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擇木道場

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擇木ブログ - 座禅ブログカテゴリのエントリ

虚しさについて

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/20 9:23
風印です。
心舟様のブログを拝見し、私も同じように坐禅をすることの虚しさを感じていたことがありましたので、僭越ながらコメントさせて頂きます。

道元禅師は、坐禅は悟りを求めるためにするのでは無く、坐禅をすること自体が悟りであると教えられています。悟ってやろうという気持ちも煩悩と戒められているそうです。
禅は無功徳(むくどく)と言われますが、坐禅に何かを求めても虚しさが残るだけであり、坐禅は本来何かを手放すためにするものではないかと思います。

仏教には輪廻(りんね)という教えがありますが、1秒後の自分も細胞などの変化で厳密には現在の自分と同一では無いように、万物がこの一瞬、一瞬に生起し続けていることを輪廻と言うのであり、輪廻転生はその分かりやすい現れに過ぎないそうです。
唯識(ゆいしき)では、深層心の中の根本心を阿頼耶識(あらやしき)と呼ぶそうですが、毎日坐禅をすると、表層心(眼識、耳識、鼻識、舌識、身識、意識の六識)の内容が阿頼耶識に熏習(くんじゅう:香が物にその香りを移して、いつまでも残るように、みずからの行為が、心に習慣となって残ること)され、阿頼耶識に変化が生じるそうです。それも輪廻の現れと言えるのではないかと思います。

自分に振り返って考えると、初めは坐禅をするのが面倒とか虚しく感じていたのが、毎日45分続けるうちに、段々と楽しみに感じるようになってきました。
これも輪廻によって、少しずつ阿頼耶識に変化が生じてきた結果ではないかと思います。

私は、座布(ざふ)を通販で購入し、坐禅をするときに愛用しています。坐禅の前後に永平寺に行ったときに購入した鈴を鳴らしていましたが、その鈴は父にあげてしまったので、新しいものを購入したいと思っています。
そうしたことを考えるのも楽しみです。

風印 拝
 
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三毒について

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/18 22:31
風印です。
私事ですが、先日父が軽度認知障害の診断を受けました。
幸い早期に発見出来ましたので、このまま認知症にならずにいて欲しいと思っています。

仏教では、貪瞋痴(とんじんち:貪=貪り、瞋=怒り、痴=無知・迷い)の三毒が人の苦しみの原因になると説きます。
父が認知症になりかけているのも、私が人間関係に悩むのもそのような煩悩が原因となっているように思います。

前回の禅フロンティアで、総裁老師から三毒も節度を持って味わえば、三薬、延いては三楽に繋がると言うお話を伺いました。
煩悩を滅するのは私には出来そうにないですし、社会常識にも反するのではないかと思っていましたが、それならばと納得出来ました。

先日、父の事で弟と喧嘩した時も、三毒の教えを思い出してどうにか和解できました。
釈尊の教えは、2500年を経た現在も私達の心に生き続けており、その意味で釈尊は生老病死の四苦を乗り越え、不死に至った方だと感じました。

坐禅を怠ると直ぐに煩悩が顔を出してくる私ですが、三毒を味わえるように成るべく、これからも精進して行きたいです。

風印 拝
 
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私は、昨年3月末から、交友関係を広げることなどを目的に、色々なお寺の坐禅会を巡り、坐禅をするようになりました。しばらくすると、人生に対する深刻な不安や不満がなくなり、次第に、日常生活を明るく豊かに感じるようになりました。
それで、更に坐禅対する興味が湧き自分なりに禅の本を読んだり、人間禅などに関わるようになりました。
私は、坐禅のポイントは「受動性」にあると考えています。
意識を保ちながら、脳による作為的な思考を含めた身体の外界に働きかけようとする機能を停止させ、いかなる外部情報の感覚器官への入力に対しても、積極的に働きかけることなく一方的に受動する状態になることによって、苦しみ、むなしさ、将来の失敗への不安、老い、病い、死等々あらゆる消極的な情報を受け入れられるようになり、人生に対する不安や不満が解消される。
そのうち感受性が高まり、目にする美しいものを素直に美しいものと感じ取れるようになり、さらに、日常生活で起きる出来事に対する捉え方がよくなるなど、次第に、日常生活が豊かになっていく。
私にとって坐禅とは、ただ坐っているだけなのに、ドミノ倒しのようにフルオートで人生が豊かになる、とてつもなく素晴らしいものです。
浄土門では
「如来回向の信を獲得するには、如来に自分のすべてを任せなければならない。
はからいをなくす、つまり、虚空に向かって自分のすべてを放り出さなければならない。そうすれば、あとは如来がなんとかしてくれる。」
(
川西宏之「物種吉兵衛」『大法輪』平成18年第7号88~89頁)
などと言うそうですが、坐禅に対する私の実感をうまく表現してくれているように思います。
坐禅は、静謐な場所ですることが一般的であり、擇木道場にも、所々「黙」の文字が掲示されています。
しかし、私は、ある程度雑音があった方がよいのではと思っています。
外部情報を受けても、作為しないことがポイントだとすれば、視覚、聴覚を含めた感覚器官への感受が相当程度あった方がよいように思っています。
私は、自宅で毎日坐禅をするのですが、妻が家事をする音などを却って心地よく感じています。
しかし、自宅で坐禅をしていると……
(
)
合掌 折原英風 拝

