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擇木道場

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東京都台東区
  谷中7-10-10
TEL 03-3823-7647

当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

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擇木ブログ - 201608のエントリ

心印です。

 

この日は新しい方はカロリーナさんのミートアップから3名、ホームページから3名いらっしゃいました。

 

先週は座禅を教えるところをビデオに撮ったので英語クラスと日本語クラスに分けましたが、今週はビデオは撮らなかったので、クラス分けせずに進めました。この場合、私が一言説明すると、カロリーナさんが通訳されるのです。

 

座禅の仕方のビデオは毎日少しづつ、編集を進めていますが、まだ1ヶ月はかかりそうですねぇ・・・


さて座禅を教えて禅堂に上がると既に常連さんで2列になっていて、新しい方が入って3列になりました。とてもありがたいことです。



禅堂で3列になっている図です。警策をふるっているのは魁星さんです。魁星さんの警策はビシッと決まる感じがしてなかなか気合いが入ります。勉強会で魁星さんはベテランの警策は味が違うので、そういう助警を目指しているという話をされていました。


さて座禅後には勉強会をやっています。最初の説明は30分しかなく、座り方と数息観しか教えられず、肝心の気持ちの持ち方とか、座禅の行の進め方などを話すことができず、初心者は往々にして間違った座禅をしがちなのです。


間違った座禅では効果がないので次第に遠ざかってしまうことになります。それを少しでも防ごうと毎回、勉強会をしているのですが、こんなことをしているのは人間禅だけです。


人間禅に入会する前、お寺の座禅会をあちらこちら回っていましたが、初心者向けの勉強会をしているところは皆無でした。その代り、無門関や臨済録の提唱をされているお寺はあったのですが、禅の知識がほとんどなかった当時の私はでは理解不能でした・・・

 

心印 拝


 

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8月24日 さいたま参禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2016/8/26 10:38

26回目の参禅会も老師のご指導と、暑い中おいでいただいたみなさんのおかけで円了することができました。ありがとうございました。

 暦の上では、823日が「処暑」で87日が「立秋」。暑いのがそろそろ終わる季節の変わり目なのでしょうか? こんなころは、身体の疲れが出たり、気持ちに変化を起こしたりします。身体と心は不可分ですから当然ですね。

過去、その浮かれたままの気分や沈んだままの気持ちのままに判断して、失敗を数々してきたことを思い出します。重要な判断は一晩おいてと言いますが、自分が正しい判断ができる状態になるには、一晩といわず、もう少し時間が必要な時の方が多いのではないか、とも思います。

長い人生でも、季節と同じように変わり目がありますね。一生を春夏秋冬に分ければ秋といえば更年期でしょうか? 男でもあるようです。すなわち、「厄年」。昔の人は経験的に知っていたんですねぇ。曲がり角の時期というのを。身体の変る時、気持ちにも変調をもたらすようですが、これが本人には気づかないことも多いものです。何か外部の原因と理解して自分の内部から発生しているように理解しないこともあります。私も今思えば40代半ばの時、プレッシャーを感じる仕事をしていて、病気にもなり、不安定な気持ちで大事な判断を誤った経験があります。それで違うレールに乗り換えざるを得なくなったのですが、周りにも随分迷惑をかけました。今思えば、起こっていることに、不安な気持ちが色づけをして、世の中をグレーの色に染めていたと思います。

まぁ、レールを乗り換えなかったら今頃は病気かなにかで死んでいたと思うので、結果オーライでありましたが。

それから、合気道そして座禅と出会いましたが、今、座禅をしていると自分がどんな状態か、わかるようになってきています。もちろん、座禅を3カ月、半年、1年、3年と続けている中で、山あり谷ありで、歩くのが嫌になって河に飛び込んでどっかにいこうかな?と思ったこともあるので、平坦では決してなかったのですが、なんとか今も続けて来られて、人と比べない生き方が少しずつわかるようになってきた気がします。

少し前、アドラーのことを書いた本の中で「他者からの承認を求め、他者からの評価ばかり気にしていると最終的には他者の人生を生きることになる」というフレーズに出会いましたが、座禅と出会う前の会社での私は、それがほとんどだったなぁ、と思います。

座禅は相対ではなく絶対の世界だ、と言われています。

世の中を他人まかせの秋の空 雨風吹いて自分うしなう

とならぬよう、座禅に来た方が、その絶対のいくぶんかでも掴んでいただき、より良き人生を歩まれることを、切に切に願います。

蛇足ですが、一休さんの相棒の蜷川新衛門さんの歌にこんなのもあります。

地獄とは何をいまわのこけむしろ いろと欲とで身をやぶるひと

雨のようにお金が降ろうと欲は満たされませんね。色欲で身を滅ぼす人も毎日のようにニュースで見ますね。ひとごとではありません。こちらの方も、こんなはずじゃなかったとならないように心したいものです。     海香   

