や後悔の少ない健康的な生活習慣
 →安定した心の基盤づくり(三学=戒定慧)
 が得られます。
 戒を守ることで、身体行動と言語行動のコントロールが可能となり、心の奴隷にならずに済みます。戒を守っても直ぐには結果は出ないこともあります。また、戒への執着が生じれば、それもまた苦しみとなります。それから、世界が味気なく見えてしまうこともあります。戒にとらわれ過ぎないことが大切です。

 ③「瞑想」は、止観ともいい、
 「止」=サマタ : 心をひとつの対象に繰り返し向けて安定させ、<集中力>を養う。
 「観」=ヴィパッサナー : 心身に起こっていることに繰り返し気づき、覚醒力(サティ)を養い、 ありのままに見つめることを繰り返しながら、洞察力 (パンヤー)を培う。
 の2つに分けられます。
 手動瞑想(チャルーン・サティ)はヴィパッサナー瞑想の一つですが、サマタ瞑想の要素もあります。ヴィパッサナー瞑想では、マインドフルネス、即ち瞬間瞬間立ち現れてくる体験に対して、今の瞬間に、判断せずに、意図的に注意を払うことによって実現される気づき、を重視します。
 瞑想により、
 1、ストレス状態から、リラックス状態へ、
 2、散乱状態「雑念」から、集中状態「無」へ、
 3、今ここに心あらず・とらわれの状態から、目覚め・気づきの状態へ
 と至ることが出来ます。
 私たちは快・不快に基づく、レスポンデント条件付け・オペランド条件付けにより、無意識に心の癖を持っています。
※レスポンデント条件付け…刺激と刺激を時間的に接近させて呈示することによって、その関係を学習させる条件づけの方法
※オペランド条件付け…報酬や嫌悪刺激(罰)に適応して、自発的にある行動を行うように、学習すること
 瞑想により、心の癖を看破し、安定した心の土壌を持って物事を見極めることが出来るようになるのです。

 仏道修行者の修めるべき三つの要目には、戒定慧の三学があります。
 ①戒学とは、身体的行為と言語行為を調え、悪を止め、善を修すること。
 ②定学とは、心の散乱を防ぎ、安定させていくこと。
 ③慧学とは、すべての事柄の真実の姿を見極めること。
 を言います。

/uploads/ckeditor/images/20190728191902image001.jpg


 三学のそれぞれの関係は、
 ①戒をまもり生活を正すことによって、心の安定を助け、
 ②安定した心を基盤として、智慧を発しやすくさせ、
 ③真実を正しく見極めることにより、真理をさとる(如実智見→滅苦)
 となります。

 三学には、二つのベクトル(菩薩の二大徳目) があり、
 ①上に向かって悟りを求める智慧を「上求菩提」
 ②下に向かって衆生の教化をなす慈悲を「下化衆生」
 と言います。
 三学は「真善美」という価値と対応しており、真=慧、善=定、美=戒という対応関係があります。
 戒を守り、定を修し、智慧の獲得に至るのが智慧の道であり、智慧に基づき、善なるハート、美しい言動や表現で、一切衆生の抜苦与楽を具現化するのが慈悲の道です。

③に続く

合掌 風印 拝


タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-3

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑤プラユキ師の法話-4

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑥プラユキ師の個人面談


  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1040)

(続)人は何を遺すか?

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/22 22:34

(続)人は何を遺すか?

丸川春潭

 恩人のご逝去に際し、「人は何を遺すか?」を自分に当てはめて考えはじめ、人間形成の禅をもってひとづくりをして「人を遺す」ということになったのが前のブログです。

この「人を遺す」ということに似たものは、職人が弟子を鍛え育てて後継者を残すのにも見られます。陶工の楽家の伝統もその一つでしょう。明珍の火箸を先年かっての同僚と姫路まで見学に行きました。ほとんど家内工業ですが技術の伝承が脈々と平安時代から900年間にわたって繋がっているのを目の当たりに見ました。ここではその伝統の火造技術を身に付けた人を遺し続けているのです。

昨日、擇木禅フロンティアで新しい禅の講演を聴きました。講師は数奇な人生経験者であり話は面白いし凄い人であり、やられていることも立派なことをやられていると感銘を受けました。未だ70歳だし多くの現代人を救済しまた熱烈なファンを持ち財もなされるであろうと思いました。

しかし昨日拝聴した限りでは、自分と同じような後継者を遺すことはお考えにないように思いました。悩み迷っている多くの人を救済するという実績は遺されるでしょうが、向上心のある人物をそれぞれの個性に応じて年月かけて育成する人物づくりの視点はお持ちでないようです。あまりにも非凡な講師と同じような後継者は出て来にくいと云うこともあるでしょうが、あくまで自分一人の個人プレーで終わりになるでしょう。一人が一代でやられることとしては大きいでしょうが、次には繋がらないということです。

人を遺すということは、遺した人がまた次の人を残すということによって永遠につづくその端緒を残したということであり、一代でなすことへの視点だけではなく、未来への視点を持ちつつ「今」をやっているところが、彼我の違いです。

しかも我々の人間形成の禅の歴史を振り返るとこの道の端緒は2500年前のインドのお釈迦様が遺したものからであり、6世紀1500年前の菩提達摩が中国へ渡って来て中国にそれを伝え遺し、さらに13世紀大応国師が中国からその法を継承して日本に保ち帰って来て今日にまで到ったものです。したがってこう見てくると、先ほど端緒と書きましたが、現在はその歴史の先端部分と捉えるべきでしょう。

