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擇木道場

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擇木ブログ - 20190605のエントリ

「迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。
 迷いの中へ飛び込んで、大自在を得る。」
 ――釈宗演
 
 「転迷開悟」ということがよく言われます。 
 人間禅で修行を続けると、このような状態になるらしい。
 なんとなく魅力に感じるフレーズで、やっていれば何かよいことがあるのではないかということも、私が、人間禅で公案の実践を続ける理由の一つです。
 しかし、正直、「転迷開悟」といっても、ピンと来ないのです。
 
 一つには、私自身には、深刻な意味での迷いがないからです。
 日常生活での迷い、たとえば、子供の進学や進路、親の来るかも知れない介護、仕事の不安などといったものはあります。
 公案の見解がなかなか透らないというのもあります(苦笑)。
 けれども、これらの迷いや不安は、私の人生を左右するような深刻な迷いではない。
 いわば、技術的な問題で、それぞれの課題に対応した実際的な方法で解決する以外の特別な方法で解決する必要性を感じないし、ベストを尽くしてダメなら、素直に結果を受け入れて、次の歩みを進めるだけです。
 
 もう一つには、自分なりに座禅を続ける中で、変にこれと決めつけないで、迷っていた方がよいように感じるようになったからです。
 
 私は、座禅を「座禅会巡り」として始めました。
 昨年の3月まで福岡に単身赴任していたのですが、異動間際の3月の最終週に有給休暇がたまり、思い付きで、福岡県内の禅寺等で行われる座禅会に参加しながら観光をしようと思ったのが始まりです。
 このときは5か所の座禅会に参加しました。
 その中で、気持ちのよい人との出会いがあり、「世態人情」というものを感じました。
 それで、昨年4月に横浜に戻った後も、座禅会巡りを続けました。
 
 私は、就職してから長いこと職場と家庭を往復するだけの生活をずっと送ってきました。
 しかし、福岡に単身赴任をしているとき、ちょうど「中高年の孤独」が話題となり、職場と家庭以外に人間関係を作る必要があると感じました。
 とはいえ、どうやって職場と家庭以外の人間関係を作るのか。
 趣味のサークルに入ることもよく言われますが、当時既に40歳代半ばであり、趣味を始めるといっても、何をやればよいのか、子供もいるのに道具などをそろえるのに費用をかけていられるのかというところがありました。
 また、情けない話で、職場や家庭とは関係ないサークルに入ってもどんな人がいるかもわからない不安もありました。
 
 しかし、座禅であれば座るだけですから、練習も何もいらず、特別な道具も買う必要がなく、お手軽です。
 また、座禅会に来る人は、わざわざお寺などに行く人ですから、基本的には善良な人が多く、人間関係で傷つく不安もありません。
 職場と家庭以外に人間関係を作るお手軽な趣味として坐禅会巡りを始めたのです。
 座禅のような瞑想をすると副交感神経が高まって健康によいとは聞いていましたが、坐禅それ自体の効果はあまり期待していませんでした。
 
 今考えると、座禅それ自体の効果を期待しなかったのがよかったのかなと思います。
 
 座禅会巡りを始めてから3か月ほど経った頃、秋川渓谷にある禅寺の座禅会にお邪魔しました。
 
 この頃には、肚が坐るような感じがしたり、それまであったような感じがした人生に対する深刻な悩みがない感じがして、座禅の効果なのかもとのめり込むようになっていて、遠出をしようと思ったのです。
 
 おそらく「座禅に効果があったことにしたい」とのプラシーボ効果の類なのだと思いますが、毒矢の怪我の治療ができれば、それでよしという感じです。
 ご住職は、私が座禅会巡りをするために横浜から来たという話をすると驚かれ、そして、一言、「あなたは迷っているんだね。」とおっしゃいました。
 私としては、お手軽な趣味としてやっていることが、傍目には「迷っている」と見えるのかと少し感動しました。
 
 同じ頃、人間禅の東京荻窪支部に出入りするようになり、勧められて公案の実践を始めました。
 人間禅に入って、自分が趣味として楽しんでいることに真剣に取り組んでいる人がいるのだと知りました。
 それで、どうせ取り組むなら、のめり込んだ方が楽しいだろうと考えて、自分なりに真剣に取り組んでみました。
 そうしてみると、やはり楽しかったので、尚更のめり込むようになりました。
 ただ、同時に、取り組み方に対する根本的な部分での違和感を抱いたままで、人間禅の「修行」を続けていくのはどうかなということを考えたりもしました。
 
 けれども、その違和感のあるままで楽しめばよいのだと考えるようになり、現在も人間禅にお世話になっています。
 
 昨年12月からテーラワーダの勉強会に行くようになりました。
 考え方の違う人たちと議論をしていると、テーラワーダとの相違を指摘されることを通じて、却って、禅のことがよくわかっていきました。
 何より、自分の考え方の枠組みが緩むような感じがして、彼らと議論をした後は、議論の場では、私の考え方について、批判されることもあるのに、すごく楽な感じがするようになりました。
 
 よく自我の粘縛を解くということがいわれます。
 しかし、自分の力でこれを解こうと思っても、自我のやることですから、うまくいきません。
 けれども、考え方の違う人とコミュニケーションをする上では、相手の考え方をいったんは受け容れなければなりません。
 そのことが自分のそれまでもっていた考え方の枠組み、却って自分を苦しめていた思い込みを緩やかにする感じがしました。
 
