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擇木道場

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擇木ブログ - 201902のエントリ

生死

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/2/21 22:29
女性部座禅会では座禅後に輪読をします。
先日読んだ文章は「生死」という少々重たいテーマでした。
 
一番の大事は生死、、と禅ではよく聞きます。
生きることと死ぬこと。
いかに生き、いかに死ぬか。
考えても考えても考え尽くせるものではないように私には思えます。
と同時にごくごく単純なことでもあるのではないでしょうか。
生か死か、それだけのことですから。
 

 
間違った解釈かもしれませんが、生死を語りながらすべてのことを指し示しているのではないかとも考えてしまいます。
すべてのことを生死のように一大事としてしっかり工夫せよ、と言われたように感じる文章でした。
 
とにかく「今」を一歩一歩しっかり踏みしめていくしかなさそうです。
死ぬまで「今」を精一杯生きていこうと思います。
まずは一炷香坐りましょうか!
  合掌 翡翠
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数息観についての最近の思い(その5)
――数息観座禅の質的研鑽と向上(その2)――

 前回は、数息観座禅の質すなわち三昧の深さについて、数息の1から10までを厳密に雑念なしでやる数息観座禅を連続して5回やり切る、しかもそれを一日一炷香の中で日常的に達成する段階までの経緯をブログしました。
 先日仰月庵老師から、釈迦牟尼会(人間禅と同じ在家禅会)の罷参底の方にお目にかかった際にその方から拙著の『座禅の効用』の後半部分が良かったと評価していたということを聞きました。何処の箇所かなと云う懸念とこのブログに関連しますので、久しぶりに1年前に刊行した自分の『座禅の効用』を読みました。釈迦牟尼会の方に評価された箇所は、『座禅の効用』の146頁から176頁の「後期数息観」というところであろうと推察できました。新到の方にはレベルが高すぎるところですが将来の目標が明確になると思いますし、旧参の方にはなかなか熱く語っていますから(^▽^)、再読してください。
 上記の30頁の間(後期数息観)の最近の状況ですが、概念的には全くその当時(この箇所を書いたのは8年前です)と現在も全く変わってい無いことが確認できました。しかしそれを如実に実践してきたという自負の感慨はその当時には無かったことで、その当時はまさに数息観後期の境涯に初めて到達した高揚が文面からも窺えますが、今はそれを日常において普通に淡々と行じている違いはあります。
 数息観の10までを厳密に雑念なしに5回続ける中期数息観が数息観としては最上階(80点)であり、その上に後期数息観として呼吸を数えない二段階(前期後期)の只管打坐があるのです。その前段は息を数えないが呼吸に集中している正念息であり、後段は呼吸から離れ呼吸を全く意識しない忘息観です。
 実際に数息観座禅で後期数息観に挑戦されたら判りますが、中期の最上階(80点)までに到達していなければ、後期数息観(81点以降)は全く五里霧中に入って行くことになります。後期数息観の只管打坐の二段階(後期)も最初の正念息(前期)がしっかりできていないと第二段階の忘息観へは踏み込めないことがやってみれば判ります。
 拙著『人づくり肚づくりと禅』の211P「数息観法と只管打坐」でも触れていますが、臨済宗の数息観法は初期中期の修行者に最適であり、それを卒業した者には更に上の曹洞宗の只管打坐が位置づけられている、と見たら良いと考えられます。しかし同時に数息観の初期中期を経ずに只管打坐をやっても脱俗出家して僧堂に入らない在家者にとっては人間形成として着実に向上して行くことは極めて難しいものです。したがって一般的には、臨済宗の数息観から入って行き上り詰めたら曹洞宗の只管打坐で更に上に進むと云うのがスタンダードだと思います。
耕雲庵老師が人間に生まれて来てつくづく良かったと述解されている境涯は先に述べた忘息観(只管打坐の後期)であります。ここに人間形成の醍醐味があり、『立教の主旨』第一段の「本当の人生を味わう」境涯になるわけであります。これは理では風大級以上の旧参の方々には判り読めるところですが、境涯として事として到っている人は何人おられるでしょうか?というところです。
 最近の一日一炷香の中でのことですが、10まで息を数える数息観と呼吸は意識するが数えない正念息を交互にしっかりできたら81点にし、正念息だけである程度の時間が安定してできれば82点にし、忘息観から宝鏡三昧の境地にまで到れば83点としています。83点はまだ月に何回しかない程度ですが日進月歩していますので、漸次それが定着して行くものと楽しみにしています。合掌
春潭 拝 
 
