メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2018 12月 » »
25 26 27 28 29 30 1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31 1 2 3 4 5
擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
TEL 03-3823-7647

当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

検索
カテゴリ一覧
  • カテゴリ 老師通信 の最新配信
  • RSS
  • RDF
  • ATOM

擇木ブログ - 老師通信カテゴリのエントリ

継続は力

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2018/12/1 23:36
 小学3年生の担任は戦争帰りの体操の先生でした。最も熱心だったのがラジオ体操の第1と第2をきちっと正確にやることで、これができなければ何回でも時限を超えて徹底的にやらされました。そして今でも記憶に残っている教えは、「これから一生の間に、このラジオ体操はことあるごとにやることになり、それは何百回何千回にもなります。したがってそれをいい加減にやり続けるのと、きちっと正確に全力でやるのとの違いが君たちの体に少しずつ蓄積され、一生の間には大きな差となるのです。君たちは今どちらの道を進むかの分かれ道に立っているのです。どちらの道を君は進みたいですか?」です。
 戦後直後の田舎の小学校で記憶に残っている教えはこれだけですが、小生にとっては真に有り難い財産となりました。自分は特にアスリート的なスポーツの継続はしてきませんでしたが、平均以上のしっかりした体躯になったのはこの教えの継続であったと思っております。
 人間禅の創始者の耕雲庵立田英山老師の著書『数息観のすすめ』を最初に読んだのは、今からかれこれ60年近く前になります。この著書の肝心なところは、耕雲庵老師が仙台の第二高等学校の学生の頃、学長の奥様(禅の大家)からいわれた言葉です。
「立田さん、一日一炷香の座禅を続けなさいね。一日途切れると法が途絶えると思って一日一炷香を続けなさいね!」
そして耕雲庵老師は、「今日あるのはこの奥さんの言葉のお陰である!」と記されています。
これを起点にして、摂心会の円了垂示で、耕雲庵老師が、妙峰庵老師が、磨甎庵老師が、そして青嶂庵老師が、異口同音に「一日一炷香の励行を!」と何度も何度も耳にたこができるほど諭されて、何とか小生のようなぼんくらでも一日一炷香を続けてくることができ、今日に到っております。お陰様でこの年(78才)になっても日進月歩で人間形成の道を一歩一歩踏み上がれていると自覚ができています。真に有り難いことであります。
継続は形になり、力になり、そして必ず喜びに繋がるものであります。(春潭)
 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (93)

ゴーン氏と在家禅

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2018/11/21 22:56
 日産の赤字1兆数千億円を短期間で償却しV字回復を成し遂げた辣腕経営者として注目していましたが、ここ数日の逮捕に到る新聞記事を読んでがっかりした方も多いのではないかと思います。
 コストダウンのためなら情け容赦なく切り捨てる厳しい経営手腕はある意味欧米流の典型的な形なのでしょう。それがこと自分に対してはルーズというのかずる賢い手腕発揮になると云うことは、東洋的な道徳観からはあり得ないことです。
 ここで一般的に社会的な仕事において、できる人間・目立つ人間は諸刃の剣であって、こういうできる人間はおしなべてエゴの強い人間であって人間的にはろくな人間は居ないのだという見方があります。そしてだから社会的に一隅をしっかり照らしておればいいので、社会的には目立たないのが良いのだ。そしてその先には清貧を尊ぶという考え方が、ゴーン氏の対極として根強くあるのが日本の道徳観として昔からあります。
 在家禅である人間形成の禅を標榜する人間禅においては、ゴーン氏流でもなく清貧流でもありません。ゴーン氏の口癖のCommitment(義務・責任)は禅者としてしっかり実行し、更に受け身だけではなく積極的に能動的に自分の意見を述べまた自ら行動を起こします。これは消極的逃避的な清貧の対極の生き方になり、結果として目立つことになりますが、それは目立ちたがるのではなく目立ってもそれを厭わないだけのことです。しかも決定的にゴーン氏と異なる点は、その意見及び行動の基盤に「我・エゴ」がない点です。断ずるときは人情涓滴も施さず何が何でも断じ切り、表面的にはゴーン流と変わらなく見えるけれども、底に「私」が痕跡もない。これが本来の在家禅のやり方であります。こうでなければ100年以上に残る仕事はできない。西欧では見られない住友や三井の二百年三百年の歴史は続かないのです。そして在家禅の如是法は2500年間脈々として今日まで続いているのです。
 リアルな現世に無私の根拠から積極的にはたらき掛けてその輪が自然に広がり続けるのがわれわれの願いであります。

