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擇木道場

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擇木ブログ - 201906のエントリ

「道眼(胆識)を付けるには」(その4

丸川春潭

 

公案修行は修行系の最たるものであり、余程の覚悟がなければ入門を許さないというのが、伝統的な臨済宗のやり方です。すなわち庭詰め(注1)とか旦過詰め(注2)という入門を安易に許さない伝統的な儀式が現代でも臨済宗のお寺では残っています。江戸時代には本当に命がけという覚悟を見定めるまでは入門を許さないというのが常識であったのでしょう。このルーツは達磨大師に対する二祖慧可の断臂に由来しているのは当然です。現代の在家禅(人間禅)では入門(参禅修行を始めること)のハードルは下げていますが、実際に公案修行が始まれば人情涓滴を施さずで、公案修行はいつの時代でも厳しいもので厳しくなければ公案修行にならないのです。

公案修行はこれで自分を変える修行(ちっぽけな自我を大仏のような大きな自我に変える修行)ですから、当然「楽行」ではなく「苦行」になります。公案修行が楽な時は成長していないと考えた方が良いし、公案に詰まり打開するのに苦しいときこそ人間形成の飛躍する好機であると勇猛心をかき立てたら良いのです。(楽しいことを期待し、癒やしを求めて来られたのなら、公案修行の前の段階に戻ってしっかり数息観を修されるのがいいでしょう。)公案に詰まり二進も三進も行かなくなるのが修行の真骨頂であり醍醐味なのであります。公案が詰まると云うことは、そこに自分の弱点があると云うことです。弱点は百人百用でありしたがって詰まる公案も人によって当然異なります。まさに公案は個々人に焦点を当ててその人の人となりを照らし出してくれる鏡になるのです。

公案に詰まり苦しいときが当に飛躍の秋であります。したがってそういうときの対処法は、公案さえ通れば良いというような卑しいやり方ではなく、オーソドックスに真正面に公案を据えて全身全霊で取り組むことが大切です。古来から師家に参ずることを炉鞴に身を投ずると言います。そこで千鍛百錬するのです。

公案に詰まった苦しさを乗り越える王道は修行の原点に返ること、すなわち三昧を深めるしかありません。三昧が深まり公案に込められた三昧の深さに到ればがく然として今までの壁が崩壊し全てが展望できる見地に自然に到るものです。そしてちっぽけな自分の殻が破られた時に心から快哉を叫び、法喜禅悦に浸ることができるのです。こういう修行の楽しみは世間の楽しみとは全然違う自分を深くうけがい納得できる喜びなのです。(つづく)

(注1)庭詰:禅寺で入門をお願いする儀式で、玄関で頭を下げたまま何時間でもお願いし続けなければ中に入れてもらえない。

(注2)旦過詰:中に入れてもらってもひたすら一人で座り続けるだけを一週間続けないと相手にしてくれない。

 

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擇木道場の風印です。

613日~620日に行われた、「プラユキ・ナラテボー師とともに タイ・スカトー寺院瞑想合宿の旅」に参加しました。

今回はツアー形式の合宿に参加させて頂きましたが、スカトー寺に行きたい場合には、勝手に押しかけると大変ご迷惑になりますので、必ず良き縁ネット(https://blog.goo.ne.jp/yokienn)を通して、プラユキ師のご了承を頂いてから行くようにして下さい。

また、プラユキ師は日本で活動されていることも多く、いつもスカトー寺にいらっしゃる訳ではありませんので、その点ご了承下さい。

スカトー寺は、途中で見かけたカラフルなお寺と異なり、修行の場に相応しい渋い色彩の外観が印象的でした。

タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

 今回のツアーでは、割り当てられた小屋に他の参加者の方と2名で寝泊まりさせて頂きました。

タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

 プラユキ師は、お寺で最も古く、見窄らしい小屋に寝泊まりされているそうで、新人僧侶が都会に比べるととても不便で、虫も入ってくる小屋の生活に嫌気がさしたときに、ご自分の小屋を見せられて、「ここよりはマシだろう」と励まされるそうです。

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 お寺の敷地はとても広く、橋の架かった池もあります。

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私は散歩しているうちに敷地外に出てしまい、迷いそうになりましたが、お寺の犬がいて道案内してくれているように感じ、無事お寺に戻ることが出来ました。

