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擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
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擇木ブログ - 201905のエントリ

茶道部日記(一喜一憂)

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/5/31 12:05
22日、檡木茶道部の稽古日は、初夏というより陽射しの強い夏日のようでした。
茶席の窓越しに見える花柘榴は、昨年よりも早い開花のようで、陽射しの中、少々お疲れ気味です。

各々薄茶点前の稽古の後、お濃茶の稽古となり、お点前は翡翠禅子、私が正客となりました。
この日は頂いた後に、いつも以上に「美味しいですね~」と皆で感嘆!
その時々の気候、体調などが変動する中で、常に美味しく喫することが出来るということは、なかなか難しいものだと思います。
贅沢な一服を頂いた日となりました。
 
土曜日の午前は、「女性の美は座禅から」座禅会が行われています。
時々参加される女性(Aさん)が、歓談の際に次のようなお話をされました。
都内在住のAさんは、
「区の募集があった貸し農園に申し込み、群馬県の畑で友人と野菜つくりを行っている。
しかし、しょっちゅう遠くの畑仕事に行くことは難しく、どうしても雑草が多い畑となり、他の方々の畑とは比べられないけど、マイペースにやって楽しんでいます。」とのこと。
ところが、先日Aさんに表彰状が贈られました。農園では見事な農作物を作った畑や、手入れの美しい畑に、様々に賞を授与されるそうです。
Aさんの授与は、長年に渡って畑を使用している継続に対してでした。
区の応募第一期であったAさん、約20年近く続けていらっしゃるわけです。
しかもAさん以外は、途中で解約してしまい新しい借主に変わっているそうです。
 
「継続は力なり」楽しいとはいえ続けるのは難しく、持久力のない私はうなってしましました。
合掌 妙翠
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見えない修行(その1)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/5/29 23:03

見えない修行(その1

丸川春潭
 

 臨済宗系の「人間形成の禅」を中心に持つわれわれ人間禅は、数息観座禅を基盤に臨済宗の特徴である公案修行を一生かけてやります。この公案修行は見える修行です。これに対して数息観座禅は見えない修行と言えます。

公案修行は正脈の師家に入門して臨済宗系の伝統的な公案を授けられ、独参(師家と一対一で問答する参禅)を重ねて公案の透過を目指す修行ですが、初関(200則の公案の中で4則が修行を始めたときに与えられる公案)を透過すれば道号が授与されます。そして修行が進み88則(即今汝性)を透過し、更に道心堅固に修行を継続する者は火大級に進級させ黒色絡子を授与します。次に142則(五蘊皆空)を透過した者に見性悟道の境涯として風大級への進級を証し、その後も空大級(茶色絡子授与)、識大級(庵号授与)、師家分上へと進級が明確にされています。

まさに修行の進行が自他に見えるようになっており、修行の道標が明確になり修行の励みになっています。

長所は短所と裏表であり、見える修行に重心がかかり易く、見えない修行が疎かになりがちなものです。この見えない修行は人間形成の禅の修行にとって常に大切な行なのですが、就中大切な時期を二つあげれば、その一つが見性した直後から道号を授与されてからのしばらくの間です。そしてもう一つが識大級、師家分上になって公案修行があらかた済んだ者の修行においてで、この見えない修行が大切になります。

まず前者の見性入理直後について言いますと、見性時は間違いなく頭頂葉がサイレントになり前頭葉が活性になっていたから見性できたのです。すなわち座禅して念慮を止め言葉を捨てて三昧に入ったから見性できたのですが、未だ三昧が身につくほど三昧行を長年継続していないから、日時の経過とともに前頭葉で感性として保持していた見性の境涯はみるみる希薄になり、代わって見性の時の見解だけが頭頂葉の記憶として残るだけとなってしまう。こうなると次の何ヶ月か先の摂心会では、またゼロから見性の境涯にまで上げてゆかねば次の公案が全く見えないということになります。これは未だ良い方で、見性し道号を授与されたが、見性の感激が冷めて終い修行に対するモチベーションが低下して修行が中断してしまうことも往々にしてあるのです。これらは全て、見性後の見えない修行がきちっとなされなかったためであり、公案修行が知性主導になったためです。兎に角見性した直後ほど先輩がよくフォロ-して、見えない修行を一緒になってしっかり行ずることが大切です。東京支部ではそのために初関会が設けられており、見性して1年間は兎に角しっかり座ることを定着させるために、本来見えない修行を少し見える化してアフターケアーとしています。(つづく)
 


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悟りについて

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/5/29 5:53
悟りについて、言葉で語ることの出来る性質のものではなく、このようなブログを書くこと自体間違いかもしれませんが、乏しい知識で思っていることを書かせて頂きます。
 
私は4年前の摂心会(せっしんえ)で見性(けんしょう)を認めて頂いたのですが、その時にたった一度、数秒だけの経験だったのですが、何とも幸せな気持ちになりお釈迦様とも対等に会話できるような気分になりました。
それ以降同じ経験はありませんが、そのような経験が出来たのも公案(こうあん)があったからこそではないかと思います。
また、『マラソンマン』という漫画のエピソードにある「考えまいとして心を閉ざすのでは無く解放する。イメージするのは闇では無く光だ」ということをイメージしたのも助けになったように思います。
 