 座禅をするようになってから、私の気づいたことの一つは、考え方の異なる他者の存在の大切さです。
 考え方の異なる人とのコミュニケ―ションを通し、いわば「他力」を使った方が、容易に自我の粘縛を解くことができるように感じました。
 座禅をする前は、自分と同じ考え方を持っている人との人間関係を重視すべきだと思っていました。
 しかし、こんなやり方では、狭い世界に耽溺する結果をもたらし、却って自我を強めてしまうことになると気づきました。
 そもそも、私たちは、同じところから生まれ出でたとしても、違うものとして生まれ出てしまった以上は、それぞれ異なるのですから、自分と同じ考え方の人などいるわけがありません。
 ですから、自分と同じ考え方の人を求めても、そんな人はいるわけがないので、却って孤独に陥るか、ほかの人の考え方に無理に合わせるか、あるいは、ほかの人を支配するしかない。
 最初から、考え方の異なる人を受け入れた方が、楽になるだけではなく、確実に人生が豊かになると実感しています。
 それと同時に、自分と違うのではないかと避けていた人ともコミュニケーションしていると、実は共感する点があり、考え方は違うのだけれども、仲間だと感じる人が増えてきました。
 
 このような経験を通して、違和感のあるままで人間禅で「修行」を楽しもうというふうに考え方が変わりました。
 
 私にとって「迷い」とは、考え方の異なるいろいろな人とのコミュニケーションチャンスを拡げ、人生を豊かにしてくれるとてもありがたいものなのです。
 
 このように考えると「迷い」は、本当に嫌うようなものであるのかと思います。 
 仏道修行の目的として、「安心立命」ということがよく言われます。
 「安心」というと何か「静的な」ものであるようにも思います。
 しかし、そのような「静的な」事態というのは、本当にあるのかなとも思います。
 あらゆるものは変化していく動的なものです。
 そうであるとすると、「静的な」事態としての「安心」を求めることは、何かおかしい。
 「静的な」事態としての「安心」は、一過性のものであり、それが永続することは、彼岸の世界の幻想としてしかないのではないかと思うようになりました。
 
 マインドフルネスの世界では、今の自分のありのままを肯定するということがよく言われます。
 坐禅和讃でいうところの「衆生本来佛也」というのも同じ意味なのではないかと私は考えています。
 今のありのままというと、何か固定されたものであるように感じます。
 しかし、あらゆるものは変化していく動的なもので、固定された実体はないはずです。
 私は、今の自分のありのままというのは、動的なものであり、「悩み、苦しみ、迷っている」この動的な状態のことをいうと考えています。
 私は、悩んでいてよいし、苦しんでいてよいし、迷っていてよいのではないかと考えています。
 
 最近、釈宗演老師の著書の中に、悟りとは新陳代謝であるとの記述を見つけました(注1)。
 
 世界は、どんどん変わり、世界を構成する私も、どんどん変わっていきます。
 どこに向かって変わっていくのか。
 
 少なからず、私は、「悩み、苦しみ、迷っている」。
 その原因は、理想の状態を想定し、しかし、理想には至らない現実とのギャップを感じたからだと思います。
 裏を返せば、そもそも、私は、理想の状態を目指し、日々変わっていく存在なのではないだろうか。
 
 座禅は「安楽の法門」といいます。
 確かに、私は、静的な安心感を求めて坐禅をするようなところがあります。
 しかし、それならば、なぜ、立ち上がるのか。
 座禅が「安楽」それ自体なら、立ち上がる理由はありません。
 死灰のように座り続け、座死すればよいはずです。
 
 私は、日常生活の中で傷ついて、じっとしていたくなるときがあります。
 そんなときに、座禅をすると落ち着いて癒されることがあります。
 落ち着くだけなら、蒲団にくるまってじっとしていることでもできます。
 布団にくるまっていると、ずっとそのままでいたくなります。
 しかし、座禅は、単なるリラクゼーションではなく、ずっとやっていると、どこかでやめたくなり、立ち上がりたくなります。
 座禅と単純なリラクゼーションとの最大の違いは、途中でやめたくなることです。
 単に癒すだけではない、私という存在が、死灰のようにじっとしているのではなく、活発に活動する存在だと気づかせてくれるものなのです。
 私は、理想を目指し、活発に活動するところに安心を見出すべきなのではないだろうか。
 座禅は、傷ついて休みたくなる私を癒してくれると同時に、私を活発溌地とした真の安心に向かわせる入り口という意味で、「安楽の“法門”」なのではないか。
 
 仏道とは、よりよいものを目指す、無限の動的活動ではないかと思っています。
 
 私は、これまでの人生で迷いを重ねながら生きてきました。
 それは時に辛いことではあるのですが、自分なりによりよいものを目指してきたことの反映でもあります。
 私は、日常生活の中で、迷ってはいても、今、きちんと生きています。
 そもそも、私は、迷っていても、平気なように出来ており、迷いの中にあって安心することができるのだと思います。
 傍目には迷っているように見える坐禅会巡りをする中で、色々な考え方を受け入れながらも、混乱するのではなく、豊かさを感じていることがその証だと考えています。
 
 理想を目指して迷う中で、私は、多くの素晴らしい人と出会いました。
 これからも迷う中で、多くの人と出会って、じりじりとでも理想を実現していき、そして、人生を豊かに茂らせていくことができるのではないかと感じています。
 
 ……人間の能力には、限りがあり、時に、無力にうちひしがれます。
 そんなときには、座禅をする。
 再び理想に向かって立ち上がるために。
 
合掌 英風 拝
 
【引用文献】
冒頭部 釈宗演『無門関講話』39頁
 注1 釈宗演『快人快馬』184頁
 「仏教では常に煩悩を排斥して悟を求めるという様なことを申すが、之を現実的に言って見ると、唯々古いものを捨て新しいものを取るという程のことで、(略)新陳代謝する、即ち我々が茲に存在して生々として活動して居るのは、畢竟、新陳代謝作用の表現である。」
 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」

JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵

善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
(連絡先) 中川香水 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com

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