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荻窪通信「思いつくまま」

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/17 8:47

私は縁あって禅というものに多少なりとも触れさせて頂くようになり、幾ばくかの年月が過ぎ去りました。当初は禅に参じればいともたやすく自己の心境等制御できるものと、考えていたように記憶しています。現実には私の怠惰さが原因し修行に身が入らず、今でも頻繁に頭を擡げて来る虚無感に、その虚しさの意味を問いかけている今日この頃です。

最近では、この虚しさと因果の関係等という事が気に掛り始めています。因果律の因果です。善因善果の因果です。例えば何故に修行するのか?良い修行をして良い人になるため。それはその通りだし、悪い結果を望んでわざわざ努力する人もいないでしょう。しかしながら[今ここにある原因の時間が経過して将来、産まれるであろう結果]まだ見ぬ未来への自己の投機。実在しない物への夢。そこに如何ともし難い虚しさの温床があるように思えてなりません。

それでは白隠和尚座禅和讃の中にある(因果一如の門開け)の因果は一つものとは何でしょう?人は産まれたという原因から、間髪いれず今生きているという結果が生じ、また次の瞬間から次の瞬間へと因果は永遠に持続する。そして一個の人が死に絶えても、因果はこのように絶えるという事はあり得ず、このように人の分別とは無関係に瞬間に生起して行きます。だから一つものなのでしょう。その通りと頷きながらも、、

しかしながら、未来への希望(夢想)なくして何かに取り組むという事が凡夫にとり可能なのか?将来へ向け投機する為の原動力たる何かなくして人は動けるものでしょうか?この様な事を考えつつ、この様な事を考えずに只座れる日を夢見つつ、今夜も一柱香しなければと思う今宵です。                                                               心舟

*毎週木曜日午後730分~9時に、荻窪座禅会開催しています。

 418日(木)は葆光庵丸川春潭老師 もお見えになり、懇親会を予定しています。

初めての方でも大丈夫です。参加したい方は、ご連絡ください。

<荻窪剣道場のご案内>

東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」

JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。)

(連絡先)中川香水 09058277004 kousui.nakagawa@gmail.com

  
 

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4月20日は仏教講座です。

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/15 20:55
4月20日は仏教講座です。
 
人間禅では、ご提唱の終わりに必ず四弘誓願文を唱えます。
 
衆生無辺誓願度 
煩悩無尽誓願断 
法門無量誓願学 
仏道無上誓願成
 
これを唱えるときは、何時もぼんやりしている私も大乗仏教の根本理念が思い起こされ、心もとない歩みであっても修行を続けようという気にさせられます。
紀元100年前後、大衆から隔絶した仏教教団の在り方に異を唱え、我々大衆(衆生)の救済を目指す革新的な動きが、大乗仏教への大きな流れとなって行ったのは、ご承知の通り。
 
この大乗仏教の活き活きとした姿を私たちに示し、教えてくれているのが、維摩経です。
その空の理論と、その表れとしての慈悲、その慈悲の実践者としての菩薩、その生き方を表す菩薩道。
他者との関わりの中で、社会の中で、各々の命を生かす、活かしきる
生き方。個を活かし、全体を活かす生き方が説かれます。
 
衆生無辺誓願度の精神が革新の持つ気概というか、熱いエネルギーを持って迫ってくる魅力があります。
混迷を深める世界の中で、生き難さを日々感じる日常の中で、今こそまた維摩の言葉は光を放つのではないでしょうか。
 
慧日庵老禅子が、厚みのある内容を、駆け足ながらも(時間が足りずもったいないなあ~と、思うことしきりですが)、熱意を持って毎回分かり易く解説して下さいます。また、禅の修行を続けてきた方だからこその言葉は我々の貴重な学びとなって居ます。
 
今回(4月20日)がその最終回!いよいよクライマックスを迎えるようです。
どのような展開になるのでしょうか。
きっと、新たな気づき、発見があります!
 