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お寺には犬、鶏、リスなど様々な動物がいて、虫も日常生活に当然のように割り込んでくるため、人間も自然の一部なのだと強く感じました。他の生き物を排除するのが当たり前の都会では味わえない感覚です。

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スカトー寺では、朝4時から本堂の2階で朝の読経があります。読経の始まりを告げる鐘の音は、日本で良く耳にする音と異なり、重低音でとても迫力のある音でした。

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夕べの読経

読経は「パーリ語-タイ語、パーリ語-タイ語と交互にお経を唱えていく」(注1)そうです。カタカナの読みと翻訳を書いた冊子をお借りして、僧侶に合わせて読経します。読経の後に説法がありますが、タイ語での説法のため、内容は分かりませんでした。説法の内容については、「浦崎雅代のタイの空(Faa)に見守られて」というブログで日本語に翻訳して下さっています。

530分から僧侶の後ろに参加者が一列に並んで農村に托鉢に行きます。

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タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

僧侶が通り掛かると村人が食べ物を持って出てきて下さるので、僧侶がそれを受け取ります。全て受け取った後は僧侶が村人の前に横一列に並び、参加者は僧侶の後ろに屈んで合掌し、僧侶がお経を唱えます。

托鉢が終わった後に、村人が何の屈託もなく心からの笑顔を浮かべられているように感じ、お布施とはこういう事かと心打たれました。

托鉢中、野良犬が吠え掛かって来ることもありましたが、托鉢に同行してきたお寺の犬が、野良犬を牽制して僧侶に吠え掛かるのを止めていました。僧侶を守っている様に思えました。

托鉢の後、7時半から食事になります。食事を取るお堂に集合し、食前の読経と説法を聞いた後、托鉢で頂いたものやお寺で用意した食物を、お皿にバイキング形式で盛り付けます。

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托鉢で頂いたもの

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食事は朝食のみになりますが、11食となっているのは、何回も托鉢をすると村人の負担になることや、瞑想などの時間を多くとるためとプラユキ師が仰っていました。私は食事を山盛りに取りましたが、とても美味しかったです。

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今回のツアーでは9時からプラユキ師の法話をお聞きしました。前述のようにプラユキ師がいらっしゃらない事もあります。

法話の後、参加者は自由に過ごして良いとのことでしたので、私はお寺の敷地内を散歩したり、瞑想をして過ごしました。お寺の敷地内には長い石が置いてあり、その上を歩いて歩行瞑想をします。

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 その他、本堂の1階で歩行瞑想をすることも出来ますし、歩ける広さがあればどこでも瞑想できます。

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 お寺の敷地内には、手動瞑想のやり方を示した仏像があり、私は歩行瞑想の後、本堂で手動瞑想をしました。

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18時から夕べの読経と説法があり、今回のツアーでは19時過ぎからプラユキ師と参加者全員で一日の振り返りをしました。

その後は自由時間ですが、私は次の日に備えて21時くらいに就寝しました。スカトー寺での最後の夜には、参加者数人で満月を見に行きました。

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②に続く

合掌 風印 拝

1) プラユキ・ナラテボー『「気づきの瞑想」を生きる―タイで出家した日本人僧の物語』,株式会社佼成出版社,2009830日,P.67

タイ・スカトー寺瞑想合宿ブログへのリンクです


タイ・スカトー寺瞑想合宿①お寺の環境・生活

タイ・スカトー寺瞑想合宿②プラユキ師の法話-1

タイ・スカトー寺瞑想合宿③プラユキ師の法話-2

タイ・スカトー寺瞑想合宿④プラユキ師の法話-

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑤プラユキ師の法話-4

タイ・スカトー寺瞑想合宿⑥プラユキ師の個人面談


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「道眼(胆識)を付けるには」(その3

丸川春潭

 

 見性という言葉は6世紀に達磨大師が「直指人心見性成仏」と言う言葉を残されたのがはじめてと言われています。見性入理とは初則の公案を手がかりにオンリーワンな存在である自分に絶対の自己(永遠の命・普遍的な命・本当の自分)が不二一如に備わっていることを徹見することであります。悟りは境地であり見性は紛れもなくはっきりしているのですが、言葉で表現することはこの程度が限界です。そして人によってはズバリと徹底した見性をする人からじわじわと見性する人とか百人百様であり、長い目で見るとどちらが良いとか云々することではありません。

