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擇木道場

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擇木ブログ - 201906のエントリ

仏教検定

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/8 18:13

仏教検定3級に合格しました。
仏教検定
日本仏教協会が主催する検定で、仏教のなりたちや葬式、寺院についての基本的な問題が出題されます。
自宅で受験し、回答用紙を郵送して採点してもらう通信教育のような形式ですが、ネット等で調べて回答することができるので、なんと100点でした 笑
意外と知らないことも多かったので、調べながら回答用紙に記入していると、まるで写経をしているような厳粛な気分になりました。

現在の日本では仏教と触れ合う機会が限られており、このままでは仏教の歴史や文化などが忘れ去られてしまうのではとの危惧から始められたそうですが、仏教オタクの私にはなかなか面白いものでした。

3級に合格したので、早速2級の申し込みをしましたが、次はどんな問題が届くのか楽しみです。

風印 拝


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菊花線香

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/6 19:53
不殺生戒を守ろうと、蚊を殺さずに寄せ付けない菊花線香を使い始めました。
近くで線香を焚くと煙くて咳が出るので、少し離れたところに置いて、部屋の中ですがマスクを付けることにしました。
服などに線香の匂いがたっぷり付いてしまい、値段も通常の蚊取り線香より少し高いです。
何も良い所は無いように思えますが、不殺生は(形だけのものでも)それだけ大変な事なのだと思いました。
 
TVで木喰(もくじき)上人という、江戸時代後期に仏像を多数掘り続けた方の特集を見ました。
上人が彫られた仏像はどれも微笑みを湛えており、見るだけで心が安らぐようです。
木喰戒という米などの穀物を一切食べず、食べるのは山菜や木の実だけという厳しい戒律を守られた方ですが、
「まるまるとまるめまるめよわが心 まん丸丸く 丸くまん丸」
という歌が印象的でした。
 
直ぐに怒ったりイライラしてばかりの私ですが、出来るだけ不殺生戒を守ることで、上人のように心がまん丸になれたら良いなぁと思います。
 
風印 拝
 
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「迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。
 迷いの中へ飛び込んで、大自在を得る。」
 ――釈宗演
 
 「転迷開悟」ということがよく言われます。 
 人間禅で修行を続けると、このような状態になるらしい。
 なんとなく魅力に感じるフレーズで、やっていれば何かよいことがあるのではないかということも、私が、人間禅で公案の実践を続ける理由の一つです。
 しかし、正直、「転迷開悟」といっても、ピンと来ないのです。
 
 一つには、私自身には、深刻な意味での迷いがないからです。
 日常生活での迷い、たとえば、子供の進学や進路、親の来るかも知れない介護、仕事の不安などといったものはあります。
 公案の見解がなかなか透らないというのもあります(苦笑)。
 けれども、これらの迷いや不安は、私の人生を左右するような深刻な迷いではない。
 いわば、技術的な問題で、それぞれの課題に対応した実際的な方法で解決する以外の特別な方法で解決する必要性を感じないし、ベストを尽くしてダメなら、素直に結果を受け入れて、次の歩みを進めるだけです。
 
 もう一つには、自分なりに座禅を続ける中で、変にこれと決めつけないで、迷っていた方がよいように感じるようになったからです。
 
 私は、座禅を「座禅会巡り」として始めました。
 昨年の3月まで福岡に単身赴任していたのですが、異動間際の3月の最終週に有給休暇がたまり、思い付きで、福岡県内の禅寺等で行われる座禅会に参加しながら観光をしようと思ったのが始まりです。
 このときは5か所の座禅会に参加しました。
 その中で、気持ちのよい人との出会いがあり、「世態人情」というものを感じました。
 それで、昨年4月に横浜に戻った後も、座禅会巡りを続けました。
 
 私は、就職してから長いこと職場と家庭を往復するだけの生活をずっと送ってきました。
 しかし、福岡に単身赴任をしているとき、ちょうど「中高年の孤独」が話題となり、職場と家庭以外に人間関係を作る必要があると感じました。
 とはいえ、どうやって職場と家庭以外の人間関係を作るのか。
 趣味のサークルに入ることもよく言われますが、当時既に40歳代半ばであり、趣味を始めるといっても、何をやればよいのか、子供もいるのに道具などをそろえるのに費用をかけていられるのかというところがありました。
 また、情けない話で、職場や家庭とは関係ないサークルに入ってもどんな人がいるかもわからない不安もありました。
 
