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擇木ブログ - 20190604のエントリ

「緑内障」考

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/6/4 17:22

「緑内障」考

丸川春潭

 

小生は緑内障で左眼が視野面積10%・右眼が40%くらいになり、しかも最近は残った視野が白内障になってきております。白内障の方も左眼の方が進行しておりパソコンや新聞を見るときは右眼だけで左眼は遊んでいるすなわち斜視になっています。対人で正面に対したとき斜視の人に好ましく感じなかった記憶がありますが、その状態に自分がなってきているので危機感を感じております。特に室内で参禅者と相対したときはできるだけ斜視にならないように両目のピントを合わせる努力をしています。

道を歩くときは段差が判りづらいので不安です。ひとりでは恐る恐るですが誰かの肩に手をかけさせてもらって歩くとひとりで歩くときと比べて気持ちが大変楽です。ほとんど体重はかけていないので実際に安全度が上がるというよりは気分的なもので安心してスタスタと今までと同じように歩けます。

飛躍しますが人生においては誰でもが不安な初めての道を段差を気にしながら恐る恐る歩いているようなもので、お互いに肩に手をかけるなり手をつなぐなりするとひとりでの時より安心感は増すでしょうね。こういう不安な時代だからこそ、誰かと手を携えて行くと云うことは必要なことかもしれません。更に単に安心だけではなく、同じ道を同じペースで歩んでいるという共に今を生きている共感も分かち合え充実して生きがいも出てくるかもしれませんね。

視野が狭くなってもう一つ判ったことは、方向感覚が著しく落ちると云うことです。おかしな話ですが、40年以上も住んでいる我が家・我が庭においてなのに、小さく切り取られた視野では見たことがないような景色に見え、一瞬ですがこれはどこだったかな?と考えることもあります。緑内障になる以前はマクロが視野にぼんやり入っていて正面の狭いところにピントがあるから無意識に全体の中のこの部分ということが判る、と同時にその部分も全体の中のその部分として理解していたのだなあと思います。そして視野が狭くなった現在においては、先ず部分だけを見ても初めて見たような感じになるのですが、その理由は全体の中のこの部分ということでの認識ができないからだと思います。だからどこの部分であるかが一瞬ですが考えなければならないと云うことになるし、方向感覚が部分だけでは出てこないということです。先日も庭で草刈り機を使って草を刈り終えたとき、母屋に帰る方向とは逆方向に二三歩あるき出してしまい、アレ!逆やないか!ということもありました。

ここでも飛躍ですが、今現在自分が生きているのはどういう時代のどこに居るのかというマクロの歴史的観点が必要なのだと思います。すなわち平成から令和に変わった今はミクロの視点ですが、明治から大正、昭和とつながったマクロの視点でも見てみる、もっとマクロに大化の改新時代からの視点でも見るときに、現代のミクロの見方は当然異なった見方になるのでしょう。また時間軸だけでなくグローバルな観点から地球儀の中の日本の中のここに居るというマクロからの感覚も必要です。耕雲庵英山老師も世界観・歴史観を現代人は持たなければならないと申されています。そういうものがなければ方向感覚も時代錯誤になるし、今という立脚点もしっかり捉えることができないのです。「木を見て森を見ないとか、森を見て木を見ないとか」論議がありますが、正常な目は森も木も同時に見ているのですよね。歴史観においても現代というミクロだけでも長い歴史のマクロだけでもなく、その両方を同時に視野に入れておくことに非常に重要な意味があることに思い至りました。

更に飛躍しますが、人間形成の道は3040年と一生ものですが、ミクロ的見方・マクロ的見方、ミクロ的努力・マクロ的努力、ミクロ的反省・マクロ的反省などもありますが、どちらかに偏ることなく同時に両方を常に意識していないと正しい道を粛々と歩めなくなるのでしょうね。

両方と云っても抜けるのはマクロの見方の方だけでしょうが、緑内障的に視野狭く人生とか修行とかを捉えるのではなくマクロも合わせた見方が必要だと云うことですが、なかなか自分ひとりでこれを心がけるのは難しいものです。そこに長年の先輩すなわち生きたマクロの見本が居られ会話することができれば有り難いというものでしょう。時代を超えた双方向の会話が今こそ必要なのではないでしょうか?「路遠くして馬の力を知り、歳久しくして人の心を識る」格言を活用することも有効だと思います。

小生の今の視野だと随分不自由だと思う一方、頭を上げれば今日は五月晴れの青い空が見え、目を転ずれば山桃の大木が緑したたる風情で風に吹かれています。首をぐるぐる回せばマクロも見える訳であり、こうやって未だブログも書けると云うことで有り難いことであります。

それにしても緑内障がこれ以上進まないようにせっせと忘れず4種類の点眼薬を7回忘れないようにしなければ!また白内障が進まないようにあまり目に負担をかけないようにしなければと、今更手遅れ気味ですが頑張ります。合掌
 

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5月12日 日曜座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/4 10:29

5月12日 日曜座禅会

初めて参加  0名

2回以上参加 5名

会員     2名

19:00-19:25 座禅

19:25-19:30 休憩

19:30-19:50 座禅

19:50-20:00 読経

終了後は居士寮で茶菓子をいただき懇談した。

歓談の後で、『禅』誌 54号 巻頭言 「法定の形と禅」を読んだ。

東京支部摂心では「法定の形」の練習を取り入れている。「静中の工夫」の座禅と「動中の工夫」の「法定の形」により三昧力を向上することを目指しています。三昧力の向上は人間力の向上につながるためです。

「法定の形」を取り入れた摂心会は無得庵小川刀耕老居士が提唱され、葆光庵老師によって多くの摂心会で実施されています。「座禅」は一人で三昧に至り、「法定の形」は二人で三昧に至ると言われています。

数年前、宏道会師範の二人が歯引きした日本刀による一刀流の演武を見ました。二人ともピッタリと息が合っていて二人の一体になった動きがとても美しかった。少しでもずれたら相手を斬ってしまうと思われ、三昧力の強さを見て感動しました。

「法定の形」の伝承者である加藤完治先生のお孫さんで日本農業実践学園の前校長の加藤達人先生は、「法定の形」は「捨て身、相打ち、合体」と仰っています。「捨て身」とは「我」を捨てることです。木刀で相対して「捨て身」になることは、とても難しいと思います。

嘗て、初めての参禅のときに青嶂庵老師に「布団上で死んで来い」と言われました。「死んでこい」とは「我を捨てきれ」ということですが、なかなかできないものです。私は毎日の座禅によってそれをめざして精進しています。

ブログ下書きを書いておきながら、諸般事情があってなかなかUPできませんでした。間の抜けたタイミングで投稿したブログでありますが失礼します。

龍泉 拝
 
 

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