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擇木道場

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擇木ブログ - 老師通信カテゴリのエントリ

ローマ教皇フランシスコ

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/11/26 12:41

ローマ教皇フランシスコ

丸川春潭

ローマ教皇の長崎での演説(2019.11.23)に感動し、いろいろなことを考えさせられました。

先ずは、世界情勢の中でまことに真っ当な正論を聞き溜飲が下がりました。それは我が意を得ての痛快にさえ感ずるものでした。

日本のマスコミはテレビも新聞も断片的でしかも重箱の隅をつつくような報道や解説しか流さないし、政府にしてもまさに政治発言以上のものを期待するのが無理と期待できないし、野党の方も足を引っ張る、ためにする論議ばかりで、長年鬱積が溜まっていました。

現代の人類が抱える様々な事柄を何が幹で何が枝葉なのか、そして一つ一つの位置づけを本質的に判断して断言されました。素晴らしいことです!内容においてもその直向きさにおいても感動しました。

そして宗教者が最も政治的に正しい発言をするものだ!という驚きを感じました。何者にもとらわれない見地から正しい歴史認識と評価をすることが出来るのは宗教者だけなのだとあらためて納得しました。

またキリスト教が仏教なかんずく禅宗と違って、政治経済に直接関わってゆこうとする方向性を持ち発信をしていることをあらためて認識し直しました。特に、人間禅は在家禅を標榜しているのですが、見習わなければなければならないことだと思いました。そしてよく深く歴史を勉強していることに敬意を感じました。人間禅の創始者の耕雲庵英山老師が、人間禅創立(昭和23年:終戦から3年)直後から人間禅の会員に向かって「世界観と歴史観」をしっかり勉強し保持しておかなければならないことを力説されていたことを思い出しました。

また別の観点から、テレビを通じてのフランシスコ教皇の人となりを垣間見て、一神教も多神教も道を極めて行けば本質において全く変わらないと云うことを実感しました。

人間禅ならではの使命をしっかりと押さえながらも、これからの時代の新しい在家禅者の生き方に大きな勇気となすべきことの方向性の示唆を正受したしだいであります。

 

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数息観座禅における質的向上のためのノウハウ(その2

丸川春潭

 

 数日前(11月上旬)に、後期数息観座禅(数息観座禅が段々と深まった段階の座禅)における工夫(ノウハウ)の一つをブログ「座禅の工夫」にしてご紹介しました。

 それは、数息をしないで10呼吸を一区切りとする高度な数息観座禅(正息観座禅)だったのですが、どうもこのブログを読んだだけではよく判らなかったようです。

そこでもう少し説明を加えます。

これはまさに数息観の質的向上をはかるための小生が考案したノウハウなのです。『数息観のすすめ』の後期数息観は呼吸を数えない数息観になるのですが、これをいきなりやってもなかなか座禅三昧に深く入ることが難しいのです。難しい理由の一つが、数息する場合は1から10まで数息すると一区切りとして反省ができ、またそれが向上のためのモチベーションにもなるのですが、数息しない只管打坐になるとエンドレスで雑念を切る座禅になるためになかなか深く三昧を掘り下げることが難しいのです。

そこで人間は数を数えなくても、前・中・後のような三段階は認識できるので、三呼吸(済んだ呼吸・今の呼吸・次の呼吸)を三回と一呼吸で10息の区切りとする正息観(呼吸を数えない数息観)のやり方を編み出したのです。

これを始めて未だ一年くらいしか経っていないのですが、朝晩の座禅で実行した結果が想定以上に効果があるので皆さんにも紹介したのです。

以上は前回の補足であり、以下が今回の新しいノウハウの紹介です。


 息は数えないが10息の正息観を数本順調にやれたら、次のステップに進みます。これは数息しないけれども呼吸に意識をしっかり残した座禅になります。本来エンドレスのものでなかなか深まらない高度な座禅ですが、上述の正息観をしっかりした後であれば十分に出来ます。これも数分間順調にできれば次のステップに行きます。

 次のステップは、完全に呼吸から離れる忘息観・離息観です。

このステップへ移行するときにちょっとしたしかし重要なノウハウがあるのです。それはしばらく呼吸を止めたままの座禅をするのです。苦しくなるほどする必要はありません。これが入ると、今までの呼吸に意識をしっかり残した数息しない正息観から全く呼吸を意識しない忘息観に切り替えがキチッと出来るのです。この忘息観はまさに宝鏡三昧であり、座禅の醍醐味がここにあります。

