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擇木道場

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擇木ブログ - 20190609のエントリ

「道力(胆力)を付けるには」(その1

丸川春潭

 

先週東京荻窪支部第一回摂心会が開催され、提唱は支部長より初心のものが多いので「数息観」と「見性」というタイトルで二回法話をしてほしいと要請があり、先ずは令和元年530日(木)に「道力(胆力)を付ける」と題して法話しました。その内容を更にかみ砕いて、この擇木HPのブログとして連載したいと思います。

我々の禅は人間形成を積むための禅であり、修行(行を修める)であります。禅による人間形成には道力をつける車輪と道眼を開く車輪の二つがあり、前者が基盤となり後者がその基盤の上に構築されるという関係にあります。

道力を付けるとは三昧(集中力・三昧力・考えない力)を身に付けることです。これは大脳の頭頂葉をon/offし制御する力を付ける修練であるともいえます。座禅の難しさは全て頭頂葉(大脳の一部で思考する場所)の動きを止める(on/offし制御する)ことが難しいところからきています。

世の中には、この「考える」ことを止めるための類似の行(各種瞑想法、読経や礼拝などの宗教行為、アスリートの集中法など)がいろいろありますが、大別すると癒やし系(頭頂葉の錯綜を鎮める:心を静める・楽になる)と修行系(考えない力を付ける・頭頂葉の動きを止める・三昧に入る・人間形成)に分かれております。前者は楽行であり、後者は苦行(刻苦)になります。

瞑想などのいろいろなツールの判定を単純に頭頂葉(または前頭葉)の活動レベルで尺度すると判りやすく整理も明確にできます。したがってこの尺度を元に癒やし系と修行系に仕分けて整理してみます。

最近よく流行っているマインドフルネス(呼吸とか動作とか心の動きに沿って集中する方法)は、発信元であるベトナムのティクナットハン先生の説明から判断すると、頭頂葉の動きを押さえ沈静化する方向性を持つものですが、臨済禅での数息観法よりもっと頭頂葉の活動が残っている位置付けのツールです。その点、初心者も含め万人が取りかかりやすいこころの沈静化のためのツールと云えます(アメリカの大手企業で取り上げられ普及しているのは、効果もさることながら誰でもできる平易さがあるからです)。そしてこれは修行系ではなくどちらかといえば癒やし系のツールです。

最近は座禅よりもいろいろなヨガが健康志向から普及していますが、ヨガ系には体を動かすだけではなく必ず瞑想の行が一部入っています。その瞑想はイメージをもってそれに集中する方法ですが、そのイメージが単純なものであれば数息観に近いレベルのものになり、イメージが多様で複雑なものであればマインドフルネスに近くなると考えられます。もちろん数十年と専門的に実践されているヨガの熟達者は、修行系の相当深いところまでいっていると推定されます。

上座部系・チベット仏教系も最近ブームになっており、これは瞑想の発祥といっても良いのでしょう。ただ人によって、マインドフルネスのレベルから只管打坐(頭頂葉完全停止)まで広い幅になっておるでしょうが、最近のブームに乗ってやっている人はほとんど癒やし系のレベルでしょう。すなわち56年の修練ではとても歯が立たない難しさをもったツールです。

最後に臨済宗のやり方(数息観法)です。頭頂葉は常に動きたがり強い意思でもってしても考えることを止めにくいものです。したがって第一段階としてひとつの動き(数息)に頭頂葉の動きを絞り込む(数息で頭頂葉をいっぱいにする)修練をする(この段階でも相当骨を折らねば満足にできません)。そして第二段階として頭頂葉を徐々に止める修練をし、最終的に完全に止めてしまう修練(後期数息観・離息観・忘息観・只管打坐)に持って行くのが耕雲庵英山老師の人間形成のための数息観法です。最終的には道元禅師の只管打坐の究極まで展望できる初歩から究極までを備えたツールです。

数息観のやり方・工夫の仕方については次回にします。(つづく)
 


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6月9日 日曜朝座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/9 10:57

6月9日 日曜朝座禅会

初めて参加  2名

2回以上参加 5名

会員     5名

7:00-7:35 座禅

7:35-7:40 休憩

7:40-8:00 座禅

8:00-8:10 経行

8:10-8:20 座禅

8:20-8:30 読経

終了後は居士寮で茶菓子をいただき懇談した。

 

