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擇木ブログ - 老師通信カテゴリのエントリ

丸川春潭


我々の禅は、人間形成を目的とした禅であります。したがって「本当の自分探し」とは云いますが、いわゆる宗教ではありません。すなわち葬式とか法事とかしかやらず人間形成の面が抜けている現代の宗教とは一線を画したいという思いで人間形成の禅は宗教ではないと云っています。


人間形成は知性のジャンル(相対樹)ではなく感性のジャンル(絶対樹)の充実にあります。そして人間形成を進める両輪として道力を付ける車と道眼を磨く車があります。道眼を開き磨く車の推進はお釈迦様の悟りを追体験しお釈迦様をはじめとした仏祖方の境涯に近づくことです。


お釈迦様の悟りを追体験(見性)し、それを身に付ける手段として最適な方法が臨済宗の公案修行です。世に癒やし系から修行系からいろいろの修養法がありますが、お釈迦様の悟りを直に掴ませることを中心に持っているのは、臨済系の伝法の印可があるところ(僧伽)だけです。


お釈迦様の悟りを追体験することができると云うことは大変なことです。すわちこんな素晴らしいというか凄いことが現代で可能なことはまさに驚きです。


臨済宗の公案修行をする場合に気をつけなければならない点があります。それは特に現代のインテリゲンチャが陥りやすいのですが、ともすれば知性のジャンルである相対樹に居たままで公案修行をしてしまい勝ちです。人間形成は知性知識が増えるのを目指するものではなく、したがって禅学をいくらしても人間はできません。公案修行は絶対樹の場での修行です。そのためには相対樹から絶対樹に移らなければ公案修行はできません。この相対樹から絶対樹に移る力が道力であり道力の基盤の上に公案修行が成り立っています。したがって道力が付いて来なければ公案修行は途中で涸れてしまい、人間形成は深まらずそしてこの修行は続かないということになります。


逆にぼつぼつでも道力を付ける修行を積めばという前提条件の下で云えば、公案修行は全ての人(全く無学文盲の人間にも)に開かれた無二の法門であり、公案修行に向かない人はいないと考えています。自分は公案修行に向かないと思うのは、こちら側の説明不足と本人の誤解があるからです。


人間形成の禅は全ての人に必要であり、それは信仰・宗旨の違いを超えるものでありますが、これを人に勧めるのに拙速は厳に慎まねばならないことは言うまでも無いことです。


 お釈迦様の悟りすなわち世界宗教の創始者の掴まれたものを追体験できるのは臨済禅だけであると云うことを考え、誤解を恐れず云いますと全ての宗派の宗教家が臨済禅の手法で見性し道眼を開くことをしたら、全ての宗教はそれぞれが誕生した原点に立ち返ることができ、全ての宗教は本当の宗教性を取り戻し、排他的セクトがなくなり、宗教的対立が地球上からなくなるはずであると考えています。(つづく)
 

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丸川春潭


 前報で、数息観の評点について説明をしました。今回はいよいよ「道力(胆力)を付ける」核心に迫る、道元禅師の只管打坐(無念無想の観法)について、数息観法と比較しながら説明します。


 只管打坐(無念無想の観法)は、数息することもなくまた何かをイメージすることもなく唯ひたすらに雑念を切る(頭頂葉の動きを止める)座禅行であり、日本の曹洞宗の開祖である道元禅師の提唱された座禅観法です。これはダイレクトに頭頂葉を止めにかかるだけに、長年にわたって瞑想とか数息観を修した人でないと全く歯が立たないツールです。瞑想なり数息観を数年やった程度の瞑想の経験年数が短いと、この只管打坐のやり方を試みたとしても形だけはできても内実は雑念が絶えることなく三昧には到らず、只管打坐の妙味を味わうことはできません。


数息観法で云えば、中級以上(厳密な基準で1から10が雑念無しに完璧に数息できる70点が常にクリヤーになるだけのレベル)にならないとその素晴らしさは判らないでしょう。小生の現在の実践においても、一炷香の中でも最初は数息観によって集中力を高めて(75点以上)から、はじめて只管打坐(離息観)に移行するようにしています。そしてこれを耕雲庵英山老師の『数息観のすすめ』に当てはめますと後期数息観法に該当し、この後期数息観に呼吸を数えないが呼吸を意識する正息観と全く呼吸を意識しない離息観があります。耕雲庵英山老師老自身で白状されておられるような「人間として生まれてきた甲斐があったワイ!」という素晴らしい妙境がそこにあります。


