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擇木道場

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擇木ブログ - 20150111のエントリ

おはようございます。玉溪です。

先日、時々ブログに出てくる慧日庵という人と、玉溪という人が同一人物だったとは知らなかった・・・という話がありました(笑)。ハイ、同じ人なんです。修行の階梯で庵号というものをいただきまして、道場内では慧日庵老禅子と呼ばれています。しかし決して老婆ではありませぬ!まだ・・・。

皆さん気を遣って下さり、福岡の霊峰さんは「ROSEN子」などと、薔薇にかけて実に上手いことを言って下さいます。さすがに俳句の名人、言葉の扱いが違います。
他には「○禅子」とか、わざわざ「若禅子」などと言って下さる方もいらっしゃいます。名古屋の清稟さんはわざわざ「美禅子」とメールには書いて下さいます。
皆さん、気を遣わせてすみません~~
まあ、そのうちほっといても正真正銘の老いた禅子になります。時間の問題ですね。楽しみです。。
 
禅の有名な言葉に「生死事大 無常迅速」という言葉があります。
通常、「生死の問題は何よりも大事なことである、時間はどんどん過ぎる、修行せよ」という意味で、禅寺や禅道場では、合図のために打つ「板木」に書かれていることが多い言葉です。
 
道元禅師著「修証義」の最初に、「生(しょう)を明らめ死を明むるは仏家一大事の因縁なり、生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、ただ生死即ち涅槃と心得て、生死として厭うべきもなく、涅槃として欣う(ねがう)べきもなし、是の時初めて生死を離るる分あり、唯一大事の因縁と究尽すべし」
とあるので大事にしているのです。
 
しかし思うに道元禅師ほどの方が、単に生死の問題は重要なので修行せよ、だけではないと私は思います。
般若心経にも「不生不滅 不垢不淨 不増不減」とありますように、人間の苦しみは偏ることから始まります。
ひとつの思い、瞬間の感情、それは皆、自分を中心にして生死・垢淨・増減・善悪・好嫌・正誤・・・等、価値のどちらか一方を選択して認識している姿です。
選択した瞬間に、その思いに縛られる。そこが不自由の源です。
禅はその不自由さからの解放を提示しつづけているのです。
ですからここで「生死」とあるのは、単に生き死にの問題に留まりません。
ですが最も心の不自由さが露呈するのが死をどう考えるかでしょうから、代表して語られているとも言えるのではないでしょうか。
生きることを肉体がある時だけ、と思えば、それが無くなる時は恐ろしいものです。しかし肉体がある事とない事を地続き、あるいは紙の裏表のように捉えられたら?色即是空空即是色、そこはきっと自由な所、すなわち涅槃ということになるのだと思います。
涅槃は生きて行くところです。
 
 
さて、今月の禅フロンティアは「 「死」と「禅」・・・死後の世界、霊魂はあるのか?禅の死生観に学ぶ」です。
いろいろな思想・哲学・宗教の違いを知ることは難しいことですが、私の勉強の仕方のひとつに、死後をどう扱っているか、という視点で見てみる、というのがあります。まことにざっくりではあるのですが、これで案外その宗教・思想の元が認識できます。そこにその思想のまとめが込められているからです。
 
ある時、どうしてこうも難しいのだ~~という思想と格闘していて、ふと思いました。
どんな哲学思想も生きた人間の人格を通しているものではないか、その人の全人格が見えるところはどこか、と近づいてみると、愛し方などにも見えますが、やはり「死をどう見ているか」に顕れると私は思います。
 
たとえばカントは敬虔なクリスチャンですよね。キリスト教の考え方をベースに置いて読んでいくと、漠然と捉え難いく見えていたものが少し見通しが利くようになります。
プラトンも、当時の死生観を元に読んでいくと、これも知的体力の乏しい私には杖になると思えました。
そういう視点で様々な宗教や思想を見てみると、禅の言うところの「死」が非常に明快なものだとつくづく思うようになりました。
ここを一度整頓しておきたいと思っておりましたので、今回のテーマにしました。
 
ゲストは科学者の葆光庵老師、禅は科学とまったく一致する、と常々おっしゃっています。
お釈迦様も神秘的な事、迷信を断固として否定というよりも拒否された方でした。
「池にドブンと石を投げたら、それが祈りで上がってくるのか?」と迷信に惑わされないように教え、死後については語らない、という態度であり、いかに生きるべきかを語り続けた方でした。
孔子も「いまだ生を知らず、いずくんぞ死を」でしたね。
良寛さんは最愛の女性に、死んだら「春は花、夏ほととぎす、秋はもみじ葉」となってあなたのそばにいます、と残されました。
親鸞は葬式をしないでよろしい、「川に捨てて魚のえさにでもしてくれ」と言われました。現代の葬式仏教を見たらなんと言われるでしょうか。
 
もう一人のゲストの京大医学部名誉教授で、人工内耳の世界的権威の本庄巌先生(道場では慈眼居士)は、臨死体験は原始脳の中で起こること、とおっしゃいます。「お釈迦様の脳」という、悟りを科学的に解明する論を述べておられ、以前の禅フロンティアでも東邦大学の有田教授と共に「最新脳科学と禅」でご出演願いましたが、今回もまた興味深いお話が伺えそうです。
ハーバート大学の教授が自ら臨死体験をしたという論文が出されたそうですので、この問題は紛糾しそうです。
もし、原始脳のなせる技であるならば、人間の脳には最期に死の恐怖を和らげる働きでもあるのでしょうか。
 
他に、今後の医療の模索として先端の地域医療を実践しておられる房総道場の長でもある光永先生、末期ガンの死を看取って1000人、という先生にもお越しいただきます。
「末期ガンの方たちは死を怖がっていますか?どう接しておられるのですか?」と聞きましたら、「それよりも生きていることに意味を見い出せない苦しみの方が大きいんですよ。死んで楽なところへ行きたいという方も多いです。」というお答えでした。
これは意外でした。しかし悲しい気持ちで納得もできます。
 
これは重要なテーマを含んでいます。
死が近づくと死そのものよりも、生きている今をどう感じているかが逃げ場なく迫ってくるということなのでしょう。
痛みや治る見込みがない生に意義を見い出せない、必然的に心は死に向う。ということは、死はもうひとつの生き方だということにもなります。死が無と考えているならそちらに希望を感じることはないはずです。死を生と同じカテゴリーで実感する状態があるということは、よく考えるべき点だと思います。
 
そして死後の世界や霊魂の問題。
死んだ人が天にいる、と空を仰ぐ素朴な気持ち。
 
こうしたものも含め、皆さんで一緒に「死」を考えてみましょう。
大乗仏教の粋である禅の死の考え方を知ってみる機会です。
ぜひ多くの皆様のご参加をお待ちしております。
 
1月25日(日)午後1時半~3時15分
その後、座禅の時間。希望者は老師に禅の話を聞ける時間もあります。
5時~第2部として茶話会。6時終了です。   合掌。

 
 
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