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擇木道場

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擇木ブログ - 老師通信カテゴリのエントリ

(続)摂心会を直前にして

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/10 19:30

(続)摂心会を直前にして

丸川春潭

 摂心会に臨むに際して一番大切なことは何でしょうか?

 それは、一日一炷香の座禅を始める前と同じで、よしやるぞ!!という気合いです。何をやる場合もそうですが、特に自己改革としての人間形成は、アグレッシブなやる気が旺盛であることが何よりも肝要であり、これは新到者も旧参の上士も全く変わりません。同じように必要です。

 813のブログ「敷居の高さ」の中で、江戸時代までの僧堂では座禅修行に対する志の高さをこれでもかこれでもかと確かなものにさせてから始めさせていることを紹介しましたが、新到者はさておき、既に修行を始めている人は「二祖の断臂と雲門の折脚」を臆念して、摂心会に臨むべしであります。

 この前向きの気合いの根源には人それぞれですが、(1)もっと向上したいという道を求めてやまない向上心、(2)自分に対する不満、こんな自分では駄目だ!という反省心、(3)他の人の役に立ち、力になってやるために人間力を付けたいという利他心、等々いろいろあって良いと思います。昨日のブログで書きました山中教授のVvision)と同じで、このVを常に意識することが長い人生において大切であったということですが、まさに摂心会に臨むに当たって、自分なりのVを鮮明にし強く意識することが大切かと考えます。

 何故、このよしやるぞ!の気合いが大切かということを最初に掲げたかと云いますと、摂心会中の取り組み方がこれがあると真剣さを増し、人間形成の道をしっかりと進めることが出来るからです。

 次に大切なことは、やはり準備です。段取り・真剣・尻拭いの段取りであり、摂心会に臨むに当たってと云うことは、しっかり座り込んでから入山すると云うことです。かって小生が坂東支部の支部長をしていたころ(40年前)、摂心会の一週間前からは一日2炷香を申し合わせて実行していました。あと何日もありませんが、今から摂心会に向けて、まさに臨戦態勢に入る気持ちで、時間を作って座り込んで頂きたいと思います。

 最後に、大きくマクロで見て頂きたいのですが、こういう厳しい本格の修行の機会に恵まれていることは極めて有り難いこと幸運なのだと思って頂きたい。道を求めている人は世の中に大変多くの人が居られるけれども、その機縁にほとんどの人が出会えていないのです。

またこういう場があることのバックグラウンド(歴史・背景)を臆念していただきたい。直近の71年前の耕雲庵英山老師の不惜身命財をはじめとした伝法の有り難さ、そしてこの擇木道場建設にあたっての当時の支部員の大変な努力を中心にした全国の道友の拠金があったからこその擇木道場存在の有り難さを、摂心会に臨んで臆念し感謝して頂きたいと思います。(おわり)


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摂心会を直前にして

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/9 21:19

摂心会を直前にして

丸川春潭

 摂心会は、人間形成の二本柱の片方で人間形成の禅にとって大変重いものです。単に参禅修行の機会があるということだけではなく、一週間かけて心を摂するところに重要な意味があります。

摂という字には、「散乱しないようにおさめる。いくつかの物を合わせて束ね持つ。」等の意味があり、摂心会となると心を散乱しないように収める会、すなわち集中・三昧の鍛錬期間でありそれをやる会ということになります。

摂心会は、一日一炷香の三昧養成とは異なり、師家と一対一で商量する参禅を中心にして、座禅三昧、作務三昧、食事(粥座、斉座、薬石)三昧等全ての行事において三昧を継続し深める期間です。まさに三昧を身に付ける重要なそして貴重な機会です。

いつも云っていることですが、公案透過が目的化されると参禅だけが大切でそれ以外の行事は意味が軽くなってきます。こういう人は、公案は進んでも人間形成は進みません。人物が醸成できないのです。まさに耕雲庵英山老師以下歴代の師家方が厳しく戒めておられた禅学者(公案の見解は知っているけれども、公案に込められた境涯が身に付かない、単なる物知りの評論家)になるのが落ちです。

在家禅修行の両輪の片方である摂心会は一週間詰め切りが基本です。それにより24時間三昧に打ち込み、それを一週間継続することで、三昧が身に付き人間形成が進むのです。この三昧が身に付く意味合いは、道眼と道力の両方が融合したものです。参禅修行に、座禅三昧、作務三昧、その他道場での24時間の三昧行が渾然一体となってはじめてできるものです。これが人間形成の禅の命です。