臨済宗は数息観で曹洞宗は只管打坐だというような枠は人間形成の禅にはありません。人間形成も最終的にはこの只管打坐の奥の院まで到りそしてこれを何度も何度も繰り返すことによって人間形成が仕上がると言ってもいいもので、人間禅での200則の公案修行が一通り終わってからの聖胎長養の時に打って付けの観法であると思います。


ことほど左様に、「道力(胆力)を付けるには」ある意味どんな道でも良いから安易なやり方ではなく文字通り克己して長年にわたり継続すれば振り返って自ずと道力(胆力)が付いて来ると言うことです。


蒼龍窟今北洪川禅師曰く、「修行は数息観で始まり、数息観で終わる!」と云われておられます。瞑想法もテーラ・ワーダもおそらくしかり、どんな方法でも良いのですが、頂点を目指すには一生をかけてなだらかな麓から徐々に力を付けて最後の急峻な頂きに挑戦する、その戦略性と謙虚さと直向きさが必要であります。


このタイトルでは今回の4回で終わりですが、荻窪摂心会でのもう一つの法話「道眼(胆識)を付ける」で見性とか公案修行について次にブログしたいと考えています。合掌


 

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 前報で、数息観の評点について記載が出ていましたので、どういうものかをご説明します。

 

「数息観評点記録のすすめ」

丸川春潭

 

 小生の実践経験ですが、数息観評点基準に従って一日一炷香の評点付けをすることにより、従来では踏み込めなかった数息観の質の点検に踏み込むことができ、己の修行レベルに客観的視点を加えることができるようになった。その結果、昨日よりも今日、今日より明日こそはと、日進月歩で自分の数息観を深めてゆくことができ、ややもすればマンネリに陥りやすい一日一炷香に精彩を加えることができるようになった。

それは数息観の一日一炷香という地味な努力の継続という修行が、明確な客観的数値の目標の設定により、その結果を自分で確認できる方式が確立できたからである。その効果には、始めてみなければ、実践してみなければ予想もできなかった驚きがあった。

日常における人間形成の手堅い道がここにあったのである。そもそもわれわれの人間形成の禅は、公案を用いた道眼を開く参禅弁道と、三昧を身に付け道力を養う数息観法の日常的実践から成り立っており、この両方の柱によって臨済宗の人間形成教育システムは構築されているのである。

しかし従来より、前者の参禅弁道の修行の方は、明眼の大宗匠耕雲庵老大師の瓦筌集によって人間形成の過程に従う明確な目標設定がなされ、それにしたがっての正脈の師家の厳しい指導が実態として確立されていたが、後者の方は、耕雲庵老大師の「英山の今日あるは、一日一炷香を正直に続けてきたからである」との述懐に基づく、「一日一炷香のすすめ」の連呼に終始しており、最初に述べた数息観の質的検証と、そのレベル(目標)の設定がなされないまま今日に到っていたのである。それでは参禅弁道では低きから高くへとの段階を歩めるが、修行の両輪である数息観による道力の進歩については成長過程がつかめない状態におかれることになる。そこに踏み込む試みがこの数息観評点基準と評点付けなのである。

この数息観評点基準は、人間形成の最初から、人間形成を全うする最後までの全行程を網羅したものである。一人でも多くの方が、本当の自分探し(人間形成の禅)の道に入り、全ての人が本当の自分をしっかりつかみ(人間形成を全うし)、正しく楽しく仲の良い社会建設が進展する縁(よすが)にこの試みがなることを祈念し筆を擱く。 合掌 

 

【数息観評点基準】2010.8.10設定、以後数度改訂


30点:待ち時間、通勤途中の電車内などで、初期の数息観(質は問わない)。
40点:15分以上数息観をし、数息観初期の1から100までを実行した。
45点:半炷香静坐し、数息観初期の1から100までを間違えずに数えられた。
50点:一炷香静坐し、数息観初期の1から100までを間違えずに1回は。
54点:数息観初期の1から100までを一炷香を通して数えられた。
55点:数息観中期の「二念を継がず」を1~5までは何回か達成できた。
60点:数息観中期の「二念を継がず」を1~10まで1回達成できた。
65点:「一念不生」を1~5までは達成できるようになった。
70点:数息観中期の「一念不生」を1~10まで、1回は完璧に達成できた。    
75点:数息観中期の「一念不生」1~10までが2回連続できた。
80点:数息観中期の1~10までが5回連続できた。
以下略す。