『茶掛け一行物 下巻』吸尽松風意不塵を読んで、言語の意味を説明した。

法嗣(はっす):法を嗣ぐべき次の人、初代から二代の場合は二代目の人。一休には次ぐべき人が居なかった。

禅機:禅の修行によって培った人間力。我々の立場では、仕事に反映できる座禅によって培われた三昧力。

乾坤:天と地、一切の世界。

活発々地:その場その場で臨機応変に活動すること。新しいアイデアを閃くとか、人と意思疎通を十分働かせて交渉するなど。

松風:釜でお湯が沸いてくると聞こえる「シュー、シュー」という音。ちょうど海辺の松林が風に吹かれて出す音に聞こえる。お茶席では狭い部屋の中に大自然の物語を思って楽しむ。茶筅を洗う音は、さらさらと

流れる小川の音になぞらえるなど。

村田珠光と一休との関係は1400年中期のことで、当時から茶道と禅は深い関係を持っていた。茶禅一味とは、人間形成を目指す座禅も茶道も目的は同じであるということ。

6/22仏教講座、6/22-6/29東京支部摂心会、6/23「チェンジ ユ―」講演会について説明した。

本日、初めて参加された方は、お茶の水でギターのお店をやっているので、講演会のチラシを15部ほど、お店に置いてもらうようお願いした。快く了解いただいた。

とても快活な方々でした。再度ご来場くださることを期待します。龍泉
 

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6月8日 土曜夕方座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/9 10:52

6月8日 土曜夕方座禅会

初めて参加  1名

2回以上参加 2名

会員     3名

17:00-17:25 座禅

17:25-17:30 休憩

17:30-17:50 座禅

17:50-18:00 読経

終了後は居士寮で茶菓子をいただき懇談した。

6/22仏教講座、6/22-6/29東京支部摂心会、6/23「チェンジ ユ―」講演会について説明した。

6/23「チェンジ ユ―」講演会の趣旨は、私が座禅を始めたころのテーマそのものです。入社して7年の30歳前半。仕事が多忙で、夜遅く退勤する。職場とアパートを往復する毎日、仕事以外の人と関与しない狭い人間関係。仕事上で上司、関連部署の人とやり取りをするが,何か、いつも人の言葉や印象を気遣って悩むことの多い毎日でした。こんな状態で定年まで、また、それ以降も生きていけるのかな?何かをして、自分を変えなければならないという気持ちになりました。色々と経過して座禅に行きつき、人間禅に入ってから20年。やっと安堵した状態になりました。①自分を変えられた。②住む世界が広がった。当初、私が目指した二つのテーマを確保できた。初めて参加された方にそんなことを話して、摂心会と講演会への参加を促した。龍泉
 

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「われわれがこの苦の世界に生まれ生きているのは
 愛するためであり
 働くためであって
 苦から逃れるためではない。」
 
 東京荻窪支部の英風です。

禅宗史について、きちんと勉強する気になり、東京荻窪支部の木曜日座禅会に行くついでに、会場の荻窪剣道場の近くにある古書店「ささま書店」に立ち寄ったところ、売られていたのが、この本でした。
 松本史朗先生については、袴谷憲昭先生と並び「本覚思想」、「如来蔵思想」に否定的な立場を取られている程度のことは知っており、妥協のない研究姿勢をとられているのではないかと好印象をもっておりました。
 立ち読みで禅宗を取り扱っている箇所に目を通したところ、簡潔にまとまっており、わかりやすく、また、400円という手頃な値段が付けられていたので、買い求めました。
 
 この本は、本文259頁という薄さの中に、「原始仏教から鎌倉仏教に至る(略)重要と思われる基本的教説や思想について(略)解説」(「まえがき」1頁)した本、つまり、一言でいえば、歴史的観点で整理された仏教の知識本です。
 私自身も、まあ、そんな本であろうと思って買ったわけです。
 確かに、知識面も面白い。
 きっと、高度な内容を水準を落とさず、平易に書いたというものなのだと思う。
 しかし、実際、読むとエラく「アツい」。
 鎌田茂雄先生とかと比較しても、「アツい」。
 
「自利利他の円満とはいっても、自利と利他を半分ずつ行って、その調和をとるという意味では毛頭ない。

それはまったくの利他、完全な自己犠牲なのである。

完全に自己犠牲的な一つ一つの行為に、成仏の可能性を

いな、成仏それ自体を見出そうとする生き方こそ、真の慈悲であり、菩薩道なのである。」(109頁)
 
 ……これはしびれますね。
 利他が自利に一致するというくらいでは弱すぎる。
 利他三昧、こういう生き方を目指す……“実際にする”のでないと、禅をしてもつまらないじゃないですか!
 
