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擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
TEL 03-3823-7647

当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

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擇木ブログ - 最新エントリー

No purpose, No hurry

カテゴリ : 
English
執筆 : 
擇木道場 2019/5/26 12:03
No purpose, No hurry 
 
There is no purpose of self, other than knowing the self. Even enlightenment cannot be purpose of self, because self is just a continuous flow of energy like river flow. Everything that is associated with a purpose stops when purpose is completed. However, the self is pure flow of energy keep continuously flowing as a part of this whole universe. So, basically when you sit for meditation or say Zen with any kind of purpose associated with it, do not lead you anywhere. Because ultimately it’s all about leaving the last tiny support which let you try to swim, because it’s not about swimming, it’s about floating, or flowing. 
There is no purpose of river, but it flows being in nature and it reaches where it has to reach. We have to understand the nature of self, and to understand it we have to drop the last string attached. So, when you sit to meditate or practice Zen, and the last string of desire to get enlightenment is attached then you not able to understand the nature of self. This happened to Buddha, after meditating several years he left all the hope. He was just at the door, but unable to enter because of string attached. And then one day it just happened, it happened when he saw the leaves falling from the tree, under which he was sitting for meditation. He realized the natural flow of leaves, without any purpose and he realized that self is also in the nature, with the same flow. 
Actually, the purest of self is already enlightened however we never been able to see it because of our accumulated desire in life after lives. But then question arises that, what is the purpose of meditation or Zen, the purpose is to prepare our self to reach to the state where we can just able to realize the nature of self. Have had Buddha realized the nature of self by seeing falling leaves, if he could not have meditated for several years. No, he could not. He could not realize it, if he had not been prepared the self for that very moment. 
I wish, I become aware on moment to moment basis, go deeper and deeper in when I sit for Zen. I wish my every act of life have full aware state of Zen, and I pray for all to have the same. 
---------------------------------  Pranam -------------------------------------------------
 
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 英風です
 湘南ダンマサークルさんにお邪魔した日、交流会が午後3時までだったので、初めて建長寺さんの坐禅会に行ってみました。
 坐禅を始めてから1年と少しほどなのですが、自宅が比較的鎌倉に近いにもかかわらず、鎌倉のお寺さんで実施されている坐禅会にとしては、円覚寺さんと報国寺さんの2箇所しか行ったことがありませんでした。
 当日の建長寺さんの坐禅会の開始時刻が午後4時30分だったので、ちょうどよい機会と考え、午後3時18分東戸塚駅発の横須賀線に乗り、午後3時30分過ぎには、北鎌倉駅に着き、そこから徒歩で建長寺さんに向いました。
 
 ちょっとショックだったのは、北鎌倉駅の駅裏トンネルが閉鎖になっていることに気付いたこと。
 このブログの記事を書いたときに、ネットで確認したら、平成28年には崩落して閉鎖されていたんですね……。 
 昨年4月から円覚寺さんの暁天坐禅会には十数回行っていたのですが、乗る車両の位置の関係で、ホーム北側で降りることがなかったせいか、気付きませんでした……。
 「青い花」、「覆面系ノイズ」、「南鎌倉高校女子自転車部」……、鎌倉を舞台にした学園物アニメの通学路定番スポットが閉鎖されていたとは……復旧を祈ります。……私でも祈ることあるんですね……。
 
 午後3時50分過ぎ頃には建長寺さんに着きました。
 拝観料500円を払って敷地内に入ります。
 坐禅会は無料なのですけれどもね。

 坐禅会の開始時刻は午後4時30分、集合時刻は午後4時15分なので、敷地内の仏殿の仏像を見て回ったり、請われて20歳代と思料される女性3人組(そのうち二人は白人の方でした)の写真撮ったりやらして、時間を潰します。
 午後4時15分少し前くらいに、坐禅会の会場である方丈に入りました。
 下の写真の建物です。
 

