メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2017 10月 » »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 31 1 2 3 4
擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
TEL 03-3823-7647

当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

検索
カテゴリ一覧

擇木ブログ - 201411のエントリ

●9時45分~正午
●輪読『勝鬘夫人の告白』94~98頁
●坐禅
●参禅


 「坐禅に関心があって」道場に初めていらした女性2名、木曜坐禅会を中心に参加されているYさん、この日入会式に臨まれたWさんの4名をお迎えしての勉強会・参禅会となりました。

勉強会では、始めに慧玉禅子より勝鬘夫人や勝鬘経についての丁寧な解説と前回までの振り返りがあり、総裁老師よりテキスト『勝鬘夫人の告白』を著された一宇庵小野円照老師についてのお話もいただきました。それに引き続いて、「人と正法との一致」の章を前回の続きから最後まで読みました。
勝鬘夫人は修行にあたり、その覚悟として、修行をすることを選んだ者は、末法時においてこそ互いに協力しあって真理を護り、これを広めなければならない重い責任を負うのだと述べています。
勉強会ではこのことについて、みなさんがそれぞれの思いや考えを語り合いました。
世界中で争いが絶えることなく、大人であれ子供であれ人々が常に何かのストレスにさらされているような世の中にあって、禅の修行を志し、禅のすばらしさ・奥深さを知る(知り始めた)わたしたちはどうすべきなのか。何ができるのか。どうやってそれを伝えていけるのか。とても有意義な、充実した勉強会であったと思います。

『勝鬘夫人の告白』の輪読会も、今回で12回目となりました。ページも進み、佳境に入ってまいりますが、初めての方も是非、ご参加ください。これまでの内容の振り返りもありますし、みなで味わう文章の中に、きっと感じるものがあると思います。
ご参加をお待ちしています。


紫芳拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (473)
擇木道場の心印です。

★本日は20時から東京で夜一番遅い参禅会です。
擇木禅セミナー・禅フロンティなので、いつもよりも1時間開始が早いのでご注意ください。
また参禅会となると来れない方が多いのですが、座禅だけの方もいらっしゃってください。参禅の厳しい雰囲の中で座るのも良いことだと思います。
★参禅のお勧め!!
 
長く擇木道場に来れている方は、人間禅の会員が公案を授かって参禅していることをご存知だと思います擇木道場は初心者から本格的な禅の修行者まで幅広く対応できる都内でも少数の禅道場一つです。
 
せっかく擇木道場に縁あって来られているのですから、参禅して公案授かってみませんか? 数息観だけでもいいのですが、一歩先に禅のレベルを上げてみとまた新しい世界が広がりますよ!
 
初めて参禅される方は、この週末の擇木禅セナーへご参加ください。
最初の説明会は夜20時受付です。
 
以下の禅フロンテアでも参禅できますよ!!
★禅フロンティア 山岡鉄舟第2弾!「全生庵」と「擇木場」

予約の取れない禅道場と東京で夜一番遅い座禅会。今、なぜ、禅なのか?

前回、「山岡鉄舟!至高の剣と禅」で、鉄舟が開いた無刀流の継承者による剣の極意を前にし、剣禅一如の充実したフォーラムが開かれた。今回は第2弾として、同じ東京台区谷中に建つ鉄舟ゆかりの2つの禅道場の「今」を取り上げる。

 全生庵は山岡鉄が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治16年に建立し寺である。今は安倍首相が座禅する道場として著名だが、古くは吉田茂、池田隼人ら政界の大物たち、また中曽根元首相も在任時に通ったことでも知られている。初心者座禅は2カ月先まで予約でいっぱいだそうだ。

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (543)

若手の技術者との懇親会で

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2014/11/27 23:47
龍吟です。
 
名前を「龍吟」です。というのをどう思いますか。「本名じゃないでしょ。」と。そうなんですね、この道場内でつけてもらった名前です。「え、なんか、怪しい。。。」
 
そう思うかもしれませんね。でも、これは「道号」といって、この道場での呼び名で参禅をして、見性するとつけていただける名前で、大切な名前なわけです。なので、こうして名を名乗ることについては、ひとまずご勘弁を。
 

 
今日は、若手の技術者との飲み会があって楽しかった。
 
ひとりひとりの自己紹介を聞いていて、とても胸が熱くなりました。
 
「毎日、午前3時まで仕事、そこから飲みに行って、でもすっきりして、また朝から仕事しています」とか。「私は技術もなければ、知恵もない。だから、みんなをその気にさせて引っ張ることにしかできないんだ」とか。
 