是非皆様聴きにいらして下さい。お待ちしております。
 
妙玲 拝
 
詳しくはこちら
ニュース
  /jump/bukkyou_info0306.html

 予約
  /jump/bukkyou_reserve0306.html
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日本人は時間にルーズ?!

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/14 17:26
法照です。
 
もう昨年のことなのですが、スペイン人のSeñor Brunsさんの「日本人は時間にルーズだ」という主旨のツイートが話題になりました。
外人の人が日本を見ると、「時間に正確だ」と驚くというのがよくある話で、日本人は時間に正確だと思われていると思い込んでいました。
しかも発言者はスペイン人。外国の事情には不見識な私でもラテン系の人は時間にルーズなのでは?という印象を持っているので尚更意外な話でした。
 
こんなジョークがあります。
 
ある時、世界的な音楽コンクールが行なわれた。
開始1時間前にドイツ人と日本人が到着した。
30分前、ユダヤ人が到着した。
10分前、イギリス人が到着した。
開始時刻ピッタリにアメリカ人が間に合った。
5分遅刻して、フランス人が到着した。
15分遅刻して、イタリア人が到着した。
30分以上経ってから、スペイン人がようやく現れた。
ポルトガル人がいつ来るのかは、誰も知らない。
(早坂隆『世界の日本人 ジョーク集』(中央公論新社、2006年))
 
こんなジョークがあるのですから、私の認識もあながち間違いではないのかと思います。
 
では、なぜこのスペイン人の方が日本は時間にルーズだと思ったのか?
この方のツイートを引用します。
 
俺スペイン人だから、1分2分遅れたら「さすがスペイン人」とか「ラテン系は時間守らない」と日本人によく言われますね。
日本人は自分は時間を守る1位国だと思ってるけど、日本人はスタート時間しか守らない。
5時半に終わる予定会議は7時半までに延長すると、俺にとって5分遅れるより酷いと思ってる。
 
『日本人はスタート時間しか守らない。』
いや、もう、おっしゃるとおりです…。ゴメンナサイ。m(_ _)m
 
そうなんですよね… 日本ではよくある話です。
会議を定刻に終わらせる、というのは議事の内容を見越して事前の準備がしっかり出来ているとか、話の進み具合を見ながらテキパキと議事進行できるかとか、会議を仕切る人や参加者の力量を問われる作業だと思います。
 
デービッド・アトキンソン氏の『新・所得倍増論』(東洋経済新報社、2016年)でも述べられていますが、日本はGDPでは世界3位の経済大国ですが、一人当たりのGDPでは世界23位となります。
ざっくり言えば一人の生産性は先進国の中ではかなり低くなります。
日本のGDPが高いのは、単に人口が多いから、ということになります…
終了時間を守れない日本人は、たしかに生産性は低いと思います。
今の日本は非効率が蔓延していて、私もそれに毒されている一人であると感じます。
 
人間禅では「段取り(準備)、真剣(集中)、尻拭い(後始末)」とよく言われます。
禅の修行の中にはこういったことを高めていく要素が多々あります。
 
さて、擇木道場では毎日座禅会が朝、夕と開催されています。
夕は月・水・木は19時から、火は18時30分から、金曜は21時からございます。
とりあえず、参加できそうなところで週一回でも仕事をキッチリ片付けて夕方の座禅会に参加してみてはいかがでしょう?
習慣化されれば、仕事の効率も上がっていくのではないでしょうか?
 