 私が着いたときに、会場にいた方の数は十数人でしょうか。
 提唱用の語録(碧巌録第九十九則)のプリントの置いてある机に一冊百円を志納すればいただけるA5版50頁弱の法話集が3種類あったので、折角なので、一通り志納させていただいていただきました。
 噂に聞いていた長い坐蒲を手に取り、単を作ります。
 長い坐蒲の写真撮ればよかった……
 一応、単の並び順の決まりが掲示されているのですが、おそらく常連と思われる方も、決まりに則っているような感じではなかったので、方丈からの眺めが一番よいと思われるところに単を作りました……スミマセン。
 建物は開け放たれていて、ストレートで敷地内が見えるようになっています。
 定刻まで約15分ほど時間があったので、それまで随坐し、午後4時30分から座禅会開始です。
 このときには、参加者は四十名弱ほどになっていました。
 
 冒頭、坐り方の説明があったのですが、調心については一切説明がありませんでした。
 円覚寺の暁天坐禅のあわただしい中でも、簡単な数息観の説明があったりするものですが、珍しい。
 時計などは見ていないのでわからないのですが、おそらく坐禅の時間は25分間1本。
 担当のお坊様が警策を持って回られてきたので、経験として打っていただくことにしました。
 左右2発ずつ、観光客の方が比較的多いためかかなり軽めです。
 坐禅の後は、般若心経と四弘誓願を読経して、次は、提唱です。
 
 提唱は、管長さんご本人がなさります。
 しかも、大衆と同じ平場に坐って。
 大衆も管長さんを半円に取り囲むよう坐ります。
 私は、坐禅会の手伝いもしていた久参と思われる方のすぐ後ろに坐ったのですが、管長さんとの距離は1.5メートルもないくらいで、この近しさから繰り返し参加したくなるという人も少なからずいそうな感じです。
 管長さんは、もうずいぶんなお歳のようで、歩かれるときには、若手のお坊様が支えられていました。
 提唱のお話は、非常にかみ砕いたわかりやすいものでした。
 惜しまうらくは、私の記憶力がニワトリ並みで、まだ数日しか経っていないのに、現在、ほとんどその内容を覚えていないことです。
 ICレコーダーを用意すべきでした。
 印象に残っているのは、「私たちは、宇宙とぶっつづきの生命です。」というようなことをおっしゃっていたので、澤木興道老師みたいだと思ったことです。
 
 一通り、提唱が終わると、管長さんは、「何か、質問はありますか?」とおっしゃいました。
 私は、少し後悔していました。
 正直、観光客を含めた相当の員数の人を相手にするので、質問という形とはいえ、管長さんとお話のできる機会があるとは思っておらず、質問の準備をしていなかったのです。
 2回から3回くらい同じことを繰り返しおっしゃいました。
 後悔しながら、何か質問をする材料はないか探りましたが、思いつきませんでした。
 私以外にも、質問の声を発する人はおらず、管長さんは、そのうち、自分の修行時代の話を始めました。
 五分間ほどだったと思います。
 昔話が終わると、管長さんは、また「何か、質問はありますか?」と声をかけられました。
 
 私も、これまで仕事の関係で講師を頼まれ講義をしたときには、受講者の方に質問がないか、聞いていました。
 けれども、それは型どおりのもので、どちらかというと「何も聞かないでくれ」と念じながらするようなものでした。
 しかし、管長さんは、本当に、質問をしてほしいというふうに、親しげな感じで、繰り返し尋ねられるのです。
 その様子を見て、「この人は、少しでもここにいる一同を済度したいのだ。」と思いました。
 
 どなたかの本に出ていたと記憶しているのですが……禅とは、生命を使い尽すことです。
 一人一人の性に従って、その生命を使い尽すこと。
 彼の場合は、法施をして済度すること。
 でも、私には、彼に問う材料がない。
 数回、質問がないか繰り返された後で、「なければ終わります。」とおっしゃって、若いお坊様に支えられるようにして立ち上がられました。
 このとき、さびしげな感じがして、私は、申し訳ない気持ちになりました。
 なぜ、自分は、管長さんが生命を遣い尽すことのお手伝いができないのだろう。
 