ただ在家禅の難しさは、社会的責任や家庭での責務等により、結制から円了まで門外不出ということが、余程条件が揃わなければできないということです。そこでやむを得ず出勤したり自宅に帰ったりしなければならなくなるのですが、大切なことは、基本をしっかりと認識し、それに如何に近づけるかということです。

サラリーマンが朝の参禅後に下山して会社に行き、定時後は道場に帰ってくる。摂心会の一週間はこの道場を自分の居場所とし、できるだけ休暇を取る工夫を加味し、できるだけ基本に近づける努力が必要です。

要は参禅の回数を単に重ねるということではなく、一週間をかけて段々と三昧を持続し深め身にすり込んでゆく修行が何よりも必要なことであり、これが出来るのが摂心会というものなのです。

一昨日、7年前のノーベル賞受賞者の山中京大教授が、人生はVvision)とWwork hard)が大切だと言われていました。Visionは目標・目的であり、日常に流され、当面の仕事に埋没してともすればVを見失いがちになるのだけれど、このVを常に意識して日常に埋没しなかったのが自分には良かったと述懐されていました。今年の受賞者の吉野博士は、柔軟と拘り(剛直)を併せ持つことが必要と言われていました。これらの発言は、在家禅者の修行にも大いに参考になる話だと思いました。

一年間52週間の内の3回の摂心会です。これを基本形にどれだけ近づけてそれを積み重ねられるかが人生なのです。(つづく)


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(続)AI時代こそ禅が生きる!

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/8 18:41

(続)AI時代こそ禅が生きる!

丸川春潭

先のブログでAI時代に対するコメントを募ったところ、早速ギャネンドラ聖川居士から、早速次のようなコメントがありました。

「今は、組み込み開発でAI技術関係の仕事にかかわっているところです。

 AI 時代で仕事がなくなると言うイメージありますが、そうではなく、仕事で人間を助かることになる技術です。逆に仕事がどんどん増えることになります。

 パソコンが流行った時代でも同じ話す事がありましたが、そうじゃなかったんですね。じゃ何で人間がこんな心配があるのか?それは大事な問題です。」

 また昨日(106日)の読売新聞に、最近有名になっているドイツの若い哲学者、マルクス・ガブリエル教授の説が載っていました。

「今世紀半ばにはAIが人知を超え人間を支配すると米国の未来学者は吹聴している。 知性とは、問題を見いだし、一定の時間内に解決する能力です。動物には知性があります。空腹になれば死を意識し、捕食します。コンピューターに知性はありません。意識がなく、自らの「命」を維持しようとしない。・・・ロボットに過度に依存してしまうのは間違いです。ロボット化を無謀に進めれば、破綻します。」

相対樹の領域内だけの仕事はほとんど無いと信じたいところですが、残念ながらほとんどが相対樹内の仕事に終始している業務も実態としてあるようです。それをやらされる人間は精神的におかしくなるのは当たり前です。こういう部分がAIにどんどん置き換わってゆくように進めて行くことが何よりも必要であるということです。

AIの利用を単に人件費を削減するという経済観点からだけで進めるとひずみが出てくると思いますが、感性ある人間(マルクス教授の云う知性ある人間)が主体となって、AIを上手に使うということが保証できれば、AI時代は人類にとって明るい未来となります。

たとえて云えば、人間に五欲七情があり、人間形成が積まれれば五欲七情を自由に使いこなすことができ、自由で痛快な人生を味わうことが出来るようになるというのと同じで、五欲七情事態は悪でも善でもないのです。

問題は感性ある(本当の知性ある)人間が主体的に差配できる社会になっているかどうかであり、我々の責任でもあるわけです。


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AI時代こそ禅が生きる!

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/5 18:52

AI時代こそ禅が生きる!

