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擇木道場

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擇木ブログ - 老師通信カテゴリのエントリ

数息観についての最近の思い(その2)
 
――一炷香の中身の解析――
 
 前回は数息観評点記録によって座禅の三昧がマンネリにならず着実に向上するというお話しをブログしました。
 今回は、もう少し綿密に座禅の中身を解析し、一炷香(45分間)の座禅の中での三昧レベルの変化について見てみたいと思います。一炷香の座禅の経過時間と共に三昧が深まり、数息観の評点が段々と上がるのが正常な座禅行です。この正常な座禅行においてもつぶさに見ると、最初は雑念が余り発生せずに推移する初期の段階が短くあり、次に雑念が激しくなりまたしては最初の一に戻ってのやり直しの数息を繰り返す中期の段階になる。そしてこの数息観での中期において意思の力を振り絞って雑念に打ち勝ち数息に引き戻し引き戻しして段々と数息観が雑念に打ち勝って軌道に乗ってくる。これが後期の段階です。これが正常な座禅行のパターですが、皆さんはどういうパターンになっていますか?中期の段階で一炷香が終わって末期まで行かない人が多いのではないかと危惧します。自分も若い頃はそうだったように思います。この末期の段階が欠けている間は、数息観をするのは苦しいはずです。そして一日一炷香を継続するのがしんどいと思います。この時期を何とか頑張って少しでも後期の段階が出るまで辛抱して数息観の座禅行を継続しなければいけません。ここでは絶対値即ち三昧のレベルは何も問うてはいません。ただ相対的に中期の雑念が激しいレベルが少しでも収まるレベルが出てくればしめたものです。即ち中期と後期のレベルに差があることが確認できれば、座禅行をやった甲斐があったと自己肯定ができます。そして責任ある仕事を大勢の部下を使ってやっている人は、みんなのために少しはましな自分(心が定まり定力が付いた状態)にしておくために朝の座禅行は欠かせない気持ちになり、自ずと一日一炷香が継続される。お医者さんや学校の先生も似たような立場で、他のために今の自分を整えて精一杯対応するという気持ちで一日一炷香をする。また今日は試験があるとか試合があるとか自分の実力を発揮したいという日には、数息三昧のレベルの如何は問わず末期をしっかり行取してから出掛けるということになる。このように何もしなければ雑念だらけである自分を、自分のためにもみんなのためにも雑念だらけを少しでも下げ、心を少しでも整えてから出掛けようとする。これによりより充実した日送りができるとともに、これが継続されて半年一年が経つにつれて、数息観三昧のレベルも少しずつ深まり人間形成が自然に積まれて行くということになるということです。
 皆さん如何ですか?感想コメント歓迎です!
春潭 拝

※数息観評点表については下記をご覧ください。
※感想・コメントは下記のお問い合わせからできます。
 お名前、メール欄を記載、種類は「その他」を選択の上、
 備考欄に「数息観についての最近の思い(その2)についての質問」と記載して、その後に質問内容を続けて記載してください。
こちら→お問い合わせ

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数息観についての最近の思い(その1)
数息観評点によるマンネリ打破
春潭 
 
 座禅における数息観法は臨済宗が主として採用している三昧を深める方法(ソフト)であり、座禅を始める人にとってもまた人間形成の禅の究極を究めるためにも極めて有効なソフトです。
 耕雲庵老師を始めとし歴代の師家方が円了茶礼の垂示で、異口同音に一日一炷香の数息観座禅をするようにと説かれておられます。まことにその通りでありその数息観座禅を365日、一日に30分なり45分実行することは必須ですが、そこまでの言及にほとんどの場合止まってきました。すなわち一日一炷香の実践の中身すなわち数息観三昧の質についての言及はほとんどなく、わずかに磨甎庵老師が一日一炷香に精彩をつけよ!と云われたことが一,二度あったくらいで、その質については基本的に本人個人に委ねられてきました。そのため小生もそうでしたが、長年修行をしているものは一日一炷香の座禅が実践はされるがマンネリになってレベルの向上がなされないのが実態ではなかったかと思います。
 すなわち座禅の数息観の実践はあくまで個人の内面に向かっての修練「行」であり、その三昧のレベルについては外からうかがい知ることはできませんし、自分でも座ったかどうかとか何分坐ったかくらいで日進月歩の一日一炷香にはほど遠いのが実態ではなかったかと思います。
 そこで考えついたのが数息観の評点付けですが、これはNHKの「ためしてガッテン」という番組で肥満抑制のために体重を朝晩計測し記録を見えるところに張るというやり方です。これだけで何も食べないように節制したり我慢したりすることなく自然に着実に健康な体重が維持できるという放映が切っ掛けでした。
 ただ三昧というものは体重のようなデジタルな数値とは真逆のアナログなジャンルのことで、三昧のレベルを評点するなどという発想は非常識であり、歴史上も初めてのことでしょう。
 主観評価ですから他人と比較するべきものではないのですが、自分だけの評点としては相対評価が可能です。すなわち日進月歩が自分流の評点基準で可能になりマンネリを脱却し人間形成のツールとして大変有効に使えることが、自分でやってみての驚きであり想定以上でした。しかもやり出した当初は、一ヶ月ごとに評点基準をより厳しく設定し直してやるくらい三昧の評点(質)が向上しました。それまでの40年の座禅修練が無駄ではなかったとも思えたし、毎日の数息観座禅を挑戦的に取り組めるようになったのは有り難いことでした。まったく、ためしてガッテンに感謝です。詳細なやり方は昨年刊行した2冊の拙著の巻末にも集約して掲示していますので参考にして頂ければ良いと思います。是非一日一炷香を、数息観の評点付けをすることによって、人間形成の力にしてください。合掌
 