欧米では悟りのことをPNSEpersistent non-symbolic experience:継続的な非記号の体験)と言うそうですが、超音波を脳に照射することで機械的に悟りと同一の状態を生み出す試みもなされているそうです(興味のある方はPNSEWEB検索すると詳しい情報が分かるかもしれません)。
悟りの状態に入っている人は脳波に変化が生じていると聞いたことがありますが、その状態では強い幸福感を感じることが共通しているそうです。
仏教では悟りに至るまでのプロセスを重視するため、機械的に悟りの状態を作り出すのと、修行の結果悟りに達するのとはやはり違うのではないかと思いますが、適切な指導者の下で指導を受ければ、期間の長短はあるかもしれませんが、誰でも同じ経験ができるのではないかと思います。
おそらく、お釈迦様やイエス・キリストも同じ経験をされており、その状態をより深く、長く継続することが出来たため、他人からは後光が差しているように見えたのではないかと思います。
 
見性が認められても、十牛図(じゅうぎゅうず)にありますように牛(真の自己:悟りのこと)は直ぐに逃げて行ってしまうのであり、牛を手懐けるのは容易なことではないと思います。
初めて公案を受けた際に、途中で修行を止めると却って害になるという戒めを受けましたが、見性したことを鼻にかけて思い上がったまま止めてしまっては却って害になるということではないかと思います。
有名な禅問答で、仏とは何かと問われた禅僧が、「乾屎橛(かんしけつ:糞かきベラのこと)」と答えたという逸話がありますが、それも「悟りなど大したものではない。思い上がるなよ」という戒めではないかと思います。
道元禅師は座ること自体が悟りであると説かれているそうですが、日々変わりゆく環境の変化に合わせて悟りもアップデートしていかなければならないのであり、見性したからそれで良いのではなく、一生修行を続けることが必要という意味ではないかと思っています。
義務のような堅苦しいものではなく、楽しいから続ける。それで何か良いことがあれば儲けもの程度の気持ちで続けられれば良いのかなと思っております。
 
海外でマインドフルネスが戦争に利用されたり、かつての日本の武士は死の恐怖を克服するために坐禅をしたという話を聞いたことがありますが、仏教の戒律を守らずに見性だけしても危険な方向に向かってしまう可能性もあると思いました。
蚊の出てくる季節になりましたが、仏教には不殺生戒(ふせっしょうかい)がありますので、蚊を殺さずに寄せ付けない菊花線香を注文しました。肉や魚を食べておいて偽善かもしれませんが、不必要な殺生をしないという意味と勝手に解釈して、出来るだけ守っていきたいです。
 
風印 拝
 

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「悪いことを善くする
 悲しいことは嬉しくする
 その後から又悪いこと、厭なことがむらがり起る
 起れば又これを善い方へ転ずる
 これを穢土というてもよし
 浄土というてもよし」
 ――鈴木大拙
 
 仏教では、分別をなくすことが重視されます。
 好き、嫌い、成功、失敗などといった二元的な思考方法をやめてしまって、「どっちに転んでもよい」と考えるようにする。
 そうすれば、「失敗したらどうしよう」などといった不安から解放されて自由に生きていくことができる。
 しかし、頭で分かっていても、実際に、心がその通りになるかというのは別の話。
 禅の修行とは、頭でわかったことを本当に日常生活に活かせるようにするためにやるものだと思います。
 
 禅の修行で、いわゆる見性体験を得ることを重視する方がいるのはそのためでしょう。
 通常の脳が機能している状況では生まれないような体験や観念を得て、脳に刻み込むことを試みる。
 このような現象の生じる一番大きな要因は、坐禅や瞑想の際に呼吸回数が自然と減ることにあります。
 指導者によっては、呼吸回数を減らすことを推奨する人もいるようです。
 呼吸回数が減ると、血中二酸化炭素濃度が高くなり、脳内でセロトニンが分泌されるほか(注1)、炭酸ガス自体に麻酔作用がある(注2)ため、これがうつ症状の改善に効果があるとされています。
 そして、血中二酸化炭素濃度が上昇している状態は裏を返すと、血中酸素濃度が低下しているわけであり、脳の生理的機能に異常が生じやすくなります。
 坐禅や瞑想中に、通常の状態では出ない発想が出ることのあるのはそのためでしょう。
 それが深まると、見性体験などといわれるような幻覚症状が生じやすくなります。
 私自身は、この段階で、どのような事前情報が与えられていたかが重要であると思っています。
 「悉有仏性」とか、「宇宙と自己の一体化」などといった事前情報が与えられていると、血中酸素濃度の低下による幻覚体験に事前情報に沿った意味付けがされやすくなるものと思われます。
 
 私は、至らないものですから、「好き、嫌い」の分別がまだあります。
 ただ、嫌なことも、かなり楽しむことができるようになったのはよかったかなと思っています。
 
 このような感覚になったのは、昨年12月にテーラワーダの勉強会に行ったことがきっかけでした。
 そのとき、参加者の中で死を受け入れることが話題となりました。
 私は、当時、坐禅のおかげからか、受け止めが良くなっていたので、避けられない死が迫ってきたときには受け入れられそうな感覚になっていました。
 それで、頭の悪い私は、「死を受け入れられると思う。」と口走りました。
 すると、その場にいた女性の一人が、「そんなこと、実際にそうなってみなければわからないじゃない。」と至極まっとうに批判なさいました。
 
