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擇木道場

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擇木ブログ - 老師通信カテゴリのエントリ

長寿と禅(その1)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/4/18 23:57
長寿と禅(その1)
 
 先週、岡山禅会の摂心会中に元住友金属工業時代の大先輩であり、仕事(製鋼分野)において大変お世話になった大恩人の栗田満信氏の訃報が娘さんから電話でありました。享年95歳であり大往生だと思いますが、われわれ住金製鋼屋仲間の精神的支柱のような方でしたので寂しい限りであります。氏は仕事における上司としてご指導いただいただけではなく、個人的にも大所高所から小生に学位取得を強く指示していただいたことや、仕事には関係のない小生の人間禅にも深いご理解を頂き名誉会員として経済的な支援を長年していただきました。最近一年くらいは2ヶ月に一回のペースでお宅にお邪魔し、二人で四合瓶を飲みきるまでお話の相手をさせて頂いていました。直近では2月17日にお伺いして次は岡山摂心会の結制日4月10日と決めていました。2月17日の時も四合瓶を軽く開けお元気そのものでした。しかしお年がお年でありいつどんな事態になるか判らないといつも一期一会を肝に銘じておりました。こういう事態になることを予期はしていましたがあれもお伺いしておけば良かった、こうもしておけば良かったと後悔の念が尽きませんが、氏に対するご恩にいかに報いるかを考え実践すべきと頭を切り替えなければならないと考えているところです。
 その手始めに栗田満信氏の95歳の大往生を目の当たりにして長寿ということを考え、氏が一生をかけて示された長寿を自分が超えることが氏への第一の報恩になると考え、長寿について禅的に整理してみたいと思い立ちました。
 古来より、禅僧は一般人はもとより宗教者の中でも長寿が多いと聞いております。(誰が何歳かという具体的な知見を持ち合わせていないので、この読者の中でそういう情報をお持ちの方はお教えください。)この禅と長寿について、自分の60年間の禅修行を顧み整理してみたいと思います。
 先ずは、精神的安定が肉体的安定につながりそれが長寿につながるという観点がまず上げられます。この精神的安定は非常に広いカテゴリーを含んでいます。大きく分けて、外から入って来る精神的ストレスに対する解消法と内から出てくるストレスがあります。 その他、対人関係の処し方・仕事に対する姿勢・生活習慣の組み立て・病気になったときの対処などいろいろな角度から見てみたいと思います。今日は前置きが長くなりすぎましたが、次回から本論に入ってゆきます。合掌
春潭 
 

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嬶まんがいい(その4)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/4/11 0:25
嬶まんがいい(その4)
 
 「嬶まんがいい」とは、「良い嫁さんに恵まれて運が良い」という意味であり、これを言い切れる人は滅多にいません。これを言った和歌山の和尚の境涯についてブログを3回書き、その第4回目です。今回で多分終わりです。
 自分に対して厳しい目を持ちなかなか自分を肯定的に頷けが得ない人は、当然他人にも厳しく見てしまい人間関係がうまくいかない傾向にもなります。
しかしこういう人には宗教的な求道心を持つ人が多く、求道の道に巡り会えることができるかどうかが古来大変大切であり且つ難しいのです。大勢の悩み苦しむ人の中で真剣に道を求める人はその中の数%の人にしか過ぎない。大多数はいい加減なところで自分をごまかして人生が終わりになるものです。妥協できずあくまで道を求める数%の人においても、正しい道に巡り会えることすなわち明眼の師家に出くわすかどうかはここから更に少なくなる。これを読経の最初に唱える「開経偈」では、「百千万劫難遭遇」と述べているのです。
 正師に巡り会えて転迷開悟し見性してから更に師家の指導の下に後悟の修行によって差別の妙所を徹見し、そして更に進んで悟りの臭みをすっかりそぎ落とし悟了同未悟の境涯に進む。そうして初めて「わしは嬶まんがいい!」と言い切れるようになる。この境涯の人はどういう境涯なのでしょうか?貴賎貧富を問わずみんな何がしか持っている人格的欠陥とか好きずきを含めて不満足な点をどう見そして対処しているのでしょうか?これが大きな問題です。
 見性入理の当初は人の短所とか癖とかが見えないとか直視せずに逃げているという段階でしょうが、達道の人にはそれははっきり見ていてしかもそれを個性として面白がっているようなのです。自分の含めて人の欠陥をマイナスに見るのが普通で、それを許容するのが次で、達道の人はそれをプラスに見るのです。達道の人である山岡鉄舟居士の作られた句に次のものがあります。
 「晴れてよし曇りても良し富士の山もとの姿は変わらざりけり」
「曇りても良し」であり、「雨もまた奇なり!」なのです。これを自分にも他人にも心の底から言い切れるかどうかが肝心なところであります。観念として肯定する人は多く居ますが、これを実践の上で平然と実践している人すなわちこの境涯が身についている人はほとんど居ない。人間形成としても最後の仕上げのところであり大変難しいことです。理屈で判っている人はたくさん居ますが、この境涯に本当に至っている人はほとんど居ないといっても過言ではありません。
 「亦風流」「也風流」
耕雲庵英山老師はこの字をよく揮毫されておられました。どんな不風流なことでも「亦風流!」と言い切る。やせ我慢しているわけでも大目に見ているわけでもなく、それも亦風流!と文字通り心底思っているのです。とても難しいことです。凄いことです。恐ろしいことです。しかし人間形成の目指す先にはこういう境地があるのです。
 お酒を召し上がって真っ赤な顔をして、「わしは嬶まんがいい!」と高言されていた声が心地よく耳に残っています。合掌
 春潭 
 