 試みてみて下さい。(つづく)


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座禅の工夫

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/11/12 9:48

座禅の工夫

丸川春潭

 本題に入る前に、現在広報担当部長を中心にして鋭意人間禅のHPの刷新をすすめています。従来のHPは各支部・禅会毎に立ち上げて、個別のHPとしてネット広報を他の僧堂や禅会と競っていたのですが、いろいろな観点(スマホ対応、人間禅としては弱小分散などなど)を考えて、HPの刷新を決意しました。

これからは基本的に、人間禅は一つのHPを全支部・禅会全会員でもって盛り上げ、ネット広報における競争力を上げようとするものです。今年度中には完成し、順次新HPへ結集することになります。そしてわれわれがなす努力はブログをしっかり書き続けることです。

 ブログ書きは、自分のために書き続けるものと心得て、新HPが出来るまででも、出来てからも書き続けて頂きたいと思います。自分の心境、感動したこと、同じ志を持つ人への問題提起等を書き続けると、一年経って振り返ると大変意義深いことが判ります。

 

 後期数息観座禅(数息観座禅が段々と深まった段階の座禅)における工夫(ノウハウ)について参考までにブログにします。

 耕雲庵英山老師の数息観のすすめに言われる後期数息観は、数息しない数息観座禅であり、座禅経験2030年でもなかなか踏み込みがたい深い三昧レベルです。具体的に小生がこれを、息を数えないが呼吸に意識を集中する正息観座禅と、数息に全く意識をしない忘息観(離息観)座禅の二つに分けられると解説してきています。

 本日の工夫は、後期数息観の前段の正息観座禅についてです。

 これは一般的には上座仏教とか曹洞禅の只管打坐と相通ずる座禅であり、なかなか人間形成として日進月歩させることが難しいものです。その根拠の一つが、今実践した正息観座禅がOKなのかNOなのか自覚しにくい点です。

 そこで小生は、数息はしないで10息を一区切りとする正息観座禅を現在実行しています。もう少し詳しく申しますと、数を数えなくても三息は意識の中で保持できます。これを三回続けると9息になり、締めの一呼吸で10息とします。判りやすく云えば3息を三回、息を数えずにつづけるのです。息を三回数えるのであればまことに簡単ですが、息を数えないとなると厳密な1から10までの数息観(70点)を連続5回出来るよりももっと上の三昧力がなければ出来ない高度な座禅になります。ただ客観的に云えば、正息観の前段階といっても良いかと思います。

 この10息正息観法は、10まで完璧に出来たかどうかが明確であり、数息観点数としてこれを5本通して81点とすることが出来ます。ここがミソです。

 小生の朝晩の数息観実践では70点の数息観を23本通したらすぐこの正息観で10までを数本通し、そして次にステップアップすることにしています。(今日はここまで、明日はまた別の工夫を)


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「正常化バイアス」考

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/30 22:33

「正常化バイアス」考

丸川春潭

正常化バイアス(Normalcy bias)と云う言葉を最近よく聞きます。

Wikipediaで調べますと、社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。

人間の心は、予期せぬ出来事に対して、ある程度「鈍感」にできている。

日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応して疲弊しないために必要なはたらきで、ある程度の限界までは、正常の範囲として処理する心のメカニズムが備わっていると考えられる。

台風15号、台風19号、その直後の秋の大雨で多くの方がお亡くなりになってしまいました。先ずは被災された方々にお悔やみ申し上げます。

これらの災害の中で、表題の「正常化バイアス」がしばしば使われていました。それは今までも大雨が何回もあり、警報にも何回も接してきたが特に大きな災害にならなかったので、今回も大丈夫だろうと考え、避難が遅れて大事故に遭遇してしまうということのようです。

ここでの正常化バイアスは悪い方に行ってしまった事例ですが、正常化バイアスというものは本来人間に備わっている本能であり、それ自体は悪いものでも良いものでもないものです。

こういう本能が人間に本来あると云うことを最近になってはじめて知り、そして興味を感じたので少し考えてみたいと思います。

 