 至極当たり前の話だったのですが、彼女が癌のサバイバーであり、先立ってその壮絶な経験の話を聞かされていたので、妙に胸に刺さりました。
 自分でも、救いようもなく頭が悪いなと思うのですが、胸に刺さったついでに、私は、そのとき、心の中で、「受け入れられるよ。」とひそかに腹を立てたのです。
 しかし、確かに、頭の想像の世界の話ですから、そのときになってみないと分からない。
 そんなことを考えているうちに、「そのときになってみれば、自分の言ったことの証明できるな。」という考えが思い浮かび、そう考えると、何やら、死が迫ってきた状態になることが楽しみになってきたのです。
 
 そのことが私にとっては、ブレークスルーでした。
 年が明けて1月初め頃、私は、電車を降りるとき、改札口で、購入したばかりの半年間約12万円分の定期の機能がついたスイカを落としたことに気付きました。
 けれども、このとき私は、「道力を試すチャンスが来た!ここで慌てたらつまらない。」と思ったのです。
 そう思うと、本当に、何やら落着いてきて、その落着いている状態が何やら楽しく感じられ、その後、駅の窓口に行って、スイカの無効化の手続をしました。
 
 帰宅すると、当時小2の長男が、にやにや笑いながら、「おとう、定期忘れたでしょ。」。
 スイカは、スマートフォンのケースに差していたのですが、家にいる間に、そこから落ちてしまい、また、電車に乗るとき急いでいたためか、自動改札の扉が閉まる前に、強行突破していたようでした。
 本当に、大騒ぎするようなことではなかったので、冷静でいて本当によかったと思いました。
 
 それ以降は、嫌なことがあっても、その状況をどのくらい楽しめるかが、私にとっての課題になりました。
 ただ、鈴を振られても、「楽しい、楽しい」とやろうとしているためか、参禅に必死さがなくなり、明らかに透りが悪くなっているのが困りものですが……。
合掌 英風 拝
 
【引用文献】
冒頭部 鈴木大拙『百醜千拙』165頁
(注1)高田明和『一日10分の坐禅入門――医者がすすめる禅のこころ』143頁
(注2)中村仁一『大往生したけりゃ医療とかかわるな 「自然死」のすすめ』65頁
*私は、(だいたい)毎週次の人間禅坐禅会で坐禅をしています。
私と一緒に坐りませんか(°∀°)
【坐禅会のお知らせ】
1 月曜日19時(初回1830分)から20
 場所:東京都台東区谷中7-10-10擇木道場
 連絡先:TEL 03-3823-7647
2 木曜日1930分(初回1915分)から21
 場所:東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
*参加費1、2とも
 初回(指導料込み)1000円、2回目以降 500円
【東京荻窪支部摂心会のお知らせ】
*私の所属する東京荻窪支部では、本日5月29日(午後7時30分結成茶礼)から6月2日にかけて第5回摂心会を実施いたします。
 伝法の師家による参禅(公案修行)の機会もあります。
*場所:東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵
 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)   
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「坐禅している此処に救いがある。」
――加藤耕山
 

私は、出勤前に、坐禅をするため、午前5時に起きるのですが、妻は、午前4時30分には起きて、炊事をします。

元は同じ時刻頃に起きていたのですが、今年長女が大学に入り、通学時間の関係で朝早く出るので、更に早く起きるようになったのです。

さらに、我が家には長女を合わせ子供が4人いるほか、私の弁当も作るので、朝の妻はかなりテンパっており、その状況で私が坐禅をしていると、たまに「いいご身分だねえ」と嫌みを言う声が聞こえます。

彼女にとっては、自分が忙しくしているのに、私は、怠けていると映るのでしょう。
 

最近、このような彼女の捉え方が的確なのではないか、と思うようになりました。
 

坐禅とは、何もやらずに、時間を無駄遣いすることである。
 

私の人生、その一瞬一瞬の時間は、私にとって、とても大切なものです。

私は、明日死ぬかも知れない、今日死ぬかも知れない、次の瞬間には死んでいるかも知れない。

この冷厳たる事実に真剣に向き合ったとき、人生を無駄にしてはならない、この一瞬一瞬を空費してはならないという切実な思いがわいてきます。

多くの禅匠も、寸暇を惜しむなと言っているところです。
 

寸暇を惜しんではならないというところから始まって、私は、自分の限られた人生を有意義なものとするため、日々大なり小なり自分なりに努力して、あくせくしながら生きています。

とはいえ、努力して、有意義なものとして送ったはずの人生の先に何があるかといえば、『死』しかありません。

頭の理屈では、未来は、全く予期できないはずのものなのですが、どういう訳か、私が確実に死ぬということは明確に、肉体的な感覚として刻み付けられるように、わかっています。

私の人生は全体として無意味で無価値であるのに、それでも、私は、無意味で無価値な人生の中に、意味や価値を見い出し、あるいは、作り出すため、日々あくせくして生きています。
 

