メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2018 9月 » »
26 27 28 29 30 31 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 1 2 3 4 5 6
擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
TEL 03-3823-7647

当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

検索
カテゴリ一覧

擇木ブログ - 201501のエントリ

玉溪です。昨夜の続きです。

見えるところ、それを支える見えないところ、双方が一体となってやがて球体に育つ。
どちらが欠けても、何か不安定に映る。人間の成熟は意識してでも見えないところを育てる意識を持つことが大切なのではないか、座禅とは見えない自己の成熟を時間をかけて待つもの、という話でした。

さて、今夜は関係性のお話です。
フィギアスケートペアの場合、ふたりの動きが揃っていること、ふたりではなくひとりで滑っているように見えること、が評価される点なのだそうです。
これを「ユニゾン(同調性)」というそうです。
しかし男女は決していつも同じ動きをしてはいません。男性は支え、女性は持ち上げられたりしています。それでもふたりでひとり、というかひとつ、に見えることが大事なのだそうです。
これは完全にふたりが個々人でまず完璧であることが前提です。完璧でないことはスケートの場合は大怪我につながるのですが、つまりどちらかが依存している関係ではダメだということです。通常の人間関係にも言えることですね。依存関係はお互いを傷つけてしまいます。真の意味でふたりがつながるには自立している人間同士でなければひとつにはなれないということなのですが、難しいですね。
でもこれが第一の条件。

ペアの女性がインタビューで答えていました。
試合が始まる瞬間、「お互いに手を差し伸べた時感じるの。もし自信に満ちた強い手を感じたら大丈夫だってわかる。お互いが信じあって手を差し伸べることができればそれでいいの。」
男性は「手と手が触れて握り合う。そこから一歩踏み出したらそこからは一体。どんなことがあってもふたりで闘う。」と。
そしてただお互いの動きに耳を澄ませ、自分のやるべきことをやる。
自立した人間がひとつの球体になる二つ目の条件、それは「信じること」でした。
信じるとは頼ることではないことが、見ていてよくわかりました。

この大会で優勝したペアは、試合直前まで目も合わさず話もしませんでした。励まし合ったり、労わり合ったり、がんばろうね、などと全く言わないのです。
大丈夫なのかな、と思って見ていると、後のインタビューで女性がこう答えたのには感服するしかありませんでした。
「私たちは何をすべきかわかっています。だからもうあの場で話すことなどありません。」と言い切ったのです。
このペアは長野五輪で銀、ソルトレーク五輪金、世界選手権は連覇しています。
取材されていたロシアカップでも優勝したのですが、実はショートプログラムで2度女性は転倒したのです。
しかし私が見ていても、そんなことなど関係ないと納得してしまう素晴らしいものでした。他のペアがどんなに完璧に技を決めても追随を許さない言いようもない何かがそのふたりから湧き出ていました。
ペアで演技するとは、まさにふたりで作り上げる何かが評価の対象になるのだと会場中が理解し万雷の拍手を送っていました。
「もう話すことなどない」というのは、言葉で確認し合うようなレベルにいないふたりの強い関係の現われだったのでした。

関係の理想を現わした言葉が日本にもあります。
茶道でいう「和敬清寂」です。
「和」とはハーモニー。お茶を点てる人、飲む人がそれぞれの立場に徹することが土台になければなりません。そしてなおかつ融合してひとつの席、空間を作るのです。
それには相手を敬う気持ちがなければなりません。信頼は敬う念なくして起こらないからです。
そして自分を上に思ったり、相手の点前や道具やらを批判や評価してみたりする自己中心の心をきれいに捨てる必要があります。
自立した人間同士が、相手を丸ごと受け入れ合って和と敬が充満した空間は、自我の汚れもなく清らかで、そこに永遠の真実が顕現されるのです。つまり、関係の完成、この世に仏国土が現れたということになるのです。
茶席は人間同士でも、人間対自然でも、どんな関係性においても具体的な完成の姿を示しています。

そこには禅の精神があります。
「茶禅一味」と言うように、茶道は禅の精神を形にしたもので、久松真一氏は、茶道は禅を僧堂から路地に引っ張り出してきたもの、というような表現をされていたと思います。