春潭 拝
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (97)
ここに人間禅埼京支部第137回の摂心会を結制いたします。

人間形成は、「道力を養う」車輪と「道眼を開き道眼を磨く」車輪の二つが転じて進みます。摂心会はその後者を如実に実践する場であります。限られた参禅の機会であり,この摂心会の期間中はやむをえず下山する場合も、ここを自分の居場所として,結制から円了までこの道場で「道眼を開き道眼を磨く」修行に専念するというのを原則としています。

この「道眼を開き道眼を磨く」ということは,参禅弁道であり公案参究なのですが,これは「自分の殻を破る」,「目から鱗を落とす」修行であります。得てして公案が透過するということが、この「道眼を開く」ことと思いがちですが,それは大きな間違いです。

肝心なことは,公案がなかなか透過できない、何回参禅しても師家から許されない,公案に詰まる、その公案が壁になって立ちはだかる、こういう状況が先ず必要です。こういう状況になって、初めて道眼を開き磨く修行の緒に就いたと云うことになります。ここにおいて本当の工夫が始まるのです。工夫は今までの見聞きしたことや経験を思索することではなく、そういうものを一切放擲して、公案に専一に向かって工夫して行く、公案三昧です。今までのレベルの三昧を更に深めて公案の工夫三昧に打ち込んでいく。それでも透過できない。そこで,更に勇をふるい勇猛心を掻き立てて,炉鞴に身を投ずるように参禅する。古来よりこの骨折りを白汗を流すと云います。しかし、何度参じても許されない。見解が出なくなる,そこを何としてでも参禅するんだと火の玉になって工夫し,そして身を投ずる様にして参禅する。

この打ち込みがないと,目から鱗が落ち,自分のちっぽけな殻を破って大きな自分として成長するということはできません、道眼を開き道眼を磨く修行はできないのであります。 これは初関を持っている場合のみならず,どの公案でもそうです。人によって壁になる公案は異なり様々です。2,3回の参禅で公案がすいすい透過している時は、人間形成がほとんど進んでないと考えてもいいくらいです。公案にぶち当たってにっちもさっちもいかない,そこの所が正に人間形成の好機だとチャンスだと捉えて,本格の座禅をそこでやらなければならないのです。そういう人間形成の原点に還った摂心会を,この摂心会で各自やって頂きたいと思います。

公案を透過するのではない,公案の透過の前に如何に深く工夫三昧をするかどうかが肝要です。如何に火の玉になって,公案三昧になり自分の全身全霊を打ち込んでいくか、そのプロセスが殻を破るという本格の人間形成を進めるドライビングフォースになるのです。

埼京支部の二回しかない摂心会を,人間形成の原点に還って,しっかり行取じて頂きたいと思います。



合掌

平成26年2月8日       人間禅総裁 葆光庵春潭


  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1088)

古くて新しい座禅(21) 春潭

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2014/1/9 20:04
明けましておめでとうございます。
お正月のお茶のお菓子は、全国のどの流派のお茶席に云っても、花びら餅のようです。
今年は、3日に市川の本部道場で有楽流の茶席で、また5日に熊本道場で肥後古流のお茶席で、6日に名古屋では表千家のお茶席で花びら餅を頂きました。
いずれも花びら餅でしたが微妙に土地柄の特徴があります。

6日の名古屋の茶席での花びら餅は岐阜のお菓子屋さんと云うことでしたが、今まで食べたことのない新鮮さが少しありました。
それは真ん中に通している牛蒡に塩気が少しあり、また少し歯ごたえがあるもので、これはこれでなかなかのものだと感心しました。
そして贅沢を言えば、お濃茶が花びら餅にはぴったりであります。よく練られたお濃茶を名古屋禅会で頂き幸甚でありました。


今日は、座禅における数息観法の長所と短所についてお話ししましょう。
座禅において数息観法を取り入れているのは、人間禅の法系である臨済宗系であります。
これに対して、曹洞宗系では、大体において、数息観法に依らず、只管打坐一本で、ただひたすら無念無想の座禅のようであります。すなわち数息も行わず、ひたすら雑念を切って行く座禅であります。