 しかし、座禅であれば座るだけですから、練習も何もいらず、特別な道具も買う必要がなく、お手軽です。
 また、座禅会に来る人は、わざわざお寺などに行く人ですから、基本的には善良な人が多く、人間関係で傷つく不安もありません。
 職場と家庭以外に人間関係を作るお手軽な趣味として坐禅会巡りを始めたのです。
 座禅のような瞑想をすると副交感神経が高まって健康によいとは聞いていましたが、坐禅それ自体の効果はあまり期待していませんでした。
 
 今考えると、座禅それ自体の効果を期待しなかったのがよかったのかなと思います。
 
 座禅会巡りを始めてから3か月ほど経った頃、秋川渓谷にある禅寺の座禅会にお邪魔しました。
 
 この頃には、肚が坐るような感じがしたり、それまであったような感じがした人生に対する深刻な悩みがない感じがして、座禅の効果なのかもとのめり込むようになっていて、遠出をしようと思ったのです。
 
 おそらく「座禅に効果があったことにしたい」とのプラシーボ効果の類なのだと思いますが、毒矢の怪我の治療ができれば、それでよしという感じです。
 ご住職は、私が座禅会巡りをするために横浜から来たという話をすると驚かれ、そして、一言、「あなたは迷っているんだね。」とおっしゃいました。
 私としては、お手軽な趣味としてやっていることが、傍目には「迷っている」と見えるのかと少し感動しました。
 
 同じ頃、人間禅の東京荻窪支部に出入りするようになり、勧められて公案の実践を始めました。
 人間禅に入って、自分が趣味として楽しんでいることに真剣に取り組んでいる人がいるのだと知りました。
 それで、どうせ取り組むなら、のめり込んだ方が楽しいだろうと考えて、自分なりに真剣に取り組んでみました。
 そうしてみると、やはり楽しかったので、尚更のめり込むようになりました。
 ただ、同時に、取り組み方に対する根本的な部分での違和感を抱いたままで、人間禅の「修行」を続けていくのはどうかなということを考えたりもしました。
 
 けれども、その違和感のあるままで楽しめばよいのだと考えるようになり、現在も人間禅にお世話になっています。
 
 昨年12月からテーラワーダの勉強会に行くようになりました。
 考え方の違う人たちと議論をしていると、テーラワーダとの相違を指摘されることを通じて、却って、禅のことがよくわかっていきました。
 何より、自分の考え方の枠組みが緩むような感じがして、彼らと議論をした後は、議論の場では、私の考え方について、批判されることもあるのに、すごく楽な感じがするようになりました。
 
 よく自我の粘縛を解くということがいわれます。
 しかし、自分の力でこれを解こうと思っても、自我のやることですから、うまくいきません。
 けれども、考え方の違う人とコミュニケーションをする上では、相手の考え方をいったんは受け容れなければなりません。
 そのことが自分のそれまでもっていた考え方の枠組み、却って自分を苦しめていた思い込みを緩やかにする感じがしました。
 
 座禅をするようになってから、私の気づいたことの一つは、考え方の異なる他者の存在の大切さです。
 考え方の異なる人とのコミュニケ―ションを通し、いわば「他力」を使った方が、容易に自我の粘縛を解くことができるように感じました。
 座禅をする前は、自分と同じ考え方を持っている人との人間関係を重視すべきだと思っていました。
 しかし、こんなやり方では、狭い世界に耽溺する結果をもたらし、却って自我を強めてしまうことになると気づきました。
 そもそも、私たちは、同じところから生まれ出でたとしても、違うものとして生まれ出てしまった以上は、それぞれ異なるのですから、自分と同じ考え方の人などいるわけがありません。
 ですから、自分と同じ考え方の人を求めても、そんな人はいるわけがないので、却って孤独に陥るか、ほかの人の考え方に無理に合わせるか、あるいは、ほかの人を支配するしかない。
 最初から、考え方の異なる人を受け入れた方が、楽になるだけではなく、確実に人生が豊かになると実感しています。
 それと同時に、自分と違うのではないかと避けていた人ともコミュニケーションしていると、実は共感する点があり、考え方は違うのだけれども、仲間だと感じる人が増えてきました。
 
 このような経験を通して、違和感のあるままで人間禅で「修行」を楽しもうというふうに考え方が変わりました。
 
 私にとって「迷い」とは、考え方の異なるいろいろな人とのコミュニケーションチャンスを拡げ、人生を豊かにしてくれるとてもありがたいものなのです。
 
 このように考えると「迷い」は、本当に嫌うようなものであるのかと思います。 
 仏道修行の目的として、「安心立命」ということがよく言われます。
 「安心」というと何か「静的な」ものであるようにも思います。
 しかし、そのような「静的な」事態というのは、本当にあるのかなとも思います。
 あらゆるものは変化していく動的なものです。
 そうであるとすると、「静的な」事態としての「安心」を求めることは、何かおかしい。
 「静的な」事態としての「安心」は、一過性のものであり、それが永続することは、彼岸の世界の幻想としてしかないのではないかと思うようになりました。
 