なぜか、私は、人生に人生以外の何らかの付加価値がなければダメだと思ってしまう。

人生がただ人生として純粋に価値があると思えなくなってしまっている。
 

坐禅とは、何もやらずに、時間を無駄遣いすること、裏を返せば、人生に何ら付加価値をつけることなく、混じり気のない純粋なものとして味わうことではないか。
 

人生を、生きること以外の何らかの目的を実現するために使うというせこい根性をやめる。

何もせずに、貴重な人生を湯水のように無駄遣いして楽しもうという人生最高の豪遊が坐禅です。
 

しっかりと楽しむために、背筋を伸ばし、目を開けて、意識を保ちます。

体を動かすと、生きるだけという状態になりませんから、口を閉じ、手は印を結び、足はしっかりと組んで、微動だにしないようにします。

考えることも、生きること以外を何かやろうとするためにやることですから、これもやめる。

坐禅をしているときに、足が痛いとか、顔がかゆいとか、消極的な感覚がやってきます。

そんなときに、足を崩す「ため」に足を動かすとか、顔をかく「ため」に手を動かしたりしてしまうと、人生を生きること以外に使ってしまいますから、外界からの感覚的な刺激に対して、対応することもやめる。
 

生きること以外に一切ない「純粋な人生」を味わい豪遊する。

坐禅とは、「只生きる」ことなのだと思います。
 

以前、私は、「坐禅はむなしい」ものであると思っていました。

そして、それを受け入れることが、人生の持つむなしさを受け入れる力をつけることにつながるのだと思っていました。

けれども、そもそも「坐禅はむなしい」と受け取る私の精神性に、ひいては「人生はむなしい」と受け取る私の精神性に問題があったのだと思います。

私が、坐禅に対し、そして、人生に対しても、何らかの付加価値を期待してしまっており、それが実感できないことから、「むなしい」などと感じていたのだと思います。
 

私が坐禅をしている時間、ほかの人は何をしているでしょう。
 

一生懸命仕事をしている人がいます。

家族関係で悩んでいる人がいます。

悲惨な事件に巻き込まれた人がいます。

海外には、まだ紛争地域もあり、私の想像を絶する境遇に苦しんでいる人がきっといます。

しかし、私は、太平楽に坐禅をして貴重な時間を無駄遣いしている。

時間は、私が、この世界で何をするにしても、なくてはならない最も貴重なもの。

それを無駄遣いする坐禅は、私が自分のためにやることの中で、最大の幸福に違いない。
 

仕事の都合、家族の都合、周辺環境、国際情勢……私の周囲を取り巻く状況に何らかの問題があれば、この一炷香の坐禅はできません。

この一炷香の坐禅ができることは、それ自体、奇跡が重なり合ったことにより生じる幸福の産物であり、私の周囲を取り巻く状況がすべてうまくかみ合うことによって初めて可能となるもの、やらさせていただいているものなのです。

坐禅をしているとき、明瞭に、私の幸福と幸運が現成しているのにもかかわらず、それ以上に、一体何を坐禅に求めようとしていたのか。

本当に愚かであったと思います。
 

至らない私は、いくら坐禅をしても、本当の意味で見性するとはどんなことかわからないし、「転迷開悟」とはどんなことかもわからない。

けれども、坐禅をさせていただくこと自体が最大の幸福なのだから、自分の利益を目指すだけなら、坐禅をさせていただくだけで、もう十分なのではないのだろうか。
 

………最大の幸福である、この一炷香の坐禅は、私の周囲を取り巻く環境、この“世界”によって、やらさせていただいているもの。

私は、“世界”に対し、この恩を返さなくてはならない。

坐禅が、私が自分のためにすることのできる最大の幸福であるとするなら、私は、自分のために立ち上がる理由はない。

立ち上がる理由は、私に坐禅をさせてくれた“世界”に感謝して返すため以外にないのだ。
 

本部摂心の結成日の前日、ワイシャツのアイロンがけをしていなかったことを思い出す。

私は未だ袴の類を持っていないのだ。 

自宅に帰るとなぜか、数着のワイシャツのアイロンがけが終わっている。
妻が言う。
「あんた、十連休中、また泊まりがけで、坐禅行くから、ワイシャツいるでしょう。アイロンかけておいたから」
 

“世界”は、坐禅をすること以外にも、いろいろなものを私にくれる。
 感謝してお返ししなくてはならない。
 
合掌 英風 拝
 
【引用文献】
・秋月龍珉・柳瀬有禅『坐禅に生きた古仏耕山 加藤耕山老師随聞記』226頁
 
【坐禅会のお知らせ】
*私は、(だいたい)毎週次の人間禅の坐禅会で坐禅をしています。 
 私と一緒に坐りませんか(°∀°)
1 月曜日19時(初回1830分)から20時 
 場所:東京都台東区谷中7-10-10擇木道場 
 連絡先:TEL03-3823-7647

2 木曜日1930分(初回1915分)から21時(530日は摂心会のため休み)
 場所:東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
*参加費 初回(指導料込み)1000円、2回目以降 500円
 
【東京荻窪支部摂心会のお知らせ】
*私の所属する東京荻窪支部では、来る5月29日から6月2日にかけて第5回摂心会を実施いたします。
 伝法の師家による参禅(公案修行)の機会もあります。
 詳細は、後日お知らせいたします。
*場所:東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵
 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)     
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E=mc2