 

 


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心印です。


突然ですが、ツイキャス始めました(まるで冷やし中華始めましたのノリですがw)。

ツイキャスというのはネットで生放送を個人でも無料で簡単にできてしまうのです。必要なものはカメラとマイクのついたパソコンか、スマホがあれば配信できます。


数年前にインターネット座禅会をやってみようと調べたのですが、必要とする機材が高価過ぎて個人では断念するしかありませんでした。


今はスマホからでも配信ができるというIT技術の進化はたいしたもので、ITの専門家ではない普通の人がツイキャスを使いこなして生放送をしています。


毎晩22時に生放送を始めて、真夜中過ぎに適当に終わって、今夜で4日目になりましたが、だんだん話がうまくなるような気がしていて、禅の話をする練習にもなります。


人気のある方だと放送を始めた途端、300名とか集まるのですごい集客ですが、私はまだ始めたばかりなのでこれからですね。中学生や高校生もいるようで、学生の頃、勉強しながら(ほとんど勉強はお留守でw)、深夜のラジオ放送にはまっていたのと同じ感じでしょうね。


まだメジャデビューしていない歌手や、シンガーソングライター、中古のバイク屋さん、普通の主婦や女子高生(今はJKと言うか)等、いろんな方が生放送をしています。この中古のバイク屋さんが、ホワイトベースというお店で社長の二宮さんをYoutubeの動画で見て、それでツイキャスを知ったのですが、まさか自分が放送する側になれるとは思いませんでした。


座禅は番組の特集で取り上げられることはあっても、毎晩の公開生放送なんて前代未聞、こんな人気のない番組()は、スポンサーは絶対つかないのでマスコミではまずできないことです。


まあキャリア5年目の境涯の者が一般の方に座禅を語ってもいいのか?と言う問題はありますが、一応これでも輔教師の任命は受けているので、人に禅を語るのは使命だと言うことで許してもらえるでしょう。


道場では毎週、座禅を人に指導し、勉強会では禅を語っているわけですから、いいことにしましょう。




アドレスはこちらです。

http://twitcasting.tv/f:287487441590124


放送は毎晩22時からスタートしています。誰もお客さんがいなければ、ホームページの開発や動画の編集の作業をしながらやっています。


気軽においでください。コメント欄に質問を書いて頂ければ、禅について疑問にお答えします。


心印 拝


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心印です。

 

週末の金曜日、この日の仕事は微妙な時間というか、やきもきすることになりました。

座禅が初めての方が20時半に来られるので、20時には道場に着きたいところですが、会社を19時半に出ないと間に合いません。

 

いつもは支部長がいらっしゃるので心配ないのですが、この日は房総支部の摂心会だということでいらっしゃらないことがわかっていました。

 

その日の最後の作業が終わるのが20時半頃かなと言う感じになり、特に私でなくても可能な作業なので他の方にお願いして会社を出ることが出来ました、心の中で合掌して感謝です。

 

さて新しい方は7名くらいいらしたと思いますが、今週はヤフオクで、中古で落札した自分のビデオカメラを使ってみました。ところが道場にあるビデオカメラより画角が狭く、上下が切れてしまって同じ位置から撮ったものは使えませんでした。

  

座禅は少なめで2列となりましたが、ほとんど帰られずに座禅後の勉強会にそのまま集まられました。新しい方が多かったので老師の書かれた座禅の効用を説明しました。

 

ドイツの女性がいらしたのでカロリーナさんが私の説明を通訳されていましたが、英語ならところどころ単語が拾えるところ、全く拾えなかったので、ドイツ語だったんでしょうか?(笑)

 

毎週、海外の方が大勢いらっしゃいますが今のところ継続されて来られる方はまだいらっしゃいません。座禅は一回だけではわからず、1ヶ月くらいは継続しないとその良さがわかりませんが、それもあって「禅の効用」を毎回読んでいるのですが、そのうち継続されて来られる方が出てくることを望んでいます。

 

座禅は国籍も人種も宗教すらも関係なく、同じ人間なら誰でも禅を感じることが可能なのですから。

 

でも、これもカロリーナさんがいらっしゃるから、海外の方に座禅が紹介できるのでとても良いことです。中国、韓国、ドイツ、インドとだんだん国際色が豊かになってきた擇木道場です。

 

さて次の日は房総支部が摂心会と記念式典があり、女性部が手薄なのでお手伝いをと思っていたら、座禅が始まってから初めての女性が来られました。これはチャンスと(笑)道場のビデオカメラを出して、座禅を教えているところを録画しました。

 