 この初則による見性は色即是空をさとることであり、これだけに限って云えば生命科学者の柳沢桂子氏も長年の闘病の中で独自に見性されています。また一流のアスリートあるいは秀でた芸術家で禅師に師事することなく独自に見性しているなと思われる方は結構おられます。それらの人は独自の方法で三昧に入り見性されており色即是空を悟られているのですが、空即是色まで見性しているなと思われる人は希有であります。すなわち臨済宗の師家の下でないと見性入理も完成し得ないと思います。ましてや見性悟道・見性了了の境涯へはどうしても臨済宗の公案と明眼の師家に長年師事するということがなければ不可能です。

 最後に見性した後の大切なことを申しておきます。見性し道号を授与された一年くらいの期間が公案修行で最も危ない時期です。参禅した室内で師家が初関透過を許したときは紛れもなく三昧に入り前頭葉で悟っているのですが、摂心会が終わって家に帰って日常生活に戻った日から三昧は急激に落ちて行き、前頭葉で悟った本来の面目の感性の境地はみるみる薄れてしまい、それは頭頂葉の知性の記憶に移行してしまいます。そうすると見性の感激も納得も夢から覚めたように消えて行き、取り戻し再現することは大変難しくなります。下手をすると公案修行がつまらなく思えて人間形成の修行を継続するモチベーションも下がる危機となります。またそこまで行かない人においても、数ヶ月後の次の摂心会が始まっても前の摂心会の見性直前の三昧の境地までなかなか戻りにくいということになり、次に師家から授与された公案に大変苦労することになります。こうなる理由は公案修行に入る前の道力(胆力)が未だ貧弱であるということが第一原因であり、第二原因としては摂心会後の生活の中での一日一炷香が精彩を欠いていることです。こういう場合は見性した三昧の境地を長くキープできないのです。

 私は見性したときにまた道号を授与したときに、一日一炷香で本来の面目(注1)を毎日呼び起こすようにと強く指導しているのですが、なかなか難しいようです。

 擇木道場ではこれを埋める一つの施策として、入門から道号授与一年未満の人を対象に「初関会」を開催しています。兎に角見性直後こそしっかり座れ!と申し上げたいのです。(つづく)

(注1)人間禅の公案集『瓦筌集』第一則「本来面目」:父母未生以前における本来の面目如何?」

 
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丸川春潭


 公案修行は、公案の数を多く見るのが目的ではなく、公案を手がかりにしてちっぽけな自分という殻を破り、自意識などで濁った眼の鱗を落とすための修行です。


公案というものは全て非常識なもので頭頂葉(知性)では理解しがたいものです。この公案に対する真正の見解は知識の引き出しをいくらかき回してもそこにはありません。公案に込められた宗旨や境涯に公案三昧になって近づいてゆき、公案と一体になれば自然と見解は見えてくるものです。これは全て絶対樹の場で行われることであり公案の宗旨も境涯も前頭葉(感性)で悟るのです。世に「公案解答集」の類いが出回っておりますが、何らかの手段で公案の見解を外からの情報で知り得たとしても知識が増えただけであり相対樹は充実しますが、そんなものでは人間形成は一歩も進みません。公案修行は公案に対する見解を知性で言い当てようとするのではなく、公案に込められた祖師方の深く高い境涯に感性として迫ってゆき、その境涯に自分の境涯を高め近づけることに意味があるのです。実はまたそれが取りも直さず公案透過の秘訣というか王道なのです。公案修行は公案透過が目的ではなく、どう公案を透過するかの過程(プロセス)が大切であり、このプロセスを真摯に修行することで人間形成が進むのです。すなわちこの公案透過のプロセスにおいて前頭葉が活性になり道眼(胆識)が開かれるのです。師家はその邪正を判別するだけでそれを悟るのはこのプロセスの中で本人自身が前頭葉を活性にして悟るのです。


 道眼を開くとは初関を透過することを指し、道眼を磨くとは後悟の公案修行によって差別の妙所を一つ一つ明らかに掴んでいくことを指しております。そしてまた公案修行の全貌を見性入理・見性悟道・見性了々とも云っております。


臨済禅の世界宗教界に冠たるところは見性入理だけに留まらないで更にその後の見性悟道・見性了々まで、人間形成を完成させる行程が完備していることです。 


その全貌を申し上げるにはブログででは紙数が足りませんが(拙著『人づくり肚づくりと禅』に少しは掲載しています)、最初の見性入理についてもう少し次のブログで説明いたします。(つづく)

