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擇木道場

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当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

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擇木ブログ - 201901のエントリ

先日、初めて擇木道場に座禅に来た方がいました。

正月気分が抜けきらないときに座禅をしたいとはいったいどんな理由があるのか気になってしまいます。

 

その方はお寺さんでも座禅をしているらしく、でもそのお寺さんも正月は座禅会がないそうで「坐りたくてうずうずしていた」のだそう。

 

以前の私なら「じゃー、家で独りで坐ればいいじゃん?」と思ってしまうところ。

でも、そうではないのだということが最近わかってきました。

座禅に出会う前や座禅を始めたばかりでは感じ取ることのできなかった「場の空気」が仄かにではありますが感じられるのです。

 

擇木道場は長い歴史のある座禅道場です。

先輩方が作り上げてきた「場」であり、大勢の(たとえ3人でも)坐りたい人が集まって作りだす「場」。

眠くたって「よっしゃ!坐るぞ!」と気合が入るような、摂心会にも劣らないほどのぴりっとした心地よさが感じられるものなのです。

擇木道場は皆で座禅がしたくなる、そんな道場だと私は思っています。

 

座禅をしたくて、坐りたくてうずうずしている方、ぜひ擇木道場へお越しくださいな。

ちなみに22日(土)から29日(土)までの一週間は摂心会期間ですので、否応なくぴりっとした「場」を感じることができますよ。

  合掌 翡翠
 

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参禅について(荻窪禅会ブログ)

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/1/29 22:52
 昨年7月に、葆光庵春潭老師に入門をさせていただき、以後、楽しく参禅をさせていただいております。
 見解が透過しないときでも、毎回自分なりに発見のあることなどが面白いのですが、少し違和感を抱くことは、私が「参禅が楽しい」などと言うと、若干驚かれる方の多いことです。
 違和感を抱く理由は、どこか楽しむ余裕がないと、禅は、「今、ここ、自己」が大切なのに、将来の成果のために、「現在、ここにいる自分」を犠牲にすることになってしまうのではないかという気がするからです。
 とはいえ、「参禅を楽しむ」という言葉だけでは、何か「ふざけている」とのニュアンスで伝わってしまう気がして、何かよい言葉がないかと思っていました。
 そうしていたところ、インターネットで、坐禅を紹介する記事を見たときに、坐禅を「嗜み」としてやるという言葉を目にしました。
 「嗜み」……よい言葉だと思いました。
 茶道や俳句などといった日本の技芸は、一生真剣に取り組む「道」ですが、「楽しむ」ものでなければそもそも存在する価値がありません。
 禅は、「楽しめない」部分も含めて「味わう」態度が大切ですから、そのまま当てはまるものではないとも思います。
 しかし、少なくとも、「現在、ここにいる自分」を犠牲にしてしまうような態度よりはよいのではないかと思うのです。
 人間禅では、茶道や俳句などもやりますが、同じような態度で、参禅に取り組んでもよいのではないでしょうか。
 
英風 拝
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酔生夢死

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/1/28 4:57

酔生夢死とは?

 

日中は仕事を適当にこなし、後は早く酔って憂さを消す。

休みの日は有り金でギャンブルに行くが、すぐに使い果たし、後は不貞寝。死ぬのは怖いが、死ぬまでの時間が鬱陶しい。酒と雑事で死を忘れ、漫然と過ごすうちに、やがて死ぬ。

「酔生夢死」と言ったら、こんな生き方のことかと思っていました。

 辞書にも、「何も価値のあることをせず、ただ生きていたというだけの一生を終えること」とあります。

 しかし、実は少し違うようです。

 出典は、中国北宋の大儒学者「程顥(ていこう)」の語録。

「高才明智といえども、見聞に膠するは、酔生夢死して、自ら覚らざるなり」

から来ています。

 要は、どんな秀才であっても、授業で聴いたこととか、本で読んだことだけに捉われていると、何となく生きて死ぬことになるよ。このことは、自分では気づきにくいことだよ。といった意味のようです。程顥は、日本に禅が伝えられる前の中国禅に大きな影響を与えたと言われる「荘子」の影響を受けた人と言われているようです。

 そのせいか、程顥は、様々な自然現象を成り立たせている働きを「理」と呼び、理は直観によって把握すべきであるとして静坐(=坐禅)に打ち込んだ人のようです。朱子学にも大きな影響を与えています。