 
※数息観評点表については下記をご覧ください。
 

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路遙かにして馬の力を知る(その3)
春潭
 人間禅の創始者耕雲庵英山老師の揮毫された「路遙知馬力歳久識人心」(路遙かにしてその力を知り、歳久しくして人の心を識る)を拝見しながら、まことにその通りだとしみじみ噛みしめていることを二回のブログで書きました。
 もうこのタイトルでは終わりかなと思っていましたが、岡山禅会と豊橋禅会の摂心会(注1)をしている中で、もう少し書き残しておきたいと云う思いが湧いてきましたので(その3)を書きます。
 80歳近くになっても一日一炷香が日進月歩で深まる感覚が、そのまま学人との商量(参禅時(注2)のやり取り)にも変化をもたらせ、また公案(注3)の見方もまさに数息観の深化に比例して深く見られるようになって来ていることに気付いたのです。
 かって自分が透過(注4)した公案が浅い見方であったと云うことが判る。そういう公案が次々に学人の参禅を受けながら見えてくる。公案の見解(注5)と云うものは、文字で表現できるようなリジッドなものではないのです。世に公案回答集なるものも出回っていますが、公案に対する答えを知っても何の役にも立ちません。公案に対する人間の境涯が浅ければ浅くしか見えないし、三昧が深くなり境涯が深まれば公案は深く見えてくるものなのです。
 すなわち何歳になっても公案を日進月歩で深めてゆくのが人間形成の禅(人間禅)の真骨頂であり、この柔軟且つ新取の気風こそが将来にわたって我々の誓願が進展していく必須条件であると認識を深くしています。
 新到者の方には今日のブログは、東京から富士山をチラッと遠望するような話になったのではないかと思いますが、この事の修行というものは死ぬまでの壮大な大事業であり、人間に生まれて来た甲斐があったというような素晴らしい人生がこれから先にあるのだということを腹に入れて、100歳時代に希望を持って進んで頂ければ幸甚というものです。(完)
 
 

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路遙かにして馬の力を知る(その2)
春潭 
 人間禅の創始者耕雲庵英山老師が喜寿の時に小生は「路遙知馬力歳久識人心」(路遙かにしてその力を知り、歳久しくして人の心を識る)という漢詩の書を拝受し、その意味するところが最近になってようやく判り、感激していると云うことを前回のブログで書きましたが、その続きです。
ここではどう判ったのか?そしてどうして感動しているのかについてのお話しです。
 小生は今年3月30日の誕生日で満79才になります。人間禅に入門したのが19歳の時でしたから修行歴満60年ということになります。そして歴代の総裁の提唱を聞いて異口同音におっしゃっていた言葉が「一日一炷香を実践するように!」でした。すなわち365日×60年=約20000炷香+摂心会(1000回)と途方もなく座禅をやり数息観をやってきたのですが、最近も著しく三昧が深まったと自覚しています。すなわち未だに日進月歩で進化している感触があるのです。すなわち年を取れば取るにつれて留まることなく人間形成は進化するという実感です。
 耕雲庵老師が「路遙知馬力歳久識人心」を書かれた頃と小生もほぼ同じ年齢ですが、師家の在任期間は40数年と14年で雲泥の差で比肩するのもおこがましいことですし、その人間形成のレベルは言うに及ばずですが、そういうことではなく同じことは、年を取ってもさらに進化するという実感の共有であります。その証左が、まさに「路遙知馬力歳久識人心」(路遙かにして馬の力を知り、歳久しくして人の心を識る)なのです。今、目の前の床に掛かっている掛け軸です。
 現代は人生100歳時代です。更に寿命は伸びるでしょうが、死ぬまで進化し続け、より深く人の心を識りたいものであります。合掌
 