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6月17日 早朝座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/18 2:54

6月17日 早朝座禅会

 

初めて参加 5名(坐禅体験3名、記者、撮影者が各1名)

リピータ  0名

会員    6名

 

毎日やっている早朝座禅会に関して、サンケイリビング新聞社の取材を受けた。City livingは会社に配達される情報紙で、特集に朝の座禅を取り上げたとのこと。記者1、撮影1、座禅体験3名が道場を訪れた。全員30代の仕事をしている女性で、全員が揃ったのは5:55だった。座禅のやり方を15分説明して、6:15から6:50まで坐った。終了後は居士寮でハブ茶と菓子をふるまい、質疑に回答して取材を受けて以下のようなことを話した。

「数息観」は数字を思い浮かべて数えるのではなく、意識を呼吸に集中して呼吸していることを観察しながら、心の中でそれを数える。数字を思い浮かべるのではなく呼吸に集中する。自分は今、ここに在るのであって、昨日や明日には居ない。今、ここにある自分を観ることにより三昧力(集中力)が養われる。三昧力が養われると明日の不安を悩んだり、昨日の失敗を後悔することはなくなる。もし、不安が有ればその基を今、ここで確認して対処するので失敗はなくなる。その結果、行動力、判断力が増強され、仕事のパフォーマンスが向上する。それは人間力の向上につながる。

擇木道場は社会人が座禅の修行によって培われた人間力を社会で発揮できる自分になるための修行道場です。入門している我々は、老師の指導のもとで、生涯を通じて人間らしい人間になることを目指して毎日の生活に座禅を取り入れて実践している。具体的には、摂心会という一週間の修行期間もあります。

坐っていると色々なことを思い浮かべる。祖母のことが浮かんできた。どうすれば無くせる?

今やっている「数息観」以外は全て雑念です。雑念に気付いたら意識を呼吸に戻せばひとりでに消えます。雑念を無くそうと努力するのは、かえって雑念が渦巻いてしまう。雑念が湧いてしまう自分を否定したり、批判するのはいけない。呼吸とともに雑念を流すようにします。

どのくらいやれば、できるようになりますか?

数ケ月、毎日やっていると「数息観」のやり方、コツのようなものは掴めます。私も座禅を始めたころは腰が痛くなって困った。背筋をのばしたために腰椎が前に出過ぎたことが原因と思われたので、臍を少し後ろに引いて坐ったり、腰当ての形状や、厚さを工夫して落ち着いた。

6/23の「チェンジ ユ―」講演会と擇木道場のチラシを渡した。講演会は「座禅に関する初期の疑問について、座禅の目的や効果について判りやすく説明され、実習があります」と案内した。今週の土曜日から来週の土曜日までやっています。都合のよい時間帯に参加できるので、興味が有りましたら参加してみてください、と案内した。龍泉
 

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丸川春潭


我々の禅は、人間形成を目的とした禅であります。したがって「本当の自分探し」とは云いますが、いわゆる宗教ではありません。すなわち葬式とか法事とかしかやらず人間形成の面が抜けている現代の宗教とは一線を画したいという思いで人間形成の禅は宗教ではないと云っています。


人間形成は知性のジャンル(相対樹)ではなく感性のジャンル(絶対樹)の充実にあります。そして人間形成を進める両輪として道力を付ける車と道眼を磨く車があります。道眼を開き磨く車の推進はお釈迦様の悟りを追体験しお釈迦様をはじめとした仏祖方の境涯に近づくことです。


お釈迦様の悟りを追体験(見性)し、それを身に付ける手段として最適な方法が臨済宗の公案修行です。世に癒やし系から修行系からいろいろの修養法がありますが、お釈迦様の悟りを直に掴ませることを中心に持っているのは、臨済系の伝法の印可があるところ(僧伽)だけです。


お釈迦様の悟りを追体験することができると云うことは大変なことです。すわちこんな素晴らしいというか凄いことが現代で可能なことはまさに驚きです。


臨済宗の公案修行をする場合に気をつけなければならない点があります。それは特に現代のインテリゲンチャが陥りやすいのですが、ともすれば知性のジャンルである相対樹に居たままで公案修行をしてしまい勝ちです。人間形成は知性知識が増えるのを目指するものではなく、したがって禅学をいくらしても人間はできません。公案修行は絶対樹の場での修行です。そのためには相対樹から絶対樹に移らなければ公案修行はできません。この相対樹から絶対樹に移る力が道力であり道力の基盤の上に公案修行が成り立っています。したがって道力が付いて来なければ公案修行は途中で涸れてしまい、人間形成は深まらずそしてこの修行は続かないということになります。


