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擇木道場

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擇木ブログ - 20150131のエントリ

玉溪です。昨夜の続きです。

見えるところ、それを支える見えないところ、双方が一体となってやがて球体に育つ。
どちらが欠けても、何か不安定に映る。人間の成熟は意識してでも見えないところを育てる意識を持つことが大切なのではないか、座禅とは見えない自己の成熟を時間をかけて待つもの、という話でした。

さて、今夜は関係性のお話です。
フィギアスケートペアの場合、ふたりの動きが揃っていること、ふたりではなくひとりで滑っているように見えること、が評価される点なのだそうです。
これを「ユニゾン(同調性)」というそうです。
しかし男女は決していつも同じ動きをしてはいません。男性は支え、女性は持ち上げられたりしています。それでもふたりでひとり、というかひとつ、に見えることが大事なのだそうです。
これは完全にふたりが個々人でまず完璧であることが前提です。完璧でないことはスケートの場合は大怪我につながるのですが、つまりどちらかが依存している関係ではダメだということです。通常の人間関係にも言えることですね。依存関係はお互いを傷つけてしまいます。真の意味でふたりがつながるには自立している人間同士でなければひとつにはなれないということなのですが、難しいですね。
でもこれが第一の条件。

ペアの女性がインタビューで答えていました。
試合が始まる瞬間、「お互いに手を差し伸べた時感じるの。もし自信に満ちた強い手を感じたら大丈夫だってわかる。お互いが信じあって手を差し伸べることができればそれでいいの。」
男性は「手と手が触れて握り合う。そこから一歩踏み出したらそこからは一体。どんなことがあってもふたりで闘う。」と。
そしてただお互いの動きに耳を澄ませ、自分のやるべきことをやる。
自立した人間がひとつの球体になる二つ目の条件、それは「信じること」でした。
信じるとは頼ることではないことが、見ていてよくわかりました。

この大会で優勝したペアは、試合直前まで目も合わさず話もしませんでした。励まし合ったり、労わり合ったり、がんばろうね、などと全く言わないのです。
大丈夫なのかな、と思って見ていると、後のインタビューで女性がこう答えたのには感服するしかありませんでした。
「私たちは何をすべきかわかっています。だからもうあの場で話すことなどありません。」と言い切ったのです。
このペアは長野五輪で銀、ソルトレーク五輪金、世界選手権は連覇しています。
取材されていたロシアカップでも優勝したのですが、実はショートプログラムで2度女性は転倒したのです。
しかし私が見ていても、そんなことなど関係ないと納得してしまう素晴らしいものでした。他のペアがどんなに完璧に技を決めても追随を許さない言いようもない何かがそのふたりから湧き出ていました。
ペアで演技するとは、まさにふたりで作り上げる何かが評価の対象になるのだと会場中が理解し万雷の拍手を送っていました。
「もう話すことなどない」というのは、言葉で確認し合うようなレベルにいないふたりの強い関係の現われだったのでした。

関係の理想を現わした言葉が日本にもあります。
茶道でいう「和敬清寂」です。
「和」とはハーモニー。お茶を点てる人、飲む人がそれぞれの立場に徹することが土台になければなりません。そしてなおかつ融合してひとつの席、空間を作るのです。
それには相手を敬う気持ちがなければなりません。信頼は敬う念なくして起こらないからです。
そして自分を上に思ったり、相手の点前や道具やらを批判や評価してみたりする自己中心の心をきれいに捨てる必要があります。
自立した人間同士が、相手を丸ごと受け入れ合って和と敬が充満した空間は、自我の汚れもなく清らかで、そこに永遠の真実が顕現されるのです。つまり、関係の完成、この世に仏国土が現れたということになるのです。
茶席は人間同士でも、人間対自然でも、どんな関係性においても具体的な完成の姿を示しています。

そこには禅の精神があります。
「茶禅一味」と言うように、茶道は禅の精神を形にしたもので、久松真一氏は、茶道は禅を僧堂から路地に引っ張り出してきたもの、というような表現をされていたと思います。