これならあまり編集せずにビデオ化出来そうです。 誰かがいると思って説明して録画すればいいという話もありますが、私は役者ではないので、そうすると原稿の棒読みになってしまって、生きた禅が伝わらないと思いました。

 

当たり前かもしれませんが、映画の俳優さんはブツ切りのワンシーンだけを演じることができるのは、ものすごいことだと思います。

  

 

さて座禅の仕方のビデオはいつ編集が終わるのでしょう・・・()

 

心印 拝

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8月20日  女性部座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2016/8/22 16:12
      
このところ 急に土砂降りになる日が多いです。
日本付近に 3つも台風が来ています。

今朝も 坐り始めたら大雨になって 雷鳴が轟きました。
後で皆さんと話したのですが 雨音に包まれた道場で坐るのもいいものです。

昨日 一昨日と 房総道場で開かれた茶禅一味参禅会に参加しました。
渋滞情報に出てくる 四街道吉岡の交差点から奥に入ったところですが
まさに別天地でした。

緑の木立に囲まれた起伏のある土地。 小高いところにある磨甎石。
『磨甎』 で 写真は拝見しておりましたが 本物に接し 銘文を読んで
黙々と作務をし長いこと座禅を続けて来られた方々が伝え続けておられるものを
背すじに感じたおもいです。
傍に佇む白梅。 春に先がけて香るのでしょう。
雨のやみ間の しみいるような ひと時でした。

広い房総道場。草木の手入れが行き届き清々しい庭 敷地。
道場内も 箒 雑巾を持って全員参加の掃除。
身体がよろこぶ 野菜たっぷりの薄味の食事。
   ありがとうございました。


女性部座禅会の報告が遅れまして・・・

座禅会 リピーターの方のご参加がほんとに嬉しいです。
今日は 『一行物』 から 「平常心是道」 を 読んで お抹茶を頂きながら
豊富な話題がでました。
家族の事を話された方に 心理療法士の方がアドバイスをしておられました。
耳がダンボになる話もありました。

今日もいい座禅会でした。
どうぞ また来週もご一緒に坐れますように!

                            秋香



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オリンピック!! 重圧がかかる試合、演技を見ていると感動して泣きたくなったりします。自分が競技しているわけじゃないのにそこに入り込んで眉を吊り上げてテレビをみている私の顔があまりにもひどいので、家人からテレビを消されてしまうこともあります。 が、それにしても、選手たちはすごい精神力だなぁ、とへなちょこな私は思います。

少し前から、私は体幹トレや筋トレをやっています。身体を動かしていると多少のストレスは解消されるようです。うまくないけどスポーツや武道をする愛好者が多い理由のひとつはこれかなぁ、とも思います。さて、これだけでスポーツをやる意義は十分か?と思うと、スポーツ指導者、愛好者の中には、人間的におかしなのが結構いるという話が昨日の座禅会の茶話会で出ました。それじゃあ、いけません。


麦茶をのんで、参加された女性剣道家の方の合宿のお土産のお菓子をみんなでおいしくいただいての茶話です。静坐と言う名前で稽古前にやっています、とおっしゃっていましたが、確かに座禅は静かに一人になる時間であります・・・・が、もっとポジテイブに「三昧」になる時間でないと座禅ではありませんね。

座禅後の読書会で読んだ禅誌52号「法話【三昧】とは不思議なもの」の6つの項目の1番目の最後には、こう書かれています。

 200則の公案を参禅弁道で参究する所以は、この「人間形成は三昧を身につけることである」ことを明確にそして包括的につかむためだと云うことができると思います。そして何より、肝要なことは、三昧を身につける実践行を思義することなく、しっかりと朴訥に継続することです。


三昧とは、多くの人がそれぞれなにかで経験があるもののように思います。その三昧にだれでもできる座禅で味わえたら、仕事でも余暇でも武道の時でもすっと入れるようになり、フラフラしない自分というのがわかります・・・・・ごく浅い三昧しか知らない私ではありますが。これ、経験したことがない人には言葉では伝えられないのが残念です!!


ところで、座禅は「心の筋肉」を鍛えているのではないかと思うのです。筋肉も数日動かしていないだけで元の木阿弥になりますが、座禅も二日もしないと一回もやったことのない人の状態に戻るように思います。(老師は1日でもやらないと元に戻るぞ、とおっしゃっています)  座禅をしたら良き人になる。しかし、怠けたり、いい加減に坐っていると、ろくでもない私にすぐ戻る・・・・コレ私の実感です。 初心を常に忘れずに、を思った晩でした。

 あ、それから来週24日水曜日は参禅会です。1845分開始です。 海香

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心印です。


6月からは連日多忙で、なかなか金曜の座禅会に出られなくなっていましたが、いったん一区切りがついたところです。


担当のプロジェクトが本番同様の状況に入ったのですが、本番環境に入ってしまうと作業はお客様業務が終了した16時以降となってしまうので、今度は夜勤が増えると・・・金曜の夜に夜勤が入らないことを祈るばかりです。


でも作業はあるので、夏休みの予定が立たないのは困ったものです(今年は9月が摂心会ですから大阪帰省できないかも?)