いま、ある中堅企業の技術者の人材戦略を立てているのですが、千人規模の社員の今後の身に着けるべきスキルをどうしていくか。腹を割って話していくわけです。
 
戦略という話ですので、単に技術動向や、流行りすたりの話に合わせるのではなく、自社の得意分野を踏まえて、市場で優位に立つためにどうすればいいのかを立案していくわけです。
 

ただ私としては、この会社がどう優位に立てるか、というより、目の前のみんなが、この先、5年、10年、しっかり楽しく、そして食べていっていけるようになってもらいたい。
 
みんなに幸せになってもらいたいです。
 

私が言えることはあまりありませんが、多少先輩として言うとしたら、今、目の前のことに一生懸命やるのがいいと思います。
 
20代、30代の方からすると、もっと新しいことをしたい。もっと認めてもらいたい。もっと技術を吸収したい。そんなことがたくさんあると思います。だからこそ、目の前のことをしっかりやり切る。そうすると次の話がどんどんくるのですね。

 
青い鳥を探してもみつからない。
 
目の前のことをしっかりやっていると、そのうち、ひょいっと、会社の中で大抜擢されたり、いい条件で他社に引き抜かれたりする。
 
あるいは、収入上の実利がなくても、周りの人にとって、頼られる貴重な人材になる。
 
今の仕事の状況に逃げずに(たまには逃げてもいいです)、やっていると、毎日が楽しくなる。
 

こうした話は、まさに禅の精神のように思うわけです。
 

禅については私は修行ができていませんので、面はゆい話ではありますが、こうした業界については、先輩として若手を育成する役割があると思っています。
 
技術者みんなの仕事が幸せになるようなことをしていければと思います。
 

 
龍吟 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (541)

11月26日 さいたま座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2014/11/27 10:09
昔流行った「冷たい雨」の中、まず浦和駅東口のPARUCOへ
そのあたりの涙が出そうになったことは下記へ
http://ameblo.jp/yukioninaite/entry-11957486159.html

今日は座禅後、禅誌46号の巻頭言「陰徳を積む」から、
「座禅を組んで数息観を行ずる、呼吸を数えること以外の
念慮がだんだんと小さくなって数息三昧に入っていく、
これを最近の脳科学の進歩を参考にして三昧時の脳の
状況を解析的に云えば、自と他を相対的に峻別する前頭葉
がサイレントになり、自と他を区別しない感性を司る前頭葉
が活発になる脳の状態であるということができます。」
というくだり を読もうと思っていました。
 
ちっぽけな吾我が常に空じられ、自己顕示欲も全く起こす
ことがない・・・。
そして、座禅よりもなお、日々の陰徳行がその効果が大きい
普段の生活の中のことのほうが大事なのだと、お書きに
なっています。

 
この他、46号は、「禅者の死」ということで、鸞膠庵老師が
「死」について書いておられ、ウーンとうなりながら読みました。

居士たちの「禅者の闘病」に書いてある、「病気になったら苦
しくて数息観なんてできなかった」、「寒い日に摂心会に参加
するとガンは元気になる」というのは、この会が「言論統制し
ない自由なありさま」が良くわかるのですが、それにしても、
編集者は、よくぞそのまま載せたなぁ、という面白さです。
(各道場で、どなたでも購入できますから良かったらどうぞ)
http://keiyo.ningenzen.jp/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=111
 
ところで・・・・参加は、S禅子と私の2名。
S禅子はケガで松葉杖のために傘をさせないので、合羽で
来てくださって、座禅に必要なものを運んだり動かしたりで、準備を
整えていてくださいました。

2人でニ炷香坐り、また来週を楽しみに、ということで終了にしました。
 
今朝、パソコンを開いたら、来週、初参加したいとのメール
がありました。ひとり坐れば世界全体が坐っているので
人数の多少は念慮の他ですが、やはり、このすばらしさ
をひとりでも多くの人に知ってもらいたい。

とっても嬉しい朝であります。

(12/3参加希望のTさん、返信メールを送ったのですが、 
 着信されていないとメッセージがでています。
 お待ちしています。どうぞ、お越しください。)

                                                 さいたま座禅会 野島海香
 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (738)