禅では「自他不二」ということを目標にします。自他不二とは自分と他がはっきりと区別されている上でズレがないということで、どうしてこれがそんなに大切なのかと言うと、それが菩薩の境涯だからなのです。
仏教は究極、悟りを得て心が涅槃に往生した者は、自我を空じて他をそのまま、あるがままに受け入れる、それができれば煩悩から解脱したということになる、と教えます。
なぜなら人間の苦は、目の前の現象を自分を中心に「良い悪い・好き嫌い・正誤」等々、判断する事から始まります。
判断するということは、その感覚を選び取った瞬間にその思いに自分自身が縛られる、その感覚に支配されるということになり、様々な悩みや苦しみが生まれることになります。
人は皆、そうした煩悩からなんとか自由になりたいと願い続けてきたわけですが、その方法はたったひとつ、目の前の物を判断せずにそのまま、ありのままに受け入れることです。
「そのまま」を寸分のズレなく受け止めれば、自分は自分でいながら他にほかならず、「慈悲」の心が生まれます。合掌の心、菩薩の心です。
それはたぶん自分を信じ、相手を信じる心として顕れる。そして、相手の目を見、笑顔で手を差し出し、握リ合って共に息を合わせて一歩踏み出す、そんな行為につながっていくのだと思います。

座禅をしていて雑念が出てきても、そのまま、そのまま、とあるがままの状態を受け入れていると、自然に雑念は波間に消えていき、そのうち波も凪いで静かに収まります。
すると水面に月がくっきり映るように相手や物事が映る、そこに和敬清寂の「寂」の世界が体感されてくるのです。
難しいですが、そういう道筋です。

この世は関係性で成り立っています。見えたもの、聞こえたもの・・・環境も含めた対象物との出会いの連続が人生です。
他を敵と見て格闘するか、ユニゾンを湛えながら信頼し合って寂を味わうか。

さて今夜も座禅しましょうか。
ご一緒にいかがですか・・・
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (478)
慧日庵こと玉溪です。
今日は寒かったですね。関東は初雪でした。雪が音を吸収していつもより静かで、とても心が鎮まる良い一日でした。皆さんはいかがお過ごしだったでしょうか・・・
 
昨夜ひと段落ついたらすでに午前1時を回っていました。
残りの家事をしながらふとテレビをつけましたら、BSプレミアム「氷上のふたり ロシアフィギュア――愛と挑戦の物語」をやっていました。
2002年のソルトレーク五輪を前にしたペア部門でコンビを組む2組の男女のドキュメンタリーでした。
何気なくテレビの音を聞きながら動いていたのですが、ふと「トップクラスのペアには何というか、隠し味のようなものがあるのです」というコーチの言葉に思わずテレビを振り向きました。
 
私は毎月様々な場所で講演しています。様々な聴衆に向けて様々な題を頼まれてお話しますが、禅の話は結局「自分らしさとは何か」に集約されます。
「隠し味」とは言い得て妙だ、と引きつけられました。
 
同じように靴を揃えても、同じようにお茶を飲んでも、同じようにお辞儀をしても、表面に見えているものは同じなはずなのに、皆印象は違います。
それは、私たちは見えているものを見ているのではなく、その背後の見えないものを見ているということなのだと思います。その見えないものこそ自分自身です。
ましてやフィギュアスケートでのショートプログラムは決まったメニューがあるのですし、一流選手はほとんど技術は同等に出来ているのに、何かが違う、全然違う、ということが起こります。
ということは表面を良く見せようとしても、それは半分に過ぎないので、残りの見えない半分をなんとかしなくては、ということになるのではないでしょうか。
 
禅では「陰徳」を重んじます。見えるところが「陽」だとすれば、見えないところが「陰」、人間として半分だけということはあり得ず、どちらかを欠くこともできないのですから、「陰」は意識してでもやる、やらせていただく、ということがいかに自分自身を育てるか、想像ができるというものです。
そして座禅をするということは、見えている日常の質を背後から充実させていくことになります。人物の得も言われぬ厚みとはこうした時間が熟させ、やがて双方が一体となって円満な玉に育っていくのです。
 
ハウツーもスキルアップも大切です。しかしそれだけでは球体の半分です。それを支える見えないもう半分を充実させましょう。それでこそ見えているところが活きてくるのではないでしょうか。
 
黙って座禅をする。そして自己が熟すのを時間をかけて待つ。
 
いかがでしょうか。週末、日暮里に座禅にいらっしゃいませんか?