※葆光庵丸川春潭老師著「坐禅の効用」「人づくり肚づくりと禅」はAmazonで発売中です。
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※耕雲庵老師の「数息観のすすめ」は擇木道場までお問い合わせください。
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数息観についての最近の思い(その4)
――数息観座禅の質的研鑽と向上(その1)――
 前回は、一炷香の中身の解析(その2)として、一日一日の数息観座禅において、三昧レベルが自分の上限レベルに達するまでの時間をだんだん短くする努力をしていると云うことをブログしました。
 今回はいよいよ数息観座禅の質すなわち三昧の深さについて詳細に点検して見たいと思います。
 大分以前に小生よりも若い師家方10名ほどに一週間の数息観評点付けをお願いしその結果を集約したことがあります。その結果は平均点が68点くらいでした。そして平均点が70点(一炷香の間に1から10までをちっらとした雑念をも交えないで完璧に数息できた評点)を超えた師家は10人の中一人しかいませんでした。もちろん主観評価ですがこれが数息観評点の原点にしても良いかなと考えています。 またこの師家の中の一人が、最近初めて10まで完全無欠の数息観ができて思わず万歳したと云う話をしてくれました。私はこの御仁は数息観を真剣にやっており真の禅者であるとその時 認識しました。
 これらの師家方は皆さん修行歴30年以上の臨済正脈の嗣法者ですが、数息観の評点は実にこんなものであります。すなわち厳密な数息観は先ず70点が目標だと考えたら良いということです。新到者の方々には緩い基準で評点がどんどん上がり日進月歩の記録が見えるように指導してきていますが、旧参の方々はだんだんと厳密な基準にして行き三昧の質の向上に真剣に骨を折って頂きたいと思います。
 小生の経験では、1から10までを一回達成する次の目標の二回連続達成に大変骨を折りました。一回だけなら何回でも一炷香の中で達成できるのに2回連続となると全然できない。毎朝の一炷香で二回連続を真剣に挑戦し続けて1年近く掛かりました。この二回連続が数息観修練の大きな壁でした。しかしこれを真にクリヤーできると三昧レベルが一段と深まり三昧が身に付いた実感がありました。
 その後の目標である5回連続までの道は、それほどの困難はなく半年くらいで達成できました。ただ一日一炷香の中で毎日5回連続を達成するのは容易ではありませんでした。ほぼ日常的に5回連続ができるようになるまでには5年以上かかったと思います。これを拙著『座禅の効用』の150頁では数息観上級とし、耕雲庵老師の『数息観のすすめ』では中期の最後と位置づけられています。。(つづく)
春潭 拝
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坐禅を続ける意味

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/2/15 19:17

風印と申します。
私は4年近く道場に足を運んでいない幽霊会員ですが、大変久しぶりにブログに投稿させて頂きたいと思います。

坐禅を始めようという方は人間関係など何らかの悩みを抱えていらっしゃることが多いのではないかと思います。私もそうでした。
では、坐禅をすることですぐに人間関係が改善するかといいますと、全くそんなことは無いと思います。
有名な禅問答で、「仏とはどういうものか?」と問われた禅僧が、「糞かきベラのようなものだ」と答えたという逸話がありますが、坐禅をしたからといって偉いわけではない、坐禅など取るに足りないものだと思います。

それでは、毎日朝早く起きて足が痺れるのも我慢し、他にやりたいことを捨て置いてまで、なぜ坐禅を続けるのか?
禅は無功徳という言葉がありますが、坐禅は何かを求めるためにするものではない、何かを手放すためにするものではないかと思います。
私の場合、人間関係に悩んで仕事に行きたくない時も、坐禅をすることで恐怖心が和らぎ、仕事を続けることができました。
また、仕事上必要な勉強をしようと思っても、ついついスマホを見てしまったりすることも多かったのですが、そのような時間も減ってきたように思います。

坐禅は無駄な時間のようであっても、私にとっては大きな力になってくれていたということに最近気づきました。
私は毎日45分坐禅や瞑想をしていますが、続けているうちになんだか楽しくなってきて、最近は45分では物足りないと思うこともあります。