団体さんでの座禅は難しいという話

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2014/11/26 23:31
心印です。

座禅会を行っていると、時々ホームページに会社の同僚や地域の自治会、大学のサークルなどで座禅会に来たいのですが?という話が舞い込むことがあります。

この手の話が入る度に、少々複雑な気持ちになります。
また座禅について誤解する人が増えるかもしれない・・・

これがお店なら売上が増えるなど喜ばしいことかもしれませんが、どうも座禅の場合は違うようなのです・・・と言うのは団体さんは一度来られたら、それっきり、その後、継続される方が誰もいないのです。

まず例外なく、今まで来られた団体さんで継続して来られている方はいませんし、参禅や入会をした人もいません。

たくさん人数が来られたのなら、そのうち一人や二人はこれは結構なものだと継続する方がいそうなものですが・・・誰も来られません。

もしかしたら私の教え方が悪いと言われれば、その通りかもしれないですが、個人の方は継続して来られている方が多いので、一概に教え方の問題だけでもなさそうです。

いつも書いていますが、座禅は1回だけでは足が痛かった、息が数えられなかったで終わるのが常なので、その素晴らしさはわかりにくいのです。中には1回目から、気持ちがスッキリしたとか、これはいいと思う方もいますが少数派です。

これが2回、3回と1ヶ月くらい続けて来られると、道場の雰囲気にも慣れ、足の痛みも気にならなくなり、数息観がある程度できるようになって、ざわついていた心が落ち着いたり、気持ちが明るく変わってきたりするのです。

団体さんで座禅に来ると、このあたりが全くわからないで終わってしまう・・・それで座禅がいいものだと思えない・・・1回だけで終わってしまうという感じになる、まさに負の連鎖に入っているのだと思います。

では、なぜ団体さんで来ると、座禅の良さがわからないのか?

これははっきりしていて、座禅で向き合うのはプライベートな個人の自分の心だからです。ざわついているのは自分の心であるのですが、会社や大学、友人、仲間などの中で座禅をしてしまうと、人間関係に振り回されて肝心の個人の心にまともに向き合えないのです。

外面の足が痛いとか、座っている形や、他の人の動きが気になったりしているうちは、内面の個人の心とは向き合えない。

数息観が曲がりなりにも少しできるようになると、そういう雑念が減って、そういう外面の事象が気にならなくなり、自分の心が見えるようになってきます。

擇木道場の存在意義は在家の一般の人にも難しいとされる禅の門戸を広めるべく大きく開いていることだと思うので、初心者は団体、個人を問わず大歓迎なのですが、以上のようなことに気をつけて頂き、リーダーさんにはメンバーにそういう説明をしてほしいと思っています。

本当はリーダーの方が先に来られて、擇木道場の雰囲気を見てもらい、自分の団体に合うかどうか判断したり、スタッフと相談してもらえればいいと思うので、今度、団体さんの注意とかホームページに書くかと思っているところです。

擇木道場は真剣に座禅をしたいと思って来られている真面目な方が多いので、観光気分(お寺じゃないしw)や、レクリエーション、イベント的な形で来られる団体さんはお断りです~

心印 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (780)

 この週末の三連休で 東京の紅葉も 一段と進み、 今 真っ盛りです。 
女性部座禅会のブログも書かず、 昨日・今日と 黄色や赤を追って歩き
ました。 上野の山は 今年は まことに見事です。

11月22日、穏やかな日差しの中で座禅、そして恒例の 「坐禅のすすめ」を
読み、 その後 猫の集会のように 窓近くの日溜まりで 呈茶になりました。
いろんな話題が出ました。
座禅二回目の女性が 警策を受けてみたいと思ったけど “合掌”の動作を
するのに勇気が要った と云われました。
また、いつも途中で足が痛くなって苦労されている方が微動だになさらない。
実は 背筋をピンと伸ばしたまま 眠っていたと!。
助警も 1炷香の中で何分かは 自分の座禅がしたいのです。 気付かず 
ごめんなさい。

慧日庵老禅子が最近のブログで、ご自分が 三種類の座禅をする。 一つは
公案の工夫の座禅、 一つは数息観の座禅、 そして 一つは湧いた念慮を
笹の小舟に乗せて そーっと流れに戻す 心おだやかな座禅………。
このような内容だったと思います。