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/5/27 0:39
法照です。
 
人間禅の道友の方が先日お亡くなりになりました。
しかし、道友と呼ぶにはおこがましい程の大先輩で、入会仕立てでカチンコチンの私になにくれとなく声をかけていただいたりした恩人でもあります。
お通夜は座禅会もあって行けなかったのですが、翌日の告別式に参列させていただきました。
お葬式ではいつもそうなのですが、参加して神妙に遺影など見ながらお坊様の読経に耳を傾けたり、ご焼香などさせていただいても全く実感が沸いてきません…
もちろん、顔はそれらしく神妙にしてはいるのですが、こればかりはどうしようもありません。
やっと実感が沸いてきたのは出棺前の棺に花を添えるときでした。
死体というのは、どうしてあんなにも存在感があるのでしょうか?
生きているときも存在感は人並み以上でしたが、死体というのは圧倒されるほどの存在感を感じます。
死者を拝顔して、始めて「ああ、この方は本当に死んでしまわれたのだ」ということを実感することが出来ました。
 
この存在感は、普段は見ることのない「死」というものを目の当たりにするからかもしれません。
いつか自分にも訪れる「死」というものが目の前にあります。
 
人間禅では、公案修行という禅問答での修行がありますが、その公案の中にも死を扱ったものがいくつもあります。
そういった修行をしたり、座禅をしたりしたこともあって自分の死生観はだいぶ変わりました。
以前は、肉体が滅びれば全て終わり、ただ消えてなくなるという全く救いようのない認識でした。
修行を進むと、この認識が変化していきました。
肉体は消えてなくなりますが、ただそれだけではないものがある。
とはいえ、それは「死後は天国に行って、そこには美しい花が咲き乱れ…」というような非科学的な話ではありません。
 
さて、では「ただそれだけではないもの」とは何なのか、というお話しです。
※ただし、これは私の死生観の変化の話であって、「人間禅がこう教えている」という話ではなく、あくまで個人の認識である点をご了承ください。
 
唐突ですが、
 
    E=mc2
 
この式はご存じですよね?
「エネルギー(E)は質量(m)に光速度(c)の2乗を掛けたものと等しい」
アルベルト・アインシュタインが1907年に発表した方程式です。
ライト兄弟が初の有人動力飛行に成功したのが1903年ですから、まだ宇宙などほど遠い時代にこのような方程式が導き出されたことは驚くべき事だと思います。
 
「なぜ死生観にこの公式が出てくる?」と思われるかと思いますが、実は方程式自体は何だっていいんです。
オームの法則(V=IR)でもいいし、球体の表面積を求める(S=4πr2)でもいいんです。
シンプルで美しく、意味深い方程式だから、というだけの理由で選びました。
 
この方程式は単純なので、普通の電卓でも計算できるようなものですが、ここで仮にこの方程式を計算するための特別な計算機を作成したとします。
mを入力すると、質量(m)に光速度(c)の2乗を掛けあわせてエネルギー(E)を表示する計算機。
(cは我々の世界では299,792,458 m/s と決まっているので、入力はしません)
この計算機を使ってたくさんの計算を行います。
あるときはmは10かもしれませんし、またあるときは98,340かもしれません。
とにかく日々、なにか計算していきます。
計算機は「物」ですから、わずかずつでも日々変容していきます。
気づかないような変化でも時間が経てばやがて大きな変化となって、最後には計算機の機能を果たせないほどの変化となります。
これは計算機にとっての「死」を意味します。
 
さて、ここで計算機は死にました。もう二度と計算をすることはありません。
でもここで死んだのは、あくまで計算機です。
「E=mc2」を計算できなくなっただけで、「E=mc2」という方程式自体は死んでいません。
計算するための機械は無くなっても、「E=mc2」という方程式自体は何の毀損も起こりません。
方程式自体は永遠のものだからです。
 
これは人にも当てはめられないでしょうか?
肉体が滅んだからといって、その人の本質まで滅ぶでしょうか?
 
私の先輩は「新入会のものにも優しく声を掛けてくれる人」
私の先輩は「とても楽しいお酒を飲む人」
私の先輩は「誰にでも好かれる人」
 
なんか悟ったようなことを偉そうに書いてますが、実は意識していなくてもほとんどの人が持っている感覚のように思います。
 
肉体が滅んで終わりなら、なぜみな葬式に行くのでしょうか?
誰かから受けた恩を死んだ人にも持ち続けるのはなぜでしょうか?
 