座禅にはこの二つがあるのですが、それらの長所と短所をちゃんと認識した上で、座禅をすると良いと思います。

数息観法の良さは、座禅の初心者に向いている点であります。
考える葦である人間が、いきなり無念無想になるということは、極めて難しいことです。
何故かですが、脳科学で云いますと、頭頂葉は常に何かを考えている状態が定常状態であります。したがって目が覚めた覚醒状態でこれを意識的に止めると云うことは、非定常・非日常ということになります。

以前に、アメリカの脳科学の専門家がチベットの瞑想僧の脳を詳細に実験して、瞑想・三昧に入ったときは、頭頂葉がSilentになり、変わって感性を司る前頭葉が活性(Active)になるということをこのブログでご紹介しました。

そして前頭葉を活性(Active)にすることが、感性を磨き、人間力を増加し、創造力を付け、人間形成を深めるのだと申しました。
したがって座禅の目的は、頭頂葉をSilentにし、前頭葉をActiveにすることであります。

数息観法が初心者向きだという根拠を脳科学的に云いますと、頭頂葉を数息という仕事に専念させる方法だからです。
頭頂葉をいきなりSilentにすると云うことは、頭頂葉の定常性・日常性から考えると大きなギャップであります。

なかなか容易ではないのですが、取りあえず何も考えるな!ではなしに、数息だけはやりなさいと許すのです。
当然こちらの方が、ギャップが少ないだけ入りやすいというものです。

しかも数息観初期は、1から100までを少々何か考えていても、息を数えることを忘れず、数息を間違えない程度の緩い縛りで始めることを奨めています。

中期に進むと1から10までをチラッとした念慮も差し挟ませない一念不生に厳しくした数息になるのですが、これでも未だ頭頂葉は、息を数えるという働きをしていますから、完全なSilentにはなっていません。

数息観の後期というのが、曹洞宗系の只管打坐で、全く数息もせず完璧に頭頂葉をSilentにする段階であります。
この後期はもう数息をしないのですから、数息観法とは言えないのであり、ここは深い座禅三昧のところです。

これでお解りのように、まさに数息観座禅の長所であり且つ短所は、頭頂葉を少しは動かしているというところです。

しかし中期を卒業して後期すなわち息を数えない只管打坐まで行くには、毎日座禅を一日一炷香としてやって、居士禅者の場合は、普通の人では10年はかかると思います。

小生は50年以上数息観座禅を一日一炷香でやっていますが、毎日の座禅(45分)の三分の二から四分の三は数息観法で、最後の三分の一から四分の一が只管打坐になっています。

これをご参考に一日一炷香を毎日少しずつ深めていって頂ければ幸いです。前にも申しましたが、継続は力なりです。

年初に当たり、一日一炷香の誓願を立てられたら如何でしょうか?ご精進を心よりお祈りします。合掌   春潭 拝

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1095)
 ここに全国の禅にご関心を持たれている方々に、ブログを通じて、人間禅総裁として、平成26年、西暦2014年の年頭に当たり、謹んで新年のご挨拶を申し上げます。
皆さん『明けましておめでとうございます!』
 
我々を取り巻く社会環境は、相変わらず厳しい状況ではありますが、昨年は、経済も長年の不況から抜けだす兆しが出てきました。
また昨年は、6年後の東京オリンピック開催が決まりました。
かくして久し振りに少し明るい新年を多くの方が感じられているものと思います。
 
年頭に当たり、所信を述べさせて頂きます。
「人間禅の使命」について、『禅』誌新年号の巻頭言で書かせて頂いておりますがので、是非、新年号をお読み頂きたいと思います。(ネット上で、人間禅機関誌 『禅』誌で検索頂けば、どなたでも読めるように公開しています。)
 
また、中期計画につきましては、昨年の人間禅創立六十五周年記念式において、創立七十周年までの5年間の中期方針についてお話しました。(こちらもネット上で、人間禅創立六十五周年記念式で検索頂ければ、どなたでも読めるように公開しておりますので、ご確認頂きたいと思います。)
 
これらを踏まえて、創立70周年より先の長期展望の下に、昨秋、今まで人間禅の支部や禅会のなかった地域での支部設立を目指す静坐会を、今こそ考え、そして着手すべき時であると、各老師方および支部長各位にお願いをしてその候補地を募りました。
 
