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擇木道場

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擇木ブログ - 20190613のエントリ

 先日、「湘南ダンマサークル」さん主催の出村佳子先生をお招きしての「第2回 八正道勉強会」にお邪魔させていただきました。
  出村先生にお会いしたのは、このときが初めてだったのですが、予め何人かの方から「かわいらしい感じの人です。」とお聞きしていたところ、本当に、かわいらしい感じの人がいらっしゃって癒されました。
 よく「法話を聞いて癒される」と言ったりしますが、この種の集まりに参加して「話の内容とは関係なく、癒される」経験は初めてでした(もちろん、お話も勉強になるものでした。)。 

 勉強会終了後の懇親会で、以前、私が書いたブログの記事
「遍参録『湘南ダンマサークル』さん」
/modules/d3blog/details.php?bid=1954 )でも、触れたテーラワーダの長老の一人であるアーチャン・チャー『手放す生き方』の悉有仏性論的な記述について、出村先生を含め、何人かの方と話題になりました。
 そこで、私の知識の限りではありますが、少し整理して取り上げたいと思います。
 禅にしろ、テーラワーダにしろ、実践的な部分には、余り関係のない豆知識ということで、気楽にご覧いただければ幸いです。

 まず、問題の記述を改めて、取り上げます。

 「ブッダとは、時を超え、不生であり、いかなる身体、歴史、イメージと関連ないものだと理解できます。ブッダとは、あらゆる存在の基底であり、不動の心という真理の表れであると言えます。(中略)この、時を超えたブッダこそが、私たちの本当の家であり、不変の空間なのです。」(アーチャン・チャー『手放す生き方』242頁)
  

 この記述を頭に少し入れた上で、次の人間禅の源泉でもある所の円覚寺の管長でもあった釈宗演老師の著書の次のような記述をご覧下さい。
 以前のブログでも取り上げましたが、以前のブログでは注にいれていただけでしたので、再掲します。

 「法は始めなく終わりなく、今も目前にあり又後にもあるもので、よく過去、現在、未来の三際を貫き、大は日月星辰より、小は針の目までも行き亘って居るのだ、一切の事実は悉く是れ法の顕現である。一切の因縁には法が交って織られ、因の中にも法あれば縁の中にも法がある。然し法は決して因縁に束縛されるものでない、大自在である大自由である。円転滑脱の作用がある。この
法が即ち仏性とも称せられるのぢゃ、されば仏性は生きとし生ける人、鳥、獣、草、木などの有機物のみならず、金石国土の如き無機物にも猶お宿って居る。萬有の本体は、帰するところ一の仏性である。即ち法が是れ事物の本然という事になる。この法は万古不易の人力を以て如何ともする能わざるもので、人間は総て皆這箇の法の支配を受けねばならぬのである。」(釈宗演『最後の一喝』226~227頁)
(戦前の本であり、旧仮名遣いは適宜改めました。なお、著作権が切れているため、国立国会図書館のデジタルコレクションから無料で全文を閲覧できます。urlも載せようとしたのですがうまくいかず、国立国会図書館のホームページからアクセスして見て下さい)

 若干長いですが、言っていることは全く同じであるという。
 このように仏性を捉えると、前記の著書で記述されているとおり、仏性は、法と同義のものになっていきます。
 
 このような悉有仏性論の捉え方が日本では一般的ですが、これは日本独自の捉え方であるとよく言われます。
 
「インド仏教において、『一切の衆生に悉く仏性有り』(一切衆生、悉有仏性――『涅槃経』)というときの衆生は、人間であった。しかし、日本では『衆生』の中に生命あるものすべて、さらには山川草木をも含めてしまった。
 樹や石も仏性を備えており、やがて成仏する、という日本仏教の考え方は、自然のもの一つ一つに霊が宿るという神道の考え方と合流して、神仏習合の理念的基礎となった。」(立川武蔵『日本仏教の思想』32~33頁)
 
とされています。 
 
 悉有仏性論は、大本はこのような考え方ではなく、次のようなものだと言われています。
 
「インドの如来蔵思想、および中国禅宗(達摩・道信・弘忍・神秀・慧能・神会等)の基本的立場は、この「仏性内在論」(引用者注:仏性は衆生の中に常住なる純粋精神としてあるという考え方)である」(松本史朗『仏教への道』240頁)
 
 仏教の基本原理は、「諸法無我」のはずですから、インドの如来蔵思想や中国禅宗の基本的立場とされる考え方に対しては、次のような批判がされます。
 
「日本の主要な宗教である大乗仏教でも同じことです。(略)「如来蔵」、「仏性」、「法身」(略)などと言葉を作っていろいろ概念を入れ替えるのですが、結局は「真我」とか「魂」とか、何か永遠に変化しない実体・絶対的な存在がある・いると考えているのです。」アルボムッレ・スマナサーラ『ブッダの実践心理学 第二巻心の分析』18頁
 