禅では「自他不二」ということを目標にします。自他不二とは自分と他がはっきりと区別されている上でズレがないということで、どうしてこれがそんなに大切なのかと言うと、それが菩薩の境涯だからなのです。
仏教は究極、悟りを得て心が涅槃に往生した者は、自我を空じて他をそのまま、あるがままに受け入れる、それができれば煩悩から解脱したということになる、と教えます。
なぜなら人間の苦は、目の前の現象を自分を中心に「良い悪い・好き嫌い・正誤」等々、判断する事から始まります。
判断するということは、その感覚を選び取った瞬間にその思いに自分自身が縛られる、その感覚に支配されるということになり、様々な悩みや苦しみが生まれることになります。
人は皆、そうした煩悩からなんとか自由になりたいと願い続けてきたわけですが、その方法はたったひとつ、目の前の物を判断せずにそのまま、ありのままに受け入れることです。
「そのまま」を寸分のズレなく受け止めれば、自分は自分でいながら他にほかならず、「慈悲」の心が生まれます。合掌の心、菩薩の心です。
それはたぶん自分を信じ、相手を信じる心として顕れる。そして、相手の目を見、笑顔で手を差し出し、握リ合って共に息を合わせて一歩踏み出す、そんな行為につながっていくのだと思います。

座禅をしていて雑念が出てきても、そのまま、そのまま、とあるがままの状態を受け入れていると、自然に雑念は波間に消えていき、そのうち波も凪いで静かに収まります。
すると水面に月がくっきり映るように相手や物事が映る、そこに和敬清寂の「寂」の世界が体感されてくるのです。
難しいですが、そういう道筋です。

この世は関係性で成り立っています。見えたもの、聞こえたもの・・・環境も含めた対象物との出会いの連続が人生です。
他を敵と見て格闘するか、ユニゾンを湛えながら信頼し合って寂を味わうか。

さて今夜も座禅しましょうか。
ご一緒にいかがですか・・・
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慧日庵こと玉溪です。
今日は寒かったですね。関東は初雪でした。雪が音を吸収していつもより静かで、とても心が鎮まる良い一日でした。皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか・・・
 
昨夜ひと段落ついたらすでに午前1時を回っていました。
残りの家事をしながらふとテレビをつけましたら、BSプレミアム「氷上のふたり ロシアフィギュア――愛と挑戦の物語」をやっていました。
2002年のソルトレーク五輪を前にしたペア部門でコンビを組む2組の男女のドキュメンタリーでした。
何気なくテレビの音を聞きながら動いていたのですが、ふと「トップクラスのペアには何というか、隠し味のようなものがあるのです」というコーチの言葉に思わずテレビを振り向きました。
 
私は毎月様々な場所で講演しています。様々な聴衆に向けて様々な題を頼まれてお話しますが、禅の話は結局「自分らしさとは何か」に集約されます。
「隠し味」とは言い得て妙だ、と引きつけられました。
 
同じように靴を揃えても、同じようにお茶を飲んでも、同じようにお辞儀をしても、表面に見えているものは同じなはずなのに、皆印象は違います。
それは、私たちは見えているものを見ているのではなく、その背後の見えないものを見ているということなのだと思います。その見えないものこそ自分自身です。
ましてやフィギュアスケートでのショートプログラムは決まったメニューがあるのですし、一流選手はほとんど技術は同等に出来ているのに、何かが違う、全然違う、ということが起こります。
ということは表面を良く見せようとしても、それは半分に過ぎないので、残りの見えない半分をなんとかしなくては、ということになるのではないでしょうか。
 
禅では「陰徳」を重んじます。見えるところが「陽」だとすれば、見えないところが「陰」、人間として半分だけということはあり得ず、どちらかを欠くこともできないのですから、「陰」は意識してでもやる、やらせていただく、ということがいかに自分自身を育てるか、想像ができるというものです。
そして座禅をするということは、見えている日常の質を背後から充実させていくことになります。人物の得も言われぬ厚みとはこうした時間が熟させ、やがて双方が一体となって円満な玉に育っていくのです。
 
ハウツーもスキルアップも大切です。しかしそれだけでは球体の半分です。それを支える見えないもう半分を充実させましょう。それでこそ見えているところが活きてくるのではないでしょうか。
 
黙って座禅をする。そして自己が熟すのを時間をかけて待つ。
 
いかがでしょうか。週末、日暮里に座禅にいらっしゃいませんか?

明日もロシアフィギュアスケートの続きで、ペア、つまり関係性について書こうと思います。
皆さん、今日も良い一日を。
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