そうしたところ早速、洪濤庵老師から高松を、また巌光庵老師から神戸をご提案いただき、新年度の平成二十六年度から参禅を始める静坐会として発足できることになりました。
 
また金峰庵老師からは、期限は明確にできないが、地元愛媛県松山で必ず発足させると明言いただきました。
 
この他、了空庵老師から北海道旭川を、金剛庵老師から三重四日市を、大休庵老師と福岡禅会から佐賀を検討候補地としてご提案頂き、道友が居られる青森、岩手、埼玉、大分、沖縄の5カ所を加え、合わせて12カ所の支部候補地が出てきました。これらを今後、人間禅の総力を挙げてフィージビリティスタディから始め進めて行きたいと思います。
 
次に、昨年の人間禅における特記として、ネット布教を挙げ、ご説明したいと思います。
 
択木禅フロンティアでご縁ができた優秀なコンピューターシステムエンジニア二人が埼京支部に入会されました。この二人が、IT時代おける人間禅の布教は極めて稚拙であると指摘し、ネット布教はこうあるべきを、自ら実践で以て示すと共に、埼京支部のみならず近隣支部を巻き込んで、ネット布教実践者を増やし、禅SNSというネット上の交流広場を作り、議論を重ねつつ、そしてお互いを啓発しながら、人間禅のネット布教を抜本的に革新しようとはじめています。
 
この一端を申し上げますと、一昨年の平成24年8月時点での埼京支部HPのクリック数(HPを開いてみた人の数)は一ヶ月で300回ほどでした。
ここから心印居士が一年間HPにブログを書き続けた結果、グーグルの検索順位が上がり、その結果、昨年 平成25年8月にはHPのクリック数が10倍の月間3000回に達し、その後も3000回超が年末までずっと続いております。
 
そして平成24年の択木道場への来訪者が1年間に200人くらいだったのが、昨年は550人に3倍近くに増加してきました。
この来訪者が、入会までに行くにはタイムラグが必要ですので、まだ7名の入会にしかなっていませんが、今後必ず入会者も増加してくると考えております。
 
そしてこのネット布教の本格的取り組みは、埼京支部だけにとどまらず房総支部や名古屋禅会に飛び火してきており、房総支部のグーグルでの検索順位が埼京支部の上位に来るとか、名古屋では「名古屋 座禅」で検索するとトップになってきています。
 
入会という結果は半年後、1年後にならないと出て来ないものですが、従来の人脈を通じた布教だけにとどまらず、IT時代に乗ってネット布教を大胆に展開しなければならないと云うことが明確になったと云うことであり、これが昨年の特記であり大きな進歩でした。
 
そして今年はこれを全国展開する年であります。
 
直近の人間禅の入会状況は、平成25年度末には人間禅始まって以来の入会者50名超が想定される状況にあり、また昨年一年間で、火大級に進級し初めて布教の任に就任した輔教師が14名になり、いずれもこれからの人間禅を背負って行く人達の充実が覗われ、人間禅は順調な進展を辿っている状況にあります。
 
次に、恒例であります、新年度の組織変更および人事における緊急項目を、この場で発表させていただきます。
26年度人事(一部のみ発表)
新規組織および組織変更
福岡支部および京浜支部の発足
高崎禅会、水戸禅会および山口禅会の発足
中国支部が岡山禅会に変更
長野禅会が高崎禅会および東北禅会へ合流し、当分の間休業
支部・禅会の担当変更および新規任命(略)
以上がお知らせを急ぐ必要のある変更および担当です。
 
今年も、国内外でいろいろな問題課題が山積していますが、前向きに明るく創意工夫をお互いに出し合いながら進みたいものです。
 
『禅』誌新年号でも申しましたが、縦糸である正脈の禅の継承発展と、横糸である社会のあらゆる分野で「正しく楽しく仲良く」を如実に実践してゆく、この両方をどちらかにも偏ることなくどちらもしっかり実践することが大切であります。そしてこれができるのが「居士禅」であります。
 
今年は禅フロンティアで、各支部行事において、またネット布教を通じても「居士禅」という言葉を社会的にもっともっと認知させなければならないと考えます。
 
我々は常に『立教の主旨』の進展を目標に掲げ、名誉会員の方々、KUJ静坐倶楽部会員の方々と一緒に把手共行し、長期・中期・短期の課題を明確にしながら、そしてその役割分担をお互い理解しながら進めて行きたいと思います。
 