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嬶まんがいい(その3)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/4/7 22:36
嬶まんがいい(その3)
 
 「嬶まんがいい」とは関西弁であり、「良い嫁さんに恵まれて運が良い」という意味であり、これを言い切る人の境涯についてブログを2回し、その第三回目です。
 他人に対しても自分に対してもネガティブな面を拡大して厳しく見て行く人は、自分探しをする宗教的求道者が多いと私は見ています。そういう人が探していた求道の道を見つけたとき、それだけでネガティブな視点が相当緩和し、第一段の安心の階段を踏み上がることができます。
 しかしここから和歌山の和尚のように嬶まんが良いと言い切れるところまですなわち100%の肯定にゆくには、禅による人間形成がどうしても必要です。
すなわち次のステップに行くには、見性して自己の中に絶対の自己をはっきりと見ることが必要です。これができると第二段階に登ることが出来ます。それは自己が大仏如来と不二一如であることを悟るのです。これによって当然、根本的な自己肯定がなされる可能性ができました。可能性というのは、法理的(理屈的)には100%肯定なのですが、現実にはその境地になっている期間が短い。すなわち100%肯定感の期間は一般的にはそれほど長続きしないのが実態です。
その理由は、この段階が見性入理の段階であって未だ見性の境涯が身についていないのです。すなわち見性した直後は、文字通り自己が大日如来になりきっており天地と我と同根を確信しており、その間は自分の未熟なことなど目に入らない状態です。そして山川草木禽獣虫魚悉皆成仏ですから、一見ですが100%嬶まんがいい状態です。この状態は三昧を通じて絶対の境地にどっぷりと浸かって居て、差別の世界が見えていない状態です。すなわち見性入理の段階は極めて偏狭な立場でしかないのです。これは自分一人では気がつきません。ここに正脈で明眼の師が必要になります。生命科学者の柳沢桂子さんも見性だけは独自の研鑽でなされましたが、そこから先へは誰もがそうなのですが自分だけでは自分の不十分さが判らないものですからそれ以上の向上は無理です。
臨済宗の正脈の師家の下に人間形成の修行をしている者には、師家がその偏狭さを改め修正するための公案を学人に与えて、少しずつ差別の妙所を徹見させて導くという次の第三段階へ向かって進むということになるのです。(つづく)
春潭 
 

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嬶まんがいい(その2)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/3/30 21:54
嬶まんがいい(その2)
 