明日もロシアフィギュアスケートの続きで、ペア、つまり関係性について書こうと思います。
皆さん、今日も良い一日を。
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (555)

座禅が効く:座禅を続ける工夫

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2015/1/30 16:16
 心印です。 
 
擇木道場には座禅が初めてという方がたくさん来られます。私は初めての方に座禅を教える時、座禅は継続することが大事、続けないと効果がない、でも続けると早い人で1ヶ月、ほとんどの方が半年もすれば変わってくることを実感されるという話をします。
 
正しい座り方も大切ですが、それも継続しないと意味がないので、続けると変わることができるんだと思ってもらえるように話をします。
 
でも・・・実際ほとんどの方が一見さんで終わってしまい、次の週は来られない、10人来られたら、うち1人がまた来られるかどうか、入会にいたっては100人に1人という割合でした。
 
 でも中には3か月ぶりに来ましたとか、3年ぶりに来ましたという人も中にはいるので、縁をつけるというのは意味があると思っています。一度でも座禅を体験しておくと、何か解決のつかない問題にぶつかった時に擇木道場を思い出してくれるかもしれませんし、再度来訪する敷居もだいぶ下がっていることでしょう。
 
ところが今年度は入会された方が既に15名、じゃあ1500名も来ていないので、入会される割合が50名に1名くらいになっているようです。男女比率は女性に偏っているので、きっと女性の方が生きにくい世の中、悩みは多いのだろうと思われます。
 
この前入会されて道号も授かった女性が「まさか自分が入会するとは思っていなかった」と言われていましたが、私も座禅だけの方と思っていたので参禅まではじめられた時は驚いたものです。
 
このように正式に入会してしまうのが、座禅を継続するには一番良いと思います。今までお客さんだった方が運営側に立場が変わると、自分がやっている座禅会だという意識もできるので、たくさん来られたら、それも自分の喜びになるのです。
 
さて週末の金曜日です。東京で夜一番遅い座禅会、今夜は何名の方がいらっしゃるでしょうか?楽しみです。
 
心印 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (565)

座禅が効く:死と禅の話

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2015/1/29 14:57
心印です。 
 
先日の禅フロンティアでのテーマは「死と禅」でした。
 
仏教は死後の世界やあの世があると言う古臭い教えだと誤解されるむきもあるのですが、本来、仏教は死んだ人ではなく、生きている人を対象としているので、死後の世界については言っていないのです。
 
高額のお布施をするとご先祖の中から守護霊になる霊を育ててくれる(?)とか、ご先祖様を粗末にすると祟ると言うのは仏教の教えではありません。
 
人間禅でも高額なお布施をすると、地位が偉くなるとか、進級できるわけではありません(笑) 道場の運営費や新しく建物を建てる時など喜捨という考え方はありますが、それをお布施とは言わないですね。
 
日本では葬式を行うのが仏教のお寺ですし、浄土系の宗派が「南無阿弥陀仏」と唱えると、死んだ後、極楽に往生できると説いてきたので、そう思われてしまっていますが、江戸時代の素朴な人ならともかく、科学が発達した現代人に地獄や極楽は通用しません。
 
これは「南無阿弥陀仏」を唱えさせるための方便で、禅で言えば数息観のようなもの。極楽もあの世ではなく、この世のことなのですが、伝統的な仏教のお寺では、昔からそう説いてきたのですぐに変えられるものではないようです。
 
それでも科学の時代に禅に興味を持つ方がいて、擇木道場に座禅しに来られる方が増えているのは、禅は科学と矛盾しない、生きている「今ここ」が即、座禅で極楽(・・・とは言いませんが)に変わるからなのです。
 