本年は、日本人が日本のアイデンティティを再確認し、日本人としての誇りを取り戻し、そしてそれを今年は、6年後のオリンピックに向けて世界に示す最初の年にしなければなりません。
 
久松真一先生の無相の自覚を世界に発信することも含め、人間禅の使命はますます重且つ大であります。
 
最後になりましたが、ブログをご覧頂いている皆様が、一年間ご健勝にご発展されますことを祈念し、平成26年人間禅総裁年頭の挨拶と致します。
合掌
平成26年1月3日       人間禅総裁 葆光庵春潭
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (3316)
13日ぶりに自分の書斎に入り、電気を付けるとカメムシが飛び始めました。夏の虫だと思いますが、この寒い時期までよく生き延びたというのか、どういうご縁で我が書斎に入り込んできてくれたのかね?
 
この択木道場のHPへの小生のブログの最新は、「信と禅」の3回目で、11月14日です。たった4日前ですが、それがこのブログの2ページ目になっております。皆さん活発で直ぐおいて行かれてしまいます!?
海香さんの「忘念会」を一緒にやりましょう、を流行語にしたいものですね。
また龍吟さん紹介の、メルセデスが宣伝に禅を使っているというのも憎いというのか、禅のイメージが一般にそういう風に受けているのは面白いですね。
心印さんはバイタリティがありますね。慧日庵は、まめで粘り腰があると高く評価していました。
 
このタイトルでのブログは、8日ぶりになります。この間に「信と禅」が3回入っていますが、ご無沙汰です。
書き出しは、お菓子の旅で、岡山の大手まんじゅうから始まり、姫路の白玉椿から、神戸の瓦せんべいまでだったと思います。
 
神戸の次は大阪ですが、大阪のお菓子は直ぐに出てきません。飛ばして9年間いました和歌山ですが、和歌浦せんべいが有名です。
40年以上前になりますが、和歌山から上京するたびにお邪魔していました磨甎庵老師へのお土産は、いつも黒い缶に入った和歌浦せんべいでした。
神戸の瓦せんべいと同類項でしょうが、卵とミルクが効いていてソフトです。お抹茶のお菓子には向かないでしょうが、懐かしいものになりました。
 
このタイトルの続きですが、前々回で数息観座禅の評点基準とその記録ということの説明をしました。そして前回は、その実践事例を恥書きでご紹介しました。
座禅の数息観法は、深く入れば入るほど、すなわち数息が進めば進むほど、自分がまだまだだと思えてくる不思議なものです。
 
数息観座禅は奥が深い。
その奥の深さが、初めのころは判らない。なかなか数息ができない、数息することが難しいくらいな感想だけで、数息観座禅を味わうところまで行くのには、少なくとも10年はかかるでしょうね。
 
この10年をどう乗り越えるかの一つの武器が、数息観評点基準と記録です。
 
小生もそうでしたが、評点記録は、最初はどうしても甘めに評点を付けるものです。主観評価ですから仕方がないし、またそれで良いのです。
そして甘めの評点でだんだんと点数が上がって来たときに、またデノミネーション、平価切り下げのように、主観評価をより厳しい主観評価に自分で軌道修正すれば良いのです。
 
数息していて、平行して何か念慮がよぎっても数息ができていれば、そのまま続けていたのを、より厳しくちらっとした念慮が生じても、また一からやり直しにする、と言ったように自分で基準を変えながら、だんだん厳しく、だんだん深めて行けば良いのです。
 
前にも書きましたが、兎に角、一日一炷香をやる前後で、集中力のレベルが全然違うという座禅ができるようにならないと、すなわち数息観評点が、最初と最後で全然違うという一炷香の座禅ができるようにならないと、数息観座禅も面白くならないというものです。
 
カメムシが電気の暖かさのあるところで飛ばないでじっとしてきました。
くさい臭いはするし、農作物の害虫で厄介者ですが、生き物は生き物で、今日は書斎に仲間がいるという感じです。
今日はここまで、さようなら 春潭
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1089)
 お菓子の続き、塩まんじゅうの赤穂から東へ行くと、姫路の白玉椿の生菓子が忘れられません。
 小生と同じ歳だったと思いますが、むかし三木淨光居士というくそ真面目な道友がいました。彼は姫路出身で大きな生家に住んでいましたが、土産によく白玉椿を頂きました。もう久しく頂いていないので、彼を思い出しながらお濃茶と一緒にもう一度味わいたいものです。
 