幽霊会員の私が申し上げるのもどうかと思いますが、擇木道場は誰でも気軽に坐禅をすることができる場です。茶道やその他の催しもあります。
泊まり込みで本格的な坐禅体験をすることもできます。
他の会員の方にはお前が来いよと怒られそうですが、是非擇木道場に足を運んで頂けると幸いに思います。

風印 拝

 

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Zen: light on the path of life

カテゴリ : 
English
執筆 : 
擇木道場 2019/2/13 23:14


In the deepest darkened life journey part
There is time and place
A moment opened like a slit
From where you can have light
The light that does not goes far too away
But is enough to move next step
And there are people
To whom you cannot see
But they are there to hold your hand
To let you move and go on
And go on …
And go on …
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数息観についての最近の思い(その3)
――一炷香の中身の解析(その2)――
 前回は日常での数息観座禅の中での三昧レベルの変化に注目し、中期の雑念が盛んで三昧レベルとしては低い状態が最後には雑念が減り三昧レベルが上がるという実感が大切であり、これが一日一炷香実践の駆動力となるということをブログしました。
 今回は、一炷香の中身の解析(その2)として、三昧レベルが上がるまでの時間について小生の過去の経験から検証してみたいと思います。
 前回に書きましたように雑念だらけの現状が数息観によって少なくなり三昧レベルが向上できるまでの時間が一炷香(45分間)内でできなかった時は一炷香をやった意味がないように思いむなしくなるわけです。最後の5分間だけでもいいから改善したという実感が必要であり大切なのです。小生の記憶でも最後の5分間で何とか10まで数息できたという時期がずいぶん長かったように思います。
 2、3年ほど前から、三昧の深さを更に掘り下げる努力と平行して数息三昧が軌道に乗り始めるまでの時間を如何に短くするかの努力をしてきました。小生が学生時代に耕雲庵老師の侍者をしていたときの老師の起床は、先ず午前5時50分に6時10分前ですと申し上げ、6時丁度にまた6時を告げに行くと老師は起きられ溲瓶を下げてトイレに行かれる。侍者は急いで布団をたたみ部屋を簡単に掃除して下がり、次に6時半に線香を持って参禅のお願いに行くと丁度読経が終わり、参禅室に入られるという流れでした。この流れで行くと朝の老師の数息観座禅時間は正味15分ということになると思います。すなわち耕雲庵老師は15分以内で数息観三昧のピーク達成をされていると考えました。これが小生の目標で数息観三昧の軌道に乗る時間を短くする課題に挑戦したのです。
 80歳近くなった最近において睡眠時間と夜間の小水量と体のむくみが密接に関係していることが判り、夜はできるだけ早く就寝し朝はできるだけ起床の時間を遅らせるようにしており、その為に朝の座禅時間が30分を切る事態になったと云うこともあって、この課題に鋭意取り組んできました。
 その結果この1年くらいで大体30分以内でピーク達成が可能となり、今年に入ってからは20分以内でも可能になってきております。在家禅者にとって一日一炷香は命というものであり、深くの努力を日進月歩で続けなければならないのですが、忙しいのを言い訳にせずに逆に追い風にして、深くを短く達成する修練として挑戦して頂きたいと思います。
春潭 拝
 
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数息観についての最近の思い(その2)
 