この三番目、 やってみました。
今までは 次々と現われる三昧の お邪魔虫に苦労していましたが、
“小舟に乗せて……” というのは とっても穏やかで、 “出て来てもいいよ”
と思うと、 意外なことに 敵も少数になるのです。 大発見です。

この週末、 擇木道場では 禅セミナー ・ 禅フロンティア  が開かれます。
29日(土) 9:45 から 「勝鬘夫人の告白」 を読みながらの女性部勉強会が
あります。  禅の真髄を 老師が 平易な言葉で話して下さいます。

是非ご参加下さいまして、合間に上野の山の錦を お楽しみ下さいますよう。

                                         秋香



  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (586)
心印です。

2014年9月28日に開催された禅フロンティアのビデオをYoutubeへアップロードしましたのでご覧ください。剣道家や禅者にはとても興味深いと思います。

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (620)
玉溪です。
さて、どくだみの話の次は、私の大やけどの話です。おつき合いくださいませ。
 
  私は禅書道という書道を主宰していまして、桜美林大学や淑徳大学の公開講座を受け持っています(ぜひ一度体験にいらしてくださいませ。興味深いものがあると思いますよ!)。それと共に浦和の自宅で大人や子どもたちの禅書道教室も開いています。

  その中に小学校1年生だったあるお嬢さんが通ってきており、そのお母さんがエステシャンの勉強中で、私に日頃のお礼も兼ねて美顔を施術してくれることになったのです。何分自宅の事で道具もままならない状態でした。
 蒸気を顔に当てて、良い気分で雑談しながら進めていたところ、突然激痛が走りました。蒸気の穴は以外と大きくて、直径2センチほどの円になっていました。そこからなんと細かい蒸気ではなく、庭で勢いよく水撒きをするホースのような量で、しかも沸騰した熱湯が、2・30センチの至近距離で私の顔に大量に放出されたのでした。

  うっ!!と思った時にはもう遅く、すぐに水で流して冷やしましたが、鼻から下、口、首、すべてが焼けただれたような赤というよりもはや茶色に近いほどの皮膚になっていました。私は鏡を見て、これは大変なことが起こった、と思いましたが、同時に不思議に心のブレがグッと止まったのを感じました。パニックになるかもしれない気持ちに急ブレーキをかけた、という感じでしょうか。ある意味本能的な危険回避だったかもしれませんが。
  もはや焦っても騒いでもどうにもならん、と一切の感情を排した、あるいは止めた、という感じでした。「よし、それで?今やるべき事はなんだ?」という方向にしか自分が向いていないことを感じました。こうなると不安も悲しさも怒りも全く出てこないものなのですね。
 
  「どうしましょう!」と言って涙ぐむ彼女に対し、「大丈夫、医者に行きます。ひとりでは危ないので一緒に来てくれる?」と言って激痛で目もチカチカするのですが、片手で氷で冷やしながら自分で車を運転して皮膚科に行きました。    
 彼女が「私が運転します」と言ってくれたのですが、どう見ても動揺しているのは彼女の方なので、自分で運転しました。幸い午前の診療の終わりかけでしたが、家を出る時、診療時間に間に合わないな、と電話で頼みこんでおく、ということもちゃんとして、入れてもらいました。
 
  医者は一目見て、これはまずいな、という顔をしました。大量の塗り薬をもらって顔中包帯だらけのミイラ状態で帰り、彼女を「大丈夫だから」と安心させて帰しました。
  激痛で眠れない夜を過ごし次の日医者に行きますと、医者は皮膚移植もあり得る、と言いました。何せ鼻を含めた顔半分と、前面の首全部の大やけどです。「治るにはどうなればよいのですか?」と聞くと、やけどの水泡の下から新しい皮膚が出てくるのが遅ければ、そのままケロイドで残る、ということでした。
 家に帰ってインターネットでめぼしい専門病院に電話して状態を話すと、近所の医者と同じことを言うので、特に出かけても一緒だと理解しました。
要は、巨大な水泡が皮膚を保護している間に、新しい皮膚が表面まで上がってくるのが先か、ケロイドとして固まるのが先か、ということらしいとわかりました。
 
