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擇木道場

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擇木ブログ - 201310のエントリ

心印です。

さて続きです。

さて真剣な参禅が終わると、ほっと一息で懇親会が始まります。
懇親会とは言え、やはりそこは擇木道場、どうしても話題は禅の話になります。

特に擇木禅セミナー~禅フロンティアの夜は老師がいらっしゃいますので、ご自身の若い頃、禅を始められた頃や、人間禅の歴史や、参禅や公案の話を聞くことができます。

実はこれがとても参考になり、特に初関(しょかん 最初の公案のこと)を授かった方には、聞いているとひらめくものがあるかもしれません(と言っておきます)。

私の場合、この懇親会の時に先達に言われたこと(前回のブログに書きました)が、初関をとおるのにどれだけ役に立ったか!!

それから金曜日は新しい方が毎週数名来られるので、必ず自己紹介をやっています。

あまり知らない方でも、これでだんだん顔見知りになって、これが一人ではなかなか続かない座禅を、みんなで続けようねというモチベーションになるかと思います。

毎回、新しい方が来られますが、2回目も来られる方はなかなかいないのが実情です。とは言え、以前よりはだいぶリピーターさんが増えてきて、禅堂でも2列~3列になっていますが、2回目に来られる方は、10名来られたら2,3名という感じでしょうか?

座禅は一度やっただけでは絶対にわかりません。少なくとも1ヶ月くらいはやらないとその効果は出てこないのではないかと思いますが、実際、3回、4回と来られたら、そのままリピーターさんとなりますね。

一度、座禅の効果を感じたら、やめるにやめられなくなるというのが私の感じです。毎週の金曜、週末の座禅にどっぷりつかる擇木道場での時間が、一週間のITのデジタルな仕事の世界をアナログにリセットしてくれるのです。

でも一見、古臭い、抹香くさい禅ですが、実は禅ってとてもカッコいい、自由な生き方なのかもしれないなぁと最近は思ってきています。


心印 拝
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石蕗(つわぶき)が似合う季節になってきました。名前を忘れましたが、女流作家が、石蕗の黄色を暗い黄色と表現し、その魅力を語っておられました。派手な黄色ではなく、しっとりと地味な黄色ですが、それだけに深い味わいがあります。そして大きなつやつやとした葉っぱからすっと立っている風情がいいですね。
 
前回は、朝の一炷香の座禅によって、前頭葉が活性になり、感性豊かな一日になると、一日一炷香の大切さについてお話しました。
しかし、この一日一炷香の座禅の中身について深く入らないと、一日一炷香の座禅の不可欠な理由がはっきりせず、一日一炷香の座禅実践のドライヴィングフォースが自発的になりません。
 
どういうことかと云いますと、一炷香(40分から50分間)の座禅の最初の15分間と真ん中あたりの15分間と最後の15分間における三昧の深さを注意深く点検する必要があります。
 
ここで三昧の質・レベルは本来的に云って、尺度できるものではないのですが、尺度せずにただ闇雲に一炷香の時間を主観的に一生懸命坐禅していると云うばかりでは、目標もないし、進捗の結果も判らず、多くの人の場合一日一炷香がマンネリになり、一炷香の座禅をやってもやらなくても同じように思われてきて、終には一日一炷香が歯抜けになってしまいがちなものです。
 
そこで座禅の本義の第一義から云うとあまり好ましいことではないのですが、第二義に下がって、数息観評点基準と数息観評点表を小生が作り公にしております(知りたい方は、要求して下さい)。
 
一般的に云いますと、座禅の時間が進むに従って、三昧が深まって行くものです。すなわち、最初の15分間では雑念なしに数息できるのが1から5までもなかなか数息できないという状態が、中の15分で、1から5まではでき出す。しかし10まではできない。最後の15分で1から10までがやっとできるようになって、70点の評価まで到達する、という標準的なパターンがあります。
 
この70点を毎日クリヤーするには10年くらい平均して掛かるもので、初心者では、1から5までが、最後にやっとというくらいなものです。
 
申し上げたいことは、一日一炷香を始めた当初の三昧力は、非常に低い状態であり、それが一炷香の間でだんだんと三昧力が付いて来るということで、もし一炷香ができなかったら、とてもひどい低レベル三昧力・人間力の状態で、仕事に掛かることになったり、人と対面したりすると云うことです。
 