それは肉体ではなく、その人の本質の部分を見ているからではないでしょうか?
このことを無意識に認識していることと、実感として明確に認識していることとは大きな違いがあると思うのです。
肉体が滅ぶ恐怖を克服できたわけではありません。
怖いものは怖いのですが、ただそれだけではない本質が自分にはあると認識できればいろいろなことが変わってくるように思います。
 
 
最後に、一休禅師の句をご紹介して終わりにしたいと思います。
 
 死にはせぬ どこにも行かぬここにいる 尋ねはするな ものは言わぬぞ
 
 
 

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虫となる

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/5/26 20:49
季節の訪れの遅い我が家の庭の牡丹もとうとう散ってしまいました。
 
毎年牡丹の花を心待ちにしているのは、その姿や香りももちろんですが、花の底でコロコロ太った熊ん蜂や黄金虫が花粉にまみれ、こけつまろびつしている様子を見るのが、何よりの楽しみとなっているからなのです。
 


虫たちの一心不乱の様子に引き込まれ、いつか私自身も虫になって花の底で恍惚状態になってしまうような、まるで極楽浄土にいるような・・・。
牡丹と、虫と、私の命が一つになる瞬間です。
 
虫となる 牡丹の底の 浄土かや
 
最後の牡丹が散ると、急に庭が広く静かに感じます。
 
緞帳の降りるがごとく牡丹散る
 
庭の主役たちも交代してゆきます。移り行くのは寂しいけれど、次の出会いの喜びに期待しましょう。
 
妙玲 拝
 
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No purpose, No hurry

カテゴリ : 
English
執筆 : 
擇木道場 2019/5/26 12:03
No purpose, No hurry 
 
There is no purpose of self, other than knowing the self. Even enlightenment cannot be purpose of self, because self is just a continuous flow of energy like river flow. Everything that is associated with a purpose stops when purpose is completed. However, the self is pure flow of energy keep continuously flowing as a part of this whole universe. So, basically when you sit for meditation or say Zen with any kind of purpose associated with it, do not lead you anywhere. Because ultimately it’s all about leaving the last tiny support which let you try to swim, because it’s not about swimming, it’s about floating, or flowing. 
There is no purpose of river, but it flows being in nature and it reaches where it has to reach. We have to understand the nature of self, and to understand it we have to drop the last string attached. So, when you sit to meditate or practice Zen, and the last string of desire to get enlightenment is attached then you not able to understand the nature of self. This happened to Buddha, after meditating several years he left all the hope. He was just at the door, but unable to enter because of string attached. And then one day it just happened, it happened when he saw the leaves falling from the tree, under which he was sitting for meditation. He realized the natural flow of leaves, without any purpose and he realized that self is also in the nature, with the same flow. 
Actually, the purest of self is already enlightened however we never been able to see it because of our accumulated desire in life after lives. But then question arises that, what is the purpose of meditation or Zen, the purpose is to prepare our self to reach to the state where we can just able to realize the nature of self. Have had Buddha realized the nature of self by seeing falling leaves, if he could not have meditated for several years. No, he could not. He could not realize it, if he had not been prepared the self for that very moment. 
I wish, I become aware on moment to moment basis, go deeper and deeper in when I sit for Zen. I wish my every act of life have full aware state of Zen, and I pray for all to have the same. 
---------------------------------  Pranam -------------------------------------------------
 
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 英風です
 湘南ダンマサークルさんにお邪魔した日、交流会が午後3時までだったので、初めて建長寺さんの坐禅会に行ってみました。
 坐禅を始めてから1年と少しほどなのですが、自宅が比較的鎌倉に近いにもかかわらず、鎌倉のお寺さんで実施されている坐禅会にとしては、円覚寺さんと報国寺さんの2箇所しか行ったことがありませんでした。
 当日の建長寺さんの坐禅会の開始時刻が午後4時30分だったので、ちょうどよい機会と考え、午後3時18分東戸塚駅発の横須賀線に乗り、午後3時30分過ぎには、北鎌倉駅に着き、そこから徒歩で建長寺さんに向いました。
 
 ちょっとショックだったのは、北鎌倉駅の駅裏トンネルが閉鎖になっていることに気付いたこと。
 このブログの記事を書いたときに、ネットで確認したら、平成28年には崩落して閉鎖されていたんですね……。 
 昨年4月から円覚寺さんの暁天坐禅会には十数回行っていたのですが、乗る車両の位置の関係で、ホーム北側で降りることがなかったせいか、気付きませんでした……。
 「青い花」、「覆面系ノイズ」、「南鎌倉高校女子自転車部」……、鎌倉を舞台にした学園物アニメの通学路定番スポットが閉鎖されていたとは……復旧を祈ります。……私でも祈ることあるんですね……。
 
 午後3時50分過ぎ頃には建長寺さんに着きました。
 拝観料500円を払って敷地内に入ります。
 坐禅会は無料なのですけれどもね。

 坐禅会の開始時刻は午後4時30分、集合時刻は午後4時15分なので、敷地内の仏殿の仏像を見て回ったり、請われて20歳代と思料される女性3人組(そのうち二人は白人の方でした)の写真撮ったりやらして、時間を潰します。
 午後4時15分少し前くらいに、坐禅会の会場である方丈に入りました。
 下の写真の建物です。
 

 私が着いたときに、会場にいた方の数は十数人でしょうか。
 提唱用の語録(碧巌録第九十九則)のプリントの置いてある机に一冊百円を志納すればいただけるA5版50頁弱の法話集が3種類あったので、折角なので、一通り志納させていただいていただきました。
 噂に聞いていた長い坐蒲を手に取り、単を作ります。
 長い坐蒲の写真撮ればよかった……
 一応、単の並び順の決まりが掲示されているのですが、おそらく常連と思われる方も、決まりに則っているような感じではなかったので、方丈からの眺めが一番よいと思われるところに単を作りました……スミマセン。
 建物は開け放たれていて、ストレートで敷地内が見えるようになっています。
 定刻まで約15分ほど時間があったので、それまで随坐し、午後4時30分から座禅会開始です。
 このときには、参加者は四十名弱ほどになっていました。
 