 
数息観法をはじめ各種瞑想法の三昧の深さについて、定量的に今まで言及された人は居ません。こういう精神作用的なものをデジタルに評価することは難しく今まで誰もそこまで踏み込んでいないのは当然でありそれをやろうとするのは暴挙ですが、これを励みとして一人でも二人でも数息観三昧を深めて頂けたらそれでよしであります。

数息観法は継続が肝要であり、継続するためにはインセンティブが必要であり、それが数息観評点による自分の実践の深まり・進歩が見えることが励みとなり継続に繋がると考えています。
 更に、次の話の「道眼を開き磨く」に関わる座禅の推進力は、数息観の量ではなく質であり数息観三昧の深さであります。それに最も寄与するのが数息観の評点付けによる日進月歩の積み重ねです。こちらにも寄与すると考えています。

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「道力(胆力)を付けるには」(その2

丸川春潭

 

前報(その1)で、いろいろの瞑想法を挙げて癒やし系とか修行系とかに区分して説明しました。今回は我々人間禅が推奨している数息観法について、その位置づけ・修し方・実態・最終的な方向付けについて説明したいと思います。

数息観法は息を数えることだけに集中するこころを磨く観法です。この数息観法は、癒やし系のツール(こころが落ち着き平静になれば気持ちが良い。集中力の向上を特には期待しない。)として使えますし、またやりようによっては修行系のツール(三昧を深めるべく数息観評点を付け骨折って日進月歩する。まなじりを結して頭燃を救うが如くの厳しい修行にもなる。)まで幅広く使えるツールです。

人間禅の創始者である耕雲庵英山老師をはじめ歴代の老師・先輩方が異口同音に言われていたことは、「人間形成のためには一日に線香一本(44分間)の数息観座禅を継続するように。忙しいときには線香を半分にして半炷香にしても良いから継続するように。これが途絶えたら法が途絶えることになると思って精進実践するように。」ということでした。私の経験でこの継続に重要な観点がいくつかあるのですが、その一つが一炷香の数息観座禅を始めたときの自分の三昧レベルが45分の一炷香が終わる頃までに数段深まっているという実感があれば、一炷香を毎日やらなければならないというドライビングフォースとなり、一日一炷香が継続されるという観点です。これは修行系のみならず、癒やし系の場合でもそうであり、こころがくしゃくしゃして落ち着かない感じが一炷香の間に沈静化し気持ちが落ち着き楽になったという感覚があればまた座ろうと云うことになるのです。逆に最初から最後まで三昧レベルの如何に関わらず実感として変わらないということになれば実践が空しくなり、いくら自分でやろうと決めていてもまた先輩からやかましく云われても義務的なモティベーションでしかなく結局継続ができないことになるということで、一日一炷香の継続の鍵の一つがここにあると考えます。

更にいえば、昨日よりも今日はより深く数息観をやるぞ!という向上心を持って一日一炷香を実践できれば、着実に人間形成を進めることができます。そしてその時のツールが小生の作った数息観評点記録です。そしてこの効果の絶大なることは小生の実体験に基づくもので、後から詳しく申し上げたいと思っています。

数息観法は(その1)でも申しましたが、最終的な深い三昧状態に到るための暫定的なツールです。すなわち頭頂葉(大脳の中の思考を司る部位)の動きを完全に止めることがなかなか難しいので、数息という単純だけど一種の思考で頭頂葉を独占させて他の念慮(雑念)が入り込まないようにする瞑想手法であり、最終的な完全に頭頂葉を止める前の段階の暫定的ツールです。したがって一気に頭頂葉を止めることを目指す只管打坐のやり方より随分やりやすい平易なツールです。

とは云ってもこの平易な数息観でさえ本気でやろうとすればするほど容易でないことが判ります。それを実績的にご紹介しますと、10数年前に数息観の実態を実験的に調べたことがあります。人間禅の修行を30年以上継続している罷参底の方々に1週間一日一炷香の数息観評点を付けて頂き集計したことがあります。(呼吸を1から10まで数える時間は40秒からせいぜい1分くらいの短い時間ですが、チラのチの念慮も許さないとするとなかなか完璧に10までの数息を完遂できないものです。これが一炷香の間で1回でもできると数息観評点基準において70点です。1から5まで完璧にできた時は65点です。)