丸川春潭

 9月下旬から、二つの講演会のための資料づくりに追われ、ブログを書く時間が無く、しばらくブログ投稿が止まっておりました。

 講演の一つは、この表題の講演で、1週間後の13日に擇木道場で予定されている講演です。皆さんから募ったテーマでもあるのですが、面白そうなのですがなかなか筆が進まず難渋しております。その難渋しているところをブログで皆さんに問いかけてみようかと思い、久しぶりにブログを投稿します。

 AIすなわち人工知能は、人間の脳に限りなく近い思考パターンを大容量のコンピューターで作り込んだもので、ディープラーニング( deep learning深層学習)のできるAIです。これを使って囲碁とか将棋のプロと勝負させ軒並み負かせてしまいニュースになりました。

 AIは、コンピューターのハードとソフトの両面から今現在も日進月歩しており、今後は囲碁や将棋の域から出て人間社会に深く広く介入し、人間社会を根底から変えていくと考えられます。

 小生がいつも説明しています相対樹・絶対樹でAIを位置づけますと、相対樹の要素は全てAIの方が人間の頭脳より優れ(将棋や囲碁のように)、相対樹に関わる仕事は順次AIに置き換わって行くと考えられます。

 AI時代になっても残る職業を12挙げている解説本をネットで紹介頂いて読みました。学校の教員が残る職業の一つと位置づけられており、その理由が人間形成に関わるからだと書かれていました。しかし入学試験に強い良い学校と言われる学校ほど知識教育に偏重している現状から、小生は大部分の教員はAIに置き換えられてゆくと思いますが、いかがでしょうか。

 また医業すなわちお医者さんも残る職業だと位置づけられていましたが、最近のお医者さんの診察は患者の脈を診るなど身体へ触ることもほとんど無く、患者の云うことを聞くだけでコンピューターの方を見るばっかりで、ろくに顔も看ない状況です。実際自分もそういう場面に遭遇して驚きました。こういう実態をみるにつけ、ほとんどの医師はAIに置き換わった方がましとの考えも出てきますがいかがでしょうか?

 小生の云うところの絶対樹に依拠した教員かどうか、医師かどうかがAI時代において峻別されることになるというのが小生の時代感覚ですが、これは教員とか医師とかにかかわらず、裁判官・検事・弁護士の法曹界をはじめ、あらゆる職業においても、絶対樹に依拠した仕事になっているかどうかが問われることになる。考えてみればこの方向性は、人類にとって朗報ではないでしょうか?この観点ではAI時代を喜んで迎えたら良いのではないかと考えますが、皆さん如何でしょうか?(つづく)


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情報依存症

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/9/22 21:35

情報依存症

丸川春潭

 昨日(919日(木))から、名古屋支部・豊橋禅会・知多禅会の合同摂心会を南知多の大宝寺を拝借して開催しています。

 このお寺はかって尼寺であり、しかも縁切り寺という歴史を持っていたそうですが、現在は普通の曹洞宗の末寺となり、元サラリーマンの男性住職が近辺の23のお寺と掛け持ちで務められています。そして最近はほとんどないようですが、かっては研修会とか林間学校にも使われていたようで、台所とか風呂とかのユーティリティを含め摂心会には最適の設備があり、擇木道場よりもゆったりと贅沢に使えるところです。

 ただ最大の特徴であり問題なのは、電波が届かないと云うことです。今どき日本にそんなところがあるのかと言われますが、携帯は勿論のことメールを含めてインターネットがまったく使えないのです。数百メートル山を下りて民家のあるところまで行けば、電波が入ってきますので何とかなると云えば何とかなることなのですが、こういう環境に身を置いてはじめて現代という人間社会の特徴をつくづく思い知らされている次第です。

 と云いますのも、小生常々「現代は人類が未だかって経験したことがない情報過多の社会に生きており、それから来る精神的ストレスをキチッと解消する方途を自分でしっかり持っておく必要がある。すなわち何らかの精神的ストレスをレリースするものを持ちそして日々行じていなければ、自分の(人間の)自然な精神状態を保てない現代という時代なのだ・・・・だから数息観座禅などの・・・」と持論を展開しています。

 だったらまさにここは希少なそして貴重な情報レスの地域であり、静かな時間がここにあると云うものなのです・・・が、しかも朝には朝刊は届けられるというのに、しかしそう簡単では無いのです。 

 今朝方は、車で5分ほどの喫茶店に連れて行ってもらってコーヒーを一杯注文しながらスマホとコンピューターに昨夕からの情報を仕入れ、また電話を数本やりとりして来ましたし、午後の作務が終わってからも車で10分ほどドライブして来ました。夕食後も散歩がてらちょっと山を下りようかと思いましたが、雨がひどかったのでやむなく断念しました。