 朱子学と言えば、朱熹(=朱子)ですが、その偶成という詩から有名な訓言が引用されています。

「少年老い易く 学成り難し 一寸の光陰 軽んずべからず」

 学生の頃に、一生懸命勉強しなければだめだよ、という時に引用されたような気がします。

 ところが、この詩は、実は日本の室町時代の臨済宗の禅僧が書いたもののようです。

 すると「学成り難し」の意味がまるで違ってきます。一刻も早く修行を成就させ、生死の迷いから抜け出し、素晴らしい人生を過ごしなさい。でも早くしないと、死の恐怖を克服できないうちに命が尽きてしまいますよ。といった感じになります。

 いずれにせよ、デカルトやベーコンなどの西洋哲学の大きな影響を受けている現代では、観察と実験を重ね、科学的に解釈ができないものは学問ではないという扱いを受けがちです。「絶対樹と相対樹」で言えば、相対樹しか見てこなかったわけです。

 ところが、私達は最大の難問である「自分の死」についても理解することは困難です。死の床にあっては、死は未来のことで経験できません。死んでしまったら喋ることができないので、死の経験を後世に伝えることはできません。このような人生の問題は「絶対樹」を磨いて充実させていくしかないようです。

 そして古来の哲人が絶対樹を充実させることこそ、学問であると捉えていたことは改めて着目すべきことのように思われます。 日峰

 

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工夫について

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/1/25 10:40

20日日曜日の擇木茶道部は、接心会円了日にあたり禅子寮にて稽古を致しました。
 
禅子寮は炉をきってあり、お炭をこします。
当日、私は自身の所用にて午後から稽古に参加したため、師がすべての準備をしてくださいました。(申し訳ないです・・・
水屋のしつらえ、衝立を用いての茶室の支度、お軸花、客の導線など、
師の工夫ですっかり整えられた茶室で点前の稽古です。(感謝です)
 
いつもと違う空間での稽古は良いもので、臨機応変に創ることの面白さも学びました。
 
【工夫】
中国の宋明学(朱子学陽明学)で多用された語。
   良い方法や手段を見つけようとして、考えをめぐらすこと。またその方法や手段。「新しい方法を工夫する」

   仏道修行などに専念すること。特に禅宗で座禅に専心すること。
 
遡れば小学生くらいから、「各自工夫をしてみましょう」と促され
夏休みの計画を立てたり、料理の盛り付けや彩を考えたり、箪笥の引き出しの
整理を行ってまいりました。
 
そして人生の今に至って初めて「工夫」に第二項目があることを知りました。
 
2
2日から東京支部の接心会がはじまります。
ここでは役目に対する①の工夫、参禅する②の工夫が、擇木道場にたくさん飛んでいるのかと思うと身も引き締まりますが、想像して楽しくなります。合掌 妙翠
 
 

 
 
 
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こんにちは。泉 玉水です。

 

毎日、「ありがとう」を意識して使っていますか?

 

昨年末、長年使っていた、我が家の炊飯器が壊れました。

保温はできるのですが、炊飯ができません。

 

思えば、私が嫁いでからずっと朝晩と働いてくれていました。

その存在の有難さに今しみじみとしています。

 

言霊とはよくいいますが、

「ありがとう」とその対象に手を合わせ、

大切に使っていると、モノにも心が宿るような感じがします。

 

 

さて、今回の禅フロンティアの内容は、前回に引き続き、LGBT(性的マイノリティ)と学校教育についての内容です。

 

実際の学校現場でどのような問題がおこっているのか。

思春期の子供たちのセクシュアリティに焦点を当てながら、

生きづらさを感じている子供たちに対して

私たちはいったいどのような態度をとれば良いのか考えてみたいと思います。

 

---【内容】---------------------------------------------------------

68回 禅フロンティア:「性の多様性」と「禅」

―人間の性は何通り? セクシャリティについて考えて見よう

--------------------------------------------------------------------

 

 

ゲストにお迎えする津吹先生は最初は教員として、

その後は相談員としてずっと教育の現場に身を置いて来られました。

 

子供たちの悩みの相談を受ける中でその中に潜む性の問題に注目され、

相談業務の傍ら、性教育の専門家として学会活動や講演活動を行っておられます。

 

今回のフォーラムではまず、「人の性を決める 4 つのセクシャリティとは何か?」という問いが発せられ、

参加型アクティブラーニングの形式で、セクシャリティについての理解を深めていきます。

 

後半では、「もし、性的マイノリティの当事者から相談されたら、あなたはどうしますか?」という問いに対して、

それぞれのセクシュアリティごとの事例を元にグループワークを行う予定です。

 

私たち、禅に関心を持ち、禅を学び行ずる者は、他者の悩みを我が事として生きていきたいものです。

 

今回のフォーラムでは性の多様性をテーマにしながら、私たち自身の生き方にまで踏み込んでいけたらと思っています。

 