 
法照 拝
 
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荻窪通信「最近気づいたこと」

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/11 16:42

私が坐禅をする理由には、受動的な状態を徹底するので、感受性が高まるためか、いろいろと気づくことが多くなることがあります。

その気づきは、公案などとは関係なく、何の脈絡もなしにやってきます。
大概、冷静になって考えてみると、誰しもが知っているようなことであり、なぜ、今まで気づかなかったのかというようなことです。
しかし、誰もが知っていることでも、「自分自身が気づいた」ということが、私には、とても大切なことのように思われるのです。
それは、子供の頃に河原で拾ったきれいな小石のようなものです。
捨てるように親から言われたのですが、そっと机の引き出しの中にしまった小石。
ほかの人に見せても仕方ないように思われるのですが、ほかの人も、恥ずかしくて言えないだけで、同じような小石を持っているように思われ、見せ合うことも面白いのではないかと考えました。
そこで、最近、拾った小石のことを書こうと思います。

最近、私は、自分の人生に不安や不満が一切ないのに、どこかしら満足感を欠いている理由が、周囲に対して、純粋に愛や慈しみを注いでいなかったからであることに気づきました。
私には、大学1年生の長女と中学3年生の次女がいます。
いわゆる難しい年頃で、反抗期の真っただ中にあります。
私自身、今の部署に異動する前は、仕事に追われて余裕がなく、家族に対して、ぞんざいな態度を取ってしまったことが繰り返しあったので、俗な意味での「自業自得」です。
彼女達は、私に対して、「何もやってなるものか」と頑張ります。
彼女達は、朝、私が挨拶をしても、返事を返してきません。
誕生日にプレゼントを渡しても、感謝の言葉もありません。
しばらく前まで、私は、このような状況につらさを感じながらも受け入れることができるだけでした。
このつらさがありながらも、私の人生の価値が何ら毀損していると思われないことに対し、坐禅により培われた受け入れる力を感じ、喜びを抱いていたにすぎない状態でした。
しかし、最近になって、彼女たちの態度について、つらいなどと捉えていたことが間違いで、本当にありがたいものであると気づきました。

私は、動物に餌をやることが好きで、子供が小さいころには、子供を出汁にして、近所の川に行き、鯉や河原にいる鳩に、子供と一緒になって、パンをやったりしていました。
鯉や鳩に餌をやっても、鯉や鳩が何かを返してくれるわけではありません。
近づいていけば、こちらが餌をやったというのに逃げていくばかりです。
鳩などは、餌をやったのに、糞をかけていくようなこともあります。

なぜ、私は、鳥や魚が何も返してこなくても平気なのに、子供が何も返してこないことには、つらさを感じてしまうのか。
なぜ、私は、鳥や魚をただ慈しむように、子供たちをただ愛することができないのか。
長女と次女に問題があるのではないのです。
彼女たちは、私にとっては出来すぎたとてもよい子供です。
問題は、私の考え方にあるのです。

このような考え方をしてしまう理由は、私が、子供達に、我とか、自我とか、意志とか、心とか言いたくなるものがあると思ってしまうからではないかと思っています。
だから、私が何かを施せば、子供たちが私をおもんぱかってくれて、何かよい対価を渡して来るのが当然だと思ってしまうのです。
私は、鳥や魚には、自分と同じような「我」があると思っていません。
ですから、対価をくれなくても、何も思いません。
糞をかけられるようなことがあって腹が立っても、一瞬です。
しかし、人間を相手にすると、何かを施せば、なぜか、何かを返してくれると期待してしまう。

禅の世界では、「無我」ということが重視されます。
私は、最近まで、どういうわけか、この「無我」を私自身についてだけ適用していました。
しかし、私が「無我」なら、ほかの人も「無我」のはずです。
私の以外の人も「無我」であり、当然のことながら、私の子供も「無我」なのです。
私が、「自分の」意志や、自我や、心などと言いたくなるものは、本来、実体のない現象にすぎないということはわかっていました。
しかし、どういうわけか、私は、実際の生活の上で、このことを私以外のほかの人に適用させてはいなかったのです。

禅では、「自利利他」という言葉も、よく出てきますが、私は、しばらく前まで、自利の行為と利他の行為とでは、自利の行為の方が容易であると思っていました。
しかし、最近になって、本来的には、自利の行為の方が難しく、利他の行為の方が容易であることに気づきました。
平凡な意味での自利の行為とは、手元にない、何らかの「利」を手に入れる行為であるといえるでしょう。
しかし、考えてみれば、このような行為によって満足を得られるかは不確かです。
なぜなら、「利」を目的として、ある行為をしたとしても、未来のことは、はっきりとわかるものではありませんから、「利」が得られる保証は何もないからです。
私は、「利」が得られるかどうか不安を抱き、結局、「利」が得られないときには、そのことを不満に思うばかりでなく、無駄な行為をした労力を払ったことに対しても不満を抱く、不安と不満の相乗効果に苦しめられます。
逆に、利他の行為による満足は、極めて確実です。
利他の行為をするとき、他者に施す「利」は既に私の手元にあるからです。
与える「利」は、財物でもよいし、知識でもよいし、労働力でもよいし、暖かい言葉でもよいのです。
与える「利」は、既に手元にあるのですから、それを手放してしまえば完了です。
利他の行為において、行為と目的は完全に一体化しているのです。
行為した瞬間、その目的を達成しているので、利他の行為に生きる人生に不満の生ずる余地は、本来ありません。