 坐禅をするようになってから、自分の人生に関する深刻な悩みを感じることがなくなりました。  
 けれども、自分で処理のできない、人に相談をしたくなる悩みがないということは、寂しいことだと気づきました。
 悩みがあれば、質問を求める管長さんの求めに応じて、度されることができるのに。
 
 この後悔の念を払拭するために、近いうちにまた参加したいと思いました。
 それまでの間に、何か悩みを見出して、今度こそは、管長さんに度されようと思いました。
 
 方丈を出た時には、午後5時40分になっていました。
 
【坐禅会のお知らせ】
*私は、(だいたい)毎週次の人間禅坐禅会で坐禅をしています。 
 私と一緒に坐りませんか(°∀°)
1 月曜日19時(初回1830分)から20時 
 場所:東京都台東区谷中7-10-10擇木道場 
 連絡先:TEL 03-3823-7647
2 木曜日1930分(初回1915分)から21時 
 場所:東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
*参加費1、2とも 初回(指導料込み)1000円、2回目以降 500円
【東京荻窪支部摂心会のお知らせ】
*私の所属する東京荻窪支部では、来る5月29日から6月2日にかけて第5回摂心会を実施いたします。
 会場は「善福寺清明庵」となります。
*伝法の師家による参禅(公案修行)の機会もあります。
 詳細は、後日お知らせいたします。
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
<善福寺清明庵のご案内>
 東京都杉並区善福寺3-8-5 清明庵
 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
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「薔薇は理由なしに存在する
 薔薇は咲くが故に咲く
 薔薇はおのれを意識することをしないし
 他人が自分を見ているかどうか問いはしない」
――アンゲルス・ジレジウス

 坐禅をするようになってから、私の気づいたことの一つは、私の人生には深刻な問題がない、問題はあったとしても、深刻だと思うような問題ではないのだということです。

 私は、人生の中で、苦しさ、悩み、迷いを抱えて生きてきました。
 余り意識してはいないのですが、私が坐禅を始めた理由には、このような人生での苦しさ、悩み、迷いに対処したいという思いがどこかにあったからではないかと思います。
 しかし、冷静になって考えてみると、私は、坐禅などを始める前からきちんと生きていたのです。
 苦しかろうか、悩ましかろうが、迷っていようが、なぜか、それをきちんと克服できていたからこそ、私は、今、ここで生きているのです。

 私たちは、みんな、苦しみや、悩みや、迷いを克服して生きる力をきちんと持っていて、みんな、現在、その力がきちんと働いています。
 そうでなければ、私たちは、苦しみや、悩みや、迷いを抱えているのに、生きているはずがないからです。
 私たちは、生きている以上は、苦しみや、悩みや、迷いを実際には克服できているのではないでしょうか。
 しかし、なぜか、克服したはずのものを引きずってしまって、勝手に自信をなくしがちなだけなのだと思います。
 私たちが人生の問題だと思ってしまっているものは、きっと、既に克服してしまった非常に些細な問題なのであり、勝手になくしてしまった自信を取り戻せば済むだけことなのです。
 禅などの仏道の修行と呼ばれるものの、実存的な機能は、自信を取り戻すためにちょっと私たちの背中を押すくらいのものなのだと思います。
 そして、自身を取り戻した後は、ただ人生が豊かになっていくのを味わうだけになっていくのです。

 鈴木大拙先生は、禅について

「それはわれわれの心に生まれつきそなわっている創造と慈悲の衝動を、すべて思うままに働かせることである。一般に、われわれはこの事実、すなわち、われわれは自分を幸福にし、たがいに愛し合って生きて行くのに、必要な機能をことごとくそなえているのだという事実に、気がつかないでいる。」