「正常化バイアス」は一言で云えば、上記の定義にもありましたが、鈍感力と云っても良いのではないかと思います。

災害の時には、これが裏目に出て悪く作用するのですが、「生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応」しないということは、特に精神的ストレスの過剰な現代においては、現代人が正常に生き延びるための必要な本能のはたらきにもなるのです。

更に小生が興味を感じたのは、人間形成や禅の悟りが、この「正常化バイアス」すなわち鈍感力と関連があるように思われるからです。

人間形成とは三昧を身に付けることでありますが、三昧が身に付けばここで云うところの鈍感力が強くなると思います。

本能として備わっている正常化バイアスが、修練によって強化されると鈍感力が段々と強くなってくるのです。そうなるとちょっとやそっとの予期せぬことが身に降りかかっても全く動揺することが無く、それを平然と受け止められるようになってくる。

なぜならば三昧が身に付いてくると云うことは、自分の中に仏がいつもしっかり生きていると云うことになるから、深い自信が揺るがないということで、外からの外乱で動揺することがなくなるのです。

こうなると鈍感力という表現ではなく不動心あるいは不動力というべきでしょう。しかも三昧が付いた不動力は、いざというときの瞬発力も同時に強化されます。

すなわち三昧が付くと云うことは、常に生き生きとした禅機(瞬発力)が横溢することになります。

本能的な正常化バイアスを基盤にして、後天的な修練により、この正常化バイアスは、不動力と瞬発力の両方を兼ね備えた人間力に発展すると考えられます。

すなわち何もないところに人間形成されるということではなく、基盤がもともとあった上に修練で人間形成が構築されるのです。

如何でしょうか? 


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摂心会を終えて

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/22 0:28

摂心会を終えて

丸川春潭

 「摂心会に臨むに際して一番大切なことは何でしょうか?」の書き出しで『摂心会を直前にして』のタイトルでブログを10数日前に2回に分けて掲載しました。

 その事後はどうだったのか?についてのブログを書き残しておきたいと思います。結論から一言で云いますと、「想定以上に良い摂心会でした!」と云うことです。

 良いと云っても摂心会のことですから、楽しいとか感動的だとかが共有されるということではありませんが、人間形成の禅として参会したものが個々としてまた支部としてその実が上がったかどうかであります。

 室内での商量を中心にした師家の見方ですが、人間形成の実がしっかりあったと確認できたわけであります。東京支部の摂心会としてはこの数年の中では一番手応えのあった摂心会であったと思います。

 その根拠の最大事項は、よく座ったということです。これは結制茶礼でも言ったことなのですが、一週間かけて段々と三昧を深め、深い三昧にできるだけ長く浸り込むことが、人間形成にとっての基本です。これがしっかり出来たと感じました。決して公案の透過の尺度ではありません。

 よく座ると云うことが、ともすれば役位とか旧参の先輩が叱咤激励して長時間座禅することと受け取られやすいのですが、それでは形だけでなかなか深まりません。肝心なことは、個々人が自主的に向上心を熱くして座り込むかと云うことです。

 今回、さいたま禅会の徳隆居士とか荻窪支部の霊亀居士が自発的に夜座をやり始め、それが東京支部の個々人に飛び火したようで、一週間を通してよく座っている感触が、室内で確かなものとしてありました。

 なんといってもわれわれの人間形成には座禅が中心です。理屈抜きに如何にコミットして座禅ができるかであります。

 円了垂示でも申しましたが、摂心会に入る前から、東京支部としての求心力が徐々に醸成されてゆき、それが摂心会で形になったと思います。

 最後に、この支部としての上昇機運を日常の静座会や自宅での一日一炷香で継続発展されることを祈念してやみません。合掌


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(続)摂心会を直前にして

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/10 19:30

(続)摂心会を直前にして

丸川春潭

 摂心会に臨むに際して一番大切なことは何でしょうか?