特に公案の修行で見性すると、山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)、この大自然では全てのものが成仏している、大いなる命とでも呼べるようなものがあって、自分はその一部で、縁によって生かされているのだと実感できます。
 
縁によって生まれ、縁によって死んだらその中に帰る(のかな?)だけのこと。それが先の禅フロンティアで思ったことです。
 
禅をしていない方には実感できないことなのですが、それでも花を見て「きれいだ」とか「美しい」と言葉が出る前に見とれた経験があれば舟洞 真如、そこに手がかりがあります。
 
日本人には美しい四季のある大自然の中で育んできたメンタルがあります。欧米人にはうるさいだけの蝉の鳴き声にも夏の季節を感じられるのが日本人。
 
こういう話ならいくらでもできるので、何かを感じたら擇木道場に座禅をしに来られませんか? 明日の夜は久々の通常の座禅会なのでじっくり落ち着いて座ることができるでしょう。
 
心印 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (835)
○輪読 『勝鬘夫人の告白』(通算19回目、99~106頁)
○坐禅
○参禅
○出席者:18名(新到者なし)

新年を迎えて初めての女性部勉強会となりました。

この日は、「18.真理はただ一つ」「19.六処の教え」の章を読み進めました。
2つの章に共通してテーマとなったのは、「方便の功罪」です。

テキストによれば、「真実」はただ一つであるけれども、それをいきなり説いたのでは伝わらないことがあり、より受け取ってもらいやすいように、方便としての伝え方を採ることがある。それは「ウソ」ではなく「真実を得させんがための手段」であると。
方便としてどのような伝え方が最適なのかは、その時々の時代背景や個々人の状況に応じて種々に異なる。方便として伝え方を工夫することにより、受け取ってもらいやすい形で大切なことを伝えることができるけれども、その一方で、目的であったはずの「大切なこと」が形骸化し「方便としての伝え方」だけが残ってしまった場合には、「方便」が「真実」であると本末転倒してしまうおそれもある…。

このことを、慧日庵老禅子が「いちご大福」にたとえて解説され、このお話がとても印象に残りました。

苺の美味しさを知らない人や苺を嫌いな人に、その美味しさを分かって食べてもらおうと工夫して、大福にくるんでみた。
「苺をこそ食べてもらいたいのだ」という思いはあれ、まずは大福として食べてもらえればそれでよい、という面がある一方で、いつの間にか苺はそっちのけで、つぶ餡のほうがいいとか、餡のかわりにチョコにしてみたらいいとか、大福としてのありようばかりが取り沙汰されるようになると、それはそれでどうなのかと。

この「いちご大福」のお話は、「大乗仏教と上座部仏教の関係」、「仏教における宗派とは?」といった内容に通じていき、それこそ「いちご大福」なみに一粒で何度も美味しい、内容の濃い勉強会となりました。

ご興味のある方、詳しく聞いてみたいと思った方は、是非、3月28日(土)の次回勉強会にご参加ください! 心よりお待ちしています!!

                                                                                                                     紫芳 拝 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (454)
心印です。

この週末は擇木禅セミナー、禅フロンティアが行われました。良い天気と1月とは思えない暖かい陽気で、特に土曜日の俳書勉強会(俳句)は27名、日曜日の禅フロンティアにいたってはなんと97名と大勢の方がいらっしゃいました。

「脳科学と禅」の時も座布団がなくなりましたが、今回の「死と禅」でも座布団がなくなってしまいました。大盛況ということでありがたいことでした。

内容も死という重いテーマでしたので、いろいろ書けることはあるのですが、とりあえずビデオを編集して禅フロンティアのサイトにアップロードすることを優先しようと思います。

心印的には、こういう話が心に残りました。

・仏教でよく言う「あの世」と「この世」とか「極楽」と「地獄」は、どこか遠い世界の話ではなく、この現世のことを指している。
・死を科学から言うと、質量不変の法則で有機体の肉体は無機体に変わってもその重さは変わらない。放置すると水や炭素、最後まで残るカルシウム、つまり骨に分解されるが、地球上から無くなるわけではない。