それにもかかわらず、私が利他の行為に困難を感じていた理由は、私が往々にして利他の行為を純粋に行うことが出来ず、自利の行為としても行ってきたからなのではないかと思います。
私は、人のために、何かをしようとすると、どうしても、相手の人が、たとえば、お礼の言葉を述べたり、感謝の言葉を言ってくれるなどの対価をくれるのではないかと期待してしまうのです。
しかし、私の行為に対し、相手の人がどのような反応をするのかは、何ら保証されてはいません。
相手の人が対価をくれるか否かは、行為の後の未来に係ることであり、未来に何があるかは不確かなことだからです。
利他の行為に自利の要素が入ってしまうと、結局は、利他の行為をすることによる満足を不確かな未来に委ねることになってしまい、結局、確実な満足を得ることはできないのです。

私が、このような期待をしてしまい、純粋な利他の行為ができなくなってしまう理由は、相手の人に「我」があると思ってしまうからではないかと思います。
そして、私が、期待した対価を相手の人が渡してくれないときには、期待がかなわなかったことに失望するだけではなく、本当は、ありもしない相手の人の「我」を作り出し、それに否定的なレッテルを貼るのです。
けれども、私の「我」が私の勝手に作り出した妄想であるのなら、ほかの人の「我」も私の勝手に作り出した妄想で、相手にするようなものではないのです。

少なくない禅の語録には、徳山の棒のように不条理とも思われることが綴れていますが、「我」がある人間が打つと思うからこそ、不条理だと思ってしまうのではないでしょうか。

私は、何も対価を求めることなく、動物をただ慈しむことができます。
動物だけではなく、植物だろうが、山や川などといった無機物であろうが、何も対価を求めることなく、ただ慈しむことができるのです。
しかし、なぜ、私は、人に対しては、何も対価を求めることなく、愛や慈しみを注ぐことに心理的な障害を感じるのか。

理由の一つは、人間という生物の持っている殺し、破壊し、利用するというもう一つの性質の存在に気付いているからだと思います。
私は、これまでの人生の中で、私欲に基づいて、幾多の生命を殺し、環境を破壊してきました。
このような性質があるのに、無償の愛や慈しみを注ぐなどということは、不遜に思われます。
また、私の中には、他者による搾取の危険を等閑視して、対価を求めず何かをやるということに対する警戒心もあります。
けれども、結局、このような考え方しかしないことが、私自身の人生を貧しいものにしてしまっているのです。
生きている以上、これからも死ぬまで、私は、殺し、破壊し、利用していくのだろうと思います。
「原罪」というものがあるとすれば、私から分かつことのできないこのような性質のことをいうのでしょう。
そんな私でも、無償で、人を愛し、慈しむことが本当にできるのだろうか。
不確かな将来ではなく、今、ここで、できるのだろうか。
私は、明日死ぬかも知れない、今日死ぬかもしれない、次の瞬間には死んでいるかもしれない。
私が、満足のいく人生を送るためには、今、この瞬間において、無償で、あらゆる存在をただ愛し、ただ慈しむ能力がなければならないのです。

私が気づいたことは、長女と次女が私にこのような能力のあることを端的に教えてくれているということでした。
彼女達は、私に反抗することを通して、私に対して、私が確かに無償で人を愛し、慈しむ能力を具えている、対価なしに、ただ赦し、ただ与えることができる能力のあることを教えてくれているのです。

とはいえ、何が本当にその相手の利となるかは、厳密にはわからないことが往々にしてあります。
慈愛を注ごうと計らい、却って、傷つけてしまうことは悲しいことです。
利他の行為は、何が相手の満足をもたらすかは、厳密にはわからないという点でも、相手に対して対価を期待してはならず、無償で、ただ行われなければならないのです。

私は、何が慈愛を注ぐことになるのかわからないときは、坐禅をします。
一切衆生悉有仏性です。
元々あらゆる存在は、何の手を加えずとも、ただ、そのままにあるだけでよいのです。
そうであれば、迷うときには、変に手を加えようとせず、見守るだけにしていればよいのです。
そうすれば、少なくとも、ほかの存在を傷つけず、自由にさせてやることくらいはできるのです。

私が坐禅をする理由には、坐禅が無償の利他の行為であることにもあるのです。

合掌 折原英風

  
 

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「クイーン」をご存知ですか?