ただこの人づくりのための伝承は、臨済禅の歴史の最初からあったわけではない。従来からの僧堂の禅は一個半個の「伝法のための伝法」が第一であり、その時その時代での広がりよりは将来への視点が強く、またその伝承は個でなされたものでした。しかし明治以降に誕生した在家禅は「布教のための禅」となり、そして更に71年前の人間禅の誕生により「布教のための伝法」が確立した。そこからは個ではなく集団(僧伽)で布教し、集団(僧伽)で法(嗣法者)を遺すことになったのです。

昨日の講演者は一人で布教をやられていましたが、人間禅の場合は師家も布教師も輔教師も総勢200数十名が一斉に全国各地で今の布教をしています。また戦前までの禅界においての伝法は個から個でしたが、人間禅になってからは集団で個(嗣法者)を遺すという体制になりました。特に伝法を組織的に行うと云うことにより法の断絶という危険は減じ、未来への布教が盤石になったのです。すなわち禅による人間形成を社会に広げ、正しく楽しく仲の良い社会をつくる志とシステムを未来へ確実に遺すことが可能になったのです。

人は何を遺すか?において、人を遺すと云うことの素晴らしさに気づき、またそこに個の名前ではなくみんなと一緒にその一端を担えることの痛快さをつくづく噛みしめることができた次第です。(おわり)


  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (109)

金曜朝座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/7/19 11:03
719
金曜朝座禅会
初めての方           1
2回目以上           0
会員                     4
 

早朝座禅会にアイルランドから来日し、3ケ月滞在する予定の男性が初めて来られた。看板と英文のチラシを見て参加された。
通常どおりの受付をして15分で座禅のやり方を説明。6:15から6:55まで座った。胡坐を組む経験はなく、当然、半跏趺坐はできないので崩した胡坐で両膝が座布団に付くように坐具高さを調整して座ってもらった。だいたい良い姿勢でしたが、途中で疲れたようでした。母国ではヨガ道場に数回通って15分程度は坐ったことはあるが、40分という長い時間は初めてとのことでした。新到者への配慮が不足していました。

早朝座禅会では、時々、5分の休憩を挟んで25分ずつの座禅をやることがありますが、新到者がいるときはそのようにしたほうが良いですね。「また、参加する」との言葉を交わして別れました。東京支部員は英語を使えるようにしましょう。龍泉
 

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (128)

人は何を遺すか

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/18 21:55

人は何を遺すか

丸川春潭

 住友金属時代の大先輩であり恩人である栗田満信氏が4月にご逝去された。享年94歳でした。氏は多くの部下に慕われ、氏を中心に年に2回の懇親会を永年にわたり東京と関西で一回ずつ開催されてきました。これほど多くの部下をこのお年まで慕い続けさせ、死して尚その薫陶を及ぼし続ける人徳は、小生寡聞にして他に知りません。私も薫陶を受けた多くの部下の一人でしかないのですが、自分も多くの知友と一緒に自分が死ぬまでその薫陶を抱き続けるでしょう。

 この大先輩の遺されたものをつらつら考えて、人は死んで何を遺すのかを考えました。

 ニュートンは万有引力を遺し、アインシュタインは相対性原理を遺し、ピカソは前衛絵画を遺し、トルストイや夏目漱石は文学を遺し、利休は佗茶を遺し・・・と見てくると、その人のなしたものが後世に大きな影響を及ぼしたからそれを遺した人の名前が残ったと考えられます。

更に考えを進めて、名前はどうでもいいとして、人は生を受けてこの世に生きて後に何を遺せるのか?の考えに到ります。子供を産んで育てて孫が生まれてと云う子孫を残すという遺し方もあります。先の栗田先輩は多くの後輩に薫陶を遺されました。芸術家はその作品を遺す。その遺した物の大きさとか価値は時代背景もジャンルも違いますので容易に比較したり尺度したりすることはできません。しかしその影響がいつまで残るかはある程度尺度できます。

芸術家の作品はそれが時代を超えて感銘を残すものであれば人類が生存するかぎり残ると云えます。先生からとか親から受けた教えや愛情や薫陶のような対人関係で遺されたものは、それを与えた人と受けた人の関係性でできたものですので遺されたものを受けた人が死ねばそれはほとんど消えます。しかしそれが受けた人の人格形成にまで大きく関わるものであれば、受けた人の働きや遺した物に与えた人の影響は必ず及ぶと考えられます。

しからば振り返って、「人間形成の禅」でもっての人づくりの場合はどうかを考えてみたい。人づくりは人物づくりであり人間力が付きます。これによりその人の持って生まれた資質と個性が最大限に発揮されることになります。そのジャンルは政治・経済・科学・芸術全てのジャンルに多面的に及びそれぞれの職業や居場所で光を放つことになります。更に人を育てて残すと云うことは多面的な影響と云うより次々に人づくりが伝承するということになり、未来への繋がりと発展の可能性が広がります。すなわち人づくりによって人物を遺すと云うことは、芸術家の遺す作品とか科学者の発明と同じように人類がつづく限り残るものです。

人間形成の禅を進める人間禅はまさに人づくりをするために創られた集まり(僧伽)であり、人を育て人物を遺して来た伝統を受け継ぐものであります。この人づくりの伝承は少人数の師家だけでできるものではなく同じ志を持って集う僧伽全体でなされるものです。私はその多くの道友の中の一人としてそれに関与していることに思いをいたすとき、はじめて大きな生きがいを感ずるのであります。すなわち一人ではできない人づくりの伝承の一端を担ぎ、みんなで人づくりの輪を広げ、また未来へ向かってこの伝統を遺すのです。(つづく)


  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (560)
最新のブログ記事