さてこの日は、ほとんど作業がなく早く帰れたのでいったん自宅に戻ってバイクで道場に行けました。しばらくすると初めての方が10名くらい続々とおいでになりましたが、半分以上の方はカロリーナさんがMeetUpというサイトで募集して連れてこられた海外の方(日本人も結構いるのですが・・・)でした。


そこで英語クラスと日本語クラスに分けて、英語のクラスはカロリーナさんと龍泉支部長が、私はいつものように日本語クラスを担当しました。


前から座禅を教えているところをビデオに撮ってみようと思っていたのですが、撮りながら説明している間にも途中からどんどん初めての方が来られてしまって、その度に中断したり、もう一度、説明したりと、ビデオを使うなら順番の入れ替えも含めて相当の編集が必要なビデオになってしまいました。


まだ編集中ですが・・・

結局、21時半くらいまで説明を3回くらいして禅堂に入りました。残り30分しかないと思うと、その短時間にけっこう集中できたような気がします(気が・・・笑)。人数が多くて、なんと4列になっていました。


座禅後の勉強会は常連さんが帰られて、初めての方ばっかりが残られたので「禅の効用」の最初の目次のページを読んで説明したのですが、まず私が日本語で一言話して、それをカロリーナさんが英訳するというスタイルで進めました。


でも日本語でも説明が難しい禅を、英語でよく説明するものだと感心していました。日本語はあいまいなことを表す形容詞が多いので、いろいろな言葉を使うとニュアンスで伝わる部分があるのですが、英語だとはっきりした単語しかないので、禅を説明することは難しいのです。


迷いの元の雑念を落とし、考えることを停止するという話をすると、海外の方から「仕事は考えなければならないが、禅はそこをどう扱うのか?」という質問がありました。それは老師が書かれた理性と感性の図の出番です。仕事は左側の理性の領域で考えることが必要、でも座禅は感性の領域で考えることを停止するのだと説明しました。


でも感性の領域が豊かになると、仕事の面にも良い影響があることは忘れてはいけません。それも例をあげて説明しました。


宿泊される方も多くて男性は禅堂で、女性は禅子寮で泊まりました。次の朝は座禅後にガストに行って朝食を頂きました。


「東京で夜一番遅い座禅会」について語るビデオをYoutubeに公開していますので、興味があればご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=i6shvb0zn88


さて、座禅の仕方の説明のビデオはいつ編集できるでしょうか・・・


心印 拝

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8月13日 女性部坐禅会

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2016/8/14 2:22
      
外では 朝から  ミンミン ジージー  蝉の大合唱。
涼しげな カナカナ蝉の声が 待ち遠しいです。

女性部静坐会 初めての方・2度目3度目の方・常連の方がご参加下さり
暑さに負けない 真剣な静坐会となりました。

座禅に参加なさる方は 自分に仕事に社会に 人並み以上に真面目に
向き合っている方達と思います。

ほんとは多かれ少なかれ何かしら抱えているのに 皆んながスイスイ生きて
いるように見える世の中。
 
人に余計な気を遣い そして いつも他人の芝生が青く見えてた私。
私もグラグラしないでどっしり平然と生きたい!年相応に落ち着きたい。
座禅をしたらどうなるのか・・・ 座禅をしたら何処へ行くのか・・・
私が道場に来たワケです。

Ⅰさんが ご自分の畑で収穫した茶豆を茹でて持ってきて下さいました。
座禅の後 お抹茶の時間に ご馳走になりました。
本当はお抹茶じゃなくて 冷蔵庫のビールを出したかったんですけど・・・


どうぞ坐禅を組んで ご自分と向き合ってみて下さい。
足の痛いのを通り越すと し~んと静かな心地になるのを味わってみて下さい。

道場でお待ちして居ります。

 秋香
  



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東京湾観音にお参りしてきました

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2016/8/12 2:36

心印です。


今日は山の日ということで祝日でした。例年ならそろそろお盆休みで大阪に帰省する頃ですが、今年は仕事が多忙でいつ夏休みが取れるのか予定が立たずまだわかりません(9月かなぁ・・・)。


そこでぽっかりあいた祝日ということで前から行きたかった東京湾観音へお参りに行ってきました。2010年にも一度、ツーリングで来ていたのですが、その時はまだ座禅を始める前で、仏教にあまり興味がなく前で写真を撮っただけでした(デジカメで写真を撮ると日付がファイルに埋め込まれるのでわかる)。