 要するに普段のリアルタイムの情報の受発信ができないとなると不安というか落ち着かないのです。ほとんどがくだらないと云うか一日くらい遅れてもどうってことのないものだと判っていながら、もしもとかを考えたりして、くだらないと云うことを確認しなければ落ち着かないのです。

 情報過多であり精神的ストレスだと云いながら情報のある生活がノーマルであり、情報が取れないとなると情報に渇望してくるのです。まさに情報中毒であり、情報依存症になっているとつくづく思い知らされたわけです。

 そしていままでの言い方とは真逆の方向からになりますが、余程深い三昧行が一日に一回はなければならないと思った次第です。(このブログも、明日喫茶店が開くのを待ってコーヒーを飲みながら、風印さんに送るつもりですw。)

 


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「死」が軽い現代!

~~敬老の日に因んで~~

H30.8.23 丸川春潭

今の子供達は核家族になっているために家族の死別の悲しさを知らないで大人になる場合が多くなっている。私は父母の親(お爺さんお婆さん)が死んだときの父母の涙と悲嘆を子供心に強烈な印象で覚えている。それは大人になってからの実の父母の死よりも鮮明で強い印象になって残っている。それは子供の時の方が死の悲しさを感受性強く受けるからなのであろう。

肉親の死でもって「人間の命」を肌で感じ、肉親の死別によって深い悲しみを知る。三代、四代の大家族は、必然的に祖父母、曾祖父母の死に遭遇し、家族が死別を悲しむ様子を幼いなりに受け止める貴重な経験に遭遇することになる。

 幼少期に人に死があり、死別がどんなに悲しいことかを知ることにより、「命の大切さを知る」ことになる。これはどんな教育にも勝る大切なことである。また人間にとって悲しいことを知ることは、嬉しいことを知ると同じようにその人の人格形成にとって極めて重要である。

現代の幼児期から学童時代の子供達は、ゲームにどっぷりであり、そのゲームの仮想社会で悲しみの伴わない死を繰り返し繰り返し日常茶飯事的に積み重ねて大人になっている。

その結果が、横須賀の施設の大量殺戮や子供や親を殺めることに繋がっていると考えるのは短絡であろうか?

また、自死者がやっと年間3万人から2万人台になったとは云え、阪神淡路大震災の死者数6千数百人はもとより東日本大震災の死者数1万5千人強よりも多くの人が毎年 掛け替えのない命を自ら絶っている。弱者を殺めることと、直ぐに切れやすく自死してしまうのは、根っこは同じであり、命が軽い現代社会の病根から来ているのではないか?今の世の中は実に人の命の尊厳が希薄な時代である。何とかしなければならない。

高年齢社会になってきているが、孫や曾孫と一つの屋根の下で住んでいる老人は少なく、独居老人が多くなっている。そして一人で亡くなって行く人も多い。樹木希林さんは癌の闘病で入院していたけれども死ぬときは家に帰りちゃんと孫に自分の死を見せて亡くなられたそうであるが、マクロ的に云えば、ほとんどの老人は老人の果たす最後の役割を果たせていない。

次の世代に対する最大の教育として、「人の命の大切さ」を死別の悲しさから示す「死に様」を前向きに老人は意識しなければならないと思う。もちろん個人的な努力のみならず社会的にも「死別の悲しさ」をもっと大切にし、そして人の命の大切さ重さを日常的に感じられる人間味の豊かな社会にして行かねばならない。


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囲碁を楽しむ人は囲碁が上達しない!

春潭

 楽しいことは大体において良いことですよね。

人間禅のモットーは「正しく・楽しく・仲よく」です。

ただ、禅による人間形成の修行が楽しいかと問われると、なかなか答えにくいものがあります。

若い頃、師事していた囲碁の先生(関西棋院の亀山七段)に囲碁の仲間が、「囲碁をやっていて強くなる人と、いつまでも強くならない人といますが、囲碁が強くなるかならないかの差はどこにありますか?」と問うたとき、先生が「いつまで経っても碁が上達しないのは、囲碁を楽しんでいるからです。強くなりたい人は囲碁を楽しんではいけません!」と答えられました。その言葉は厳然としたもので、今でもはっきり覚えています。

「禅によって人間形成を積めば、人生を楽しみ味わうことが出来るようになる。」とは云えますが、人間形成の修行というものは元来、自己の殻を破る修行ですので、厳しく自分に妥協せず克己が必要であり、したがってその途上において楽しいと云うことは本来そぐわないことでしょう。