責任ある人であればあるほど、又大切な一日であればあるほど、この一日一炷香なしに、すなわち低レベルの感性で低レベルの人間力で事に当たると云うことはあまりにもお粗末であり、無責任であるということです。
 
もう一度繰り返しますと、一炷香の前後で、三昧レベルの大きな差があるという認識がなされれば、一日一炷香をやめるわけに行かないと言うことになるのです。
 
ここが大切なところであり、居士禅者(社会人で人間形成の禅の道を進もうとしている人)にとってゆるがせにできないところです。理屈抜きに行が実践できるかどうかです。 今日はここまで、さようなら! 春潭
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  ススキ(芒、薄)も素晴らしい草花です。何より日本的です。
この良さは、薄の穂の若いときから、ふさふさと枯れ枯れになるまで、いろいろな姿があり、その時々の美しさがあります。
若いときも凜々しくて良いし、ふさふさの穂を逆光で見るのも又素晴らしい美しさです。また群れて咲いているのも良いし、単独をフォーカスして見ても良いのです。
ちょうど人の人生を見るようです。
 
前回は、「信と向上心を牽引車にして、忙しさや疲れや安易さへの流れやすさに抗して、黙々と一日一炷香の座禅を忠実に実践する」と言う、一日一炷香の数息観座禅の難しさと大切さについてお話ししました。
今日は、更に踏み込んだ一日一炷香の座禅についてお話しします。
 
 一日一炷香の座禅の大切さを、最新の脳科学の情報から見てみたいと思います。アメリカの脳科学の学術雑誌に、瞑想状態・三昧状態に入ったときの脳がどう変わるかという実験結果が報告されています。
それによりますと、三昧に入ると脳の中の頭頂葉(記憶の蓄積、ロジカルな思考、自他の識別区別をする、相対的判断をする等、デジタルコンピューター機能の部位)がsilent(不活性)になり、入れ替わって前頭葉(感性を司る部位、人格を形成する場所)が活性になることをチベットの瞑想僧を実験者にして明らかにしています。
 
 数息観の座禅をして、三昧が深まってくると、頭頂葉が不活性になり、前頭葉が活性になると云うことです。更に云えば、一時的にも頭頂葉をsilentにしなければ、前頭葉が活性にならないということです。
 
座禅の効用の一つがここにあるのです。(前頭葉が活性になったらどんな効果効用があるかについては、別途包括的なお話をします)
 
ここでは一日一炷香との関連でお話ししますと、朝の一炷香によって、その日一日が感性豊かな一日になり、これによって、仕事が創造性豊かになり、対人関係が円滑になり、精神的安定をもたらすのです。
 
また前頭葉が活性になると、α波が発生し、脳内物質であるセロトニンが分泌され、自律神経のバランスが良くなるという健康面の効果もあります。
 
一日一炷香の座禅によって三昧が深まり、頭頂葉が活性になるのは確かで、その効果については、小生の実際に経験するところです。
 
したがって朝の一炷香の座禅は、全ての人を活性化にするのですが、取り分け、責任の重い判断を間髪入れず下さねばならない一日、あるいは大事な場に立って緊張が予想される一日、あるいは絶体絶命の場面の一日においては、特に欠かせません。
 
朝の一炷香の座禅により、しっかりと前頭葉を活性にしてから出かけると云うことが、責任ある人の義務です。  以下次回へ。
                                    春潭 拝
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心印です。

さて続きです。

老師面談があった後は、隠寮の部屋(参禅室)を面談セットから参禅セットへ変更します。これは侍者の重要な役目の一つです。

そして禅堂に戻って、参禅侍者という役目をして、いよいよ参禅が開始されます。
この時、直日が合図で「けんこう」と言いますが、最初は「健康?」とか思っていましたが、献香のことだったんですね。

これで参禅が開始されます。参禅とは老師から授かった禅の公案の見解(けんげ)を呈しに、老師の待つ隠寮へ一人、一人が行くことです。

禅の公案が問題だとすれば、見解は答えのようなもの。しかし、公案は問題ではないし、見解もまた答えというわけではないのです。

入門前、公案って何か全くわからず、参禅を何度繰り返しても鈴を振られるばかり(鈴を振られると参禅終了の合図なのです)。全く先が見えず、いつとおるのかわからず苦しんでいた時に先達の方にいろいろ言われたことを思い出しますと、