 マインドフルネスの世界では、今の自分のありのままを肯定するということがよく言われます。
 坐禅和讃でいうところの「衆生本来佛也」というのも同じ意味なのではないかと私は考えています。
 今のありのままというと、何か固定されたものであるように感じます。
 しかし、あらゆるものは変化していく動的なもので、固定された実体はないはずです。
 私は、今の自分のありのままというのは、動的なものであり、「悩み、苦しみ、迷っている」この動的な状態のことをいうと考えています。
 私は、悩んでいてよいし、苦しんでいてよいし、迷っていてよいのではないかと考えています。
 
 最近、釈宗演老師の著書の中に、悟りとは新陳代謝であるとの記述を見つけました(注1)。
 
 世界は、どんどん変わり、世界を構成する私も、どんどん変わっていきます。
 どこに向かって変わっていくのか。
 
 少なからず、私は、「悩み、苦しみ、迷っている」。
 その原因は、理想の状態を想定し、しかし、理想には至らない現実とのギャップを感じたからだと思います。
 裏を返せば、そもそも、私は、理想の状態を目指し、日々変わっていく存在なのではないだろうか。
 
 座禅は「安楽の法門」といいます。
 確かに、私は、静的な安心感を求めて坐禅をするようなところがあります。
 しかし、それならば、なぜ、立ち上がるのか。
 座禅が「安楽」それ自体なら、立ち上がる理由はありません。
 死灰のように座り続け、座死すればよいはずです。
 
 私は、日常生活の中で傷ついて、じっとしていたくなるときがあります。
 そんなときに、座禅をすると落ち着いて癒されることがあります。
 落ち着くだけなら、蒲団にくるまってじっとしていることでもできます。
 布団にくるまっていると、ずっとそのままでいたくなります。
 しかし、座禅は、単なるリラクゼーションではなく、ずっとやっていると、どこかでやめたくなり、立ち上がりたくなります。
 座禅と単純なリラクゼーションとの最大の違いは、途中でやめたくなることです。
 単に癒すだけではない、私という存在が、死灰のようにじっとしているのではなく、活発に活動する存在だと気づかせてくれるものなのです。
 私は、理想を目指し、活発に活動するところに安心を見出すべきなのではないだろうか。
 座禅は、傷ついて休みたくなる私を癒してくれると同時に、私を活発溌地とした真の安心に向かわせる入り口という意味で、「安楽の“法門”」なのではないか。
 
 仏道とは、よりよいものを目指す、無限の動的活動ではないかと思っています。
 
 私は、これまでの人生で迷いを重ねながら生きてきました。
 それは時に辛いことではあるのですが、自分なりによりよいものを目指してきたことの反映でもあります。
 私は、日常生活の中で、迷ってはいても、今、きちんと生きています。
 そもそも、私は、迷っていても、平気なように出来ており、迷いの中にあって安心することができるのだと思います。
 傍目には迷っているように見える坐禅会巡りをする中で、色々な考え方を受け入れながらも、混乱するのではなく、豊かさを感じていることがその証だと考えています。
 
 理想を目指して迷う中で、私は、多くの素晴らしい人と出会いました。
 これからも迷う中で、多くの人と出会って、じりじりとでも理想を実現していき、そして、人生を豊かに茂らせていくことができるのではないかと感じています。
 
 ……人間の能力には、限りがあり、時に、無力にうちひしがれます。
 そんなときには、座禅をする。
 再び理想に向かって立ち上がるために。
 
合掌 英風 拝
 
【引用文献】
冒頭部 釈宗演『無門関講話』39頁
 注1 釈宗演『快人快馬』184頁
 「仏教では常に煩悩を排斥して悟を求めるという様なことを申すが、之を現実的に言って見ると、唯々古いものを捨て新しいものを取るという程のことで、(略)新陳代謝する、即ち我々が茲に存在して生々として活動して居るのは、畢竟、新陳代謝作用の表現である。」
 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」

JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵

善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
(連絡先) 中川香水 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com

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「緑内障」考

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/6/4 17:22

「緑内障」考

丸川春潭

 

小生は緑内障で左眼が視野面積10%・右眼が40%くらいになり、しかも最近は残った視野が白内障になってきております。白内障の方も左眼の方が進行しておりパソコンや新聞を見るときは右眼だけで左眼は遊んでいるすなわち斜視になっています。対人で正面に対したとき斜視の人に好ましく感じなかった記憶がありますが、その状態に自分がなってきているので危機感を感じております。特に室内で参禅者と相対したときはできるだけ斜視にならないように両目のピントを合わせる努力をしています。