 坐禅修行の要訣として、大信根が大切で、その信には三つの信があると前回お話ししました。
 
 三帰依文の中に、「信和の人間禅これ我が僧伽なり」という一説があります。
 また、三禁令の一つに、「道友の信を裏切ってはならない」があります。
 
 この二つの信は、僧伽の中での信であります。この信はどういう信であるかは、『立教の主旨』の第三項「わが人間禅は、正しく・楽しく・仲よく 人間味の豊かな人々の家庭である。」と、第四項の「我が人間禅は、禅 本来なる自由と平等とを尊び、各自の人格を尊重する。」の中に謳われている人間禅の精神から発せられる信です。
 
 ここにあります「仲良く」は、お互いに相手の中にある仏性に対して合掌し合うということであり、そういう信を持ち合った人々の家庭が、すなわち人間禅であるということであります。
それは取りも直さず根源的な意味から「各自の人格を尊重する」ということになります。僧伽内における対人関係での信は、こういう信であります。
 
 ここで前回述べました「信」に対する説明ですが、広辞苑での説明に加えて、信というものには、「自分には認識することができないことを承認するという意味」が付け加えられると申し上げましたが、それに更に別の切り口から、信についての説明を付加します。
 
 一般的な信は、脳科学で云えば「頭頂葉で考えた信である」といえ、これに対して、坐禅修行での大信根や僧伽内での信は、「前頭葉において感得せられる信」であります。
 
 数息観三昧に入ると頭頂葉がsilentになり、入れ替わるように前頭葉がactiveになるということが脳科学の実験で証明されていますが、禅における信には、三昧が付いて初めて信というものになるのであり、三昧が付かず前頭葉が不活性なままでは、信というものは形骸化されてしまい本当の信にならないと云うことです。
 
 そして、三昧が深くなればなるほど、信も深く揺るぎないものになると云うことです。
 
 同様に人間禅の『立教の主旨』も、三昧が深く身に付くにつれて、それを真に理解し認識することができるようになるし、三昧が浅く前頭葉が不活性なままでは、皮相的にしか理解できないものです。
 
前回、急に寒くなりましたのでお風邪を引かないようにと言いましたが、どうも小生が鼻風邪を引いてしまったようで、くしゃみと鼻水でキーボードを叩くのも容易ではありません。改めてご自愛下さい。合掌 春潭
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1001)

信と禅 (2)  春潭

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2013/11/12 22:13
 お菓子の続きですが、実は小生は辛党で、甘いものは苦手です。
 しかしお抹茶の時にはお菓子がなければならないし、結構お菓子にはうるさい方かも知れません。
 多くは要らないのですが、美味しいその土地その土地の伝統的なお菓子は好きです。
 岡山県の東端の町に三石という耐火煉瓦原料を産する父の出の町があり、その三石と県境を隔てて昔から塩田で栄えた有名な赤穂の町があり、塩まんじゅうが有名です。
 甘みに少し塩気が入っている昔ながらの菓子です。
 
 いよいよ座禅における信について今日はお話しします。

 祖師禅(正脈を嗣法している師家の下で転迷開悟の見性を第一とする座禅およびその集まり)における信についてお話しします。

 修行の三大要訣として、大信根、大疑団、大勇猛心が昔からやかましく云われています。

  一般社会での「信ずる」の意味は広辞苑で見ますと、「誠と思う。正しいとして疑わない。間違いないものとして頼りにする。」等と言う意味でありますが、宗教においての「信」「信ずる」は、これらの意味の上に更に少し違うニュアンスが加味されると考えます。

 すなわち、自力とか他力とか、一神教とか多神教とか、東洋文化とか西洋文化とかによらず、信というものには、「自分には認識することができないことを承認する」という意味がある。
 逆に言うと、自分がはっきりと認識することができる場合には、信ずるという言葉は相応しくないと考えます。

 したがって確信すると言う意味には信という文字が入っていますが、これは一般社会での使い方の「正しいとして疑わない」に使う言葉であり、宗教的なニュアンスは加味されていない使い方です。