秋香さん 「公案は言うことがなくなってからが本当の修行なのよ、死に物狂いでやらなきゃだめよー コロコロ」

玉渓さん(慧日庵老禅子)「頭で考えた答えを言ってるうちはだめよ。言葉じゃないわよ」

後は誰に何を言われたか忘れましたが、そういうことを何度も言われました。まあ極めつけは、忘年会の時に老師に言われた「お前の道号はもう考えてあるぞ」の一言でしたが。

入門して、最初の公案を許されると、道号という修行上の名前が授けられます。私の場合は心印という道号なのですが、その時は全くわかりませんでした。

さて真剣勝負の参禅が終わると、ほっと一息で懇親会が始まるのです。

次に続く~

心印 拝
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 ホトトギスと書けば、鳥の名前と草花の名前と両方を意味する。
 草花のホトトギスは、間違いなく鳥のホトトギスから来ていると思われる。鳥のホトトギスの胸から腹に掛けての色と模様から、草花のホトトギスが名付けたれたに違いない。ほんとに感じがよく似ていますね。
 鳥のホトトギスは、杜鵑、霍公鳥、時鳥、不如帰などの沢山の漢字が当てられていますが、草花のホトトギスは、杜鵑草とだけ書くようである。
 秋の草花として、ハッと秋を感ずる素晴らしい草花であり、茶花として用いられている。
 
 一日一ブログが、間遠になっておりました。山口参禅会があり、その後、広島禅会、岡山の中国支部により、禅フロンティアになりました。
 前回と前々回は数息観についての小生の若い頃の評論を二回に分けてお送りしましたが、今回は、最新の全くオリジナルの数息観評論を今から書き下ろしてみたいと思います。
 
 居士禅者(社会人で座禅などの仏道修行をしている人の総称、脱俗出家僧に対する社会人修行者を指す)にとって、一日一炷香(一日に一回は、線香一本分の時間、約40-45分間の座禅)は本当に大切な行事でます。これは居士禅者にとって生命線とも言えるものです。人間形成の座禅にとって、これがないと人間形成が進まないし、幾ら公案の参禅弁道が進んでも、人間形成としては砂上の楼閣になりかねないものです。
 耕雲庵老師の名著『数息観のすすめ』に、「一炷香が途切れたら、法が途絶えるのだと思って、続けてください・・・」の下りがます。「法が途絶える」とは恐ろしいことです。それくらい一日一炷香の座禅行は、重く大切だと云うことでます。
 この一日一炷香の座禅実践が、居士禅者にとってなかなか難しいのです。自分の経験からもそう思うのですが、人間形成がある程度進んでくると、どんなに忙しくても、どんなに疲れていても、一日一炷香ができるのですが、人間形成が進まないとなかなか一日一炷香ができない。日常の優先順位の中で、ともすれば一日一炷香が後回しになり、そうするとこれは鶏と卵であり、二律背反、ジレンマであります。
 人間形成にとって一日一炷香が大切であると耕雲庵老師が、妙峰庵老師が、磨甎庵老師が、青嶂庵老師が、異口同音に申されていましたが、その真意が、人間形成途上の者にはなかなか判らないのです。
 真意は判らないまででも、師家の指示に従って一日一炷香の座禅ができるかどうかは、一つは「信」があるかないかです。
もう一つは、向上心の強さ弱さであり、その人の人間の器の大きさに掛かってくるものです。
信と向上心を牽引車にして、忙しさや疲れや安易さへの流れやすさに抗して、黙々と一日一炷香の座禅を忠実に実践できる者だけが、人間形成が進み、一日一炷香の座禅が何の抵抗なく楽しみとして実践できるようになるのです。以下次回へ。
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心印です。

金曜日は台風が来るということで、予約が3名キャンセルとなり、まあ仕方ないよねと思っていたら、予約なしで来られた方が数名いらっしゃって、擇木禅セミナーのスタッフの人数も多くて、結局2列がいっぱいの座禅&参禅会となりました。

老師面談も台風で誰もいないかな?と思っていたら、6名もの面談でした。

これは老師が直々に人間禅の歴史、数息観や公案修行、そして参禅とは何か?と系統立てて説明してくれるもので、元住金エンジニアで理系の老師ならではの、現代人にも納得できる理論だった禅の説明がなされます。

おそらく脳科学の面からも説明できる禅の師家は、そうそういらっしゃらないのではないでしょうか? 