その結果は、平均点が68点であり、70点以上は1名だけでした。評点は主観評価ですから甘い基準であればいくらでも評点は上がりますが、厳密な基準で評価するとこの結果のように容易ではないことが判ります。

小生の経験で申しますと、70点を超える数息観ができるまでに40年かかりました。(小生はぼんくらですから参考にしないで頂きたいのですが、数息観評点記録をしないとマンネリに陥りやすく一日一炷香で三昧を日進月歩で深めて行くことは難しいと云うことです。)しかし数息観評点を付けだしてからは文字通り日進月歩で、70点から80点(一炷香の間に1から10までを連続5回達成)になるまでに5年もかからなかったと記憶しています。(そこからまた上へは評点記録してもなかなかですが。)

長くなりましたので、続きは(その3)で後日に。合掌

 

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「道力(胆力)を付けるには」(その1

丸川春潭

 

先週東京荻窪支部第一回摂心会が開催され、提唱は支部長より初心のものが多いので「数息観」と「見性」というタイトルで二回法話をしてほしいと要請があり、先ずは令和元年530日(木)に「道力(胆力)を付ける」と題して法話しました。その内容を更にかみ砕いて、この擇木HPのブログとして連載したいと思います。

我々の禅は人間形成を積むための禅であり、修行(行を修める)であります。禅による人間形成には道力をつける車輪と道眼を開く車輪の二つがあり、前者が基盤となり後者がその基盤の上に構築されるという関係にあります。

道力を付けるとは三昧(集中力・三昧力・考えない力)を身に付けることです。これは大脳の頭頂葉をon/offし制御する力を付ける修練であるともいえます。座禅の難しさは全て頭頂葉(大脳の一部で思考する場所)の動きを止める(on/offし制御する)ことが難しいところからきています。

世の中には、この「考える」ことを止めるための類似の行(各種瞑想法、読経や礼拝などの宗教行為、アスリートの集中法など)がいろいろありますが、大別すると癒やし系(頭頂葉の錯綜を鎮める:心を静める・楽になる)と修行系(考えない力を付ける・頭頂葉の動きを止める・三昧に入る・人間形成)に分かれております。前者は楽行であり、後者は苦行(刻苦)になります。

瞑想などのいろいろなツールの判定を単純に頭頂葉(または前頭葉)の活動レベルで尺度すると判りやすく整理も明確にできます。したがってこの尺度を元に癒やし系と修行系に仕分けて整理してみます。

最近よく流行っているマインドフルネス(呼吸とか動作とか心の動きに沿って集中する方法)は、発信元であるベトナムのティクナットハン先生の説明から判断すると、頭頂葉の動きを押さえ沈静化する方向性を持つものですが、臨済禅での数息観法よりもっと頭頂葉の活動が残っている位置付けのツールです。その点、初心者も含め万人が取りかかりやすいこころの沈静化のためのツールと云えます(アメリカの大手企業で取り上げられ普及しているのは、効果もさることながら誰でもできる平易さがあるからです)。そしてこれは修行系ではなくどちらかといえば癒やし系のツールです。

最近は座禅よりもいろいろなヨガが健康志向から普及していますが、ヨガ系には体を動かすだけではなく必ず瞑想の行が一部入っています。その瞑想はイメージをもってそれに集中する方法ですが、そのイメージが単純なものであれば数息観に近いレベルのものになり、イメージが多様で複雑なものであればマインドフルネスに近くなると考えられます。もちろん数十年と専門的に実践されているヨガの熟達者は、修行系の相当深いところまでいっていると推定されます。

上座部系・チベット仏教系も最近ブームになっており、これは瞑想の発祥といっても良いのでしょう。ただ人によって、マインドフルネスのレベルから只管打坐(頭頂葉完全停止)まで広い幅になっておるでしょうが、最近のブームに乗ってやっている人はほとんど癒やし系のレベルでしょう。すなわち56年の修練ではとても歯が立たない難しさをもったツールです。

最後に臨済宗のやり方(数息観法)です。頭頂葉は常に動きたがり強い意思でもってしても考えることを止めにくいものです。したがって第一段階としてひとつの動き(数息)に頭頂葉の動きを絞り込む(数息で頭頂葉をいっぱいにする)修練をする(この段階でも相当骨を折らねば満足にできません)。そして第二段階として頭頂葉を徐々に止める修練をし、最終的に完全に止めてしまう修練(後期数息観・離息観・忘息観・只管打坐)に持って行くのが耕雲庵英山老師の人間形成のための数息観法です。最終的には道元禅師の只管打坐の究極まで展望できる初歩から究極までを備えたツールです。

