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擇木道場

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擇木ブログ - 20150723のエントリ

心印です。

前回は禅道場においては、一般常識で判断すると間違うケースがあることを書きました。これは禅の修行においては、世間の一般常識が邪魔になることがあるという意味でもあるのです。

特に最初の公案(初関とも言います)は、本来の面目ですが、これは一般常識を全く越えたところにあります。世間の一般常識は、これはしても良い、これはしては悪いというような、良い悪い、善悪と言った相対の世界の話なのですが、禅の世界ではそういう世界を離れた絶対の世界というような言い方をします。

相対の世界に安住している限り届かない世界に禅があるのです。なので、禅を修行している禅道場、特に参禅会や摂心会のような禅の法を実践している場合は、一般常識が通用しない世界に身をおく必要があると言えます。

これはいくら文章を読んでも、人に話を聞いても、頭でいくら考えても、それが相対的な言葉である限り、届かない、禅からはるかに隔たった世界で、これに近づくには頭での思考を停止して、老師に参禅を繰り返す以外に道はありません。

不思議なことに(当たり前ですが)老師のような禅の指導者は、禅のなんたるかを伝える力をお持ちになっていますから、何度も参禅するうちに、だんだん言葉によらず伝わってくるものに感化されてわかってくるのです。

ホームページは言葉や写真しか掲載できませんから、こういう世界は伝えられず、そういう世界が道場にはあるよと思わせぶり(?)をするしかありません。決していじわるしているわけではないのです。

ですから見性や悟りがどういうものかいくら言葉で書いても、それは本物ではなく、そのものではなく、様子や体験や周辺のことを表現するしかないものになります。ずばり悟りとはこうだと書けないものなので、それが言葉の限界なのです。

これを「指月」という言葉でよく表現されますが、月を悟りにたとえて、いくら書いてもそれは月を指し示す指でしかないよということで、月そのものではないということです。

当然ながら、このブログも「指月」の一つの指をまた増やしているにすぎないのです。月を体験して、自分のものにするには道場に来るしかないと言う話です。そして座禅の時は、一般常識を離れてくださいね。

心印 拝

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