2010年当時はバリオスに乗っていたが、色はやはり赤です。


6年後はZZR250ですが、似たような写真を撮ってしまうセンスに成長なし()



東京湾観音ホームページ

http://www.t-kannon.jp/


東京湾観音とは昭和36年に宇佐美 政衛(うさみ まさえ)氏」という方が全世界の戦死戦災者の御霊を慰め、戦争の無い世界平和を祈念するために建立した観音像ということです。現在は東京湾観音教会というところになっています。特定の仏教の宗派にこだわりはないようです。


今年の夏は連日猛暑で、東京湾観音は内部が熱くなるのがわかっているので、早朝の涼しい時間に行こうと、ホームページで調べると8時からやっていることがわかったので、これもホームページで調べて前の夜に君津まで走って、ネットカフェに泊まりました。


ネットカフェは終電逃して帰れなくなったり(遊んで・・・ではなく、仕事で・・・)、どこまで走るか予定をたてないツーリングではよく泊まります。24時間いつでも入れて、なんといっても安いのがいいのですが、狭かったり、うるさかったりするのが気になる人には向いていません。私は長年のSE稼業で、そういうのが全く気にならず、会社のオフィスだろうが、公園のベンチだろうが、どんな環境でも寝られる体質になったのでこういう時に役立ちます()


君津のネットカフェを出発して20分くらいで富津に立っている東京湾観音に着きました。500円を納めて中に入ると、早朝で曇っていたのと、風が通り抜けるので結構涼しかったです。3階から9階まで7福神のスタンプラリーがあったので、パンフレットにスタンプを押してきました。高さは56メートル、内部は20階まであり螺旋階段を登っていくのですが、ところどころに観音様、仏様、如来、菩薩がたくさん祭られています。一番上は観音様の頭の部分でそこは天上界と名付けられ、仏様が祭られていました。

あちらこちらに風が入る穴があるので、内部は結構汚れるのではないかと思うのですが、ごみ一つないきれいさでした。これだけの規模の観音様を20階まで掃除して、あちらこちらに線香をつけてくる労力を思うと、頭が下がります。



スタンプラリーを全部行って社務所に出すとお箸がもらえました。スタンプは乾くので蓋を閉めてと書いてあるのですが、私の後の方が開けっ放しだったので降りる時に閉めてきました。


さて座禅に全く関係ないブログでしたが、内部にいろいろお願いごとを書けるノートが置いてあったので、そこに「座禅が広められますように 心印 人間禅 擇木道場」と書いてきました(ちょっと宣伝っぽいですが・・・)。


帰りは東京湾フェリーに乗って東京に帰りました。



心印 拝


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<第2回>釈尊の死までを辿る「涅槃経(ねはんぎょう)


14:00~14:30 前回の復習、仏教の基本「縁起」「中道」「四諦」「八正道」など

14:30~16:00 本題


◎「釈尊の生涯」その後の教化活動 

ベナレス郊外のサールナート(鹿の苑)での初転法輪の後、教化活動が始まった。

① 伝道の心得 宣言

「諸人の利益のために」「世人に対する共感のために」

「神々と人間との利益安楽のために」

「二人して一つの道を行くことなかれ」→→→

仏教には教えがない。自分自身が法をより所として道を行じて生きていくものである。自己の胸襟を開き、自分自身で語るものである。法話などの伝道活動は、借りた言葉でなく、おのれ自身を撒け出す以外にない。「独りでゆけ」という言葉は、ダンマパタ、スッタニパータなど、原始仏典には大変多く出てくる釈尊の言葉である。

「独坐大雄峰」という禅語がある。独り、とはどういうことだろうか?

・・・人間は因縁による束縛を受けた存在である。そこにはおのずと悟りやそれによる安らぎとは、依存・執着から自由になることをいうのではないか。よく考えてみましょう。


② 青年たちに伝道

密林で座禅をしておられたとき、青年たちがある女性が盗みをして逃げたのを追っていた。

釈尊「婦女を探すことと、自己を探すことと、どちらが大事か?」

青年「自己を探すことの方が優れていると思います。」

釈尊「では座りなさい。君たちのために法を説こう。」


③ 国王の帰依

④ サーリプッタ(舎利弗)とモッガラーナ(目犍連)