数息観のやり方・工夫の仕方については次回にします。(つづく)
 


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「緑内障」考

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/6/4 17:22

「緑内障」考

丸川春潭

 

小生は緑内障で左眼が視野面積10%・右眼が40%くらいになり、しかも最近は残った視野が白内障になってきております。白内障の方も左眼の方が進行しておりパソコンや新聞を見るときは右眼だけで左眼は遊んでいるすなわち斜視になっています。対人で正面に対したとき斜視の人に好ましく感じなかった記憶がありますが、その状態に自分がなってきているので危機感を感じております。特に室内で参禅者と相対したときはできるだけ斜視にならないように両目のピントを合わせる努力をしています。

道を歩くときは段差が判りづらいので不安です。ひとりでは恐る恐るですが誰かの肩に手をかけさせてもらって歩くとひとりで歩くときと比べて気持ちが大変楽です。ほとんど体重はかけていないので実際に安全度が上がるというよりは気分的なもので安心してスタスタと今までと同じように歩けます。

飛躍しますが人生においては誰でもが不安な初めての道を段差を気にしながら恐る恐る歩いているようなもので、お互いに肩に手をかけるなり手をつなぐなりするとひとりでの時より安心感は増すでしょうね。こういう不安な時代だからこそ、誰かと手を携えて行くと云うことは必要なことかもしれません。更に単に安心だけではなく、同じ道を同じペースで歩んでいるという共に今を生きている共感も分かち合え充実して生きがいも出てくるかもしれませんね。

視野が狭くなってもう一つ判ったことは、方向感覚が著しく落ちると云うことです。おかしな話ですが、40年以上も住んでいる我が家・我が庭においてなのに、小さく切り取られた視野では見たことがないような景色に見え、一瞬ですがこれはどこだったかな?と考えることもあります。緑内障になる以前はマクロが視野にぼんやり入っていて正面の狭いところにピントがあるから無意識に全体の中のこの部分ということが判る、と同時にその部分も全体の中のその部分として理解していたのだなあと思います。そして視野が狭くなった現在においては、先ず部分だけを見ても初めて見たような感じになるのですが、その理由は全体の中のこの部分ということでの認識ができないからだと思います。だからどこの部分であるかが一瞬ですが考えなければならないと云うことになるし、方向感覚が部分だけでは出てこないということです。先日も庭で草刈り機を使って草を刈り終えたとき、母屋に帰る方向とは逆方向に二三歩あるき出してしまい、アレ!逆やないか!ということもありました。

ここでも飛躍ですが、今現在自分が生きているのはどういう時代のどこに居るのかというマクロの歴史的観点が必要なのだと思います。すなわち平成から令和に変わった今はミクロの視点ですが、明治から大正、昭和とつながったマクロの視点でも見てみる、もっとマクロに大化の改新時代からの視点でも見るときに、現代のミクロの見方は当然異なった見方になるのでしょう。また時間軸だけでなくグローバルな観点から地球儀の中の日本の中のここに居るというマクロからの感覚も必要です。耕雲庵英山老師も世界観・歴史観を現代人は持たなければならないと申されています。そういうものがなければ方向感覚も時代錯誤になるし、今という立脚点もしっかり捉えることができないのです。「木を見て森を見ないとか、森を見て木を見ないとか」論議がありますが、正常な目は森も木も同時に見ているのですよね。歴史観においても現代というミクロだけでも長い歴史のマクロだけでもなく、その両方を同時に視野に入れておくことに非常に重要な意味があることに思い至りました。

更に飛躍しますが、人間形成の道は3040年と一生ものですが、ミクロ的見方・マクロ的見方、ミクロ的努力・マクロ的努力、ミクロ的反省・マクロ的反省などもありますが、どちらかに偏ることなく同時に両方を常に意識していないと正しい道を粛々と歩めなくなるのでしょうね。

両方と云っても抜けるのはマクロの見方の方だけでしょうが、緑内障的に視野狭く人生とか修行とかを捉えるのではなくマクロも合わせた見方が必要だと云うことですが、なかなか自分ひとりでこれを心がけるのは難しいものです。そこに長年の先輩すなわち生きたマクロの見本が居られ会話することができれば有り難いというものでしょう。時代を超えた双方向の会話が今こそ必要なのではないでしょうか?「路遠くして馬の力を知り、歳久しくして人の心を識る」格言を活用することも有効だと思います。