初めて擇木道場に来た日が摂心会(せっしんえ)で老師の提唱を初めて聞いたら、「前頭葉が活性化するのだ」という話で、すごいことを言うお坊さんだ!と思った思い出がありますが、お坊さんではありませんでした(笑)

この老師面談を私は侍者なので、毎回、聞いているのですが、数息観のみならず公案をやろうと決心した時の1年半前の初心を思い出せるのです。

ですが、ほとんどの方が最初の1回しか聞かれていませんし、擇木道場に禅フロンティアの日に来ないと聞けない話なので、もったいない、ビデオに撮って、ネットで広く流したいと思っていたら、撮っていいとのことで許可が出ましたので、撮らせて頂きました。

編集して近々ホームページに掲載する予定ですので、ご期待ください。
これを観て擇木道場に来られる方が、また公案をやって成長しようと思われる方が一人でも増えたらいいなと思っています。

次に続く~

心印 拝
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「洞戸、行きたかった~!!」

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2013/10/27 13:21
光海です
 僕が「洞戸の禅道場」を訪ねたのが3年前。「人間禅」にまだ入会する前でした。どんなところかと思い、独り 愛車を走らせました。山間部を縫うように流れる板取川、川沿いを 15分程走ると道場に到着します。
道場の広いたたきのある玄関でご挨拶して、私の洞戸が始まりました。
3泊の禅体験だったでしょうか・・・? 
 ひたすら 座禅をしていたように思います。
食事の時も作法にのっとり行動するのですが、どんな時にも無駄口をたたきません。作務の時にも、休憩時間にもおしゃべりをしている人など ”いませんネ”
皆さん、哲学者のように黙想している様子です。
 後でわかりますが、公案と言いまして老師に出された問題に打ち込んでいるのでした。そんな雰囲気に、私もすぐ慣れました。
「自分との語らい」 とでもいいますか・・・・? 自分を見つめる時間など早々あるものではないですよね!特に参加者との、談話もありません・・・・。
 「・・・・??」 「よく、集団の中の孤独」疎外感を感じるのでは」と思うかもしれませんね・・・・? 
 「だって、誰にも話しかけられないんだもの・・・・・?」
いえいえ、そうではなかったんです・・・・。それは違いました。
 逆に楽なのです。「うっとうしくない空間」のなかで、自らに深く入り込んでゆくのです。
 それでいて、「皆さんと仲良くなっているの」 旧知の間柄になっているのです。
どうしてだろう・・・・? 
 私はどうも、「座禅」 を同一空間でした、連帯感だと思っています。「肝胆相照らす」 体験した者のみ知るミステリーですヨ!!
お話が長くなりましたので、終わります。次回ご案内いたしますヨ・・・・。
 ソウソウ、そういえば 「洞戸」訪ねたとき 玄関で 「ただいま」 とつぶやく青年がいたのですよ。「そうか、道場に住んでいるんだ!!」 と思ったんですが違いました。
 わたしも、いろんな道場の参禅会に参加して それなりに 「座禅の深まりを知る」ようになりまして、同じように 「ただいま!!」 とつぶやくんですヨ・・・・・。
 
                     ー  光海 拝  -
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心印です。

角川映画の「ZEN」をご覧になったことがあるでしょうか?
主演は中村勘太郎さん、藤原竜也や内田有紀が出演していました。

2009年の作品なので4年前、まだ私が座禅に興味もない頃の映画ですから、映画館では観ていません。後からDVDで観たのですが、この映画の中に、「あるがまま、あるがまま」という言葉が出てきます。

曹洞宗の開祖、道元禅師が、中国の当時の国、宋に渡り、修行して悟られ、空手にして郷に還るということで日本に帰り、永平寺を建てられ、そこで亡くなるまでの映画で(史実では京都で亡くなられている)、最後は遊女だった内田有紀が出家得度して子供たちに座禅を教えるシーンで終わっています(ここは史実ではなく創作)。