 それは、一日一炷香の座禅を始める前と同じで、よしやるぞ!!という気合いです。何をやる場合もそうですが、特に自己改革としての人間形成は、アグレッシブなやる気が旺盛であることが何よりも肝要であり、これは新到者も旧参の上士も全く変わりません。同じように必要です。

 813のブログ「敷居の高さ」の中で、江戸時代までの僧堂では座禅修行に対する志の高さをこれでもかこれでもかと確かなものにさせてから始めさせていることを紹介しましたが、新到者はさておき、既に修行を始めている人は「二祖の断臂と雲門の折脚」を臆念して、摂心会に臨むべしであります。

 この前向きの気合いの根源には人それぞれですが、(1)もっと向上したいという道を求めてやまない向上心、(2)自分に対する不満、こんな自分では駄目だ!という反省心、(3)他の人の役に立ち、力になってやるために人間力を付けたいという利他心、等々いろいろあって良いと思います。昨日のブログで書きました山中教授のVvision)と同じで、このVを常に意識することが長い人生において大切であったということですが、まさに摂心会に臨むに当たって、自分なりのVを鮮明にし強く意識することが大切かと考えます。

 何故、このよしやるぞ!の気合いが大切かということを最初に掲げたかと云いますと、摂心会中の取り組み方がこれがあると真剣さを増し、人間形成の道をしっかりと進めることが出来るからです。

 次に大切なことは、やはり準備です。段取り・真剣・尻拭いの段取りであり、摂心会に臨むに当たってと云うことは、しっかり座り込んでから入山すると云うことです。かって小生が坂東支部の支部長をしていたころ(40年前)、摂心会の一週間前からは一日2炷香を申し合わせて実行していました。あと何日もありませんが、今から摂心会に向けて、まさに臨戦態勢に入る気持ちで、時間を作って座り込んで頂きたいと思います。

 最後に、大きくマクロで見て頂きたいのですが、こういう厳しい本格の修行の機会に恵まれていることは極めて有り難いこと幸運なのだと思って頂きたい。道を求めている人は世の中に大変多くの人が居られるけれども、その機縁にほとんどの人が出会えていないのです。

またこういう場があることのバックグラウンド(歴史・背景)を臆念していただきたい。直近の71年前の耕雲庵英山老師の不惜身命財をはじめとした伝法の有り難さ、そしてこの擇木道場建設にあたっての当時の支部員の大変な努力を中心にした全国の道友の拠金があったからこその擇木道場存在の有り難さを、摂心会に臨んで臆念し感謝して頂きたいと思います。(おわり)


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摂心会を直前にして

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/9 21:19

摂心会を直前にして

丸川春潭

 摂心会は、人間形成の二本柱の片方で人間形成の禅にとって大変重いものです。単に参禅修行の機会があるということだけではなく、一週間かけて心を摂するところに重要な意味があります。

摂という字には、「散乱しないようにおさめる。いくつかの物を合わせて束ね持つ。」等の意味があり、摂心会となると心を散乱しないように収める会、すなわち集中・三昧の鍛錬期間でありそれをやる会ということになります。

摂心会は、一日一炷香の三昧養成とは異なり、師家と一対一で商量する参禅を中心にして、座禅三昧、作務三昧、食事(粥座、斉座、薬石)三昧等全ての行事において三昧を継続し深める期間です。まさに三昧を身に付ける重要なそして貴重な機会です。

いつも云っていることですが、公案透過が目的化されると参禅だけが大切でそれ以外の行事は意味が軽くなってきます。こういう人は、公案は進んでも人間形成は進みません。人物が醸成できないのです。まさに耕雲庵英山老師以下歴代の師家方が厳しく戒めておられた禅学者(公案の見解は知っているけれども、公案に込められた境涯が身に付かない、単なる物知りの評論家)になるのが落ちです。

在家禅修行の両輪の片方である摂心会は一週間詰め切りが基本です。それにより24時間三昧に打ち込み、それを一週間継続することで、三昧が身に付き人間形成が進むのです。この三昧が身に付く意味合いは、道眼と道力の両方が融合したものです。参禅修行に、座禅三昧、作務三昧、その他道場での24時間の三昧行が渾然一体となってはじめてできるものです。これが人間形成の禅の命です。

ただ在家禅の難しさは、社会的責任や家庭での責務等により、結制から円了まで門外不出ということが、余程条件が揃わなければできないということです。そこでやむを得ず出勤したり自宅に帰ったりしなければならなくなるのですが、大切なことは、基本をしっかりと認識し、それに如何に近づけるかということです。

サラリーマンが朝の参禅後に下山して会社に行き、定時後は道場に帰ってくる。摂心会の一週間はこの道場を自分の居場所とし、できるだけ休暇を取る工夫を加味し、できるだけ基本に近づける努力が必要です。