小生の今の視野だと随分不自由だと思う一方、頭を上げれば今日は五月晴れの青い空が見え、目を転ずれば山桃の大木が緑したたる風情で風に吹かれています。首をぐるぐる回せばマクロも見える訳であり、こうやって未だブログも書けると云うことで有り難いことであります。

それにしても緑内障がこれ以上進まないようにせっせと忘れず4種類の点眼薬を7回忘れないようにしなければ!また白内障が進まないようにあまり目に負担をかけないようにしなければと、今更手遅れ気味ですが頑張ります。合掌
 

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見えない修行(その2)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/6/3 20:51

見えない修行(その2

丸川春潭

 

初関を透過し道号を授与された1年くらいの期間が人間形成の修行において最も大切な時期であり且つ危ない時期であり、見えない修行の必要な時期であることを先のブログで書きました。

その次には、見性から歩を進めて行くと瓦筌集142則「五蘊皆空」と云う則があります。見性入理では想像もできない細やかな人間の精神構造が明められ、その五蘊の性格を明確に理解するとともに五蘊を空ずる方法を室内の商量において会得するのです。これはインドから中国へそして日本へ伝えられた最も素晴らしい仏教の法財の一つであり、般若心経の柱になっています。この五蘊を毎日毎時毎分毎秒において空じて行くのが見性悟道というのです。そしてこれにも見えない修行が欠かせないのです。いくら室内で透過しても、一日一炷香を含めた見えない修行がなければ五蘊を空ずることはできませんし、見性悟道が練られないということになります。

ここはまだ見性悟道の段階ですが、次の見性了々底の段階では更に徹底した見えない修行が必要になるのであり、この見性了々底の境涯を我が物にするためには在家禅者といえども僧堂禅と全く同じように、しっかりした聖胎長養が不可欠であります。

見性了々底において悟了同未悟という言葉があります。少し修行をしていると誰でもが知っている言葉ですが、理で判るということではなく、200則の公案を何度見直そうが、どんなに法理に明白になろうが聖胎長養すなわち見えない修行がきちっとできないかぎり悟了同未後の境涯にならないし、従って人物はできあがらないのです。

見えない修行ができているかできていないかはその人の行履に正直に出るものです。例えばその人の人間関係を見てみると、利害関係とか会社での上下関係とか師弟関係とかを抜きにした時に、人の繋がりが多いか少ないかに歴然と現れます。世間の肩書きでの繋がりではなく、老若男女貴賤を問わず人種を越えて人としての繋がりの多さ少なさは、人となりを写し出すのです。

これはわれわれの修行においても同じで、新到者である現代の若者と接して彼らに自己の感動を伝え、彼らの菩提心に火を点ずることができるかどうかはその人の器量に架かっているのです。これは道号授与されたばかりの新参の者から師家まで同様であり、新到者を引きつけ修行に誘うことができる人とできない人とがあります。もっと言えば旧参の者が上から目線でガミガミとやるような支部では人間関係で修行から遠ざかる人が出たり、新到者がリピートしないというケースも散見されます。こういう旧参も結局は見えない修行が出来ていないせいで、独善になってしまっているのです。

利害関係抜き、上下関係抜きで人に慕われたり、付いて来させられる人間的魅力があるかどうかは、生涯的な長いスパンで見ると歴然として来ます。見えない修行は結果としてはっきりと見えるということになります。それを人徳と言い「人の香り」と呼ぶのです。昔から「徳は孤ならず」という諺がありますがこのことを言っているのです。合掌
 


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見えない修行(その1)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/5/29 23:03

見えない修行(その1

丸川春潭
 

 臨済宗系の「人間形成の禅」を中心に持つわれわれ人間禅は、数息観座禅を基盤に臨済宗の特徴である公案修行を一生かけてやります。この公案修行は見える修行です。これに対して数息観座禅は見えない修行と言えます。