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路遙かにして馬の力を知る

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/1/18 1:00
路遙かにして馬の力を知る
春潭 
 
 人間禅の創始者耕雲庵英山老師が喜寿の時に小生は「路遙知馬力歳久識人心」(路遙かにしてその力を知り、歳久しくして人の心を識る)という漢詩の書を拝受し、今 目の前に掛け軸として掛かっています。
 拝受した時期は、小生が20代の後半で50年前のことです。耕雲庵老師は喜寿以降の晩年にこの詩をよく書かれているようです。
 頂いてから50年近く経過した最近になってからこの詩が非常に近しい感じに思えてしばしば床に掛けるようになりました。振り返ってみれば、まさに老大師がこの書を書かれた年に自分がなってはじめてその示唆するところが噛みしめられるようになったということに最近気がつきました。
 上の句の意味は、近いところでは徒歩で行っても大したことはないが、数十キロにもなると馬に乗って行く有り難さが初めて判りだすというくらいな意味であり、下の句もその調子に乗って年を重ねるほどに人の心がよく判るようになったというのです。当然この詩の作者も下の句が云いたいが為に、その比喩形容として上の句を持ってきたと考えるべきでしょう。
 最近この軸に惹かれるのも、当然ながら下の句の「歳久しくして人の心を識る」であり、それが何を意味しているかが若い頃には判らなかったということもこの下の句に対してです。
 耕雲庵老師は30才前半で師家分上になられるという五百年間出の英才であり、この詩を書かれ出した喜寿までに師家の任に付かれている年数が40年以上になるという大宗匠です。こういう耕雲庵英山老師が、「歳久しくして人の心を識る」を書かれる。小生のような凡才とは月にスッポンというか高嶺の月を仰ぎ見るようなお方でも、この年になって初めて識ることがお有りであったということであります。すなわち老大師のような若い頃からできあがったような方も未だこの年で境涯が進んでいるということなのです。そのように小生は拝察し感動するのであります。(つづく)
 

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和気満堂(その2)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/1/11 0:03
和気満堂(その2)
丸川春潭
 「和気満堂」の(その2)です。
 先の(その1)は、「和気満堂」の難しさは、「正しく・楽しく・仲よく」の最後の「仲よく」の難しさと共通するものがあり、「正しく」「楽しく」がしっかりできていなければ「仲よく」にならないし、また同じように「和気満堂」も実現しない。そして、「仲良く」はお互いに合掌し合うことであり、これが基盤にあれば自ずと他の良いところが大きく見え、他に欠点があっても仕方がないなあと許すことができ、仲良くが現成してくるという観点でした。
 以上は、(その1)の要旨でした。
 ここの(その2)では、和気満堂を阻害する要因として、「自己中心と空気を読めない」を取り上げてみたいと思います。
 自己中心を広義に捉えると(その1)も入ってしまいますが、狭義に見てみてもこれが仲よくの大きな阻害要因になっていると思います。
 自己中の特徴は、他が見えない・他に対する配慮が欠如している点であります。
 禅による初関の透過すなわち見性は自己が大仏(毘盧遮那仏)であることを悟ることであり、一見 自己中心と形は似ているのですが実は全然違います。すなわち自己中の自己はチッポケな自我(エゴ)でしかないのです。見性しても日常において一日一炷香(三昧)が継続されていないと自己の大仏が段々とチッポケなものになってしまいます。これは20年30年修行している旧参の者も十分心しなければならないところです。見性の境涯は最初で死ぬまでのものであり、これを継続できるかどうかが人間形成の修行の最大眼目というものです。
 チッポケな自己中では他に対する配慮が欠如するわけですから、特にリーダーがこの自己中になっているとその組織における仲の良い求心力は消滅してしまいます。 リーダーは常に反省に反省を繰り返し、空気を慎重に読まなければいけません。空気を読むと云うことは他を常に意識できているということであり(他を我が面と見れている)、自己中に陥って他が視野から消えてくると、無神経で事務処理的な差配になってしまい、仲良くがその組織で醸成されるはずはありません。
 指導の任にあるものは特に注意しておかねばなりませんが、やはり組織を構成するみんなの他を意識する精神的安定さ(正念相続)がみんなに必要であり、その有無が和気満堂にそのまま反映するのです。(未完)
 