サーリプッタはアッシジ比丘の托鉢姿に打たれて、誰が師なのかをたずねた。

「諸法は因より生ずる。如来はその因を説きたもう。諸法の滅をもまた大なる修行者はかくのごとく説きたもう」

これにより2人は法の目を開き250人の仲間と共に釈尊の弟子になった。


初期仏教の一大事件だった。ふたりはそれぞれ智慧第一・神通第一と、のちに讃えられる釈尊の十大弟子である。


⑤ 500人の盗賊の済度

⑥ 南国のバラモン学徒の集団帰依


◎「涅槃経」 マハーパリニッバ―ナ・スッタンタ 

釈尊の最後の様子を忠実に伝えている経典。

古いものと、大乗経典としての新しいものがある。

後者は法華経と並んで大事にされた。

釈尊の最後の様子は、パーリ語のもの、漢訳大蔵経に5つ、

チベット大蔵経の中にもある。

中央アジアで近年サンスクリット本の断片が見つかり、ドイツ人が

出版した。

マハーパリニッバ―ナ・スッタンタ ・・・マハーの意は大きい、パリは完全な涅槃の意、死のこと。 スッタンタは経典の意。 大般涅槃経。 


1、晩年、鷲の峰(霊鷲山)にて修行者たちを集めて教えを述べた。伝説

<サンガが衰亡をきたさないための7つの法>

・しばしば会議を開き、会議に多くの人が参集する間は修行者らには繁栄が期待される。

・共同して集合し、共同して行動し、共同して教団の為すべきことを為す間は繁栄が期待され衰亡はないだろう。

・戒律を保って実践するならば繁栄が期待され衰亡はないだろう。

・経験豊かな長老たち、出家して久しい長老たち、導き手を敬い尊びもてなし、かれらの言動は聞くべきだと思う間は繁栄が期待され衰亡はないだろう。


2、旅に出る

王舎城を出て旅に出た。アーナンダ(アナン尊者)と2人か3人の旅。

80歳、 死の予感があったのではないだろうか。

① パータリ村(現・パトナ市)へ 

② ヴェーサーリーへ 


「自らを島とし、法を島とせよ」

竹林園で病に倒れる (一生の回顧) 

雨期に入った。雨安居。

雨季には猛烈な雨で外に出られない。 アレキサンダーも雨に悩まされた。 修行者は一か所に定住し瞑想にふける。この時季は虫も出てくるので、踏まないようにするため外に出ないという意味もあった。


「ここで尊師が雨期の定住に入られたとき、恐ろしい病が生じ、死ぬほどの激痛が起こった。」

釈尊は禅定に入り、この苦痛を耐え忍んだ。アーナンダは釈尊に近づき、最後の説法を懇願する。


「アーナンダよ、修行僧らは私に何を期待するのであるか?私は内外の区別なしに法を説いた。全き人の教法には何ものかを弟子に隠すような教師の握拳は存在しない。

私は修行僧の仲間を導くであろう、とか、修行僧の仲間に私は頼っている、と思うものこそ、修行者のつどいに関して何事かを語るであろう。

しかし向上に努めた人は、私は修行僧の仲間を導くであろう、とか、修行僧の仲間に我は頼っている、とか思うことがない。


・・・アーナンダよ、私はもう老い朽ち、齢を重ねて80となった。アーナンダよ、たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、私の車体も皮紐の助けによってもっているのだ。

しかしアーナンダよ、向上に努めた人が、いっさいの相を心にとどめることなくいちいちの感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、彼の身体は健全なのである。

それゆえに、アーナンダよ、この世でみずからを島とし、みずからをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


③ 鍛冶工チュンダ 死に到る食事

パーヴァー村へ。

鍛冶工の子であるチュンダ青年が、自分のマンゴー園に釈尊がとどまっておられると聞き、食事に招待した。鍛冶工はカースト外といわれる身分。アンバパーリ―の時もそうでしたが、一切の差別のない姿がうかがえます。

行くと、「チュンダに、世尊は法にもとづいた話をして、教え、諭し、励まし、喜ばせた」

とあるように会話をして、供養を受けられた。


一口食べておかしいと思われたのでしょう。

「残ったキノコ料理はそれを穴に埋めなさい。」と言った。

チュンダ青年は

「残ったきのこ料理を穴に埋めて尊師に近づいた。近づいて尊師に敬礼し一方に坐した。チュンダが一方に坐したとき、尊師は法話によってかれを教え、諭し、励まし、喜ばせて、座から起って、出て行った。」


とあります。この静かなシーン。青年もせっかくのごちそうを埋めてきなさいと言われても騒がず静かにそのとおりにします。釈尊はおそらくにこやかなまま青年のために語り、しばらくして静かに席を立ってそのまま旅に出ていきます。

青年の師への信頼感が伝わってきます。

釈尊がまったく動じずに、大きな身体の変化を受け止めていることにも驚嘆します。


「さて尊師が鍛冶工の子チュンダの食物を食べられたとき、重い病いが起こり、赤い血がほとばしり出る、死にいたらんとする激しい苦痛が生じた。尊師は実に正しく念い、気をおちつけて、悩まされることなく、その苦痛を耐え忍んでいた。

