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擇木道場

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擇木ブログ - 20190515のエントリ

「日々夜々其境に臨み其事に接し
 其時々々、其日々々感謝の念に住して愉快に送っていく。
 それが衲の安心である。
 息を引取る時迄其日々々の務をして
 それで本望である。
 大悟徹底も即ちそれである。」
 ――釈宗演
 
 私は、至らない怠け者なので、20代の頃、仕事をさぼったことがあります。
 仕事をさぼったついでに、家族の面倒を見ることもさぼり、人生もさぼろうと考えました。
 それで、とあるマンションの最上階をうろうろしました。
 確か、23階建てだったと思います。
 幸運だったことに、私は、余りにも至らなかったので、百尺竿頭一歩を進む根性がありませんでした。
 その日のうちに、情けない顔をして、妻や職場の上司、先輩、同僚に頭を下げて回りました。
 周囲に散々迷惑をかけたにもかかわらず、厚顔無恥にも職場に居座り、現在に至るという次第です。
 
 このように、私は、これまでの人生で好き勝手にやりたいことをやってきました。
 それなのに、今は、4人の子供を育てさせてもらっており、有意義な仕事をして子供4人を育てる上で心配のないだけの給料をもらい、しかも、暖かい言葉をかけてくれる道友までもいる。
 私は、幸運です。
 
 以前は、私の意志と力によって、幸福を実現するものだと思い込んでいました。
 坐禅をするようになってから気づいたことの一つは、わざわざ幸福を目指して努力する必要はなく、私は既に幸福であり、幸福であることが死ぬ瞬間まで続くのであろうということです。
 
 「幸福になる」ということは、現在は、「幸福ではない」のです。
 「幸福になる」という考え方に囚われてしまうと、どんなに努力をして幸福を目指してみても、次の「幸福になる」ことを考えてしまい、そう考えた時点においては、「幸福ではない」ので、いつまで経っても幸福にはなれません。
 
 「幸福になる」という考え方に囚われてしまうと、幸福は不確実な未来にあるので、私は、幸福が得られるかどうか不安になる。
 「幸福になる」ためには、努力が必要です。
 そのための労力を払います。
 それなのに、狙っていた幸福が実現できなかったときには、そのこと自体に対する不満と、狙っていた幸福を得るためのそれまでの努力が無駄になったことに対する不満とに苦しむ。
 
 そもそも、私は、明日死ぬかも知れない、今日死ぬかも知れない、次の瞬間には死んでいるかも知れない。
 幸福を目指して努力している途中で死んでしまう。
 そうなってしまってはつまらない。
 常に死が迫っていることを考えると、幸福を不確かな将来に委ねてはならない。
 
 将来における幸福を実現する目的で、行為をしようとすることが往々にして不幸の始まりなのだと思います。
 考えてみれば、何らかの行為をするということは、それ自体、私のやりたいことができているという、とても幸福な出来事なのです。
 行為をする時点で、この肉体を取り巻く条件が少しでも変わっていれば、その行為はできないのであり、何らかの行為をするということはそれ自体が幸運なのです。
 行為を将来における幸福を実現する目的で行うのではなく、行為すること、それ自体の幸福と幸運をしっかりと味わって、その僥倖に感謝することが大切なのだと思うようになりました。
 
 その場その時で、自分がなすべきこととして、やりたいと思ったことをただやる。
 自分がやりたいことをやっているのだから、それだけで満足できる。
 ほかには何も期待しない。
 だから、期待外れの不安もなければ、不満になりようもない。
 
 ……そうやってやりたいことだけやっているのに、どういうわけか、しばしば、何かが手元にやってくる。
 「ありがたい!幸運だ!」
 合掌する。
 
 手元にやってくるものに、私の行為や努力によって得られたものは一切ない。
 手元にくるものは全て偶然の幸運の産物。
 だから、私は、日々感謝して合掌する。
 
 合掌 英風 拝
 
【引用文献】
 釈宗演『快人快馬』181~183頁
【坐禅会のお知らせ】
*私は、(だいたい)毎週次の人間禅坐禅会で坐禅をしています。 
 私と一緒に坐りませんか(°∀°)
1 月曜日19時(初回1830分)から20時 
 場所:東京都台東区谷中7-10-10擇木道場 
 連絡先:TEL 03-3823-7647
2 木曜日1930分(初回1915分)から21時 
 場所:東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
*参加費1、2とも 初回(指導料込み)1000円、2回目以降 500円
【東京荻窪支部摂心会のお知らせ】
*私の所属する東京荻窪支部では、来る5月29日から6月2日にかけて第5回摂心会を実施いたします。
 会場は「善福寺清明庵」となります。
*伝法の師家による参禅(公案修行)の機会もあります。
 詳細は、後日お知らせいたします。
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
<善福寺清明庵のご案内>
 東京都杉並区善福寺3-8-5 清明庵
 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
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長寿と禅(その4)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/5/15 1:42
長寿と禅(その4)
 