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和気満堂(その1)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/1/6 21:49
和気満堂(その1)
丸川春潭
 
 みなさま、明けましてお目出度うございます。
 季刊誌『禅』の新春号の巻頭言に、「和気満堂」というタイトルで拙文を書かせていただきました。これは、人間禅の『立教の主旨』第3項「人間禅は、正しく・楽しく・仲の良い 人間味の豊かな人々の家庭である」と相通じる考え方であります。
 和気満堂は素晴らしい言葉であり、実際に家庭において人間禅の集まりにおいて、これが如実に実現することが目標であるとしても良いものです。
 しかしこの実現は極めて難しいのも現実であります。
 それは何故か?
 その難しさはどこから来ているのか?
 「和気満堂」の難しさは、「正しく・楽しく・仲よく」の最後の「仲よく」の難しさと共通するものがあります。すなわち「正しく」「楽しく」がしっかりできていなければ「仲よく」にならないし、また同じように「和気満堂」も実現しないのです。
 もう少し具体的に何故「仲よく」できないのかを見てみると、「正しく」が個人的になり過ぎて「仲よく」ができない場合もその一つであります。
 すなわち自分が考えている正しさを他の人に要求する場合であります。論理的にはその正しさは客観的に正しいのであるからそれをキチッと他人に要求することは間違いではないのですが、こういうリジッドな正義感が得てして「仲よく」できない原因になっている場合も結構あるのです。
 人間である限り、完全無欠な人は居ないわけで、誰でも良いところもあるし弱い抜けているところも持っているのがリアルな現実の人の有様であります。
 人間関係において、良いところに注目してみると、仲よくできるはず。しかし弱い抜けているところに強く注目すると非難合戦になり終いには喧嘩になります。
 「仲良く」はお互いに合掌し合うことであると云われており、これが基盤にあれば自ずと良いところが大きく見え、弱い抜けているところがあっても仕方がないなあと許すことができるのです。
 これがお互いに同時にできた時が、お互いに合掌し合うと云うことになり、仲良くが現成してくるのです。
 そして大切なことは相手の問題ではなく、自分の問題であると云うことです。すなわち相手がこちらに合掌するのならこちらも相手に合掌するというような、後出しじゃんけんでは駄目です。相手がどうであれ自分が心から合掌することが肝要です。これができるかどうかは自分に三昧が身に付いているかどうかに掛かっているのであり、仲よくできるかどうかは相手のせいではないのです。真に自分の人間形成の問題であります。(つづく)
 

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宴会と五蘊皆空

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2018/12/26 22:49
 時節柄、職場や同窓会や友人グループやいろいろな集まりの忘年会や新年会で宴会が多い昨今であります。
 本来、こういう宴会は懇親がメインでありざっくばらんにリラックスしたひとときですが、そこでその人の人となりがあからさまに出てくる場ともなり、ある意味厳しい場でもあるわけです。会社時代でもありましたが、その人の人物評価の結構大きなウエイトが宴会で見られているものです。
 また宴会にもいろいろあり、和気藹々と楽しく元気が出る会もあるし、一部で諍いが起こったり、怒り出す人が出てきたりして会全体がよそよそしく味気ない会になったりもします。会社時代によく言われていたことは、宴会幹事をやらせると仕事ができる人間かできない人間かが直ぐ判ると。会社だけではなくどういうgroupでも云えると思います。良い幹事の下で楽しく仲の良い宴会を盛り上げて行きたいものです。
 人間形成の禅を標榜する我々在家禅では、こういう宴会でこそその真価が発揮されると云っても良いかと思います。すなわち人間形成の背骨とも云える「五蘊皆空」に骨を折りこれで練られた境涯がこういう場でものを云うのです。
 ブログですから三点に絞って簡潔に申し上げます。
 一つは、宴会場での一人ひとりと肝胆相照らせるかどうかです。上から目線でも下から目線でもなく相手と一体になって話し飲むということです。
 二つ目は、酒を飲んでも我を出していないかどうかです。お酒が入ると日頃は押さえていた我が鎌首をもたげて高慢になったり、人の弱みや嫌がることを揶揄し口撃するセクハラ・パワハラとなったり、自己中に落ち込んで相手の話は聞かないし空気も読めなくなる。要するに我が出ていることを察知できるかどうかであります。
 三つ目は、好ましいものに歯止めが掛からず、嫌いなものは避けていないかどうか?これは対人にもまたお酒や食事にも両方云えることです。飲み過ぎに歯止めが掛からないでだらしなく人間性が低劣になって失敗した先輩や同僚を沢山見てきましたが、そこまで行かなくてもその場の良い雰囲気を壊す、人を傷つける、自分の体を壊すことは何度も懲りずに繰り返しているのが現状でしょう。やはりいくら好ましいものでもほどほどにし、また嫌いなものでも先ずはそのまま受け止めてさらっと行きたいものです。
 この三つに共通する肝心なことは、一に掛かって自分に三昧力が身に付いているかどうかであります。
 暮れから新年に掛けて、お酒の席も多いでしょうがご用心ご用心!そして、みなさまよい新年をお迎えください。合掌     春潭 拝