と言います。

 薔薇は、自分が美しく咲いていることを知らなくても、薔薇です。
 本質的には、別に自分がどんな風に咲いているかも知る必要はないのです。
 けれども、多くの人は、自分が美しく咲いていることを知りたくなってしまった不幸な薔薇です。
 私も、きっとその一人です。
 坐禅のお陰で、知らなくてもいいや、というようにはなったものの、どこでまたぶり返すかわからないので、常備薬を飲むような感じで、坐禅を続けているという面は否定できません。

 本当は、特別に何もしなくても、みんなきちんと生きていて、きちんと咲いているのです。
 けれども、自信をなくしてしまって、きちんときれいに咲いているのに、きれいに咲きたい、きれいに咲いているのを確かめたいと悩んでしまっているだけなのだと思います。
 私たちは、薔薇と違って、見ることができる目を持っていますが、自分で自分の姿を見ることはできません。
 鏡を通して見たところで、本当に、鏡が私たちの姿を映し出しているのかの保証はありません。
 だから、きれいに咲いていることがわからなくて、自信をなくしてしまっているのです。
 しかし、自分自身がどんな風に咲いているかはわからなくても、ほかの人がどんなに美しく咲いているかは、きちんとわかるように出来ています。

 私についていえば、私は、利己的であり、美しく咲いている人、幸福な人、成功している人に対して、嫉妬心を抱きます。
 けれども、そのことは、私に、他者がいかに美しく咲いているかを感知する能力があることを明確に証明しています。

 私たちは、自利の極大化を目指す競争社会に染まりすぎて、自分の中に備わっている慈悲の衝動を発動することが困難になっています。
 それは、他者を蹂躙して自利の極大化を目指しながら、慈悲を語ることの不遜さに対する嫌悪にも由来するのだと思います。
 私自身、十代の後半から二十代にかけて、露悪的に生きる方が望ましい生き方であるように思っていたことがありました。
 しかし、そのことは、同時に、謙虚さという慈悲を基礎づける性質が、私たちに確実に備わっていることの証明でもあります。 

 至らない私は、ほかの人を幸福にする上では、無力です。
 しかし、至らない私の持っている嫉妬心を基礎として、ほかの人がどんなに美しく咲いているかを知ることはできるのです。
 だから、きちんと咲いているのに自信がない人に対して、きちんと咲いているのだよと伝えることだけでもするようにしています。

合掌 英風 拝

【引用文献】
・田邊祥二『禅問答入門』67頁。アンゲルス・ジレジウスは17世紀ドイツの詩人。
・鈴木大拙『禅』42頁

 
【坐禅会のお知らせ】
*私は、(だいたい)毎週次の人間禅坐禅会で坐禅をしています。 
 私と一緒に坐りませんか(°∀°)
1 月曜日19時(初回1830分)から20時 
 場所:東京都台東区谷中7-10-10擇木道場 
 連絡先:TEL 03-3823-7647
2 木曜日1930分(初回1915分)から21時 
 場所:東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
*参加費1、2とも 初回(指導料込み)1000円、2回目以降 500円
【東京荻窪支部摂心会のお知らせ】
*私の所属する東京荻窪支部では、来る5月29日から6月2日にかけて第5回摂心会を実施いたします。
 会場は「善福寺清明庵」となります。
*伝法の師家による参禅(公案修行)の機会もあります。
 詳細は、後日お知らせいたします。
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
<善福寺清明庵のご案内>
 東京都杉並区善福寺3-8-5 清明庵
 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)

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長寿と禅(その6)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/5/23 21:13

長寿と禅(その6)

 