――一炷香の中身の解析――
 
 前回は数息観評点記録によって座禅の三昧がマンネリにならず着実に向上するというお話しをブログしました。
 今回は、もう少し綿密に座禅の中身を解析し、一炷香(45分間)の座禅の中での三昧レベルの変化について見てみたいと思います。一炷香の座禅の経過時間と共に三昧が深まり、数息観の評点が段々と上がるのが正常な座禅行です。この正常な座禅行においてもつぶさに見ると、最初は雑念が余り発生せずに推移する初期の段階が短くあり、次に雑念が激しくなりまたしては最初の一に戻ってのやり直しの数息を繰り返す中期の段階になる。そしてこの数息観での中期において意思の力を振り絞って雑念に打ち勝ち数息に引き戻し引き戻しして段々と数息観が雑念に打ち勝って軌道に乗ってくる。これが後期の段階です。これが正常な座禅行のパターですが、皆さんはどういうパターンになっていますか?中期の段階で一炷香が終わって末期まで行かない人が多いのではないかと危惧します。自分も若い頃はそうだったように思います。この末期の段階が欠けている間は、数息観をするのは苦しいはずです。そして一日一炷香を継続するのがしんどいと思います。この時期を何とか頑張って少しでも後期の段階が出るまで辛抱して数息観の座禅行を継続しなければいけません。ここでは絶対値即ち三昧のレベルは何も問うてはいません。ただ相対的に中期の雑念が激しいレベルが少しでも収まるレベルが出てくればしめたものです。即ち中期と後期のレベルに差があることが確認できれば、座禅行をやった甲斐があったと自己肯定ができます。そして責任ある仕事を大勢の部下を使ってやっている人は、みんなのために少しはましな自分(心が定まり定力が付いた状態)にしておくために朝の座禅行は欠かせない気持ちになり、自ずと一日一炷香が継続される。お医者さんや学校の先生も似たような立場で、他のために今の自分を整えて精一杯対応するという気持ちで一日一炷香をする。また今日は試験があるとか試合があるとか自分の実力を発揮したいという日には、数息三昧のレベルの如何は問わず末期をしっかり行取してから出掛けるということになる。このように何もしなければ雑念だらけである自分を、自分のためにもみんなのためにも雑念だらけを少しでも下げ、心を少しでも整えてから出掛けようとする。これによりより充実した日送りができるとともに、これが継続されて半年一年が経つにつれて、数息観三昧のレベルも少しずつ深まり人間形成が自然に積まれて行くということになるということです。
 皆さん如何ですか?感想コメント歓迎です!
春潭 拝

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数息観についての最近の思い(その1)
数息観評点によるマンネリ打破
春潭 
 
 座禅における数息観法は臨済宗が主として採用している三昧を深める方法(ソフト)であり、座禅を始める人にとってもまた人間形成の禅の究極を究めるためにも極めて有効なソフトです。
 耕雲庵老師を始めとし歴代の師家方が円了茶礼の垂示で、異口同音に一日一炷香の数息観座禅をするようにと説かれておられます。まことにその通りでありその数息観座禅を365日、一日に30分なり45分実行することは必須ですが、そこまでの言及にほとんどの場合止まってきました。すなわち一日一炷香の実践の中身すなわち数息観三昧の質についての言及はほとんどなく、わずかに磨甎庵老師が一日一炷香に精彩をつけよ!と云われたことが一,二度あったくらいで、その質については基本的に本人個人に委ねられてきました。そのため小生もそうでしたが、長年修行をしているものは一日一炷香の座禅が実践はされるがマンネリになってレベルの向上がなされないのが実態ではなかったかと思います。
 すなわち座禅の数息観の実践はあくまで個人の内面に向かっての修練「行」であり、その三昧のレベルについては外からうかがい知ることはできませんし、自分でも座ったかどうかとか何分坐ったかくらいで日進月歩の一日一炷香にはほど遠いのが実態ではなかったかと思います。
 そこで考えついたのが数息観の評点付けですが、これはNHKの「ためしてガッテン」という番組で肥満抑制のために体重を朝晩計測し記録を見えるところに張るというやり方です。これだけで何も食べないように節制したり我慢したりすることなく自然に着実に健康な体重が維持できるという放映が切っ掛けでした。
 ただ三昧というものは体重のようなデジタルな数値とは真逆のアナログなジャンルのことで、三昧のレベルを評点するなどという発想は非常識であり、歴史上も初めてのことでしょう。
 主観評価ですから他人と比較するべきものではないのですが、自分だけの評点としては相対評価が可能です。すなわち日進月歩が自分流の評点基準で可能になりマンネリを脱却し人間形成のツールとして大変有効に使えることが、自分でやってみての驚きであり想定以上でした。しかもやり出した当初は、一ヶ月ごとに評点基準をより厳しく設定し直してやるくらい三昧の評点(質)が向上しました。それまでの40年の座禅修練が無駄ではなかったとも思えたし、毎日の数息観座禅を挑戦的に取り組めるようになったのは有り難いことでした。まったく、ためしてガッテンに感謝です。詳細なやり方は昨年刊行した2冊の拙著の巻末にも集約して掲示していますので参考にして頂ければ良いと思います。是非一日一炷香を、数息観の評点付けをすることによって、人間形成の力にしてください。合掌
 
 
※数息観評点表については下記をご覧ください。
 

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有楽流 「阿吽の構え」

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/2/2 0:18
翠松です。

お正月に藤田法照さんが「阿吽の呼吸」について投稿しておられましたが、人間禅道場に伝わる有楽流茶道でも、「阿吽の構え」ということを致しますのでご紹介します。

 