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修行はルーティン化

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2018/12/19 23:33
 12月1日付けのブログで、ラジオ体操と一日一炷香の座禅を例にとって、継続の大切さについてブログを書きましたが、その継続を可能にする工夫について今回は書きます。
 一日に一回、線香一本坐ることを365日続けることは容易ではありません。特に若いサラリーマンの生活では、朝早くから夜遅くまで忙しい毎日が常態化しており、師家から云われ自分でも一日一炷香が大切だと判っていても、座れない日が摂心会から日が経つにつれて多くなるのが実態でしょう。
 ここが踏ん張りどころであります。
 結論から言いますと、継続には習慣化がカギです。朝起きて顔を洗わない日は普通にはないでしょう。朝 顔を洗って出勤までの間の行動はほとんどの人が習慣化していますが、この朝のルーティンの中に30分の座禅行を入れて習慣化すれば良いのです。そうすると365日の実践はそれほど難しくなくて、一年を振り返って見てほぼ一日一炷香ができていたなあ、と云うことになります。
 夜のルーティンに組み込むことも良いと思います。すなわち寝る前にトイレに行き歯を磨くように、30分の座禅を入れ込んで習慣化することです。小生は最近朝晩やっていますが、夜の座禅は睡眠時間が30分短くなっても、寝付きが良くなるとか睡眠が深くなるとかで反って健康的であり欠かせないルーティンになっています。
 平凡な日常が10年、20年と継続できれば非凡なものになるものですので、継続するための工夫も大切であります。何か少しでも参考になれば幸甚であります。ご精進ください。合掌   春潭 拝
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継続は力

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2018/12/1 23:36
 小学3年生の担任は戦争帰りの体操の先生でした。最も熱心だったのがラジオ体操の第1と第2をきちっと正確にやることで、これができなければ何回でも時限を超えて徹底的にやらされました。そして今でも記憶に残っている教えは、「これから一生の間に、このラジオ体操はことあるごとにやることになり、それは何百回何千回にもなります。したがってそれをいい加減にやり続けるのと、きちっと正確に全力でやるのとの違いが君たちの体に少しずつ蓄積され、一生の間には大きな差となるのです。君たちは今どちらの道を進むかの分かれ道に立っているのです。どちらの道を君は進みたいですか?」です。
 戦後直後の田舎の小学校で記憶に残っている教えはこれだけですが、小生にとっては真に有り難い財産となりました。自分は特にアスリート的なスポーツの継続はしてきませんでしたが、平均以上のしっかりした体躯になったのはこの教えの継続であったと思っております。
 人間禅の創始者の耕雲庵立田英山老師の著書『数息観のすすめ』を最初に読んだのは、今からかれこれ60年近く前になります。この著書の肝心なところは、耕雲庵老師が仙台の第二高等学校の学生の頃、学長の奥様(禅の大家)からいわれた言葉です。
「立田さん、一日一炷香の座禅を続けなさいね。一日途切れると法が途絶えると思って一日一炷香を続けなさいね!」
そして耕雲庵老師は、「今日あるのはこの奥さんの言葉のお陰である!」と記されています。
これを起点にして、摂心会の円了垂示で、耕雲庵老師が、妙峰庵老師が、磨甎庵老師が、そして青嶂庵老師が、異口同音に「一日一炷香の励行を!」と何度も何度も耳にたこができるほど諭されて、何とか小生のようなぼんくらでも一日一炷香を続けてくることができ、今日に到っております。お陰様でこの年(78才)になっても日進月歩で人間形成の道を一歩一歩踏み上がれていると自覚ができています。真に有り難いことであります。
継続は形になり、力になり、そして必ず喜びに繋がるものであります。(春潭)
 
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