  「そういうことか、うーーーむ・・・」としばらく唸っていまして「・・・よし!!坐して死を待つよりは行動すべし!!」と決意しました。
 「要するに、新陳代謝を上げて少しでも早く新しい皮膚が上がってくるようにすれば良いということだな・・・・・・・・・よし!運動するぞ!!」とひらめきました。今思うと、どこをどうしたらそんな発想になるのかねーーと思います(笑)。が、もうこういうひらめきは行動と直結するものなのですね。すぐにスポーツジムへ行きました。
 
 包帯では動くとずり下がってきますので、布を当てて、固定するためにマスクをして。このときほど真剣に走り、筋トレをしたことなど後にも先にもありません。なにせ新陳代謝を上げるぞ!!の一念のみです。きっとマスクの下は鬼の形相だったかもしれませんね。
 トレーナーの青年が、マスクをしている私に寄ってきて「あれ?風邪っすか~~無理しないでね~~」とのんきに声をかけてくるので、「やけどなの!運動して治すの!」とハアハア息を切らしながら叫びます。良く理解出来ていない様子です。
 しばらくするとまた別のトレーナーが来て「花粉っすか~~」と声をかけてきます。真剣極まりない私は、うるさい!と言いたいところですが、またもや「やけどですーー!!」と叫びます。もうマスクに大きな字で「やけど中」と書きたい気分でした。
 
 こんなことを一週間続けました。どうなったと思います?
治ったのです。医者もびっくりしていました。1週間でほぼ新しい皮膚が上がってきました。そしてその2日後には、当時私は西東京支部の支部長でしたので、支部員と会う約束をしていたので出かけましたが、もう包帯も取れて弱冠の赤味のところにはファンデーションを少し塗ってしまえばわからないほどになりました。彼に「すごいやけどだったのよ~~」と言っても「へーーわからないですね」という返事。
額や目の周りにも細かい水泡がたくさんありましたので、完治には1カ月ほどかかったと思いますが、逆に美容整形で、わざとやけどを起して皮膚を再生する(事故が多いと言われる)ピーリングを自分でやったっていうことなのかしら???というくらい、きれいになってしまいました。
 
 この時を振り返ると、大やけどをした、ということを受け止めきった途端、不安が1ミリも無い状態になった、ということは、前回の話でいうところ「正受」したのだと思います。
 格調のない話ではありますが、やはり「正受」したのだと思います。エステをしてくれた彼女に対しても1ミリたりとも文句は出てきませんでした。むしろ申し訳ないと謝る彼女をずっと励まし慰めていたほどです。
 いろんな方法を考えて当たってみて、もう方策がない、と受け止めた時、私独自の方法がどこからか湧き出してきました。おもしろいですよね。まさに正受すれば「自ずから」本来の自分らしさが働き出す、という公式のとおりです。運動して治す、なんていう方法はどこにも出ていませんでしたから。
 
 正受というと、何か難しいことのように思われるかもしれませんが、禅は高邁なことを教えるだけではありません。きっと私たちの小さな日常において、根底で支えるものなのです。ささやかな毎日の質を変えて行くもの、と言った方が良いかもしれません。
 
「釈尊は一言も教えを説いていない」と中村元先生も書いておられます。そのとおりなのです。仏教は、禅は、文字化した教えは本来ありません。ただ、三昧になること、そこに般若の智慧が広大な母なる海のようにあること、前回申し上げたように、そこはじっと静かで豊饒な海ではありますが、働きに直結しています。必ず自分らしい行動にすみやかにつながるのです。
 
母親が子どもが転びそうになったとき、自分のことを考えずにさっと手が伸びるように、知識認識を超えてその人らしい行動につながる、そこに迷いを感じていない本人自身の救済があり、引いてはその心の状態が子どもを救うように、他者への救済につながる、これが菩薩の姿、禅者の人間形成のの道程なのです。大乗仏教の教えのすべてはここにあります。
 
座禅をするということは、知識ではなく、知らず知らずのうちに人間を本質的に究めて行くこと、自ずから顕れる自分の本当の姿を見い出していくことです。しかもその姿が他と結びついていくところにこの方向の素晴らしい真実があります。
 
さて、明日は、最後にもうひとつだけの私の身に起こった出来事におつき合いくださいませ。

皆さん、良い一日を。合掌 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (757)
心印です。

東京で夜一番遅い座禅会開催しました。参加者は25名、初めての方は3名来られました。

お一人目は8時半にちゃんと来られたのですが、お二人は少し遅くなられたので、最初の方は先に教えて禅堂へ上がってもらい、お二人は2回目に教えることにしました。

座る時間が短くなってもったいないので、初めての方はできるだけ開始30分前にお越しください。

擇木道場では社会人の為の禅道場なので、仕事で止むを得ず途中から入退室ができますが、お寺では普通は座禅が始まったら出入りできません。でも途中での出入りは、既に座禅されている方の集中を邪魔するのでできるだけ回数は減らしたいのです。