日本座をする際、両膝を女性はひとこぶし程、男性はふたこぶしほど開けて背筋を伸ばし姿勢を正して坐り、両手を膝に乗せますが、その時に有楽流では掌を上向きにして指を軽くまるめます。そして左手はしっかり閉じます(人差し指、中指、薬指、小指の4指をそろえてまるめ、親指を人さし指と中指の接触部の先に軽く当てます。すると楕円形ができます)。右手は少し開けます(親指を人指し指と中指に触れさせません。かすかに開けておきます。閉じてはいない楕円形が出来ます)。これが「阿吽の構え」です。

「阿吽の構え」は座禅の時の「法界定印」に由来するそうです。客も亭主も、この構えをするのが基本です。が、長時間になり疲れた時には、阿吽の構えを解いて、次のようにしてもよいのです。左手を掌を上にして膝上・へそ下に腹に触れるようにおき、その上に右手を掌を下にして重ね、互いの手の甲を、揃えた指で包むようにして軽く組みます。

 

お辞儀をする時には、男性は両手を「阿吽の構え」の形のまま両脇に下ろして畳につけます。自然に上体が前に傾きます。女性は五本の指を揃えて真っ直ぐにして両脇に立て、畳に触れている中指に体圧をかけます。すると上体が前に傾きます。その形がそのまま有楽流のお辞儀になります。肘を曲げて、上体・頭を殊更それ以上下げる必要はありません。肘は曲げません。このお辞儀の仕方は、袱紗を右の腰につけることと共に、武家流らしさの現れている一面です。

 

この「阿吽の構え」とお辞儀の仕方の結果として、基本的に、点前中に衣服や床に掌をつけることはありません。(最初の総礼の前に居住まいを正しますが、その時に衣服の乱れを直すためにちょっと裾に触れることはありますが。)この「阿吽の構え」とお辞儀の仕方は立礼席での椅子の時も同じです。

 

「阿」はサンスクリット語のアルファベットの最初の音、「吽」は最後の音を表すそうです。日本語の五十音も同じですね。「あ」と発音する時は口が開いています。「ん」と発音する時は口が閉じています。

右手を「」形に開けているのは、これはいつでも働き出す用意のあることを示します。臨機応変の働きをする手です。左手を「」形に閉じているのは何事にも動じない絶対の不動を表します。

けれども、右手と言い、左手と言っても両者は決して無関係の別物ではありません。胴体でつながっています。両者は相関関係にあり表裏一体ともいえます。不動の心の支えがあってこそ、臨機応変の働きができます。また、臨機応変な働きに支えられてこそ、不動は堅固たりえます。

右手と左手との関係を動と静、慈悲と智慧、相対と絶対、無常と常などと言いかえてもよいかもしれません。宇宙の終わりと始まりとする考え方もあるそうです。

右手と左手を合わせて一つにした形が合掌です。(点前中、さしあげたお茶を召し上がった後、合掌されるお客様がおられますが、その時に私はお辞儀でなく合掌でお答えしています。)

 
 45年前の最初の擇木茶道部の稽古の時にお習いしたこの「阿吽の構え」を私はこのように捉えて実行を心がけお伝えしています。      合掌 擇木茶道部  林 翠松
 

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座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/2/1 16:50

1月31日 木曜夜座禅会

 

初めての参加  0人

2回目以上参加 3人

会員      2人

 

天気予報では夜から東京も降雪、夕方からは冷たい雨が降っていた。寒かったので今日は会員だけの座禅会だと思っていたが、一般の方が3人も来られた。もし道場が開いていなかったら、無駄足を運ませたことになり擇木道場の印象が悪くなっただろう。雨や雪が降っても座禅会を開催していることの大切さを感じた。

 

5分休憩を挟んで、23分の座禅を2回、読経『般若心経』『坐禅和讃』

終了後は居士寮で20分程度の茶菓子で座談会を実施した。質疑の後、 

擇木道場100周年記念品『今北洪川禅師から山岡鉄舟への手紙』の

P24-28を読んだ。

両忘庵釈 宗活老師、擇木道場と耕雲庵立田英山老師の関係が生き生きと描かれている。

 

2/2からの摂心会と2/3の講演会を案内した。龍泉
 

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