 「嬶まんがいい」とは関西弁であり、「良い嫁さんに恵まれて運が良い」という意味であり、これを言い切る人の境涯について話した、第二回目です。
 他人に対しても自分に対してもポジティブな面を全面的に見ていく人と、反対にネガティブな面を拡大して見て行く人と二通りあります。
 後者の場合のネガティブな見方の根本は自分に対して厳しい見方をしているということであり、それを人に対してもと云うことです。その原因は自己の確立が出来ていないことに自分で気がついており、しかもそれを求めているけれどもその目処が付いていない状態にあるといつまで経っても自分にも他人にも厳しくそしてややもすればネガティブに見てしまうことになる。
これは別の見方からすると非常に宗教的な(自分探しを強く求めてやまない)気質の人であると云えます。 前回のブログでも引用しましたが、内閣府の調査で世界の中で日本の若者だけが極端に自信を持っていないというデータになっていると出ており、良くこれが引用されますが日本人の気質が宗教的な気質を持っているからではないかと以前から考えておりました。
 小生は製鉄の研究開発に従事していた経験から、現状に疑問すなわち不満足が無ければ新しい開発も発見もでてきません。ことほど左様に、自分に対して厳しく見る視点と現状の自分に対する不満がなければ人間は精神的成長を生じ得ません。
人間形成の三要素として大信根・大疑団・大勇猛心が古来から云われていますが、この大疑団に関係しているのが宗教的な問題意識であります。
 しかし始めに自分に厳しいのは良いのですが、前回の和歌山の和尚のように100%肯定にまで行き着く人は何人居るのでしょうかね?!恐らく1%もないと思います。しかしそうすると一般人にはなかなか救いがないということになりますが、自分探しは未だ未だだけれどもその探す方途が持ってたと確信できれば、50%以上には自信が持てるものです。小生の経験からも云えます。ただこの確信が持てる方途に出くわす確立が10%くらいしかないのではないでしょうか?これが一番の問題であり、課題なのです。
 「嬶まんがいい」話から大分難しくなりましたが・・・(つづく)  
春潭 
 
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嬶まんがいい

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/3/26 1:07
嬶まんがいい
 
 「嬶まんがいい」とは、関西弁であり関東では「運が良い」という意味です。
 今日のお話は、大体50数年前の小生が20代中頃で和歌山製鉄所勤務だった頃の話ですが、和歌山市内で座禅会の会場をお借りしていた窓誉寺の矢尾俊光和尚が、お酒が入ると「儂は、嬶まんがいい!」とよく言われていました。先妻が病気で亡くなられた後に後妻さんを貰われていたのですが、「先妻もいい嫁さんだったけど今の嫁さんもいい嫁さんで、儂は本当に嬶まんがいい男だよ!」と後妻の奥さんの前で高言されていました。奥さんはそれを満面の笑みで聞いておられました。和尚は早稲田大学の出身の曹洞宗の僧侶であり住職だったのですが、小生をこの窓誉寺の跡継ぎにするから養子にならんか?といわれるほど可愛がって頂きました。この奥さんは小生と同じ岡山出身で気が良く我々の面倒をよく見て頂き愛嬌の良い方でしたが、鼻の低いお世辞にも美人と云える女性ではありませんでした。
 和尚の作務を見ればその性格が判りますが、極めて厳格であり作務の完成度もさることながら作務道具の片付けにおいても極めて厳しくよく叱られました。こういう厳格な妥協を許さない和尚が、嫁さんを始め我々座禅会の人間を褒めあげ何の注文も付けないで許すお人でした。今思い出すに、それが対人接遇の処世術では無く本人が心の底から相手に対して100%肯定しておられた様に思います。こういう人間観は周りの人を明るくさせ勇気を与えることになります。またそれが自分にも同じように向けられると100%の自己肯定になるのでしょう。奥さんに対しても自分に対しても客観的には足りないところは無いことは無いのですが、主観的にはこころから100点満点ということがあり得るのです。
 逆に相手も自分も素晴らしいところが沢山ありながら、相手に対して厳しくその不足を突きつけまた自分に対して足りないところを悔やみ劣等感に感じる人が居ます。そして現代の日本は圧倒的にこの後者が多いのでは無いでしょうか?内閣統計でも日本の若者は他国に比して自信がないことを示しているようです。
 あなたはどちらですか?そしてあなたの周りの人はどうですか?(次につづく)
春潭 
 