逆にぼつぼつでも道力を付ける修行を積めばという前提条件の下で云えば、公案修行は全ての人(全く無学文盲の人間にも)に開かれた無二の法門であり、公案修行に向かない人はいないと考えています。自分は公案修行に向かないと思うのは、こちら側の説明不足と本人の誤解があるからです。


人間形成の禅は全ての人に必要であり、それは信仰・宗旨の違いを超えるものでありますが、これを人に勧めるのに拙速は厳に慎まねばならないことは言うまでも無いことです。


 お釈迦様の悟りすなわち世界宗教の創始者の掴まれたものを追体験できるのは臨済禅だけであると云うことを考え、誤解を恐れず云いますと全ての宗派の宗教家が臨済禅の手法で見性し道眼を開くことをしたら、全ての宗教はそれぞれが誕生した原点に立ち返ることができ、全ての宗教は本当の宗教性を取り戻し、排他的セクトがなくなり、宗教的対立が地球上からなくなるはずであると考えています。(つづく)
 

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盤珪禅師のうすひき歌

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/6/15 20:37
 

白隠禅師の六十歳ほど先輩にあたる、播州網干(あぼし)の盤珪(ばんけい)禅師は、庶民にわかりやすく「不生禅」を説いたことで知られていますが、今日はその盤珪禅師の『うすひき歌』をご紹介します。白隠禅師も、念仏するいとまがあったらこれを唱えよと『主心御婆粉引歌』をあらわし、わが磨甎庵老師もそれに注釈されておりますが、わたしは、盤珪禅師のほうがわからやすく、また心に沁みるものを覚えます。

 

古くから、仏教の宗旨を仮名や和語で説くことはありましたが、禅の教えを都々逸の七七調でうたったのは盤珪禅師がはじめてだとおもいますし、白隠禅師も「不生の黙照禅」などと例のごとく批判しつつも、その良い点は取り入れたようです。

 

盤珪永琢禅師うすひき歌 (別名、本心歌)

 

不生不滅の本心なれば 地火風水はかりの宿

仮の火宅に心をとめて 我と燃やして身をこがす

夢と思へば浮世の中は 憂()きも辛きも無きものぢゃ

むかし思へば夕べの夢ぢゃ とかく世界は皆うそぢゃ

うその世界をまことのやうに 化かし化かさる化け物ぢゃ

いつか五欲を身に習はして それにならうて日をくらす

有為転変のわがなすことを 知らで迷うて身の贔屓(ひいき)

人に教へはもと無いものぢゃ 是非を争ふわが身なり

年は寄れども心は寄らず 常にかはらぬこの心

仏道修行つとめし後は 何も変りは得ぬものぞ

迷ひ悟りはもと無いものぢゃ 親も教へぬ習ひもの

奇妙不思議は一つも無いぞ 知らねば世界が皆不思議

後世のつとめもこの頃いやと 出入りの息のあり次第

悟ろ悟ろとこの頃せねば 朝の寝覚めも気が軽い

善きも悪しきも一つに丸め 紙に包んで捨てておけ

死んで世界に夜昼くらせ それで世界が手に入()るぞ

惜しや欲しやと思はぬ故に 今や世界がわが物ぢゃ

過去も未来も本心ばかり 心留()むより思ひきれ

心とめずば浮世もあらじ 峰の松風まつへ吹く

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丸川春潭


 前報で、数息観の評点について説明をしました。今回はいよいよ「道力(胆力)を付ける」核心に迫る、道元禅師の只管打坐(無念無想の観法)について、数息観法と比較しながら説明します。


 只管打坐(無念無想の観法)は、数息することもなくまた何かをイメージすることもなく唯ひたすらに雑念を切る(頭頂葉の動きを止める)座禅行であり、日本の曹洞宗の開祖である道元禅師の提唱された座禅観法です。これはダイレクトに頭頂葉を止めにかかるだけに、長年にわたって瞑想とか数息観を修した人でないと全く歯が立たないツールです。瞑想なり数息観を数年やった程度の瞑想の経験年数が短いと、この只管打坐のやり方を試みたとしても形だけはできても内実は雑念が絶えることなく三昧には到らず、只管打坐の妙味を味わうことはできません。