・死を宗教から言うと、死んであの世に行くのは、この世に形を変えて存在し続けるということ、これが禅で見性した時に悟る永遠の命や仏性(と表現されるもの)である。
・科学は自然の一部を解明したに過ぎないが、このように禅と対立するものや、矛盾するものではない。

後はエピソードで語られた「もうおしまいだ!!」と絶叫して亡くなられた方の話など、死に直面した患者さんに医者がどう向き合うかという話は心に迫るものがありました。私はSEですから死に直面することはほとんどないのですが、終末ケアなどのお医者さんはそれこそ毎日が死に向き合う仕事なんですね。

ビデオが編集できたら、またこのブログでも案内しますので、ご覧ください。>

さて、仰月庵老居士の「十牛図」のブログにある通り、人間禅での修行の階梯は、入門したての地大級、見性した段階の水大級、見性悟道の火大級、行解相応の風大級、見性了々底の空大級、さらに識大級、師家分上の7段階に分けられています。

私の方は、この度、火大級に進級することができました。人間禅に3年前に入門してから病気や仕事の時は別にして、参禅できる機会はほとんど逃さずに来ました。ネット布教会議を行う為に広島にも行ったことがありますし、参禅できる機会が一番多い禅フロンティアは金曜夜から日曜の最後までほとんど出ています。本部摂心や京葉支部での摂心は平日は仕事で市川まで行けませんが、その分、土日は詰めるようにしてきました。

この経験から言えることは、参禅は回数だと言うこと、禅は難しく、仏教への理解が乏しく、道力も弱く、道眼の暗い者ができることは参禅の機会を増やして、老師にご指導頂くしかないと思ってやってきました。

でも、これは役位が侍者という老師のおつきの者をしているからで、この役割がなければこんなに参禅はできていないかもしれません。人間は弱く易きに流れがちですから、道場に行く機会を自分で増やさないと、さぼりがちになってしまいますね。

面白かったのは、今までネット布教ということでホームページを作っては理解の乏しいなりに禅の修行について書いてきたのは、本当は無免許運転のようなもの(笑)、この度、火大級に進級と同時に補教師という役割も任命されましたので、これで免許ができたねと(笑)

でも、禅というものは深く、まだまだ仮免許で路上教習ができるくらいではないかと思いますねw

私の進級と同時に、最初の公案を透られて水大級に進み、晴れて道号を授かったのは女性の泉さんで、玉水というお名前でした。苗字が泉だから玉水なんですね。最近は黄玉(こうぎょく)さん、青玉(せいぎょく)さんと玉シリーズが続いているのですが、玉は美人につけるとかなんとか・・・爆

美人と言えば慧日庵老禅子も玉渓さんがいらっしゃるのですが、確かに全員美人です。でも玉がついてなくても美人ぞろいなので、男性の方、もっと座禅においでください。

最近、入門する方は女性ばかりなので、男性陣しっかりしてほしいものです(と自分にも言う・・・w)。

心印 拝

満杯になった下駄箱

 

 


 

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (683)

三昧とは何か? 質問に答えて

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2015/1/22 15:10
心印です。
 
火曜座禅会に老師が来られた話は前回のブログで書きましたが、その際にずっと通って来られている方が質問をされました。
 
曰く「三昧がよくわからない・・・座禅をしていて、ずっと集中できていることもあるし、窓の外で木が動いているように見えたこともあるが、三昧なのか、魔境、幻境なのかもわからない」とのことです。
 
確かに私も三昧になれていると数少ないながら感じることもありますが、じゃあそれ本当に三昧なのか?と問われると、気のせいかも・・・と言うようなあやふやなレベルです(座禅始めてもうすぐ4年くらい)。
 
でも1から100まで数息観がすーっと続けられることが、稀にあって、そういう時は三昧だったのかなぁと思います(気のせいかもw)。
 
私も興味があるので老師がどうお答えになるか、思わず身を乗り出しました。
 
老師は「三昧は言葉を越えたところのものなので、そこで体験したことを言葉にして説明することはできないのだ」とのこと。また「三昧や悟りがわかったと言うと、頭頂葉が三昧だ、悟りだと判断しているだけでそれは本物ではない。」と。
 