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女性だけの摂心会開催結果速報

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/3/4 23:19
 今日は3月3日おひな様の日です。擇木道場の玄関には飾り雛が3つ華やかに彩りを添えています。
 2月28日から今日まで人間禅の女性部だけの摂心会が日暮里の擇木道場で開催され、先程無魔円了しました。東京支部の女性会員から正式なブログもあろうかと思われますが、小生の方から速報的にブログします。
 西は神戸から東は宇都宮から人間禅の女性会員が27名、既に入門して参禅をしている女性3名を合わせて30名が参集されました。加えて今回入門し始めて参禅した人が6名になり、その他新到者3名を入れて総計女性ばかりで39名にもなりました。
 何しろこういう催しは人間禅創立以来初めての試みであり、最初は正直色々危惧するところもありましたが、想定を遙かに超える成果があり盛況でありました。それは人数だけでは無く、20代から90代までの女性が熱心に参禅弁道し、時には30名近い参禅者があり参禅時間も1時間にもなったこともありました。そしてこの短期間の摂心会の中で、初関を透過した方が2名、難関の節目の則を透過した方が2名あり、室内も厳しく熱く充実しました。
 これからの人間禅の法の挙揚および布教のあり方に大きな一石を投じた摂心会になったと思います。取り急ぎ、速報まで。合掌 春潭 拝
 

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数息観についての最近の思い(その6)
――数息観座禅の効果としての入眠力――
 
 前回は、数息観座禅の質すなわち三昧の深さについての正念息と忘息観についてブログしました。
 今回は、前回の応用編として、数息観座禅によってだんだんと深い数息観三昧が身に付いて行くにつれて日常生活で出てくる効果のささやかな事例の一つを紹介したいと思います。
 20代30代ではいつでも何処でも寝ようとして直ぐ入眠できるものですが、40代50代と歳を取るにつれてなかなか寝就かれないという頻度が多くなります。これに対して小生は、数息観を就寝して横になったまま行うことによって対処しました。効果は上々でした。
60歳を超えてからは数息観だけでは入眠できない頻度が多くなって来ました。丁度その頃から前回お話しした息を数えない数息観である正念息をやり始めていた頃で、息を数える数息観では入眠できないときでも、正念息を横になったままやることによってスムースに入眠できるようになりました。
 これら加齢(エイジング)とともに入眠が難しくなる傾向は医学的にも随分深く解明されており、拙著『座禅の効用』(昨年2月(株)サンガ発行)の54P~58Pに加齢現象による睡眠障害は自律神経における副交感神経のレベル低下として説明しています。そしてアンチエイジングとして呼吸法によるセロトニンの分泌促進効果に言及し、入眠障害に数息観法が効果的であることを59P~61Pで紹介しています。
 70歳半ばになると数息観は勿論のこと正念息でも入眠できないときも出てくるようになりました。この現象とこれに対する対処方法については上記の拙著でも触れていません。その理由は拙著『座禅の効用』のその箇所の記載が5年前の75歳以前であり、その頃の状況では未だ無かったエイジング現象が最近では出てきているからです。70歳前半から以降のエイジングの進行とまた平行して深めていった座禅の忘息観の実践がその後のアンチエイジング法になっているというのが、このブログでの新しい記載になります。
すなわち今月末で満79歳のエイジング状態では正念息だけでは入眠法として不十分になって来ているのですが、忘息観で対処すれば入眠障害をほぼ克服できるようです。ほぼというのは出来ないときもあると云うことですが、それは横になったまま忘息観にまで到っていないと云うことであり、起きて座り直せば良いことです。あるいは寝られないときはそれもまた可で、その眠れない時間を楽しんだり日頃詰めて考えられないことをゆっくり考えても良いとも思っています。
 以上は実態の推移をご説明したものですが、これを客観的に解析してみると数息観座禅と入眠の関係を通じていくつか興味深い結論が出来てきます。
一つは正念息と忘息観ではっきりと入眠に差があったということです。これは数息観座禅によって頭頂葉が段階的に不活性になり、自律神経にその段階が明確に反映されていると云うことです。即ち80点の数息観よりも81点の正念息が、さらに82点以上の忘息観の方が自律神経の正常化(交感神経と副交感神経のバランス保持)により大きく寄与していると云うことが体験的に実証できたと云うことです。
 さらに入眠自体についての推論においてもこの推論自体が間違っているのでは無いかと考えられます。すなわち、頭頂葉が不活性になることにより前頭葉が活性になって脳内物質であるセロトニンの分泌が促進されて副交感神経が向上し自律神経のバランスが良くなると云う回りくどい論理に無理があるように思われてきました。すなわちもっと単純に短絡的に入眠障害は頭頂葉の動きに直接比例している!と解釈した方が良いのではないかと思われます。
拙著『座禅の効用』でも触れていますが、数息観法というのは座禅三昧にいたる初期用のツールであり、呼吸を数える限りにおいては雑念無く数息出来たとしても息を数えるという頭頂葉の動は残っており、数息観座禅が深まると共に座禅三昧に近づくが数息している限り完全な頭頂葉の停止にはならない。そして数息観座禅の点数(擇木ブログ9参照または拙著『座禅の効用』巻末付録参照)と頭頂葉の動きは明確に比例しており、わずかに残った頭頂葉の動きもエイジングが進むと敏感に入眠障害になるということで、前頭葉の活性化によるセロトニンの分泌促進云々という経路での入眠構造ではないのではないかと最近は考えています。
入眠障害の方は本気で挑戦してみてください。単なる入眠法の習得という日常生活に於ける効果以上の凄い儲けものが得られるかもしれませんよ。
春潭 拝 