 冒頭、坐り方の説明があったのですが、調心については一切説明がありませんでした。
 円覚寺の暁天坐禅のあわただしい中でも、簡単な数息観の説明があったりするものですが、珍しい。
 時計などは見ていないのでわからないのですが、おそらく坐禅の時間は25分間1本。
 担当のお坊様が警策を持って回られてきたので、経験として打っていただくことにしました。
 左右2発ずつ、観光客の方が比較的多いためかかなり軽めです。
 坐禅の後は、般若心経と四弘誓願を読経して、次は、提唱です。
 
 提唱は、管長さんご本人がなさります。
 しかも、大衆と同じ平場に坐って。
 大衆も管長さんを半円に取り囲むよう坐ります。
 私は、坐禅会の手伝いもしていた久参と思われる方のすぐ後ろに坐ったのですが、管長さんとの距離は1.5メートルもないくらいで、この近しさから繰り返し参加したくなるという人も少なからずいそうな感じです。
 管長さんは、もうずいぶんなお歳のようで、歩かれるときには、若手のお坊様が支えられていました。
 提唱のお話は、非常にかみ砕いたわかりやすいものでした。
 惜しまうらくは、私の記憶力がニワトリ並みで、まだ数日しか経っていないのに、現在、ほとんどその内容を覚えていないことです。
 ICレコーダーを用意すべきでした。
 印象に残っているのは、「私たちは、宇宙とぶっつづきの生命です。」というようなことをおっしゃっていたので、澤木興道老師みたいだと思ったことです。
 
 一通り、提唱が終わると、管長さんは、「何か、質問はありますか?」とおっしゃいました。
 私は、少し後悔していました。
 正直、観光客を含めた相当の員数の人を相手にするので、質問という形とはいえ、管長さんとお話のできる機会があるとは思っておらず、質問の準備をしていなかったのです。
 2回から3回くらい同じことを繰り返しおっしゃいました。
 後悔しながら、何か質問をする材料はないか探りましたが、思いつきませんでした。
 私以外にも、質問の声を発する人はおらず、管長さんは、そのうち、自分の修行時代の話を始めました。
 五分間ほどだったと思います。
 昔話が終わると、管長さんは、また「何か、質問はありますか?」と声をかけられました。
 
 私も、これまで仕事の関係で講師を頼まれ講義をしたときには、受講者の方に質問がないか、聞いていました。
 けれども、それは型どおりのもので、どちらかというと「何も聞かないでくれ」と念じながらするようなものでした。
 しかし、管長さんは、本当に、質問をしてほしいというふうに、親しげな感じで、繰り返し尋ねられるのです。
 その様子を見て、「この人は、少しでもここにいる一同を済度したいのだ。」と思いました。
 
 どなたかの本に出ていたと記憶しているのですが……禅とは、生命を使い尽すことです。
 一人一人の性に従って、その生命を使い尽すこと。
 彼の場合は、法施をして済度すること。
 でも、私には、彼に問う材料がない。
 数回、質問がないか繰り返された後で、「なければ終わります。」とおっしゃって、若いお坊様に支えられるようにして立ち上がられました。
 このとき、さびしげな感じがして、私は、申し訳ない気持ちになりました。
 なぜ、自分は、管長さんが生命を遣い尽すことのお手伝いができないのだろう。
 
 坐禅をするようになってから、自分の人生に関する深刻な悩みを感じることがなくなりました。  
 けれども、自分で処理のできない、人に相談をしたくなる悩みがないということは、寂しいことだと気づきました。
 悩みがあれば、質問を求める管長さんの求めに応じて、度されることができるのに。
 
 この後悔の念を払拭するために、近いうちにまた参加したいと思いました。
 それまでの間に、何か悩みを見出して、今度こそは、管長さんに度されようと思いました。
 
 方丈を出た時には、午後5時40分になっていました。
 
【坐禅会のお知らせ】
*私は、(だいたい)毎週次の人間禅坐禅会で坐禅をしています。 
 私と一緒に坐りませんか(°∀°)
1 月曜日19時(初回1830分)から20時 
 場所:東京都台東区谷中7-10-10擇木道場 
 連絡先:TEL 03-3823-7647
2 木曜日1930分(初回1915分)から21時 
 場所:東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
*参加費1、2とも 初回(指導料込み)1000円、2回目以降 500円
【東京荻窪支部摂心会のお知らせ】
*私の所属する東京荻窪支部では、来る5月29日から6月2日にかけて第5回摂心会を実施いたします。
 会場は「善福寺清明庵」となります。
*伝法の師家による参禅(公案修行)の機会もあります。
 詳細は、後日お知らせいたします。
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
<善福寺清明庵のご案内>
 東京都杉並区善福寺3-8-5 清明庵
 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
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「薔薇は理由なしに存在する
 薔薇は咲くが故に咲く
 薔薇はおのれを意識することをしないし
 他人が自分を見ているかどうか問いはしない」
――アンゲルス・ジレジウス