 読み始めたときには、単に知識を仕入れることしか期待していなかった分だけ、「これがくるか!」というインパクトを感じる言葉が多かったです。
 
「人間がさとりに至るための手段にすぎないとすれば

なぜ人間は苦しむために、愛するために、この世界にみずから生まれてきたのであろうか。

また、人間がさとりに至ろうとして、それができなかった場合

彼のいっさいの労苦とその生活に、どのような意味があり得るのか。

さとりを一つの客観的な目的として設定し、それに向かって進んでいくという直線的思考は、結局のところ、小乗と呼ばれたものと同じではないのか。」(138頁)
 

「さとりに至ろうとして、それができなかった場合、彼のいっさいの労苦とその生活に、どのような意味があり得るのか。」

……禅の修行をする者は、まず、この問題について、自分なりにでも、きっちり答えを出さなければならないでしょう。

私なりの解答がこれまでブログに書き散らしてきたことなのですが、どの程度成功しているでしょうか。
 松本史朗先生は、「批判」のイメージが強かったのですが、読み進める中で、仏教に対する熱い思いが「批判」の原動力になっているのかなと思いました。
 
 私は、知識を求めて、この本を読んでいました。

しかし、私は、仏教書、ひいては仏教の言説において、究極的に重要なことは、内容の正確性や、内容の真実性ではないと考えています。

重要なことは、魅力的な世界観の提示だと思っています。
 
 釈尊は、約2600年前にいた人物にすぎず、その発した言葉とされるものが初めて経典化されたのが、釈尊が入滅してから数百年後のことです。

情報流通が発展した現代においても、マスコミが情報を発した数日後には、真実が違っていたとわかることは少なくありません。
 それなのに、釈尊とされる人物の言説が現代まで正確に伝わっているなどという方がおかしいというべきでしょう。
 それは、近代における仏教史の研究が教えるところでもあります。(注1)
 
 現代に仏教として伝わっている考え方の一つとして、私たちの考え方の枠組みが、私たちの思い込みによって作られた仮のものにすぎないというものがあります。
 そのことは、逆に、私たちには、よりよい生き方を実現するため、自由に自分の考え方の枠組みを創り出すことができる能力があることを意味しているのではないかと考えています。
 
 たとえば、原田祖岳師が
「闘争も不幸もすべて心の持ちよう=解釈=一つ、同じ事実も見ように依って蓮華にもなれば汚物ともなる。(中略)五十年の人生も、人の心の持ちよう、即ち解釈、見方一つで地獄にもなれば極楽にもなる。およそ誰でも自分は最も幸福だと解釈の出来ない人は、まだ正法の理解も信念もない証拠です。正法を信解した人は必ず自己の幸福に目覚めて、その境遇を真の幸福に向上させるものです。然らざれば佛法=真理=の未だわからぬ人であります。」(注2)
というのもこのような趣旨ではないかと思います。
 
 鈴木大拙先生は、禅について
「それはわれわれの心に生まれつきそなわっている創造(略)の衝動を、すべて思うままに働かせることである(略)われわれは自分を幸福にし(略)て生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえている」(注3)
と言いますが、「自分を幸福」にするための「創造」とは、考え方の枠組みを自分自身で創り出すことなのではないかと考えています。
 禅の修行の中で、考え方の枠組みを解体すると同時に、「創造」する作業が繰り返されるのは、そのためでしょう。
 
 そうすると、仏教の言説において、重要なことは、かつての古い考え方の枠組みを否定した後の新しい考え方の枠組み、すなわち、魅力的な世界観を提示するということになるのではないかと思います。
 坐禅の実践は、私たちの感受性を高めますが、その狙いは、このような新たな枠組みを自分たちに刻み込むためなのであると思います。
 「虚実の間に遊ぶ」と言いますが(注4)、日々より魅力的な生き方を求めて新たな世界観を創造しながら、人生を送ることを称しても、言うことなのではないかと考えています。
 
「地上のいっさいの悪を、またいっさいの自分の過去を方便として、試練として認める(略)
 われわれはその苦しみが大きければ大きいほど、そのあとで得る実りもまた大きいのである。

それゆえに、かつてこの地上でどれほどの悪がなされようとも、われわれはなお、世界を愛することができるし、また愛さねばならないのである。」(258~259頁)
 

この松本史朗先生の提示する世界観は、私にはとても魅力的に映るのですが、いかがでしょうか。

 

合掌 英風 拝
 
【引用文献】
冒頭部 松本史朗『仏教への道』146頁
(注1)たとえば、松本史朗『仏教への道』218頁
(注2)原田祖岳『白隠禅師坐禅讃講話』108~109頁
(注3)鈴木大拙『禅』42頁
(注4)立田英山『人間形成と禅』44頁
 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」

JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵

善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
(連絡先)中川香水
 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com

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