要は参禅の回数を単に重ねるということではなく、一週間をかけて段々と三昧を持続し深め身にすり込んでゆく修行が何よりも必要なことであり、これが出来るのが摂心会というものなのです。

一昨日、7年前のノーベル賞受賞者の山中京大教授が、人生はVvision)とWwork hard)が大切だと言われていました。Visionは目標・目的であり、日常に流され、当面の仕事に埋没してともすればVを見失いがちになるのだけれど、このVを常に意識して日常に埋没しなかったのが自分には良かったと述懐されていました。今年の受賞者の吉野博士は、柔軟と拘り(剛直)を併せ持つことが必要と言われていました。これらの発言は、在家禅者の修行にも大いに参考になる話だと思いました。

一年間52週間の内の3回の摂心会です。これを基本形にどれだけ近づけてそれを積み重ねられるかが人生なのです。(つづく)


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(続)AI時代こそ禅が生きる!

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/8 18:41

(続)AI時代こそ禅が生きる!

丸川春潭

先のブログでAI時代に対するコメントを募ったところ、早速ギャネンドラ聖川居士から、早速次のようなコメントがありました。

「今は、組み込み開発でAI技術関係の仕事にかかわっているところです。

 AI 時代で仕事がなくなると言うイメージありますが、そうではなく、仕事で人間を助かることになる技術です。逆に仕事がどんどん増えることになります。

 パソコンが流行った時代でも同じ話す事がありましたが、そうじゃなかったんですね。じゃ何で人間がこんな心配があるのか?それは大事な問題です。」

 また昨日(106日)の読売新聞に、最近有名になっているドイツの若い哲学者、マルクス・ガブリエル教授の説が載っていました。

「今世紀半ばにはAIが人知を超え人間を支配すると米国の未来学者は吹聴している。 知性とは、問題を見いだし、一定の時間内に解決する能力です。動物には知性があります。空腹になれば死を意識し、捕食します。コンピューターに知性はありません。意識がなく、自らの「命」を維持しようとしない。・・・ロボットに過度に依存してしまうのは間違いです。ロボット化を無謀に進めれば、破綻します。」

相対樹の領域内だけの仕事はほとんど無いと信じたいところですが、残念ながらほとんどが相対樹内の仕事に終始している業務も実態としてあるようです。それをやらされる人間は精神的におかしくなるのは当たり前です。こういう部分がAIにどんどん置き換わってゆくように進めて行くことが何よりも必要であるということです。

AIの利用を単に人件費を削減するという経済観点からだけで進めるとひずみが出てくると思いますが、感性ある人間(マルクス教授の云う知性ある人間)が主体となって、AIを上手に使うということが保証できれば、AI時代は人類にとって明るい未来となります。

たとえて云えば、人間に五欲七情があり、人間形成が積まれれば五欲七情を自由に使いこなすことができ、自由で痛快な人生を味わうことが出来るようになるというのと同じで、五欲七情事態は悪でも善でもないのです。

問題は感性ある(本当の知性ある)人間が主体的に差配できる社会になっているかどうかであり、我々の責任でもあるわけです。


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AI時代こそ禅が生きる!

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/5 18:52

AI時代こそ禅が生きる!

丸川春潭

 9月下旬から、二つの講演会のための資料づくりに追われ、ブログを書く時間が無く、しばらくブログ投稿が止まっておりました。

 講演の一つは、この表題の講演で、1週間後の13日に擇木道場で予定されている講演です。皆さんから募ったテーマでもあるのですが、面白そうなのですがなかなか筆が進まず難渋しております。その難渋しているところをブログで皆さんに問いかけてみようかと思い、久しぶりにブログを投稿します。

 AIすなわち人工知能は、人間の脳に限りなく近い思考パターンを大容量のコンピューターで作り込んだもので、ディープラーニング( deep learning深層学習)のできるAIです。これを使って囲碁とか将棋のプロと勝負させ軒並み負かせてしまいニュースになりました。

 AIは、コンピューターのハードとソフトの両面から今現在も日進月歩しており、今後は囲碁や将棋の域から出て人間社会に深く広く介入し、人間社会を根底から変えていくと考えられます。

 小生がいつも説明しています相対樹・絶対樹でAIを位置づけますと、相対樹の要素は全てAIの方が人間の頭脳より優れ(将棋や囲碁のように)、相対樹に関わる仕事は順次AIに置き換わって行くと考えられます。