「頭頂葉は人間のデジタルコンピュータで、いろいろな判断をするところで自己と他を区別している。座禅で三昧になるとここがサイレントになり不活性の状態になる、入れ違いに前頭葉が活性化してくるが、こちらは感性をつかさどるところで、自己と他を一体にみることができ、自然とも一体に感じることができる。学問や理性の領域が頭頂葉だとすれば、芸術や感性の領域が前頭葉である。人間形成はこの三昧を身につけることでできあがっていく。」といつもの説明もされました。
 
数息観を長年やっていると、このON/OFFが自在にできるようになるそうです(凄い!!)。
 
この日、初めて参加された女性が弓道を10年くらいやっていたそうで(最近、弓道の方が多いのですが・・・)、弓道で三昧(?)になった時は、的が近く、すぐ目の前に見えてくるそうです。
 
また書道をやっている方もいらっしゃって、100枚くらい書く必要があって、最初の50枚くらいはいろいろと考えながら書いてしまうが、それを過ぎると何も考えずに手が自動で動いて字を書いていくと、彼はこれをゾーンに入ったと表現されていました。
 
座禅で三昧になれたら、数息観が他の念慮を挟まずにすーっとできるのではないかと思います。私のレベルではいつもこの状態に入れるかというと確実ではないのでまだまだですし、座禅による三昧や悟りが正しいものなのか、あるいは間違いなのかは師家に参禅して鑑別してもらうしかないということでしょう。
 
この金曜日から日曜にかけて擇木禅セミナー、禅フロンティアがあります。ここで老師に照見して人間禅がどういう禅の修行をしているかを聞くことができます。公案による参禅修行について説明が聞きたい方はスタッフにお尋ねください。
 
心印 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (526)
 心印です。

私は金曜の夜~土曜早朝が座禅会の担当なので、他の座禅会は最近、あまり出ていませんでした。昨日は仕事が早々に終われたこと、今日のさいたま参禅会の準備があるので久しぶりに火曜座禅会に行きました。

ちなみにさいたま参禅会の準備は秋香さんが既にして頂いていました。どうもありがとうございました。
 
久しぶりに出た火曜座禅会はすっかり人が入れ替わっており、20代~30代の若い方が男女同数くらい10名くらいいたので驚きました。先のブログに書かれている通り、十牛図の話をしようとしたが、毎回人が入れ替わって継続して聞く方がいないとのこと。これを聞かないのは非常にもったいない話なので、行ける方はなるばく行くようにしましょう。
 
老師が20時にお帰りになったのは(道場に入山することを帰ると称する)、座禅が終わって茶話会で仰月庵老居士がお話をされているところでした。一通り、人間禅では両輪の輪で数息観と公案を使った参禅の修行しているという話をされました。
 
数息観で三昧を身につけると感性が磨かれ人間力が上がる、一週間でも一ヶ月でもやればやるだけ少しづつ向上するのが数息観で、一生続けるのが理想ではあるが、辞めてもまあどうということはない。
 
それに対して公案を使った参禅修行は、チョイカルでやるものではなく、いったん始めたらずっと継続してやらなければならない、公案はブレを大きく揺らすようなことをする(老師、手を大きく揺らす動作)からで、古来から途中で辞めるくらいなら最初からやらない方がいいというものであると言うお話を頂きました。
 
若い方が多かったので、この中から参禅までしようと思う方が出てこられるかもしれませんね!! 公案を使った参禅の修行について、もう少し知りたいと言う方は、今週末の金曜日の夜、「東京で夜一番遅い参禅会」があり、20時半頃から老師による禅の修行の説明がありますので、そこへご参加ください。
 
心印 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (476)

十牛図

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2015/1/20 0:05
                                                                                  杉山呼龍