「あるがまま」という言葉は、人間は生まれてから価値観や常識や意見を身に付けてきたので、その色眼鏡をもって物や人を見ている、すなわち、そのままの姿を見ていないということを表しています。

例えば、自分は幸せなのか、不幸なのか? あなたはどう思っているでしょうか?
幸せや不幸の尺度は人により違うので、同じ境遇でも人によって幸せを感じたり、不幸だと感じる・・・自分の尺度で測ってしまうわけです。

そこで、あるがままを見る、幸せや不幸なんて尺度を外して見てみると・・・そこに今まで見えなかった本当の姿、ありようが見えてくるというわけなのです。

そしてそうなる為の具体的な方法が座禅だと思っています。

まあ、難しい話でなくても、座禅した後、谷中の桜や緑を見たら、とても美しくて、まるで目の中に飛び込んできたような感覚になったことがありますが、これなどもも桜・・・緑・・・という名前をつけた色眼鏡を外して見たらそう見えたということなのかもしれません。

苦しいとか、悲しいとか・・・そういう思いや心配や悩み事。これなども色眼鏡を外して見たら、案外、大したことではなかった・・・という姿が座禅をしたら見えてくるかもしれません。

慧日庵老禅子が「座禅をして得るものは何もありません、いろんな自分の足かせになっている色眼鏡や価値観を捨てて身軽になる、それが座禅なのです」と言われていたことを思い出します。

この週末は今日の夜から、擇木禅セミナー~禅フロンティアということで老師もいらっしゃいます。

なにかを感じたら、擇木道場へおいでください。
でも台風には気をつけてくださいね。

心印 拝
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10月19日 土曜静坐会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2013/10/23 22:09
参加者       10名
初めての参加  1名
2回目以上参加 5名

読経    坐禅和讃
座談会   はぶ茶を飲んで、老師からの差入れの両口屋是清の和菓子をいただく。
       「禅」誌vol41. 「人間形成の禅」の以下のところを読みました。
       4.効用その3【身体的効果・精神的効果】
       5.効用その4【我がまま・自己中心を消滅させる】
              
質問 数息観で息を数えるのは、吸う息からか、吐く息からか?
回答 どちらでも良いですと回答したが、「数息観のすすめ」では「最初の入息をヒー・・」
と書いてありました。後日、訂正します。
座禅について話が弾んだため、3名のかたは19:30まで残っていらっしゃいました。その
中の一人の男性は、すでに10回以上土曜静坐会を中心に参加しているとのことでした。
気づかないでいたのは、たいへん申し訳なかったと反省しました。

連絡事項
10月27日 禅フロンティア 「中国と禅」 参禅体験できるので、是非、参加して下さい。

龍泉 拝
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暑すぎた夏のせいか、 この秋は台風の到来が多く、 この週末も 27号 28号と
招かざる客が やって来そう。
もっと すっきりした秋を 見たいのに………。


静坐会後の読書会、 このところ読んでいる 如々庵老師の 『禅入門』 の 
「禅と ヒューマニズム」 の イントロ部分を 仰月庵老居士が説明されました。


     近代になって ムンクの叫び  のような現象が起きている。
     人間の幸福のために作り出された文明・文化が、 いったん成立すると、
     それ自身の論理で自己発展し 文明・文化に対する 人間の主体性が
     失われる。
     このように 手段価値が目的価値になって、人間の主体性が 失われるのを、 
           文明・文化による 人間の自己疎外の現象 と呼ぶのである……と。

出席者から “我々が スマホに振り回されている状態のようですねぇ” の声。


火曜静坐会、 仰月庵老居士が 参加者一人一人の様子を よく見て、 支柱を添え
追肥をし、 大事に育てておいでです。



今日も 嬉しいニュースがありました。

     暫く みえなかった方。 会社が とても忙しかったと。 
           静かに坐りを 楽しまれた様子………。
     『禅入門』 を よく読みたいから と 購入された若い方………。
     そして、 これから 私達と一緒に修業する と 申し出て下さった方………。


近づいている台風が どうぞ 何事も起さず、 そーっと 通り過ぎますように。

                                            秋 香

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