道を歩くときは段差が判りづらいので不安です。ひとりでは恐る恐るですが誰かの肩に手をかけさせてもらって歩くとひとりで歩くときと比べて気持ちが大変楽です。ほとんど体重はかけていないので実際に安全度が上がるというよりは気分的なもので安心してスタスタと今までと同じように歩けます。

飛躍しますが人生においては誰でもが不安な初めての道を段差を気にしながら恐る恐る歩いているようなもので、お互いに肩に手をかけるなり手をつなぐなりするとひとりでの時より安心感は増すでしょうね。こういう不安な時代だからこそ、誰かと手を携えて行くと云うことは必要なことかもしれません。更に単に安心だけではなく、同じ道を同じペースで歩んでいるという共に今を生きている共感も分かち合え充実して生きがいも出てくるかもしれませんね。

視野が狭くなってもう一つ判ったことは、方向感覚が著しく落ちると云うことです。おかしな話ですが、40年以上も住んでいる我が家・我が庭においてなのに、小さく切り取られた視野では見たことがないような景色に見え、一瞬ですがこれはどこだったかな?と考えることもあります。緑内障になる以前はマクロが視野にぼんやり入っていて正面の狭いところにピントがあるから無意識に全体の中のこの部分ということが判る、と同時にその部分も全体の中のその部分として理解していたのだなあと思います。そして視野が狭くなった現在においては、先ず部分だけを見ても初めて見たような感じになるのですが、その理由は全体の中のこの部分ということでの認識ができないからだと思います。だからどこの部分であるかが一瞬ですが考えなければならないと云うことになるし、方向感覚が部分だけでは出てこないということです。先日も庭で草刈り機を使って草を刈り終えたとき、母屋に帰る方向とは逆方向に二三歩あるき出してしまい、アレ!逆やないか!ということもありました。

ここでも飛躍ですが、今現在自分が生きているのはどういう時代のどこに居るのかというマクロの歴史的観点が必要なのだと思います。すなわち平成から令和に変わった今はミクロの視点ですが、明治から大正、昭和とつながったマクロの視点でも見てみる、もっとマクロに大化の改新時代からの視点でも見るときに、現代のミクロの見方は当然異なった見方になるのでしょう。また時間軸だけでなくグローバルな観点から地球儀の中の日本の中のここに居るというマクロからの感覚も必要です。耕雲庵英山老師も世界観・歴史観を現代人は持たなければならないと申されています。そういうものがなければ方向感覚も時代錯誤になるし、今という立脚点もしっかり捉えることができないのです。「木を見て森を見ないとか、森を見て木を見ないとか」論議がありますが、正常な目は森も木も同時に見ているのですよね。歴史観においても現代というミクロだけでも長い歴史のマクロだけでもなく、その両方を同時に視野に入れておくことに非常に重要な意味があることに思い至りました。

更に飛躍しますが、人間形成の道は3040年と一生ものですが、ミクロ的見方・マクロ的見方、ミクロ的努力・マクロ的努力、ミクロ的反省・マクロ的反省などもありますが、どちらかに偏ることなく同時に両方を常に意識していないと正しい道を粛々と歩めなくなるのでしょうね。

両方と云っても抜けるのはマクロの見方の方だけでしょうが、緑内障的に視野狭く人生とか修行とかを捉えるのではなくマクロも合わせた見方が必要だと云うことですが、なかなか自分ひとりでこれを心がけるのは難しいものです。そこに長年の先輩すなわち生きたマクロの見本が居られ会話することができれば有り難いというものでしょう。時代を超えた双方向の会話が今こそ必要なのではないでしょうか?「路遠くして馬の力を知り、歳久しくして人の心を識る」格言を活用することも有効だと思います。

小生の今の視野だと随分不自由だと思う一方、頭を上げれば今日は五月晴れの青い空が見え、目を転ずれば山桃の大木が緑したたる風情で風に吹かれています。首をぐるぐる回せばマクロも見える訳であり、こうやって未だブログも書けると云うことで有り難いことであります。

それにしても緑内障がこれ以上進まないようにせっせと忘れず4種類の点眼薬を7回忘れないようにしなければ!また白内障が進まないようにあまり目に負担をかけないようにしなければと、今更手遅れ気味ですが頑張ります。合掌
 

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5月12日 日曜座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/4 10:29