さて座禅が終わったら、恒例の禅入門を読んで勉強しましたが、先週が「公案」で今週は「参禅と見性」のところでしたから、特に禅を始めたばかりの初心者にはとても重要なところです。

夏目漱石がかって円覚寺に参禅をしていた時のことを「門」という小説に書いており、その時のことを、「彼は考えた」とあるので、この公案というものは考える限り、絶対に透らないものですから、そのあたりの公案の工夫の仕方を説明しました。

参禅を始めている方もいらっしゃるので、また公案や参禅について興味があれば、今度の金曜~日曜まで擇木道場では禅セミナー・禅フロンティアがあって老師から直々に禅の話をしてもらう機会があるので、是非おいでください。

詳しくはこちらへ
http://takuboku.ningenzen.jp/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=131

禅入門の勉強が終わった後は、軽く懇親会をしますが、久しぶりに顔ぶれが変わったことから自己紹介をしてみました。いつもはほぼ同じ面子だったので、あまり自己紹介をしていませんでしたが、今回は新しい方が2名来られているのでしてみました。

やはり簡単にでも自己紹介をすると、お互いの禅についての考え方やきっかけが聞けますし、いろんなことで座禅に来られているのだなというのもわかります。

印象に残ったのは「母親が瞑想や新興にはまっていて、子供の時から強制されたので、抵抗があったのだが、大人になっていろいろなことがあり、今の私もそういう母親と同じようなものが必要になっているのかもしれない、楽になれるなら座禅でなくても瞑想でもなんでもいいのですが・・・」と言われていたことです。

座禅は楽になるまでには、一か月以上、半年くらいはかかるので、その間、苦しいとか面倒だという思いをするかもしれないですが、1年くらい続けて来られている方はみんな表情が明るくなってきたり、変わって来られるので、その人に合うかどうかですが、合えば確実な道かなと思います。

瞑想と座禅が違うのは、瞑想は詳しくないのですが、現実から離れていくところがあるように思いますが、座禅はどこまでも現実から離れません。未来も過去も切り離した、即今、ただ今の時、現実の足元に意識を戻すというか、今ここを離れて禅はないのです。

形で言うと目を開けているということが大きな違いだと思いますが、これも現実から離れない工夫なのかもしれませんね。

また長く修行されている翠松さんのが禅を始めた頃のお話を聞けて良かったです。ところどころ細切れには聞いていましたが、最初から最後まで全部聞けたのは初めてでした。

しかも次の土曜の朝、以前、道場で一緒に修行されていた女性のお子様が成長されて来訪されましたし。当時、子供を同じような頃に生んで、赤ちゃんを抱えて道場で一緒に参禅されていたそうです。

それから20年? 翠松さんの娘さんは赤ちゃんが生まれましたし、その方の当時の赤ちゃんだった息子さんが大きくなって擇木道場へ来られた。

私は仕事ばかりしてきた人間ですから、擇木道場に来なければこういう他の方の人生の話に触れることはなかなかなかったと思います。

人間禅を始めた時、耕雲庵老大師が残された「立教の主旨」には「正しく、楽しく、仲良く 人間味の豊かな人々の家庭である」という一文があります。最近は、多くの道友に支えられている感があって、ありがたいと思っていますが、本当に、擇木道場は素敵なところだと思いませんか?

あなたもこの輪の中においでになりませんか?

心印 拝

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (594)
玉溪です。

講演会や講座でなぜか妙にウケる話をご紹介しますね。

私の浦和の家には夏を前にどくだみがそれはもうたくさん生えてきます。
毎年その季節になると、「あーーーまた草取りだな・・・」とかなり嫌な気分になっていました。
ところがある時、「そうだ、どくだみは生薬として漢方などでも使われるのだから、いっそ使えないだろうか!」と思いついたのです。
それである年から、ジャブジャブと洗って(じつはこれが結構気持ちよいのです)、小分けにして根をゴムで結び、ハンガーに跨がせて夏の日差しで乾燥させ、焼酎を買ってきて適当な空き瓶に詰め込んでみました。
1カ月もすると濃い茶色の液体になります。
考えてみればどくだみは美白成分があって、化粧水として売られています。
それ以来私は化粧水を買ったことがありませぬ。