<講師>津吹哲男

演者略歴

千葉県教育庁東上総事務所嘱託教育相談員、千葉県公立中学校スクールカウンセラー、千葉思春期研究会理事、

日本思春期学会性教育認定講師、思春期保健相談士

司会: 光永道虔(医師 禅修行歴29年)

 

 

 

 

---【内容】---------------------------------------------------------

68回 禅フロンティア:「性の多様性」と「禅」

―人間の性は何通り? セクシャリティについて考えて見よう

--------------------------------------------------------------------

 

126日(土)

受付:14時30分

フォーラム:15時から16時45分 (お時間おまちがえなくお越しくださいませ。)

座禅会:17時~18時15分

費用:2,000円 ※初めて座禅をされる方は指導料として別途500円(テキスト代含む)

場所:人間禅擇木道場 日暮里駅南口徒歩3分

 

 志ある方は一般の方でも正脈の師家(老師)に参じることができます。

ご希望の方はスタッフまで

 

◆予約

/jump/frontier_info.html?v=67

 

 

◆ニュース

/jump/frontier_reserve.html?v=67

 

 

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本日も最後までおつきあいくださり、ありがとうございます。

ご一緒できます事を、楽しみにしております。

玉水 拝

 

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路遙かにして馬の力を知る(その3)
春潭
 人間禅の創始者耕雲庵英山老師の揮毫された「路遙知馬力歳久識人心」(路遙かにしてその力を知り、歳久しくして人の心を識る)を拝見しながら、まことにその通りだとしみじみ噛みしめていることを二回のブログで書きました。
 もうこのタイトルでは終わりかなと思っていましたが、岡山禅会と豊橋禅会の摂心会(注1)をしている中で、もう少し書き残しておきたいと云う思いが湧いてきましたので(その3)を書きます。
 80歳近くになっても一日一炷香が日進月歩で深まる感覚が、そのまま学人との商量(参禅時(注2)のやり取り)にも変化をもたらせ、また公案(注3)の見方もまさに数息観の深化に比例して深く見られるようになって来ていることに気付いたのです。
 かって自分が透過(注4)した公案が浅い見方であったと云うことが判る。そういう公案が次々に学人の参禅を受けながら見えてくる。公案の見解(注5)と云うものは、文字で表現できるようなリジッドなものではないのです。世に公案回答集なるものも出回っていますが、公案に対する答えを知っても何の役にも立ちません。公案に対する人間の境涯が浅ければ浅くしか見えないし、三昧が深くなり境涯が深まれば公案は深く見えてくるものなのです。
 すなわち何歳になっても公案を日進月歩で深めてゆくのが人間形成の禅(人間禅)の真骨頂であり、この柔軟且つ新取の気風こそが将来にわたって我々の誓願が進展していく必須条件であると認識を深くしています。
 新到者の方には今日のブログは、東京から富士山をチラッと遠望するような話になったのではないかと思いますが、この事の修行というものは死ぬまでの壮大な大事業であり、人間に生まれて来た甲斐があったというような素晴らしい人生がこれから先にあるのだということを腹に入れて、100歳時代に希望を持って進んで頂ければ幸甚というものです。(完)
 
 

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路遙かにして馬の力を知る(その2)
春潭 
 人間禅の創始者耕雲庵英山老師が喜寿の時に小生は「路遙知馬力歳久識人心」(路遙かにしてその力を知り、歳久しくして人の心を識る)という漢詩の書を拝受し、その意味するところが最近になってようやく判り、感激していると云うことを前回のブログで書きましたが、その続きです。
ここではどう判ったのか?そしてどうして感動しているのかについてのお話しです。
 小生は今年3月30日の誕生日で満79才になります。人間禅に入門したのが19歳の時でしたから修行歴満60年ということになります。そして歴代の総裁の提唱を聞いて異口同音におっしゃっていた言葉が「一日一炷香を実践するように!」でした。すなわち365日×60年=約20000炷香+摂心会(1000回)と途方もなく座禅をやり数息観をやってきたのですが、最近も著しく三昧が深まったと自覚しています。すなわち未だに日進月歩で進化している感触があるのです。すなわち年を取れば取るにつれて留まることなく人間形成は進化するという実感です。
 耕雲庵老師が「路遙知馬力歳久識人心」を書かれた頃と小生もほぼ同じ年齢ですが、師家の在任期間は40数年と14年で雲泥の差で比肩するのもおこがましいことですし、その人間形成のレベルは言うに及ばずですが、そういうことではなく同じことは、年を取ってもさらに進化するという実感の共有であります。その証左が、まさに「路遙知馬力歳久識人心」(路遙かにして馬の力を知り、歳久しくして人の心を識る)なのです。今、目の前の床に掛かっている掛け軸です。
 現代は人生100歳時代です。更に寿命は伸びるでしょうが、死ぬまで進化し続け、より深く人の心を識りたいものであります。合掌
 