公案修行は正脈の師家に入門して臨済宗系の伝統的な公案を授けられ、独参(師家と一対一で問答する参禅)を重ねて公案の透過を目指す修行ですが、初関(200則の公案の中で4則が修行を始めたときに与えられる公案)を透過すれば道号が授与されます。そして修行が進み88則(即今汝性)を透過し、更に道心堅固に修行を継続する者は火大級に進級させ黒色絡子を授与します。次に142則(五蘊皆空)を透過した者に見性悟道の境涯として風大級への進級を証し、その後も空大級(茶色絡子授与)、識大級(庵号授与)、師家分上へと進級が明確にされています。

まさに修行の進行が自他に見えるようになっており、修行の道標が明確になり修行の励みになっています。

長所は短所と裏表であり、見える修行に重心がかかり易く、見えない修行が疎かになりがちなものです。この見えない修行は人間形成の禅の修行にとって常に大切な行なのですが、就中大切な時期を二つあげれば、その一つが見性した直後から道号を授与されてからのしばらくの間です。そしてもう一つが識大級、師家分上になって公案修行があらかた済んだ者の修行においてで、この見えない修行が大切になります。

まず前者の見性入理直後について言いますと、見性時は間違いなく頭頂葉がサイレントになり前頭葉が活性になっていたから見性できたのです。すなわち座禅して念慮を止め言葉を捨てて三昧に入ったから見性できたのですが、未だ三昧が身につくほど三昧行を長年継続していないから、日時の経過とともに前頭葉で感性として保持していた見性の境涯はみるみる希薄になり、代わって見性の時の見解だけが頭頂葉の記憶として残るだけとなってしまう。こうなると次の何ヶ月か先の摂心会では、またゼロから見性の境涯にまで上げてゆかねば次の公案が全く見えないということになります。これは未だ良い方で、見性し道号を授与されたが、見性の感激が冷めて終い修行に対するモチベーションが低下して修行が中断してしまうことも往々にしてあるのです。これらは全て、見性後の見えない修行がきちっとなされなかったためであり、公案修行が知性主導になったためです。兎に角見性した直後ほど先輩がよくフォロ-して、見えない修行を一緒になってしっかり行ずることが大切です。東京支部ではそのために初関会が設けられており、見性して1年間は兎に角しっかり座ることを定着させるために、本来見えない修行を少し見える化してアフターケアーとしています。(つづく)
 


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長寿と禅(その6)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/5/23 21:13

長寿と禅(その6)

 

 このテーマもそろそろ終わりにしたいと思います。
 昔から禅者は僧俗を問わず長命であったという根拠をこのシリーズで考えてきているのですが、今までの精神的な安定のみならず、他にもいろいろと多義に渡ってその理由はあると思います。
 たとえば卑近なところで、常に姿勢が良いし腹式呼吸をしていることから胃や腸の消化器系統の健全を保ちやすいことは小生の経験でもあります。
 また、耕雲庵英山老師とか磨甎庵劫石老師を身近で見させていただいて感じたことは、自分の体調管理に極めて綿密に対応しておられるということと、専門家の医者の意見を謙虚に最大限に尊重しつつ、盲従ではなく自分で納得するまで説明を求め、納得したら医師の指示に全面的に従う(実践する)ことが徹底されていました。お二人とも医師の指示でタバコをスパッとやめられたし、お酒好きの耕雲庵老師でしたが医者の指示通りに節酒をきちっとされておられました。
 総括するとお二方から学んだことは長寿は畢竟するにインテリジェンスのフルーツ(結果)であるということです。
 また小生はよく修行は自利のためだけでは最後まで進みにくいけれども利他心が強いと修行を全うしやすいと申しております。すなわち自分のためだけであればいつでもマイペースで修行をし、またいつでも腰を下ろしてしまえるものですが、利他のことを考えていると修行を怠けることができないし、ここら辺で良いかと腰を下ろせないので最後まで行ってしまうのです。
 健康面においても同じことです。塩気が好きだからと高血圧にもかかわらず塩を舐めて酒を飲んでいる人には自分は人のためにあるんだという認識が希薄であり利他心のすくない人だなと思います。同じようにこれだけタバコと肺がんの関係が言われている時代で、タバコがやめられないのも自分一人のわがままを優先して、法恩に報いて利他行を少しでも長くやろうという気持ちになっていない、口でいくらうまいことを言っても本質的には自分の嗜好を利他行より優先する人に冷たい御仁だと言わざるを得ないですね。
 身命財を放擲してといいますが、これは自分のためではなく他人のためにすることであります。禅の修行を長年やっている人は身命を大切にして長生きすることが世のため人のために尽くす最大のミッションになるわけで、長寿は迷える衆生救済のためにまた仏祖方の法恩に報いるために当然なければならない務めであります。 勿論、こう言うと義務とか責任とかの肩の凝る話にとられてもいけませんが、そういうことでは決してありません。
 小生は5月5日に傘寿の祝いをしていただきそれに対して挨拶をさせられました。80歳くらいで祝われる時代ではないと思いますし、更にそれに対して挨拶せよと言われても閉口するばかりでしたが、やむなく次のように話を締めくくりました。
 「・・・・傘寿のお祝いをしていただくというのは甚だ面映いものがありますが、まだ頑張れということと受けとめたいと思います。・・・・当面、磨甎庵老師の92歳を目標として、いらざることをもう少し世に憚ってやらしていただきたいと思います。」
 6回にもわたって「長寿と禅」をブログしたからには、自分でそれを証明しなければならないことになりました。ご迷惑を承知でもうしばらくはばかるつもりですのでよろしくお願いします。合掌