※葆光庵丸川春潭老師著「坐禅の効用」「人づくり肚づくりと禅」はAmazonで発売中です。
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※耕雲庵老師の「数息観のすすめ」は擇木道場までお問い合わせください。
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※数息観評点表については下記をご覧ください。
※感想・コメントは下記のお問い合わせからできます。
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数息観についての最近の思い(その2)
 
――一炷香の中身の解析――
 
 前回は数息観評点記録によって座禅の三昧がマンネリにならず着実に向上するというお話しをブログしました。
 今回は、もう少し綿密に座禅の中身を解析し、一炷香(45分間)の座禅の中での三昧レベルの変化について見てみたいと思います。一炷香の座禅の経過時間と共に三昧が深まり、数息観の評点が段々と上がるのが正常な座禅行です。この正常な座禅行においてもつぶさに見ると、最初は雑念が余り発生せずに推移する初期の段階が短くあり、次に雑念が激しくなりまたしては最初の一に戻ってのやり直しの数息を繰り返す中期の段階になる。そしてこの数息観での中期において意思の力を振り絞って雑念に打ち勝ち数息に引き戻し引き戻しして段々と数息観が雑念に打ち勝って軌道に乗ってくる。これが後期の段階です。これが正常な座禅行のパターですが、皆さんはどういうパターンになっていますか?中期の段階で一炷香が終わって末期まで行かない人が多いのではないかと危惧します。自分も若い頃はそうだったように思います。この末期の段階が欠けている間は、数息観をするのは苦しいはずです。そして一日一炷香を継続するのがしんどいと思います。この時期を何とか頑張って少しでも後期の段階が出るまで辛抱して数息観の座禅行を継続しなければいけません。ここでは絶対値即ち三昧のレベルは何も問うてはいません。ただ相対的に中期の雑念が激しいレベルが少しでも収まるレベルが出てくればしめたものです。即ち中期と後期のレベルに差があることが確認できれば、座禅行をやった甲斐があったと自己肯定ができます。そして責任ある仕事を大勢の部下を使ってやっている人は、みんなのために少しはましな自分(心が定まり定力が付いた状態)にしておくために朝の座禅行は欠かせない気持ちになり、自ずと一日一炷香が継続される。お医者さんや学校の先生も似たような立場で、他のために今の自分を整えて精一杯対応するという気持ちで一日一炷香をする。また今日は試験があるとか試合があるとか自分の実力を発揮したいという日には、数息三昧のレベルの如何は問わず末期をしっかり行取してから出掛けるということになる。このように何もしなければ雑念だらけである自分を、自分のためにもみんなのためにも雑念だらけを少しでも下げ、心を少しでも整えてから出掛けようとする。これによりより充実した日送りができるとともに、これが継続されて半年一年が経つにつれて、数息観三昧のレベルも少しずつ深まり人間形成が自然に積まれて行くということになるということです。
 皆さん如何ですか?感想コメント歓迎です!
春潭 拝

※数息観評点表については下記をご覧ください。
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数息観についての最近の思い(その1)
数息観評点によるマンネリ打破
春潭 
 