数息観法で云えば、中級以上(厳密な基準で1から10が雑念無しに完璧に数息できる70点が常にクリヤーになるだけのレベル)にならないとその素晴らしさは判らないでしょう。小生の現在の実践においても、一炷香の中でも最初は数息観によって集中力を高めて(75点以上)から、はじめて只管打坐(離息観)に移行するようにしています。そしてこれを耕雲庵英山老師の『数息観のすすめ』に当てはめますと後期数息観法に該当し、この後期数息観に呼吸を数えないが呼吸を意識する正息観と全く呼吸を意識しない離息観があります。耕雲庵英山老師老自身で白状されておられるような「人間として生まれてきた甲斐があったワイ!」という素晴らしい妙境がそこにあります。


臨済宗は数息観で曹洞宗は只管打坐だというような枠は人間形成の禅にはありません。人間形成も最終的にはこの只管打坐の奥の院まで到りそしてこれを何度も何度も繰り返すことによって人間形成が仕上がると言ってもいいもので、人間禅での200則の公案修行が一通り終わってからの聖胎長養の時に打って付けの観法であると思います。


ことほど左様に、「道力(胆力)を付けるには」ある意味どんな道でも良いから安易なやり方ではなく文字通り克己して長年にわたり継続すれば振り返って自ずと道力(胆力)が付いて来ると言うことです。


蒼龍窟今北洪川禅師曰く、「修行は数息観で始まり、数息観で終わる!」と云われておられます。瞑想法もテーラ・ワーダもおそらくしかり、どんな方法でも良いのですが、頂点を目指すには一生をかけてなだらかな麓から徐々に力を付けて最後の急峻な頂きに挑戦する、その戦略性と謙虚さと直向きさが必要であります。


このタイトルでは今回の4回で終わりですが、荻窪摂心会でのもう一つの法話「道眼(胆識)を付ける」で見性とか公案修行について次にブログしたいと考えています。合掌


 

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6月14日金曜青年部座禅会
新到者     0人( ;;)
2回以上参加  3人(^^♪ 『夜ゼミ』のみ……1
会員      7人
 
 直日は、K道居士に頑張っていただきました。
 非会員の参加者については、新到者の方はいらっしゃいませんでしたが(広報それなりに頑張ったつもりでしたが……更なるパワーアップが必要ですね)、非会員の方3名がいらっしゃいました。先週は1名でしたので、うれしいですね。
 午後10時過ぎに、座禅が終わった後は、かねてから企画していた『禅を、ビジネス、人間関係、人生に活かす大人の夜ゼミ』の初回です。
 K道居士が流れで『夜ゼミ(よぜみ)』とのよい略称を考えていただき、これからは、『夜ゼミ(よぜみ)』でお願いいたします。
 おつまみについては、K星居士が薬味を工夫されたそうめんです。
 『夜ゼミ』には、会員6名、座禅会参加の非会員の方1名のほか、『夜ゼミ』のみの参加の方1名が参加。
 既に、3回擇木道場にいらっしゃったことがある方とのことで、今日は、金曜日なら、夜遅くまで座禅会をしているという話をしていた記憶があり、思い立っていらっしゃったということでした。
 そうめんや若干のアルコールを喫しつつ、意見交換をするはずだったのが、とりあえず、企画した人間が話さないとと思った私(英風)が少し話過ぎ……( ノД`)頃合いを見て、F嶽居士が「非会員の人に話をしてもらったほうがいいのでは……」当然のことながらの声掛けをして、若干強引に私に話を打ち切らせ(スミマセン)、話を非会員の方に振っていただきました。
 
 ……終始真面目に意見交換ができたという感じで、よい時間を過ごせました。
 以前、この金曜日の夜の青年部の座禅会を担当していたS印居士から「座禅して飲み会で、仲良く楽しくは会員にしか通用しない。会員が仲良くワイワイやっていると、その中に入りにくく居心地の悪い思いをしている。」とのアドバイスをいただいていたので、トーンを落として話をしたのがよかったかなと思います(まあ、H禅子からは、「(英風は)アルコール飲んでいないのに、よくあれだけしゃべれますね(苦笑)」とは言われましたが……)。
 ほかのメンバーも同じように感じたようで、発泡酒を用意したりもしたのですが、『夜ゼミ』の後片付けをしているとき、「アルコールがあった方が話しやすい時もあるけど、今日みたいな感じでやるなら、お茶でいいよね。」という話が出て、『夜ゼミ』は「真面目に対話」路線で行きそうな感じです。
 