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調身(座相)について

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座禅ブログ
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擇木道場 2019/1/20 17:24
 昔、母がお経を上げていたという記憶があるくらいで、仏教にほとんど縁のなかった私が、座禅を始めて早二年たとうとしている。
 目下のマイブームは「調身」である。毎日、試行錯誤の日々であるが、このところ左右対称の感があり、少しずつ身体の位置の収まりが良くなりつつある。そうなると、心も落ち着き、気持ちも良くなる。これが道元の言う「座禅とは安楽の法門」かと、間違えそうな気配。小さい時、早合点と言われた私のこと。どうぞ、錯覚で終わりませんように。
(香春)
 

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インドの正月

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/1/20 10:28

吉祥天の蓮華座(アルパナ)

 

12月半から1月半はインド暦ではポーシュ月、吉祥天(ラクシュミー)が地上に降りている月です。この頃は、暑くなく過ごしやすいので私と主人は、仕事のため毎年インド西ベンガル州の農村に滞在しています。友人の家の敷地に15年前に我々の工場と部屋を建て、ここで何不自由なく生活させてもらっています。主人は年のうち半分、私は二ヶ月ほど滞在しています。インド、西ベンガルとの関わりは46年になります。学生(タゴール大学留学)の頃からです。また、この頃は初めて擇木道場にお世話になった時とも重なり、もうそろそろ一生の関わりと言って良いでしょうか。

日本で正月を過ごせない分、この吉祥天の儀式が私の正月になっています。この日はポーシュ月の終わり、家に吉祥天を招き入れ、座ってもらうための蓮華座の模様を描きました。無心になって、皆の幸福を願います。友人が私に描いて欲しいと願うので、それに答えて始めたことが、つい毎年の恒例になりました。この日は女神が地上にいる最後の日でもありもあります。家を飾り、夜には餅の菓子を皆で作って食べ、友人の家族と共に楽しい時を過ごしました。

村の少女たち(初潮を迎えた年頃の)は夜通し歌い、自らの幸福な結婚を願い祈ります。夜明け前になると彼女たちは短いワンピースから美しいサリーに着替え、土器の灯明を頭に乗せて列になって歩いて行きました。薄暗い中、池の端で祈り、冷たい水の中にゆっくりと頭まで浸かって水面に灯明を浮かべました。吉祥天に願掛けをしたのです。その灯明の土器が静かに浮かんで流れる先、霧の中に薄っすらと朝日が昇り、灯りが見えなくなりました。その幻想的な一瞬、私は吉祥天が確かに昇天したように思いました。

私はヒンズーの神々を信じているわけでは無いのですが、何故か彼らの中で居心地が良いのです。彼らヒンズー教徒の神への崇拝、あるいは祈り、約束、期待、甘え、疑いのない思いが、生活の安心感と人への信頼感、自らを動かす力になっているように思えるのです。
西岡由利子 拝

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 

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私は雑巾?

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/1/19 18:26
年末の徹宵座禅会が終わって、年末年始の慌ただしさも一応過ぎたところですが、今度は早くも次の摂心会です。この前の摂心会では、個人的には「なりきる」事が課題というか、難しいというか、興味深い点でした。
 
人間禅に入会した頃、摂心会での作務で、[なりきるって?]と、先輩に尋ねたところ、「雑巾になりきる!」とのお返事。「え~、私は雑巾か?」と???が、頭の中をぐるぐる巡ったことを覚えています。
 
禅の世界では、日常の作務をとても大事にします。生活すべてが、「今、ここ」の修行の機会となるからです。(と、理解しています。)
止と観が切り離されず、その作業に全身全霊を込めて取り組みつつ、溺れず、観察(覚醒)していること。
私が禅とは縁の無い暮らしをしていた頃、庭の草むしりをしながら、次々湧いてくるどうしようもない感情を持てあましたり、想念を振り払おうと、体力の限界まで頑張ってその爽快感で、自分を一時的に誤魔化したりと、何と無駄な不毛な時間を費やしていたのかと、今思うと呆れるばかりです。
 
数息観を習うようになり、こうして頼りない足取りながら何年か続けて行く内に、無駄な感情に振り回されることも少なくなり、心が徐々に軽くなっている今日この頃です。
雑巾になりきるって楽しいですよ!
 
先ずは、一緒に坐ってみませんか?
お待ちしています。
 
妙玲拝
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