火曜日の坐禅会では、坐禅の後の読書会で十牛図を始めた。

これは禅家においては特に重要な文献であり、 悟りを牛にたとえて十段階の牛の図を示し、それぞれに七言絶句  の賛が付けてあるものだ。                                                                               

著者は廓庵師遠(かくあんしおん)禅師。生没年は分かっていない。これが書かれたのは1150年ころと推定されている。

巷間十牛図に関する本は何種類も出されている。その中でも耕雲庵立田英山老大師のものは、特に優れていると思う。

その理由は、禅の修行の段階を明快に示し、はっきりと内容を説明しているからだ。

人間禅の修行の階梯は、入門したての地大級、見性した段階の水大級、見性

悟道の火大級、行解相応の風大級、見性了々底の空大級、さらに識大級、師家分上の7段階に分けられている。

これらの段階の詳しい説明は『人間形成と禅』(立田英山、平成16年新装第1版、人間禅教団出版部〔初版は昭和34年〕)に書かれている。

雑誌『人間禅』21号(昭和20年代のものと思う)に発表された老大師の「十牛図提唱」には、十牛図の十段階と人間禅の7段階の対応表が示されている。

これを見つけたときは重要なものを発見したと思った。

しかし、この対応表は、ご著書『十牛の図講話』(立田英山、昭和36年発行)には省略されている。

一般向けの著書には不適当と考えたためであろう。

人間禅のこのような修行階梯は僧侶の場合にはない。

この階梯は、人間禅において、おそらくその前身である両忘禅協会以来、修行者のはげみとなるよう設けられたものであろう。

これは禅の修行における大きな法財なのだと思う。


  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (627)
心印です。

この日は市川の本部道場で剣禅一味参禅会が開かれていたので、京葉組は欠席だとわかっていました(京葉支部の魁星さんと玉道さんは剣道部)。そして埼京支部(擇木道場の支部)もスタッフが少なかったです。

私の方も朝バタバタしていてメルマガを流すのを忘れてしまったのですが、黄玉さんが20時になっても誰も来ないので、「もしかしたら今夜は中止?」と不安だったようです(笑)

でも常連さんが数名見えられて、予約は1名だけだったのが新しい方が7名も来られたので、2列はいっぱいになりました。やはりメルマガは忘れずに出さないといけませんね。出せば3列、出さねば2列になります。

新しく来られた7名はほぼ同時に来られたので全員お友達かと思ったら、3名の女性がお友達で、2名の男女はカップル(?)、後の2名は個別での来訪でした。

若い女性が多くて、久しぶVBAりに座禅の仕方を教える私は少々あがりました(笑)

最近入会された方も、来られる方も女性が多いのですが、男性にも頑張ってほしいものです・・・でも考えてみれば金曜の夜の常連さんは男性ばかりになってしまった・・・つまり常連になった女性は皆入会されてスタッフ側になってしまったのですね(笑)

以前は男性ばかりの硬派な(男臭いw)座禅会だったのが、いつの間にか女性比率が上がってきて軟派な(笑)もとい柔らかい雰囲気になってきているので、初めての方も参加しやすいかと思います。

カップルで来られた男性の方は金融関係でSEをされているとのことで、業種も職種も私と似ている感じでした。でもSEさんはたくさん来られますが、みなさん多忙で続かないんですよと言うと、頑張りますとのことです。SEはストレスの多い仕事ですから、座禅は効きます。継続して来られるといいですね。

座禅会後の勉強会に残られた方はなぜか初めての方ばかりになったので、いつも読む「禅入門」は今回は先に進むのをやめて、人間禅はどういう座禅会なのか? どういう修行をしているのかを説明しました。

皆さん熱心に聞いておられたので、この方達の中から参禅までしようと言う方が出てこられたらいいなと思いました。でも最初からそこまで思う方は稀ですから、座禅会に毎週来られるだけでもいいのです。

熱心に通ううちに参禅やってみたいと思う方もいるので、人によってきっかけは様々ですし、数息観だけでも相当奥が深いものなのでやると良いのです。でも私の場合は、参禅することで漠然と数息観をするのではなく、真剣なものになったのはありますね。

夜は女性がお一人宿泊されたので、黄玉さんと二人で禅子寮という女性専用の寮に泊まられました。男性は私一人だけだったので広い禅堂に一人寂しく寝ました(笑) いつもは男性も5,6名は泊まっているのですが・・・???

心印 拝

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (473)
最新のブログ記事