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/11 0:16
「クイーン」をご存知ですか?
 
昨年11月初旬からロングランしている映画『ボヘミアン・ラプソディー』を歌うイギリスのロックグループの名前です。初上映から5か月。まだ、やっています。何と言っても、ボーカルのフレディ・マーキュリーの原始脳から大脳新皮質を突き抜けて、空に立ち上がる音楽性にあり、と思うのです。
 1991年に亡くなって既に28年。まさにレジェンド。彼の自由を求める魂がこの現代に合致して来た証拠。天才は時代に先んじて登場すると言われます。昨今のLGBTの理解も重なって、再び脚光を浴びています。
 禅のブログなのになぜロックシンガー? 皆さんも一度見て、聞いていただければ、(?)も解けると思うのですが、、、、。
村石香春 
 

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損か得か

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/9 23:27

いくら得するからやってみる

手当が出ないと損した 等々

 

我々の脳みそは

動機付けとか

インセンティブ思考とかに溢れている

 

インセンティブには

その行為は高く評価されるという面と

その行為によってするという面がある

 

いずれにせよ

我々のやる気を刺激するという

外からの刺激だ

 

だが

そもそもやる気がないと行動しないのか?

他人にやる気を刺激されていいのか?

 

私たちは

いろんな条件が重なって

いろんな行動をするが

 

一つ一つ

得する損する

計算するのも大変だ

 

損とか得とか誰が決めるのか?

外野の評価に踊らされていないか?

 

短い人生

出来事は思い出となり

日々薄れて行く

それを無理くり思い出し

損した得した

後悔するのも面倒だ

 

自分が死んでも

何事もなかったように月日は過ぎるが

生きている時も

世の中は淡々と過ぎている

 

勝手に湧きおこる 

喜怒哀楽の感情の波に

やる気が増えたり減ったり

 

そんな日々はもういいだろう

 

感情を分離すれば

常に見守っている本当の自分がある

 

感情の波に右往左往する前に

常に自分に問うて行こう

今 何をすべきかと

 

人生は

もともと平穏なんだ

ただ

感情がぐちゃぐちゃにする

早く解放されたいものだ

 
日峰
 
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マイブームは、念彼観音力!

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/2 20:28
今朝、我が家の庭にはうっすら雪が積もって居ました。
鉢ごと出していたローズマリーが寒そうでした。(ごめんよ~。)
さて、擇木道場の水曜夜の座禅会では、座った後にいくつかのお経を唱えます。その中の一つに観音経があります。不勉強の私は、きちんと読んだこともなく後半の偈頌の部分だけですが、舌も回らない状態でとても長く感じました。これではちょっと不味いと思い自宅で座る前に唱える事にしたのです。これがツボにはまったというか、ピン!と来るものがあってここの所、私の「マイブーム」になっています。
念彼観音力 ・・・ ネンピーカンノンリキ!・・・ このフレーズがリズム良く繰り返されて何度も出てくるのですが、これが何とも言えず朗らかな気分というか、腹の底から力が湧いてくるような感じになるのです。単にセロトニンの分泌が良くなった結果だとは思いますが・・。
数息観で躓いている時(雑念妄想の付け入る隙を作るまいと頑張る時)、あの観音経のこれでもかと云ったようなあらゆる災難、地獄のような泥海を思わせる字面の中に、ナント!
念彼観音力の文字が、ピカピカ輝いて見えてくるではありませんか!
大国主命にスセリビメが与えたヒレのような、映画「十戒」のあの名場面、紅海を割ったモーセが振り上げた杖のような、知恵と優しさと勇ましさが混じり合った響きとして立ち上がって来たのです。
私にとっては、大きな学びになりました。智慧と慈悲と勇猛心が観音力であるならば、素直に信じてゆけば良いと思ったら、気楽になりました。
自我を、自我の剣によって斬って返り血を浴びて苦しまずに、故に疲れずに、数息観が続けられることに気づいたのです。
内なる観音力を呼び覚ますべく、今日も思い出してはネンピーカンノンリキ!です。
 
妙玲拝
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