 さて世尊はアーナンダに告げられた、「さあ、アーナンダよ、われらはクシナーラーへ赴こう。」と。「かしこまりました。尊者よ。」と、アーナンダは答えた。」

落ち着いた様子がうかがえます。

チュンダの家を出てつらい身体をひきずるようにしながら、釈尊はアーナンダと川のほとりにやってきました。


「尊師は路から退いて、一本の樹の根もとに近づかれた。 近づいてから、若きアーナンダに言った。  『さあ、アーナンダよ。 お前は私のために上衣を四重にして敷いてくれ。 わたしは疲れた。 わたしはすわりたい。』 『かしこまりました』と、アーナンダは尊師に答えて、上衣を四重にして敷いた。      

尊師は設けられた座に坐った。 すわってから、尊師はアーナンダに言った。『さあ、アーナンダよ。 わたしに水を持ってきてくれ。 私は、のどが渇いている。 私は飲みたいのだ。』    


病に瀕した姿が描かれます。


そしてまた次の川へ歩いていき、浴し水を飲んでようやく

川を渡りマンゴー樹の林に辿りついた。

『私はよこになりたい』といってしばらく横になっていたが、

「師は体が全く疲れ切って(川の)流れにつかった。

世に比ぶべき者のない完き人であったが。

・・・わがために衣を四つに折て敷けよ。『私は横になりたい。』と。・・・師は全く疲れ切った姿で臥した。」


このように疲れ果てているにもかかわらず、次のような言葉は発せられます。


「誰かが鍛冶工チュンダに後悔の念を起こさせるかもしれない。<友、チュンダよ。修行完成者はお前の差し上げた最後のお供養の食べ物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益がなく、お前には功徳がない>と言って。


アーナンダよ。鍛冶工チュンダの後悔の念はこのように言って取り除かれねばならぬ。

<友よ。修行完成者は、最後のお供養の食べ物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。友、チュンダよ。このことを私は尊師からまのあたりに聞き、うけたまわった。このふたつの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。


その二つとは何であるか。

修行完成者が供養の食物を食べて無上のさとりを達成したのと、および、このたびの供養の食物を食べて、煩悩の残りの無いニルヴァーナの境地に入られたのとである。

この二つの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさに等しい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。

・・・アーナンダよ。鍛冶工チュンダの後悔の念は、このように言って取り除かれねばならない。

   

与える者には功徳が増す

心身を制する者には怨みのつもることがない。

善き人は悪事を捨てる。

その人は情欲と怒りと迷妄とを滅して、束縛から解きほごされた。」


*「みのり」は原因に対する結果。「果報」は異熟ともいい、行動は善か悪だが、善に対応するのは楽、悪に対応するのは苦、しかし楽も苦も、それ自体は善悪ではない。


2つの供養とは、成道の際の、スジャータの乳粥と、チュンダの死に到る供養のこと。

このふたつが、等しいみのり、等しい果報とはどういうことか。

死に臨んでなお、自分のことより弟子を思いやる釈尊のやさしさは無上のものだが、単に素晴らしく優しい人、という話で終わってはならないだろう。生を善きもの、死を悪いもの、という観念は真実ではない。現実の生死という状況の変化は、甘露(不死)の門を開いたものにとっては、無常の変遷に過ぎない。縁起の理法によって生滅するだけである。

これまで学んできた仏教の数々の教えが、この場面に凝縮している。

そして、釈尊は死を完全なニルヴァーナに到るものととらえており、忌むものとは全く捉えていないことも味わうべきでしょう。


④いよいよ入滅の地、クシナガラへ


「さあ、アーナンダよ。 私のために、サーラーの双樹

(沙羅双樹)の間に、頭を北に向けて床を敷いてくれ。アーナンダよ。

 わたしは疲れた。 横になりたい」と。


「かしまりました。尊者よ。」と、世尊に答えて、アーナンダはサーラーの双樹の間に、頭を北に向けて床を敷いた。 そこで尊師は右脇を下につけて、足の上に足を重ね、獅子座をしつらえて、正しく念い、正しくこころをとどめていた。」