今では、どくだみが生えてくると、「よしよし1年分の化粧水が生えてきたぞ!今年も元気で丈夫そうなどくだみだ!うーーん、臭いも強烈で最高だ!」とニンマリ・・・

このように、モノ自体には評価は内蔵されていません。人間は何か物事に出会った時、見たり聞いたり触れたりした時に、すぐにそれが正しいか間違っているか、好きか嫌いか、などと、言ってみればプラスかマイナスのどちらかの観念を選び取ります。プラスが良くてマイナスが悪いのではありません。よくあるハウツー本はプラスの方向に目を向けることで楽になるといいますが、そうではないのです。「好き」が行きすぎれば、こんなに好きなのにどうしてこうしてくれないの?と源氏物語の六条御息所のようになってしまいますし、正しいが行きすぎれば戦争になります。問題は偏った観念を選び取ったことにあるのです。これを仏教では「分別」と言います。
「分別」できることが人間の素晴らしいところで、それゆえに発展してきたわけですが、心の面をいえば、これが「苦」の根源なのです。
どくだみは良い草でも悪い草でもありません。
私が嫌な草だ、良い草だ、「と思った」、私の世界の話、それが真実です。

たとえば貧乏であっても病気であっても、本質的には価値も持ちません。ただお金がない、どこかが痛い、という状況ででしかありません。自分が人間や環境や物事に対して、良い悪い・好き嫌いの評価をし、評価した途端にそれに実は捉われてしまう、そのことが人間の業であり苦しみの元なのです。

良い悪いに捉われず、あるがままに物事を受け止めることを、釈尊は「中道」と言いました。「中」とは訓読みで「あたる」と読みます。
つまり的に矢が命中するということ。物事の本質を射抜く目を持っているかどうかがまず問われるのです。それが「あるがまま」を見る心の態度なのです。
我に捉われず、プラスにもマイナスにも選択せず偏らず、そのものをあるがままに受け止める。禅ではそれを「正受」といいますが、いわばゼロであることです。ニュートラルと言っても良いでしょう。

座禅は雑念を静かに消し去り、無心になる訓練でもあります。出てきた念慮はそのままにして自然に川に流れるように、水に溶けて沈んでいくように「そのまま」にしておきます。雑念が消えない!全然だめだ!などと頑張るのは、逆にそのことにこだわることであり、逆効果です。我を出さずに「そのまま」にする練習をしましょう。
これを訓練していくと、何か物事が起こった時、すぐに好嫌・正誤などの判断をしてそれに自分自身が捉われるという苦しみから少しずつ自由になることができるのです。
物事をしっかり受け止めると、実は「自ずと」次なる一歩が生まれてきます。

「正受」は単に受け止める、という静かな状態をさしているのではないことをぜひ知っておいていただきたいと思います。たとえどう考えても辛いことであっても、逃げないで受け止めることは、そのこと自体が、必ず「自ずと」どうするかの方向を生み出します。ここが素晴らしいところなのです。
そういう働きや行動とセットになっている積極的な状態である、私はそのように定義したいと思っています。

禅は静かに座っているだけではありません。そのことが真に自分らしい行動に、水が流れるように自然につながって心身の活動となること、これでこそ大乗仏教の禅者の姿です。

毎年どくだみが生えてくる季節になると己の我について反省をしています。苦笑いではありますが。。


こんなことをお話すると、後の質疑の時間に、禅のことよりも、「どうやって作るのですか?」割合は?焼酎の種類は?」などの質問が出て、私としては「えーーー禅の質問もしてくださいよ~~」となることがたびたびです。ですがうれしいことです。。

ちなみに言いますと、焼酎は何でも良いです。乾燥したどくだみを瓶にぎゅうぎゅう詰め込んで浸るくらいに焼酎を注げばおしまい。すべて適当です。
来年の夏にはぜひやってみて下さい。苦行が樂行に変身しますよ。

さて、明日は、正受について、もうひとつの私の体験をお話します。
これは聞かれた皆さんが驚かれるので・・・私としては決してそんなつもりではないのですが・・・
それではまた明日。良い一日を! 合掌
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (602)
最新のブログ記事