亀山七段の教えを禅的に解釈すれば、囲碁を楽しむと云うことは、勝ち負けという相対の場において勝った優越感を楽しみとしているのであり、囲碁道という人間形成の要素が欠落していることを突いているのです。囲碁の上達も負けを反省し、克己し、苦しんで研鑽しなければ自分の棋力を向上させることはできないということでしょう。

もちろんプロのように棋力の向上一筋ではない我々アマチュアにとっては、ひとときの指談(残月軒道聳さん命名の造語)を楽しむ囲碁はあって良いのですが、棋力を上げるとか囲碁道として囲碁を通じて人間形成をすると云うと、勝ち負けの楽しみだけでは駄目だと云うことでしょう。

新しく禅門をたたいて来られる方で、公案修行を楽しんで居るのではないかと思われる方がたまに居られます。われわれは来る者は拒まず去る者は追わずで、こういう方も勿論受け入れます。ただ若干困るのは、摂心会や参禅会などで大部分の人が公案の工夫や正念の工夫で自己の内に向かって集中している場にあって、楽しげに周りの人に話しかけられることで、そういう場合はちょっと控えて下さいと云わなければなりません。こういう人は公案修行を知的興味の対象として捉えているのでしょう。

磨甎庵劫石老師は摂心会や参禅会で、「無駄口をたたくな!」「白い歯を見せるな!(大口開けて笑ったりしゃべったりするなということ。)」と常々厳しく仰っておられました。

楽しんで修行するに超したことはありませんが、そして楽しんでいるから人間形成が進んでいないとは必ずしも云いませんが、長い目で見ていると楽しんで修行をする人は、得てして長続きがせず途中で挫折してしまう場合が多いものです。公案が進んでいるときは知的興味も可能でしょうが、公案は必ず何度も壁に当たるものです。そうなると知的興味だけでは続かなくなります。楽しくなくなっても自分を向上したいという本来の公案修行の軌道に、知的興味の軌道から転換しなければ修行は継続できません

以前にも申しましたが、修行の最初はどういう動機でも良いと耕雲庵英山老師も云われています。修行を継続する中で段々と修行に向かう志が本物になって行くのを見越されて言われたのだと思います。継続は正しくなければ継続できないし、継続しているのはその取り組みが正しくなっているからなのです。

 

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「停電とロウソクの火」

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/9/11 20:50

「停電とロウソクの火」

春潭

 15号台風が過ぎてから、三日目になっても未だ50万戸の停電が続いているとのこと、被災者の方々にお見舞い申し上げます。

 潮来市の拙宅も台風の進路にあたり、風害が隣近所と同様大分やられましたが、一番困ったのが停電でした。冷凍物が一度に溶けてどう始末するかを家内は心配しており復旧が時間の問題でした。そして何より猛暑のぶり返しの中でエアコンが効かないのにはジリジリとして耐えていました。

幸いこの地区は12時間くらいで電気が回復して安堵しました。久しぶりに電気のありがたさを痛感しました。

 朝6時過ぎに激しかった暴風雨の風向きが急変しまた風も幾分か収まりました。起き上がって停電に気づきましたが、未だ直ぐに見廻る状況にもないので、いつものように朝座と朝茶をロウソクの灯火のもとでしましたが、久しぶりのロウソクの灯火に魅せられました。

 電灯と違い、ロウソク(蝋燭)の灯は暗く、そして揺れるのです。灯が揺れることにより影が目立ちだすことにも気が付きました。

白い個体の蝋が温められて透明な液体になり、ロウソクの芯を伝って燃えだし辺りを照らしそして気体となって消えて行く。

 ロウソクの灯を見つめているとそれだけで絶対の切り口に入ってゆく。

ロウソクは人間の一生の全貌をそこに見事に展開して見せてくれている。

 ロウソクの灯の下で点てるお茶は茶筅を振る影も一緒に主客一味となる。

茶事の一つに秋の夜話という茶席があり、電気を消してロウソクだけでやる茶会ですが、何十年か前の夜話茶席を思い出しました。

 三日も停電で難儀をされている人には申し訳ありませんが、ひとときのロウソクの灯を楽しませて頂きました。

 


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「座禅するから暇になる」

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/8/29 21:18

「座禅するから暇になる」

春潭

 前回のブログで、「座禅しないから忙しくなる」を書きましたが、「では座禅をしたら暇になるのですか?」と突っ込む人が居ましたので、返答の代わりにこのタイトルでブログを書きます。