 


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長寿と禅(その5)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/5/21 22:13

長寿と禅(その5)


  精神的安定が肉体的安定につながりそれが長寿につながるという観点において今までストレスを取り上げてきましたが、ガラッと変えて「満足感」について検証してみたいと思います。
 満足感すなわち「欲するものが満たされているという自覚」は直ちに幸福感につながります。幸福感とか自己肯定感は医学的には免疫力の増強になるようで岐阜の船戸崇史先生の説を読み解くと癌にならない生活習慣の中心に来ると考えられます。
 ただこの満足感はあくまで主観的なものですから、どんなに粗衣粗食でも揺るぎなき満足感を持って日送りをする人も居ますが、他人との比較で自分を尺度する人は普通以上に裕福な生活をしていても不満と愚痴の多い不幸せな人が居たりもします。最近はあまり言われなくなりましたが総中産階級という言い方があり、みんな大体一緒だからと自らを慰めるという消極的な自己肯定が昭和から平成の初期の世風でありました。
 禅語に「吾唯知足」という語があり人口によく膾炙されていますが、これは禅の究極と言ってもよいほどの深い悟境を意味するものです。吾唯知足の解釈としては先の粗衣粗食でも満足という解釈が一般的でしょうが、禅的解釈はもっと本源的なものすなわちお釈迦の悟りから来る禅的境地であります。
 お釈迦様の悟りは言葉で説明できるものではなく、まさに自らがお釈迦様と同じように座禅を組んで三昧に入り正脈の師家の下で冷暖自知して悟る以外に道はありません。(東京では東京荻窪支部の摂心会が西荻善福寺の清明庵で5月29日から6月2日まで開催され、東京支部の摂心会が日暮里の擇木道場で6月22日から29日まで開催されます。これがその絶好のチャンスです。)
 しかしそれだけでは素っ気なさ過ぎということになりますので、第二義に下って少し弁を付けて方向性だけでも申し上げます。
 吾唯知足の根本は、即今ただ今の自己の存在認識が基盤になります。すなわち高々100歳くらいしか生きられない儚い命の自分に永遠の命(絶対の自己)が宿っていることに三昧を通して気付く(を悟る)。これは即今ただいまの自己の100%の認証であり、満ち足りていることを知る(悟る)ことです。ここの知るは「知性として知る」を超えた感性としての納得(悟り)です。ここを基盤としているので、「粗衣粗食でも」という相対的形容がついている満足ではなく絶対的な満足になるのです。幸福感という表現も相対的な匂いが少し付いていますが、絶対的幸福感は仏教用語的には法喜禅悦と言うのでしょう。
 精神的安定もここにいたって盤石と言うべきであり、それでも癌に罹って死ぬこともありますが、精神的な問題での肉体的変調がないと言うことはもとより、免疫力を常に高く維持するなどの健康機能の十全を発揮させるということになり、その結果として長寿が必然的につながってくるということになるのではないでしょうか?
 では見性した(悟りを開いた)人は全てこうなっているのですかと畳みかけてこられると、公式的にはそうでありますが「吾唯知足」になりきれている人は少ないのが実態でしょう。しかし一日一炷香など座禅の継続によって三昧が少しずつ身についてくるにつれてこの「吾唯知足」の境涯にも近づいて行くことはできます。ここの詳しいプロセスについては、人間禅の季刊誌【禅】65号(7月号)の巻頭言を参照下さい(一昨日書き上げたところです)。合掌

 


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