 精神的安定が肉体的安定につながりそれが長寿につながるという観点において外から入って来るストレスにどう対応して精神的安定を確保するかについてのお話を前のブログでしました。今日は外からではなく自分自身の内から来るストレスについてお話ししようと思っていたのですが、内から来るストレスという言い方は語法的には間違いであるということが、ストレスの意味を辞書で引いて判りました。
 ストレスを大辞林で引くと、
精神的緊張・心労・苦痛・寒冷。感染などごく普通にみられる刺激(ストレッサー)が原因で引き起こされる生体機能の変化。一般には、精神的・肉体的に負担となる刺激や状況をいう。
強弱アクセントで、強めの部分。強勢。
物体に加えられる圧力。
外的圧力に対する弾性体内部の反発力。
と有ります。
 本ブログの健康に関係する項目は①になりますが、これは前回の外からのストレスだけになります。すなわち内からのストレスという言い方はないということです。ただ人間は考える葦であると言われる人間にとって、自らの(内からの)精神的不安定からの健康を損ねるという事例は健康の中で最大の要因といっても過言ではなく、まさに本題の「長寿と禅」の主テーマが人間形成の禅によって精神的安定が根本的に確立することにより肉体的安定すなわち健康が確保されその結果として長寿になるという論旨が中心になるのですが、内からのストレスという言い方・考え方は急遽取り下げて別の表現にしなければならなくなりました。
 大辞林から引用したストレスの意味を見るに付け、ストレスという言葉が悪いイメージになりすぎていることに気がつきます。すなわちストレスは過度になるといろいろ問題を引き起こすことになりますが、適度なストレスは必要だという観点もあります。同じような言葉に摩擦(まさつ)がありますが、摩擦は良くないイメージがありますが摩擦があるから乗り物のブレーキが成り立ち、また帯を結んでほどけないのは摩擦があるからです。事ほど左様に「④外的圧力に対する弾性体内部の反発力」を精神的なストレスとして考えると、「試練を克服する精神力」となり、これを繰り返し経験することにより人間が鍛錬され人間力が付いてくるという図式になります。これは社会的にもいえますが、臨済禅の修行における公案が外部圧力であり、それに挑戦し反発して克服してゆくことによってより高い人格に到達することであるともいえます。
 ただ弾性体が持っている強度以上の外的圧力が加わると弾性限界を超えて二度と反発力が出てこない状態になるものであり、社会的な試練がその人の持っているその時の限界弾性力を超えたらその人は精神的に参ってしまうということになり、これが現代社会での実相(うつ病とか自殺)になっているのです。禅の修行の場合は、自分の境涯より高いレベルの公案を師家から与えられて四苦八苦するわけですが、師家はその人が潰れないようにストレスを架けつつ自力で反発力をもって乗り越えるようにサポートする。師家が手を出して引っ張り上げてその公案を透過させてしまうとその人は自力を付けないまま公案だけが進むということになるし、全くサポートせずに厳しすぎると修行が中断してしまうということになり大変難しいところです。
 話が横道に行きましたが、肉体にしても精神(こころ)にしても適度なストレスが必要だということは80歳近くまで生きてきた人生経験として言えます。問題はこの適度がいい加減であり問題なわけです。最近企業研修プロジェクトを進める中でお聞きしたことですが、企業の経営者にとって問題になっていることにせっかく採用した新入社員が些細なことですぐやめてしまうそうです。これはこの「適当なストレス」の高さが今の若者はかなり低いということでしょう。そこがこの本題「長寿と禅」に関連してくることで、人間形成の禅を長年継続することにより適度がどんどん高くなってゆき、最終的にどんな精神的ストレスが来ても適度の範囲を超えないということになるということです。やはり最大のストレスは、古今を問わず洋の東西を問わず「死の恐怖」が最大のストレスでしょう。健康な人が突然「あなたは癌にかかっており全身に転移しており、余命3ヶ月です!」と医師から宣告せられたときのストレスはほとんどの人の場合にはこの「適度」を超えるのです。だからその精神的動揺によって肉体的安定が損なわれ免疫力が下がり余計病が進行すると末期癌の権威者である岐阜の船戸崇史先生もいわれておられ、「医師に殺される癌患者」という物騒な趣旨で書かれた書籍もいろいろ出版されています。しかしこういう一般的傾向に全く外れるのが人間形成の成果といえば言えるのです。すなわち医師の宣告はそれなりにしっかり受け止めまさに終活の手はきちっと打つが、その死の宣告でさえ適度のストレスの範囲を超えずしたがって自己の「弾性体内部の反発力」を損なうものではないのです。死の恐怖に対してですから、日常茶飯事の腹立たしい人間関係とか自分に対する誹謗中傷があっても是は是、非は非で対応しつつも決して精神的安定を損なうことなくサラッとケロッと対応してしまえるというものであり、肉体的安定にまで影響することは全くない。長寿はこういう結果の積み重ねの後に自然と付いてくるというものです。
 今日のブログは、前回のブログを受けて内からなるストレスへの対処について書くつもりが、大辞林を引いてから脱線ばかりで想定範囲を超えて少し精神的動揺をしていますw。
 

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