 このテーマもそろそろ終わりにしたいと思います。
 昔から禅者は僧俗を問わず長命であったという根拠をこのシリーズで考えてきているのですが、今までの精神的な安定のみならず、他にもいろいろと多義に渡ってその理由はあると思います。
 たとえば卑近なところで、常に姿勢が良いし腹式呼吸をしていることから胃や腸の消化器系統の健全を保ちやすいことは小生の経験でもあります。
 また、耕雲庵英山老師とか磨甎庵劫石老師を身近で見させていただいて感じたことは、自分の体調管理に極めて綿密に対応しておられるということと、専門家の医者の意見を謙虚に最大限に尊重しつつ、盲従ではなく自分で納得するまで説明を求め、納得したら医師の指示に全面的に従う(実践する)ことが徹底されていました。お二人とも医師の指示でタバコをスパッとやめられたし、お酒好きの耕雲庵老師でしたが医者の指示通りに節酒をきちっとされておられました。
 総括するとお二方から学んだことは長寿は畢竟するにインテリジェンスのフルーツ(結果)であるということです。
 また小生はよく修行は自利のためだけでは最後まで進みにくいけれども利他心が強いと修行を全うしやすいと申しております。すなわち自分のためだけであればいつでもマイペースで修行をし、またいつでも腰を下ろしてしまえるものですが、利他のことを考えていると修行を怠けることができないし、ここら辺で良いかと腰を下ろせないので最後まで行ってしまうのです。
 健康面においても同じことです。塩気が好きだからと高血圧にもかかわらず塩を舐めて酒を飲んでいる人には自分は人のためにあるんだという認識が希薄であり利他心のすくない人だなと思います。同じようにこれだけタバコと肺がんの関係が言われている時代で、タバコがやめられないのも自分一人のわがままを優先して、法恩に報いて利他行を少しでも長くやろうという気持ちになっていない、口でいくらうまいことを言っても本質的には自分の嗜好を利他行より優先する人に冷たい御仁だと言わざるを得ないですね。
 身命財を放擲してといいますが、これは自分のためではなく他人のためにすることであります。禅の修行を長年やっている人は身命を大切にして長生きすることが世のため人のために尽くす最大のミッションになるわけで、長寿は迷える衆生救済のためにまた仏祖方の法恩に報いるために当然なければならない務めであります。 勿論、こう言うと義務とか責任とかの肩の凝る話にとられてもいけませんが、そういうことでは決してありません。
 小生は5月5日に傘寿の祝いをしていただきそれに対して挨拶をさせられました。80歳くらいで祝われる時代ではないと思いますし、更にそれに対して挨拶せよと言われても閉口するばかりでしたが、やむなく次のように話を締めくくりました。
 「・・・・傘寿のお祝いをしていただくというのは甚だ面映いものがありますが、まだ頑張れということと受けとめたいと思います。・・・・当面、磨甎庵老師の92歳を目標として、いらざることをもう少し世に憚ってやらしていただきたいと思います。」
 6回にもわたって「長寿と禅」をブログしたからには、自分でそれを証明しなければならないことになりました。ご迷惑を承知でもうしばらくはばかるつもりですのでよろしくお願いします。合掌

 


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坐 TEN to FIVEに参加しました

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/5/23 7:33
521日の「坐 TEN to FIVE」に参加しました。

私は風印という道号に相応しくフラフラと各地の坐禅会など渡り歩いておりますが、大抵の坐禅会は月に数回程度の運営で、あくまでお客様としてのもてなしであり、実際の修行とは異なる指導がなされることが多いと思います。
観光目的ならそれで良いと思いますが、中には物足りないと感じている方もいらっしゃるはず。

「坐 TEN to FIVE」は文字通り朝10時から夕方5時まで、休憩は挟みますが、大半の時間座り続ける内容です。
私の乏しい経験では、在家でここまで本格的な坐禅修行が出来る場は他に無いように思います。
もちろん途中退室も可能ですので、基本的な座り方がお分かりになれば、何方でも気軽に参加できます。
私はここまで長時間座ったのは大変久しぶりですので足が痺れてしまいましたが、貴重な経験ができました。
 
また、当道場では毎日坐禅会を催しており、初心の方にも丁寧に指導させて頂いております。
コンビニ的な便利さですが、他に仕事をもつ社会人の方々が皆さん真剣に取り組まれています。
大きな禅堂と、昔の家のようにアットホームな居士寮でお茶菓子などお出ししておりますので、興味のある方は是非気軽にお越し下さい。お待ちしております。