5月12日 日曜座禅会

初めて参加  0名

2回以上参加 5名

会員     2名

19:00-19:25 座禅

19:25-19:30 休憩

19:30-19:50 座禅

19:50-20:00 読経

終了後は居士寮で茶菓子をいただき懇談した。

歓談の後で、『禅』誌 54号 巻頭言 「法定の形と禅」を読んだ。

東京支部摂心では「法定の形」の練習を取り入れている。「静中の工夫」の座禅と「動中の工夫」の「法定の形」により三昧力を向上することを目指しています。三昧力の向上は人間力の向上につながるためです。

「法定の形」を取り入れた摂心会は無得庵小川刀耕老居士が提唱され、葆光庵老師によって多くの摂心会で実施されています。「座禅」は一人で三昧に至り、「法定の形」は二人で三昧に至ると言われています。

数年前、宏道会師範の二人が歯引きした日本刀による一刀流の演武を見ました。二人ともピッタリと息が合っていて二人の一体になった動きがとても美しかった。少しでもずれたら相手を斬ってしまうと思われ、三昧力の強さを見て感動しました。

「法定の形」の伝承者である加藤完治先生のお孫さんで日本農業実践学園の前校長の加藤達人先生は、「法定の形」は「捨て身、相打ち、合体」と仰っています。「捨て身」とは「我」を捨てることです。木刀で相対して「捨て身」になることは、とても難しいと思います。

嘗て、初めての参禅のときに青嶂庵老師に「布団上で死んで来い」と言われました。「死んでこい」とは「我を捨てきれ」ということですが、なかなかできないものです。私は毎日の座禅によってそれをめざして精進しています。

ブログ下書きを書いておきながら、諸般事情があってなかなかUPできませんでした。間の抜けたタイミングで投稿したブログでありますが失礼します。

龍泉 拝
 
 

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見えない修行(その2)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/6/3 20:51

見えない修行(その2

丸川春潭

 

初関を透過し道号を授与された1年くらいの期間が人間形成の修行において最も大切な時期であり且つ危ない時期であり、見えない修行の必要な時期であることを先のブログで書きました。

その次には、見性から歩を進めて行くと瓦筌集142則「五蘊皆空」と云う則があります。見性入理では想像もできない細やかな人間の精神構造が明められ、その五蘊の性格を明確に理解するとともに五蘊を空ずる方法を室内の商量において会得するのです。これはインドから中国へそして日本へ伝えられた最も素晴らしい仏教の法財の一つであり、般若心経の柱になっています。この五蘊を毎日毎時毎分毎秒において空じて行くのが見性悟道というのです。そしてこれにも見えない修行が欠かせないのです。いくら室内で透過しても、一日一炷香を含めた見えない修行がなければ五蘊を空ずることはできませんし、見性悟道が練られないということになります。

ここはまだ見性悟道の段階ですが、次の見性了々底の段階では更に徹底した見えない修行が必要になるのであり、この見性了々底の境涯を我が物にするためには在家禅者といえども僧堂禅と全く同じように、しっかりした聖胎長養が不可欠であります。

見性了々底において悟了同未悟という言葉があります。少し修行をしていると誰でもが知っている言葉ですが、理で判るということではなく、200則の公案を何度見直そうが、どんなに法理に明白になろうが聖胎長養すなわち見えない修行がきちっとできないかぎり悟了同未後の境涯にならないし、従って人物はできあがらないのです。

見えない修行ができているかできていないかはその人の行履に正直に出るものです。例えばその人の人間関係を見てみると、利害関係とか会社での上下関係とか師弟関係とかを抜きにした時に、人の繋がりが多いか少ないかに歴然と現れます。世間の肩書きでの繋がりではなく、老若男女貴賤を問わず人種を越えて人としての繋がりの多さ少なさは、人となりを写し出すのです。

これはわれわれの修行においても同じで、新到者である現代の若者と接して彼らに自己の感動を伝え、彼らの菩提心に火を点ずることができるかどうかはその人の器量に架かっているのです。これは道号授与されたばかりの新参の者から師家まで同様であり、新到者を引きつけ修行に誘うことができる人とできない人とがあります。もっと言えば旧参の者が上から目線でガミガミとやるような支部では人間関係で修行から遠ざかる人が出たり、新到者がリピートしないというケースも散見されます。こういう旧参も結局は見えない修行が出来ていないせいで、独善になってしまっているのです。

利害関係抜き、上下関係抜きで人に慕われたり、付いて来させられる人間的魅力があるかどうかは、生涯的な長いスパンで見ると歴然として来ます。見えない修行は結果としてはっきりと見えるということになります。それを人徳と言い「人の香り」と呼ぶのです。昔から「徳は孤ならず」という諺がありますがこのことを言っているのです。合掌
 


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