合掌 青年部 英風 拝
 
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 前報で、数息観の評点について記載が出ていましたので、どういうものかをご説明します。

 

「数息観評点記録のすすめ」

丸川春潭

 

 小生の実践経験ですが、数息観評点基準に従って一日一炷香の評点付けをすることにより、従来では踏み込めなかった数息観の質の点検に踏み込むことができ、己の修行レベルに客観的視点を加えることができるようになった。その結果、昨日よりも今日、今日より明日こそはと、日進月歩で自分の数息観を深めてゆくことができ、ややもすればマンネリに陥りやすい一日一炷香に精彩を加えることができるようになった。

それは数息観の一日一炷香という地味な努力の継続という修行が、明確な客観的数値の目標の設定により、その結果を自分で確認できる方式が確立できたからである。その効果には、始めてみなければ、実践してみなければ予想もできなかった驚きがあった。

日常における人間形成の手堅い道がここにあったのである。そもそもわれわれの人間形成の禅は、公案を用いた道眼を開く参禅弁道と、三昧を身に付け道力を養う数息観法の日常的実践から成り立っており、この両方の柱によって臨済宗の人間形成教育システムは構築されているのである。

しかし従来より、前者の参禅弁道の修行の方は、明眼の大宗匠耕雲庵老大師の瓦筌集によって人間形成の過程に従う明確な目標設定がなされ、それにしたがっての正脈の師家の厳しい指導が実態として確立されていたが、後者の方は、耕雲庵老大師の「英山の今日あるは、一日一炷香を正直に続けてきたからである」との述懐に基づく、「一日一炷香のすすめ」の連呼に終始しており、最初に述べた数息観の質的検証と、そのレベル(目標)の設定がなされないまま今日に到っていたのである。それでは参禅弁道では低きから高くへとの段階を歩めるが、修行の両輪である数息観による道力の進歩については成長過程がつかめない状態におかれることになる。そこに踏み込む試みがこの数息観評点基準と評点付けなのである。

この数息観評点基準は、人間形成の最初から、人間形成を全うする最後までの全行程を網羅したものである。一人でも多くの方が、本当の自分探し(人間形成の禅)の道に入り、全ての人が本当の自分をしっかりつかみ(人間形成を全うし)、正しく楽しく仲の良い社会建設が進展する縁(よすが)にこの試みがなることを祈念し筆を擱く。 合掌 

 

【数息観評点基準】2010.8.10設定、以後数度改訂


30点:待ち時間、通勤途中の電車内などで、初期の数息観(質は問わない)。
40点:15分以上数息観をし、数息観初期の1から100までを実行した。
45点:半炷香静坐し、数息観初期の1から100までを間違えずに数えられた。
50点:一炷香静坐し、数息観初期の1から100までを間違えずに1回は。
54点:数息観初期の1から100までを一炷香を通して数えられた。
55点:数息観中期の「二念を継がず」を1~5までは何回か達成できた。
60点:数息観中期の「二念を継がず」を1~10まで1回達成できた。
65点:「一念不生」を1~5までは達成できるようになった。
70点:数息観中期の「一念不生」を1~10まで、1回は完璧に達成できた。    
75点:数息観中期の「一念不生」1~10までが2回連続できた。
80点:数息観中期の1~10までが5回連続できた。
以下略す。

 
数息観法をはじめ各種瞑想法の三昧の深さについて、定量的に今まで言及された人は居ません。こういう精神作用的なものをデジタルに評価することは難しく今まで誰もそこまで踏み込んでいないのは当然でありそれをやろうとするのは暴挙ですが、これを励みとして一人でも二人でも数息観三昧を深めて頂けたらそれでよしであります。

数息観法は継続が肝要であり、継続するためにはインセンティブが必要であり、それが数息観評点による自分の実践の深まり・進歩が見えることが励みとなり継続に繋がると考えています。
 更に、次の話の「道眼を開き磨く」に関わる座禅の推進力は、数息観の量ではなく質であり数息観三昧の深さであります。それに最も寄与するのが数息観の評点付けによる日進月歩の積み重ねです。こちらにも寄与すると考えています。

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