 先ず、字のつくりですが、旁の意味はかぶせるという意味で、日へんがついて、所用の日時の上にかぶせた余計な日時ということのようです。

 意味を大辞林で見ますと、名詞(1)仕事や義務に拘束されない自由な時間、(2)休み・休暇、(3)主従などの関係を絶つこと。いとま。形容詞(1)仕事や義務に拘束されず、自由に出来る時間がある様。

 座禅をすると30分から45分の時間は仕事が出来ないことになります。

時間に追われている現代のサラリーマンにとって、朝の出勤前にはこの1時間に満たない時間といえども貴重であり分秒で毎朝戦っているのにとんでもないというのが実態であり、そんな暇はないよ!が本音ですよね。

また電話が鳴りっぱなしとか机の上に処理を待っている書類の高さを見ても、勤務中においてのこの短い時間といえどもこれまた猫の手も借りたい代わりようがない貴重な時間でしょう。

アフターファイブはもう死語であり今ではアフターナインでしょうが、お客さん相手にしても上司相手にしても待たせるわけに行きませんし、そんな暇はありません!!でしょう。

 また逆に、定年になって毎日が日曜日になった途端に暇になりすぎてうつ病になる人もあるとか。

また一時流行った言い方では、家庭の奥さん方にとっては元サラリーマン戦士も濡れ落ち葉だと云われていましたね。(判りますか?乾いた落ち葉であれば掃いても直ぐ集めて捨てることが出来るけれども・・・・、ということのようです。)暇を持て余して家で三食たべてゴロゴロしているからそんなことを言われるのです。

現役時代は気の利いた秘書の作ったスケジュールに従うだけで一日は過ぎ、多くの部下が忖度で仕事を進めてくれていた。こういう人ほど、スケジュールも作ってくれない、忖度もないとなると、チコちゃんに怒られるようなぼおーと生きてしまうのかもしれませんね。

 

人間と時間の関係は不思議な関係ですね。

過去は済んでしまってもうないし、未来はまだなにもないし、あるのは過去と現在の接点である「今」だけしかない。

しかし考える葦である人間は、過去にも未来にも拘束されてしまい、唯一存在している「今」に生きていない状態になりがちです。

 座禅をすると云うことは、「今」をしっかり取り戻すことです。

座禅をすることによって、「今に生きる」がはっきり確保でき、過去にも未来にも煩わされることがなくなるのです。

座禅をすることによって(前回書きましたが)、「忙しい(こころを亡くする)」という言葉と無縁になり、仕事に追われることがなくなり、余裕が出来て暇になります。

また逆に、定年退職などして追いかけられるような仕事から解放され暇になった人が座禅をすれば、暇がなくなります。ここで云う暇は、「やることがなくて手持ち無沙汰」という意味です。

座禅をすることにより、充実した「今」を持つことにより、やることが無限に出てきます。もちろん忙しいということはないけれども、充実した今を生きるということになります。

繰り返しになりますが、総括して云えば、忙しい人が座禅をすれば暇ができ、暇な人が座禅をすれば暇がなくなるのです。


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「座らないから忙しくなる」

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/8/26 17:54

「座らないから忙しくなる」

春潭

 現代は忙しい時代だ!と云う言い方に、ほとんどの人は異論なしでしょう。

 禅会の周辺で、「この頃、忙しいからしっかり座れていない。」という会話が聞かれますし、自分の中での思考も、「忙しいから座れないのも仕方がない。」という屁理屈がまかり通っているようにも思います。

また一般的にも「忙しい」が社会的に認知され、一種のステータスにまでなっているのが現代社会とも云えます。すなわち忙しい人はよく仕事をしている人であり、忙しくない人は社会的に評価できない的なニュアンスがまかり通っているように思います。

 先ずは、この「忙しい」を禅的に検証しみたいと思います。

 忙しいという字は、立心偏すなわち偏が心で旁(ツクリ)が亡でこの字が構成されている。すなわち心を亡くした状態が忙しいということであり、この字の構成が「忙しい」とはどういうことかを全てを物語っています。

 すなわち現代はこころを失った人が多い時代だということになります。にもかかわらず忙しいと云うことが大きな顔をしてまかり通っているのです。忙しいことは、本来は恥ずかしいことなのに、忙しくないと恥ずかしいというところに、現代の精神的混迷の根源があると思います。

 ではこころを亡くさなかったら忙しくないのか?ということになりますが、もちろんYesです。掲題の「座らないから忙しくなる」は逆説的皮肉ではなく、心を亡くしているから忙しいのであり、心を亡くさなかったら忙しくない!のです。座れば忙しくなくなる!のです。この論旨にYesしますか?