風印 拝


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長寿と禅(その5)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/5/21 22:13

長寿と禅(その5)


  精神的安定が肉体的安定につながりそれが長寿につながるという観点において今までストレスを取り上げてきましたが、ガラッと変えて「満足感」について検証してみたいと思います。
 満足感すなわち「欲するものが満たされているという自覚」は直ちに幸福感につながります。幸福感とか自己肯定感は医学的には免疫力の増強になるようで岐阜の船戸崇史先生の説を読み解くと癌にならない生活習慣の中心に来ると考えられます。
 ただこの満足感はあくまで主観的なものですから、どんなに粗衣粗食でも揺るぎなき満足感を持って日送りをする人も居ますが、他人との比較で自分を尺度する人は普通以上に裕福な生活をしていても不満と愚痴の多い不幸せな人が居たりもします。最近はあまり言われなくなりましたが総中産階級という言い方があり、みんな大体一緒だからと自らを慰めるという消極的な自己肯定が昭和から平成の初期の世風でありました。
 禅語に「吾唯知足」という語があり人口によく膾炙されていますが、これは禅の究極と言ってもよいほどの深い悟境を意味するものです。吾唯知足の解釈としては先の粗衣粗食でも満足という解釈が一般的でしょうが、禅的解釈はもっと本源的なものすなわちお釈迦の悟りから来る禅的境地であります。
 お釈迦様の悟りは言葉で説明できるものではなく、まさに自らがお釈迦様と同じように座禅を組んで三昧に入り正脈の師家の下で冷暖自知して悟る以外に道はありません。(東京では東京荻窪支部の摂心会が西荻善福寺の清明庵で5月29日から6月2日まで開催され、東京支部の摂心会が日暮里の擇木道場で6月22日から29日まで開催されます。これがその絶好のチャンスです。)
 しかしそれだけでは素っ気なさ過ぎということになりますので、第二義に下って少し弁を付けて方向性だけでも申し上げます。
 吾唯知足の根本は、即今ただ今の自己の存在認識が基盤になります。すなわち高々100歳くらいしか生きられない儚い命の自分に永遠の命(絶対の自己)が宿っていることに三昧を通して気付く(を悟る)。これは即今ただいまの自己の100%の認証であり、満ち足りていることを知る(悟る)ことです。ここの知るは「知性として知る」を超えた感性としての納得(悟り)です。ここを基盤としているので、「粗衣粗食でも」という相対的形容がついている満足ではなく絶対的な満足になるのです。幸福感という表現も相対的な匂いが少し付いていますが、絶対的幸福感は仏教用語的には法喜禅悦と言うのでしょう。
 精神的安定もここにいたって盤石と言うべきであり、それでも癌に罹って死ぬこともありますが、精神的な問題での肉体的変調がないと言うことはもとより、免疫力を常に高く維持するなどの健康機能の十全を発揮させるということになり、その結果として長寿が必然的につながってくるということになるのではないでしょうか?
 では見性した(悟りを開いた)人は全てこうなっているのですかと畳みかけてこられると、公式的にはそうでありますが「吾唯知足」になりきれている人は少ないのが実態でしょう。しかし一日一炷香など座禅の継続によって三昧が少しずつ身についてくるにつれてこの「吾唯知足」の境涯にも近づいて行くことはできます。ここの詳しいプロセスについては、人間禅の季刊誌【禅】65号(7月号)の巻頭言を参照下さい(一昨日書き上げたところです)。合掌

 


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軽度認知障害その後

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/5/21 3:18

先日父がもの忘れ外来で軽度認知障害の診断を受けたのですが、その後の対応など書かせていただきます。
 
①抗認知症薬の内服開始
 認知症への移行を防止するために、予防的に抗認知症薬の内服を開始しました。アリセプトという薬で発疹が出たため、メマリーという薬を内服しています。
 副作用で眠気の訴えがありますが、服用前と比較して認知機能の改善が見られるように感じます。
 