 しかし、この批判は、先のような日本的な意味での悉有仏性論には妥当しません。
 このような捉え方の大本は道元禅師のようですが、それ自体、如来蔵思想を否定するものだからです。
 
「悉有は仏性なり。……衆生の内外すなわち仏性の悉有なり。
 
 これは、「衆生の中に仏性が内在する」という如来蔵思想の一般的な考え方を否定したものである。仏性は衆生の内だけではなく外にもある。そればかりか一切の存在(悉有)はそのまま仏性なのだというのである。つまり、仏性は衆生の中に常住なる純粋精神としてあるというのではなくて、精神にも肉体にも、一切の存在に仏性が顕れているというのである。」(松本史朗『仏教への道』240頁)
 スマナサーラ長老は、駒澤大学で道元の研究をされていたとのことで、この点をどのように考えていらっしゃるのかは、実践の問題とは離れた好事家的興味が湧くところです。
 
 とはいえ、なぜ、道元禅師が「仏性」という用語法を残されたのかは、問題としてもよいようにも思います。
 禅道修行到らず、禅学修めるに至らずの者としては、真意はつかめないといわざるを得ませんが、座禅・瞑想により入力を試みる事前情報というプクティカルな意味を考えると、法に「仏性」というプラスのイメージのある言葉を当てて、それが全世界に及んでいるとすることで、世界を肯定的に捉えさせようとしたのではないかなと考えています。

 
「禅堂における生活のすべてが坐禅である、とよくいわれる。人間や草木が仏性であるばかりではなく、食事や雑務、あるは睡眠等あらゆる行為も仏性なのである。人間の在り方によって、世界の中のあらゆるものに「仏性」という「聖なる」意味を与えること、これが道元の目指したものであった。」(立川武蔵『日本仏教の思想』158頁)
 
と言われるところです。
 
 私たち一人一人も世界を構成しており、私たち一人一人は過去と連続性のあるものとして自己を構成しているのですから、世界を肯定的に捉えるとは、この目前に迫っている事物を肯定すると同時に、それを見ている私たち自身を、その私たちにあったと感じている過去を、すべてを肯定するということです。
 もちろん、懇親会の席でO女史がおっしゃったとおり、「そもそも世界を肯定する必要はあるのか?」という疑問は湧きます。
 肯定も否定も評価の問題にすぎません。
 現象として目前に迫っている「世界」も、それを感じている「私」も、「私」に属しているような気になっている「過去」も、内容中立的なものであり、そこには良いも悪いも、本来ないはずです。
 肯定も否定も、良いも悪いも、私達の認識の枠組み、すなわち、自我と呼ばれる現象が作り出した虚偽のものにすぎません。

 思考の枠組は私たちの作り出した虚偽のもの。
 このことは、前提として、私たちに思考の枠組みを自ら作り出す能力があることを示しているのだと思います。

 一切皆苦は、私たちの思考の枠組みの作り出したもの。
 それなら、全てを楽にすることもできるのではないかと思うのです。

 一気に変えるのは難しいけれど、ちょっとの工夫で少しずつならできるのではないかと思うのです。

 何か失敗をしたりしたときに、後悔したり、憤るのではなくて、生じた心の波を乗り切る道力を試したり、心の波を観察して、波が収まるのを感じたり、そうしていれば、きっと仏道実践の成果をかみしめる喜びを感じると思うのです。

 
 そのような喜びはほんの一瞬のものです。
 しかし、喜ばしいことに、私たちの目の前には苦があふれてくれているのです。
 もとより、喜びが生じた瞬間、それが苦に変わってくれるのです。
 私たちがそれぞれの実践で培ったものを試す機会には事欠きません。
 
 一瞬一瞬自分が仏道の実践で培った成果の喜びをかみしめていく。 

 人生は長く感じてしまいがちなので、このすべてを肯定していけるのか自信が無くなります。
 しかし、本当にあるのはこの目の前の一瞬一瞬だけ。
 一瞬一瞬、自分の仏道の実践をしていくだけです。

 一瞬一瞬、仏道の実践の成果を試す喜びを得ることが出来た理由は、どこかで仏道に出会ったから。
 そして、私たちは、どこか辛いところがあって、そこから救われようと考えて、仏道に出会ったのだと思います。
 私達が仏道に出会った原因は、それぞれがほかの人には分からないような辛い事情だったかも知れない。
 けれども、この一瞬一瞬の仏道の実践による成果をかみしめる喜びを得ることができた原因の大元を探っていくと、きっとその辛い出来事があるのです。 

 軽々に言ってはいけないと思うけれど、そういう視点をもったとき、きちんとその過去の出来事に向き合うことが出来るようになった自分の成長の喜びもかみしめることができ、そして、そんな過去も含めて自分の全てを肯定でき、さらに、そんな自分を生み出したこの世界も、肯定して慈しむことができるのではないかと思うのです。

 悉有仏性とは、こういうことを称してもいうことなのではないかと思っています。

合掌 英風 拝

 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」

JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵

善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
(連絡先)中川香水
 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com

 
 

 

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