 何故こういう細かなニュアンスを問題にしているかということには理由があり、それについて追々触れて行きます。
 
 元に戻って、大信根ですが、何に対する信かをはっきりさせておく必要があります。
 そしてこの大信根は座禅修行を始めた人、座禅修行を続けている人に必要な要訣であり、三つの意味があると昔から云われています。

 一つは、学人の自分は未だ悟りを掴んでいないけれども、お釈迦様はすごい悟りを開かれたのだということを信じることです。
 すなわち悟りというものがあるんだと云うことを信ずることで、これがしっかりと腹になければ命を賭けた骨折りの修行はできないのです。
 そしてこの信は見性入理だけのことではなく、見性悟道、見性了々底にも同様に云えることです。

 二つ目は、師家はお釈迦様の悟りを正しく嗣法しているんだと信ずることです。
 これも自分では判断し認識することができないことですが、先輩の云うこととかいろいろな資料・情報とかから推定して正脈を伝法している師家を信ずる必要があるのです。
 この信がなければ、自分が確信した見解を否定されたとき、素直に自分の持っている見解をすぱっと捨てきれない、そしていつまでもグジグジと自分の見解に拘るということになり、人間形成の修行が進みません。

 また自分が考えたこともないことを師家から指示されたとき、自分では納得できなくても、それには何か深い仔細があることと信じて素直に従う。
 これができないと云うことは、師家に対する信がないと云うことで、その僧伽に留まることは本来的にはできないことになります。
 
 三つ目は、自分もしっかり修行をすれば、お釈迦様の悟りを得ることができると信ずることです。
 悟りというものは悟ってみないことには全く判らないものですが、師家の指導の下に、道友の導き助言を頂いて、自分も先輩道友と同じように見性することができると信ずる。
 これを信ずることができるから、難関に直面しても必ず突破できるという確信を持って挑戦し続けることができるということになります。

 本日はここまで、また次回に。
 急に寒くなりましたが、お風邪を引かないようにご自愛ください。合掌
                                     春潭 拝
 
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (788)
今日はお菓子のことについて少し。
小生は岡山出身で、吉備団子が有名ですが、お茶菓子としては、大手まんじゅう(薄皮で小豆のこしあんの酒まんじゅう)がお勧めです。これと似たものが倉敷にあり、藤戸まんじゅうと云います。倉敷には「むらすずめ」という銘菓もあります。
そして中国地方の菓子処は、何といっても山陰の松江で、不昧公というお茶好きの大名によって伝統的にお茶が盛んで、銘菓も沢山あります。
切りがありませんので、今日はこの辺で。
 
前回は、座禅の質を上げるために、数息観評点基準を作ったと云うことで、その評点基準をお示ししたのですが、本日はそれを使って実際に座禅の質をどのように向上させたかという小生のまあ云えば、恥をさらさねばならない一段であります。
 
小生は18歳の大学一年生の時に入門してから、約五十年経過して、自分で前回お示しした数息観評点表を数年前から付け出したのです。
その最初の時の評点は70点(数息観を1から10まで一念不生で数息しきることができるレベル)でした。
すなわち50年かかって積み上げた三昧力のレベルが70点であったわけです。もちろん室内は終え嗣法し聖胎長養をしているところでしたが、その程度であったわけです。
 
その70点からスタートして、一ヶ月が経過した時点の月末に2回ほど75点(1から10までを二回連続して一念不生の数息ができるレベル)に到達しました。
そして、二ヶ月目の平均は75点となり、二ヶ月目の月末には、80点(1から10までの一念不生の数息を連続5回達成する三昧レベル)に一回だけ達しました。
そして、3ヶ月目には、一ヶ月で7回80点に到達できました。
 
ほとんどの日が一日一炷香で、時々朝晩の一日二炷香での結果でしたが、自分でも気合いを込めて真剣に取り組みました。
昨日よりも今日は更に、先週よりは今週は更にと取り組みました。
 