 AI時代になっても残る職業を12挙げている解説本をネットで紹介頂いて読みました。学校の教員が残る職業の一つと位置づけられており、その理由が人間形成に関わるからだと書かれていました。しかし入学試験に強い良い学校と言われる学校ほど知識教育に偏重している現状から、小生は大部分の教員はAIに置き換えられてゆくと思いますが、いかがでしょうか。

 また医業すなわちお医者さんも残る職業だと位置づけられていましたが、最近のお医者さんの診察は患者の脈を診るなど身体へ触ることもほとんど無く、患者の云うことを聞くだけでコンピューターの方を見るばっかりで、ろくに顔も看ない状況です。実際自分もそういう場面に遭遇して驚きました。こういう実態をみるにつけ、ほとんどの医師はAIに置き換わった方がましとの考えも出てきますがいかがでしょうか?

 小生の云うところの絶対樹に依拠した教員かどうか、医師かどうかがAI時代において峻別されることになるというのが小生の時代感覚ですが、これは教員とか医師とかにかかわらず、裁判官・検事・弁護士の法曹界をはじめ、あらゆる職業においても、絶対樹に依拠した仕事になっているかどうかが問われることになる。考えてみればこの方向性は、人類にとって朗報ではないでしょうか?この観点ではAI時代を喜んで迎えたら良いのではないかと考えますが、皆さん如何でしょうか?(つづく)


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情報依存症

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/9/22 21:35

情報依存症

丸川春潭

 昨日(919日(木))から、名古屋支部・豊橋禅会・知多禅会の合同摂心会を南知多の大宝寺を拝借して開催しています。

 このお寺はかって尼寺であり、しかも縁切り寺という歴史を持っていたそうですが、現在は普通の曹洞宗の末寺となり、元サラリーマンの男性住職が近辺の23のお寺と掛け持ちで務められています。そして最近はほとんどないようですが、かっては研修会とか林間学校にも使われていたようで、台所とか風呂とかのユーティリティを含め摂心会には最適の設備があり、擇木道場よりもゆったりと贅沢に使えるところです。

 ただ最大の特徴であり問題なのは、電波が届かないと云うことです。今どき日本にそんなところがあるのかと言われますが、携帯は勿論のことメールを含めてインターネットがまったく使えないのです。数百メートル山を下りて民家のあるところまで行けば、電波が入ってきますので何とかなると云えば何とかなることなのですが、こういう環境に身を置いてはじめて現代という人間社会の特徴をつくづく思い知らされている次第です。

 と云いますのも、小生常々「現代は人類が未だかって経験したことがない情報過多の社会に生きており、それから来る精神的ストレスをキチッと解消する方途を自分でしっかり持っておく必要がある。すなわち何らかの精神的ストレスをレリースするものを持ちそして日々行じていなければ、自分の(人間の)自然な精神状態を保てない現代という時代なのだ・・・・だから数息観座禅などの・・・」と持論を展開しています。

 だったらまさにここは希少なそして貴重な情報レスの地域であり、静かな時間がここにあると云うものなのです・・・が、しかも朝には朝刊は届けられるというのに、しかしそう簡単では無いのです。 

 今朝方は、車で5分ほどの喫茶店に連れて行ってもらってコーヒーを一杯注文しながらスマホとコンピューターに昨夕からの情報を仕入れ、また電話を数本やりとりして来ましたし、午後の作務が終わってからも車で10分ほどドライブして来ました。夕食後も散歩がてらちょっと山を下りようかと思いましたが、雨がひどかったのでやむなく断念しました。

 要するに普段のリアルタイムの情報の受発信ができないとなると不安というか落ち着かないのです。ほとんどがくだらないと云うか一日くらい遅れてもどうってことのないものだと判っていながら、もしもとかを考えたりして、くだらないと云うことを確認しなければ落ち着かないのです。

 情報過多であり精神的ストレスだと云いながら情報のある生活がノーマルであり、情報が取れないとなると情報に渇望してくるのです。まさに情報中毒であり、情報依存症になっているとつくづく思い知らされたわけです。

 そしていままでの言い方とは真逆の方向からになりますが、余程深い三昧行が一日に一回はなければならないと思った次第です。(このブログも、明日喫茶店が開くのを待ってコーヒーを飲みながら、風印さんに送るつもりですw。)

 


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