 一国の宰相であろうが、定年になって毎日が日曜日の人であろうが、生きている人間にとって使える時間は全く変わらぬ24時間です。やらなければならないことがいくら多くてもこの時間をどう割り振りするか、何を優先にして何を割愛するかというだけの問題です。やらなければならないことができない場合にはどうするかと云うことの判断もそれを割愛することも対処の一つですが、後に回すとか誰かにお願いするのも対処の一つです。

 小生は、忙しいと思ったことはほとんど記憶にありません。少なくともこの数十年はないと思います。サラリーマン時代から人間禅にどっぷりになっている今に到るまで、半分冗談に暇だから何でも云ってくださいよ!で通して来ています。

 小生の対処の仕方において最初に考えるのは、自分しかできないこと・自分がやらなければならないこと・自分がやりたいことを雑多な懸案課題の中から選び、次にそれの処置しなければならない期限を考える。ここまでではあまり重要性については考えません。ただ処置するために時間的に重なる場合や重なる恐れがある場合に重要性の判断をして優先度を決めます。これで24時間以内に入ったことを片っ端から捌いてゆく、というのが最近のやっている実態です。24時間以内に入れなかったことに対しては次の日以降のことでの懸案メモは残すとしても出来なかったという思いはスパッと切ります。

この一日の課程の中に忙しいという思いは入ってきません。処置し捌いてゆく中で、予想以上に時間が掛かり予定していたことができないことも結構ありますが、出来なかったという事態に対する処置はちゃんと打てば良いことであり、どうしてもやらなければならないことはほぼやれていると思っています。

 朝起きたときと寝る前に座ると云うことにしていますが、これもほぼ(98%以上)できていると思います。できなかった場合で一番多いのは、朝座の時間に面談が飛び込んでくる場合ですが、これも最近は、午前中のどこかで挽回する対応になってきています。宴会があって調子よく飲んでも夜座ができないことはほとんどありません。この朝座と夜座の間に小生の全ての活動が優先順位に従って詰め込まれており、楽しんでやっている訳です。

特にと云えば、今日やらねばならないことは明日に延ばさないことを心がけています。【禅】誌の巻頭言の原稿が4ヶ月毎にやってきますが、言われた期限を越えたことは未だないと思います。ただ最近老人ぼけで、約束していたことをポロと忘れてしまっていたと云うことが多くなり、皆さんに迷惑をかけているとは思います。

 サラリーマン時代は特に若い下積みの頃は、上からの指示で重要度も優先度も決められ、それだけで仕事がオーバーフローすることもしばしばありましたが、そういう場合は率直に優先度を上司と相談して決めればいいことです。小生は上司も部下も巻き込んで楽しんで仕事をしていましたから、現役時代も忙しいと感じたことがなかったのだろうと思います。

 これらの忙しいという言葉がない背景には禅で云う、段取り・真剣・尻拭いに努めていると云うことと、一行三昧が身に付いてきているのが効いていると思います。前者は法話等で先輩方がよく話されていることでこの解説は割愛し、後者について少し注釈します。

 一行三昧の一行は、今行っていることであり、今やっていることに三昧で打ち込んで行き、その他の念慮を差し挟まないということです。人間は考える葦ですから、何かやっている最中でも過去のことから未来のことから今やっていることと関係のないことについつい思いを馳せたがるものです。一行三昧を純粋に行うことは難しいけれども素晴らしいことです。すなわちこの一行三昧の一日は、忙しいとは無縁になります。

この一行三昧が出来るようになるのが人間形成の修行なのです。そしてその基本が、一日一炷香にあるのです。少なくとも一炷香(45分)座禅をして、その定力(三昧力)を付けその日一日の一行三昧を実践するのです。

きちっと一日一炷香が出来れば、一行三昧になり忙しさはなくなる。座らなければ、今やっていることに集中できず忙しくなるのです。重要な仕事にたずさわっている人ほど寸暇を作って座禅をしなければならないのです。座禅をしないから忙しいのであり、座禅をすれば忙しくなくなるのです。


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