それができるのも定量化ができ、数値ではっきりと進歩の度合いが目に見えるから励めたのです。
 
その後は、何度か自分で評点をだんだんと厳格にして行き、現在はその厳格な基準で毎日80点超えを自分のノルマとし、更に85点を目指して毎日精進しているところです。
 
評点基準は目安であり、その評点は主観評価ですから、絶対値にはあまり重きを置かず、毎日向上する一日一炷香であることが、何よりも大切です。
 
尚、誠に老婆親切の押し売りですが、小生の担当している支部・禅会・静坐会の会員に対して、ひと月一回の数息観評点をメールで送って来た人には、コメントを付けて返すことをこの数年続けております。
 
新到の方でまだ入会していない方でも、あるいはKUJ静坐クラブの会員の方でも、小生に評点記録を見てくれという方が居られれば、ウエルカムです。
数息観の質の向上について参考になれば幸いです。
今日はここまで、さようなら   丸川春潭
Marukawa_k@sky.bbexcite.jp
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1005)

信と禅(その1)春潭

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2013/11/11 16:02
 関西道場の門前には立派な黐(もち)の大木があり、濃い緑の葉っぱの陰に真っ赤な実が点在させています。
木の形と云い、幹の肌の美しさと云い銘木の風格があります。小鳥たちにとっては、冬場の格好のえさ場になるようであります。
 
今日からしばらく、「信」について考えてみたいと思いますので、お付き合いください。
 
 他力宗と自力宗での信の意味合いの違い、一神教と多神教での信の意味合いの違いにも配慮しながら、禅にとっての信とは?を考えてみたいと思います。

 門外漢のそと見でしかありませんが、一神教と他力宗(多神教での)での信には近いものがあるように思いますが、東洋と西洋の文化の違いが信の違いも投影しているようにも感じられます。

 仏教(多神教)の中での他力宗の代表は、浄土宗・浄土真宗であり、自力宗の代表は、禅宗であります。

 浄土宗の開祖の法然上人についての伝記を見てみますと、15歳の時に比叡山に登られ、父君の遺戒を守って、切磋琢磨の年月を重ねられ、天賦の才と比類ない努力精進により、難信難解の天台教学のみならず、諸宗の教義にも悉く精通された。40歳を迎えられた頃には、叡山に比肩する者なき学識を備えられるに至った。

しかし、上人の心は晴れなかった。すなわちいくら学識を積み名声や地位を得ても、本当に納得のいく大安心に到ることができなかったのである。

そこで、やむなく叡山を降り、膨大な一切経が収められていた黒谷の報恩蔵に入られ、想像を絶する忍耐力で、一切経を何度もひもとかれたが、心の闇は晴れず、絶望の深淵に立たされていた。

そういう時分に、中国の善導大師の著された『観無量寿経疏』の一節に上人の目が止まった。そして「一心に専ら、弥陀の名号を念じ、行住坐臥が、時節の久近を問わず、念々に捨てざる者、これ正定の業と名づく。彼の仏願に順ずるが故に」の文章を読まれた。

ここにおいて法然上人は阿弥陀仏の絶対の救済にあい、煩悶も焦燥も氷解なされたのである。

 この善導大師の一節で法然上人は一種の悟りをつかまれ大安心を得られ、そして浄土宗を開くことになった。すなわち阿弥陀佛を本尊とし、「南無阿弥陀仏」をひたすら念仏する浄土宗が始まったのです。

 己をむなしくしてひたすら念仏して阿弥陀仏に帰依し、西方浄土へ救われて行くことを信ずるのであり、他力の信はすべてに先だって先ず信ありきです。

 法然の弟子の親鸞は、如来の本願によって与えられた名号「南無阿弥陀仏」をそのまま信受することによって、臨終をまたずにただちに浄土へ往生することが決定し、その後は報恩感謝の念仏の生活を営むものとする。

 これは名号となってはたらく「如来の本願力」(他力)によるものであり、我々凡夫のはからい(自力)によるものではないとしして、絶対他力を強調するのです。

 したがって浄土宗よりもより深くより徹底した他力であり、それだけ信というものも純粋に強くなっていると思われます。

『歎異抄』第2章の有名な親鸞の言葉である「たとひ法然上人にすかされまいらせて、念仏して地獄に堕ちたりとも、さらに後悔すべからず候」も、絶対他力の信を覗わせるものです。

浄土宗・浄土真宗の信は、南無阿弥陀仏を念ずれば、救われ浄土に行けるんだという信であり、典型的な他力の信であります。

次回から、禅の信についてお話しします。
今日はここまで、さようなら 合掌
  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (1092)
最新のブログ記事