 座禅における数息観法は臨済宗が主として採用している三昧を深める方法(ソフト)であり、座禅を始める人にとってもまた人間形成の禅の究極を究めるためにも極めて有効なソフトです。
 耕雲庵老師を始めとし歴代の師家方が円了茶礼の垂示で、異口同音に一日一炷香の数息観座禅をするようにと説かれておられます。まことにその通りでありその数息観座禅を365日、一日に30分なり45分実行することは必須ですが、そこまでの言及にほとんどの場合止まってきました。すなわち一日一炷香の実践の中身すなわち数息観三昧の質についての言及はほとんどなく、わずかに磨甎庵老師が一日一炷香に精彩をつけよ!と云われたことが一,二度あったくらいで、その質については基本的に本人個人に委ねられてきました。そのため小生もそうでしたが、長年修行をしているものは一日一炷香の座禅が実践はされるがマンネリになってレベルの向上がなされないのが実態ではなかったかと思います。
 すなわち座禅の数息観の実践はあくまで個人の内面に向かっての修練「行」であり、その三昧のレベルについては外からうかがい知ることはできませんし、自分でも座ったかどうかとか何分坐ったかくらいで日進月歩の一日一炷香にはほど遠いのが実態ではなかったかと思います。
 そこで考えついたのが数息観の評点付けですが、これはNHKの「ためしてガッテン」という番組で肥満抑制のために体重を朝晩計測し記録を見えるところに張るというやり方です。これだけで何も食べないように節制したり我慢したりすることなく自然に着実に健康な体重が維持できるという放映が切っ掛けでした。
 ただ三昧というものは体重のようなデジタルな数値とは真逆のアナログなジャンルのことで、三昧のレベルを評点するなどという発想は非常識であり、歴史上も初めてのことでしょう。
 主観評価ですから他人と比較するべきものではないのですが、自分だけの評点としては相対評価が可能です。すなわち日進月歩が自分流の評点基準で可能になりマンネリを脱却し人間形成のツールとして大変有効に使えることが、自分でやってみての驚きであり想定以上でした。しかもやり出した当初は、一ヶ月ごとに評点基準をより厳しく設定し直してやるくらい三昧の評点(質)が向上しました。それまでの40年の座禅修練が無駄ではなかったとも思えたし、毎日の数息観座禅を挑戦的に取り組めるようになったのは有り難いことでした。まったく、ためしてガッテンに感謝です。詳細なやり方は昨年刊行した2冊の拙著の巻末にも集約して掲示していますので参考にして頂ければ良いと思います。是非一日一炷香を、数息観の評点付けをすることによって、人間形成の力にしてください。合掌
 
 
※数息観評点表については下記をご覧ください。
 

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路遙かにして馬の力を知る(その3)
春潭
 人間禅の創始者耕雲庵英山老師の揮毫された「路遙知馬力歳久識人心」(路遙かにしてその力を知り、歳久しくして人の心を識る)を拝見しながら、まことにその通りだとしみじみ噛みしめていることを二回のブログで書きました。
 もうこのタイトルでは終わりかなと思っていましたが、岡山禅会と豊橋禅会の摂心会(注1)をしている中で、もう少し書き残しておきたいと云う思いが湧いてきましたので(その3)を書きます。
 80歳近くになっても一日一炷香が日進月歩で深まる感覚が、そのまま学人との商量(参禅時(注2)のやり取り)にも変化をもたらせ、また公案(注3)の見方もまさに数息観の深化に比例して深く見られるようになって来ていることに気付いたのです。
 かって自分が透過(注4)した公案が浅い見方であったと云うことが判る。そういう公案が次々に学人の参禅を受けながら見えてくる。公案の見解(注5)と云うものは、文字で表現できるようなリジッドなものではないのです。世に公案回答集なるものも出回っていますが、公案に対する答えを知っても何の役にも立ちません。公案に対する人間の境涯が浅ければ浅くしか見えないし、三昧が深くなり境涯が深まれば公案は深く見えてくるものなのです。
 すなわち何歳になっても公案を日進月歩で深めてゆくのが人間形成の禅(人間禅)の真骨頂であり、この柔軟且つ新取の気風こそが将来にわたって我々の誓願が進展していく必須条件であると認識を深くしています。
 新到者の方には今日のブログは、東京から富士山をチラッと遠望するような話になったのではないかと思いますが、この事の修行というものは死ぬまでの壮大な大事業であり、人間に生まれて来た甲斐があったというような素晴らしい人生がこれから先にあるのだということを腹に入れて、100歳時代に希望を持って進んで頂ければ幸甚というものです。(完)
 
 

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