 坐禅をするようになってから、私の気づいたことの一つは、私の人生には深刻な問題がない、問題はあったとしても、深刻だと思うような問題ではないのだということです。

 私は、人生の中で、苦しさ、悩み、迷いを抱えて生きてきました。
 余り意識してはいないのですが、私が坐禅を始めた理由には、このような人生での苦しさ、悩み、迷いに対処したいという思いがどこかにあったからではないかと思います。
 しかし、冷静になって考えてみると、私は、坐禅などを始める前からきちんと生きていたのです。
 苦しかろうか、悩ましかろうが、迷っていようが、なぜか、それをきちんと克服できていたからこそ、私は、今、ここで生きているのです。

 私たちは、みんな、苦しみや、悩みや、迷いを克服して生きる力をきちんと持っていて、みんな、現在、その力がきちんと働いています。
 そうでなければ、私たちは、苦しみや、悩みや、迷いを抱えているのに、生きているはずがないからです。
 私たちは、生きている以上は、苦しみや、悩みや、迷いを実際には克服できているのではないでしょうか。
 しかし、なぜか、克服したはずのものを引きずってしまって、勝手に自信をなくしがちなだけなのだと思います。
 私たちが人生の問題だと思ってしまっているものは、きっと、既に克服してしまった非常に些細な問題なのであり、勝手になくしてしまった自信を取り戻せば済むだけことなのです。
 禅などの仏道の修行と呼ばれるものの、実存的な機能は、自信を取り戻すためにちょっと私たちの背中を押すくらいのものなのだと思います。
 そして、自身を取り戻した後は、ただ人生が豊かになっていくのを味わうだけになっていくのです。

 鈴木大拙先生は、禅について

「それはわれわれの心に生まれつきそなわっている創造と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」

と言います。

 薔薇は、自分が美しく咲いていることを知らなくても、薔薇です。
 本質的には、別に自分がどんな風に咲いているかも知る必要はないのです。
 けれども、多くの人は、自分が美しく咲いていることを知りたくなってしまった不幸な薔薇です。
 私も、きっとその一人です。
 坐禅のお陰で、知らなくてもいいや、というようにはなったものの、どこでまたぶり返すかわからないので、常備薬を飲むような感じで、坐禅を続けているという面は否定できません。

 本当は、特別に何もしなくても、みんなきちんと生きていて、きちんと咲いているのです。
 けれども、自信をなくしてしまって、きちんときれいに咲いているのに、きれいに咲きたい、きれいに咲いているのを確かめたいと悩んでしまっているだけなのだと思います。
 私たちは、薔薇と違って、見ることができる目を持っていますが、自分で自分の姿を見ることはできません。
 鏡を通して見たところで、本当に、鏡が私たちの姿を映し出しているのかの保証はありません。
 だから、きれいに咲いていることがわからなくて、自信をなくしてしまっているのです。
 しかし、自分自身がどんな風に咲いているかはわからなくても、ほかの人がどんなに美しく咲いているかは、きちんとわかるように出来ています。

 私についていえば、私は、利己的であり、美しく咲いている人、幸福な人、成功している人に対して、嫉妬心を抱きます。
 けれども、そのことは、私に、他者がいかに美しく咲いているかを感知する能力があることを明確に証明しています。

 私たちは、自利の極大化を目指す競争社会に染まりすぎて、自分の中に備わっている慈悲の衝動を発動することが困難になっています。
 それは、他者を蹂躙して自利の極大化を目指しながら、慈悲を語ることの不遜さに対する嫌悪にも由来するのだと思います。
 私自身、十代の後半から二十代にかけて、露悪的に生きる方が望ましい生き方であるように思っていたことがありました。
 しかし、そのことは、同時に、謙虚さという慈悲を基礎づける性質が、私たちに確実に備わっていることの証明でもあります。 

 至らない私は、ほかの人を幸福にする上では、無力です。
 しかし、至らない私の持っている嫉妬心を基礎として、ほかの人がどんなに美しく咲いているかを知ることはできるのです。
 だから、きちんと咲いているのに自信がない人に対して、きちんと咲いているのだよと伝えることだけでもするようにしています。

合掌 英風 拝

【引用文献】
・田邊祥二『禅問答入門』67頁。アンゲルス・ジレジウスは17世紀ドイツの詩人。
・鈴木大拙『禅』42頁

 
【坐禅会のお知らせ】
*私は、(だいたい)毎週次の人間禅坐禅会で坐禅をしています。 
 私と一緒に坐りませんか(°∀°)
1 月曜日19時(初回1830分)から20時 
 場所:東京都台東区谷中7-10-10擇木道場 
 連絡先:TEL 03-3823-7647
2 木曜日1930分(初回1915分)から21時 
 場所:東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
*参加費1、2とも 初回(指導料込み)1000円、2回目以降 500円
【東京荻窪支部摂心会のお知らせ】
*私の所属する東京荻窪支部では、来る5月29日から6月2日にかけて第5回摂心会を実施いたします。
 会場は「善福寺清明庵」となります。
*伝法の師家による参禅(公案修行)の機会もあります。
 詳細は、後日お知らせいたします。
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
<善福寺清明庵のご案内>
 東京都杉並区善福寺3-8-5 清明庵
 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)

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