アーナンダは、ついに「尊師の背後にいて敷物によりかかって泣いていた」

一心に釈尊の侍者としてどんなときもつき従ってきた若い青年のこの様子を見て釈尊は次のように教えた。


「やめよ、アーナンダよ。悲しむなかれ。嘆くなかれ。アーナンダよ。わたしは、かつてこのように説いたではないか、

――すべての愛するもの・好むものからも別れ、離れ、異なるにいたるということを。

およそ生じ、存在し、つくられ、破壊さるべきものであるのに、それが破滅しないように、ということが、どうしてありえようか。

アーナンダよ。かかることわりは存在しない。


アーナンダよ。長い間、お前は、慈愛ある、ためを図る、安楽な、純一なる、無量の、身と言葉と心との行為によって、向上し来れる人(=釈尊)に仕えてくれた。

アーナンダよ、お前は善いことをしてくれた。努め励むことを行え。速やかに汚れのないものとなるだろう。」


なんといういたわりでしょうか・・・そしてここにも教えがこもっています。ご自分の死を題材に弟子を導いているような姿です。そしてアーナンダの資質を認め、将来必ず悟りが開ける、と励まします。


そこへスバッタという遍歴行者がやってきて、どうしても教えを受けたいと申し出ます。

アーナンダはもはや命のない師にはとても会わせることなどできない、押し問答が起こります。


やめなさい、アーナンダよ。遍歴行者スバッタを拒絶するな。スバッタが修行を続けてきた者(=ブッダ)に会えるようにしてやれ、スバッタが私にたずねようと欲することは、何でもすべて、知ろうと欲してたずねるのであって、私を悩まそうとしてたずねるのではないであろう。かれが私にたずねたことは、私は何でも説明するであろう。」と。

    

さて、スバッタに対して最後の説法が行われます。


 「スバッタよ。いかなる教えと戒律とにおいても、尊い八支よりなる道が存在すると認められないところには、第一の道の人は認められないし、第二も第三も第四も認められない。

しかし、いかなる教えと戒律とにおいても、尊い八支よりなる道が存在すると認められるところには、第一の道の人が認められ、第二も第三も第四も認められる。

ここに第一の道の人がいるし、第二、第三、第四の道の人がいる。

他のもろもろも論議の道は空虚である。ここに正しく住しなさい。

そうすれば世の中は真人たちを欠くことのないものとなるであろう。」


と、八正道の重要性を説きます。実践の宗教であることをあらためて感じるところです。

そして・・・

「わたしは二十九歳で、何かしら善を求めて出家した。

         スバッタよ。わたしは出家してから五十年余となった。

        正理と法の領域のみを歩んで来た。

        これ以外には〈道の人〉なるものも存在しない。」

と、一生の回顧と確信を静かに述べるのでした。最期の言葉は、

 

さあ、修行僧たちよ。 お前たちに告げよう

もろもろの事象は過ぎ去るものである。 怠ることなく修行を完成しなさい。<終>



<感想>

今回の講座は、釈尊の死までを辿ってきました。前回、釈尊の悟りとその内容について学びましたが、その悟りを1つ1つ確実に実践している姿が見えて、その言葉からは、生き様が迸っていて、それでいて、やさしく語りかけるように、伝わってくるものでした。これが、本当に不思議でした。人間形成を完成された釈尊の言葉が、本当に目の前で語りかけてくれるかのように、やさしくスッと伝わってくることに驚きました。時間を超えて、瑞々しく、語りかけられました。
個人的には、今回の講座で特に、強烈なインパクトがあった、2つの場面についてあげさせていただきます。

●アーナンダよ、私はもう老い朽ち、齢を重ねて80となった。アーナンダよ、たとえば古ぼけた車が革紐の助けによってやっと動いていくように、私の車体も皮紐の助けによってもっているのだ。

しかしアーナンダよ、向上に努めた人が、いっさいの相を心にとどめることなくいちいちの感受を滅したことによって、相のない心の統一に入ってとどまるとき、そのとき、彼の身体は健全なのである。

それゆえに、アーナンダよ、この世でみずからを島とし、みずからをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


・・・健全な身体とは何か?

考えさせられるところです。そして、以下の事を肝に銘じたいと思います。

この世でみずからを島とし、みずからをよりどころとして、他人をよりどころとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとせずにあれ。


●アーナンダよ。鍛冶工チュンダの後悔の念はこのように言って取り除かれねばならぬ。

友よ。修行完成者は、最後のお供養の食べ物を食べてお亡くなりになったのだから、お前には利益があり、大いに功徳がある。友、チュンダよ。このことを私は尊師からまのあたりに聞き、うけたまわった。このふたつの供養の食物は、まさにひとしいみのり、まさにひとしい果報があり、他の供養の食物よりもはるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる果報があり、はるかにすぐれた大いなる功徳がある。


・・・悟りに至ったお供養と死に至ったお供養が、まったくひとしいみのりである。

考えさせられるところです。もちろん、相対的に生と死を見ていないし、少しでも偏りがあったら、出てこない言葉であると思います。ここのところをしっかりと見て、人間形成の修行をしていかなければならないと強く感じました。


記 粕谷玉道 

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