②デイサービス
 週2回デイサービスに通っています。理学療法士や作業療法士による専門的なリハビリが受けられるデイケアの方が良いのではないかと思いましたが、デイサービスに行くのを楽しみにしており、環境の変化が認知症への移行につながるリスクもあるため、現在通っているデイサービスを継続することにしました。
 
③送り出しヘルパー
 デイサービスに行く際に、戸締まりを忘れたり、エアコンを付けっぱなしにしたままになっていたことがあったことから、デイサービスの日に送り出しヘルパーの方に来て頂き、戸締まりや火の元を見て頂くことにしました。犬の散歩や植木の水やりでデイサービスの時間に遅れることもあったことから、デイサービスの日は私が電話で父を起こして遅れないようにすることにしました。
 
④ヘルパー
 週1回ヘルパーの方に来て頂き、掃除や買い物をして頂くことにしました。父は脊柱管狭窄症の手術をしており、足が悪いのですが、杖や歩行器を使用して買い物に行けることから、主に掃除をして頂いています。
 
⑤訪問看護
 週1回訪問看護師の方に来て頂き、1週間分の薬をお薬カレンダーに朝、昼、夕、眠前と分けて入れてもらうことにしました。食事を取る時間が遅れて朝食後の薬を昼食後に飲むこともあるようですが、飲み忘れなく服用できているようです。また、緊急時に電話すれば、訪問看護師が夜間でも駆けつけてくれます。
 
⑥郵便局のキャッシュカードの廃止
 2年前に父がキャッシュカードを警察を名乗る男に渡してしまい詐欺の被害に遭っていることから、郵便局のキャッシュカードを廃止しました。50万円以上の引き出しの際には本人確認が必要となることから、詐欺の被害に遭いにくくなると思います。
 
⑦インターフォンの導入
 訪問販売などが声を掛けてくることが多いため、インターフォンを導入しました。相手の顔や要件を確認できるので、不用意に不審者を家に入れることを防止できます。
 
⑧振り込め詐欺等対策電話機の導入
 電話機を振り込め詐欺等対策電話機に切り替えました。「この通話は録音されています」と通知したり、不審な電話番号からの電話をシャットアウトする機能がありますので、勧誘等の電話はほぼ無くなりました。また、この電話機の購入の際には市から補助金を受けることができました。
 
⑨自動消化機能付きコンロの導入
 コンロの消し忘れによる火事を防止するために、自動消化機能付きコンロを購入・設置しました。また、火災警報器、ガス漏れ警報器も設置しました。
 
⑩家族信託制度
 家族信託制度を導入すれば、父が認知症になって意思表示ができなくなっても、家族が実家の土地を売却して施設の入所費用に充てるなど、父のために父の財産を活用できるようになります。司法書士などの介入が必要となり高額の費用がかかることや、将来的に父が施設に入ることになっても、年金で費用を賄えそうなことから、今回は導入を見送りました。
 

父は要介護1の認定を受けていることから、介護保険などを活用し、上記のような対応を取っています。

前回の禅フロンティアの講師の先生に親の介護は一人で抱え込まずに社会資源を活用することが重要と教えて頂きましたが、地域包括支援センターを活用してケアマネと相談しながら進めていけば、仕事を辞めずに父の介護と両立できると思っています。

また、当道場の師家である葆光庵老師から、親の介護には本人の尊厳を重視することが必要とのお言葉を頂きましたが、出来るだけ父の意思を尊重してやっていきたいと思っています。
 

認知症の方は過去の思い出に浸っていることが多く、私もその傾向があるのですが、過去への執着が認知症の一因となっているように思います。

道元禅師に「春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪さえて すずしかりけり」という歌があります。初めは当たり前のことを言っているだけでつまらないと思ったのですが、過去への執着なしに目の前の物事を有りのままに見ることがいかに難しいかが分かってくるにつれて、とても素晴らしく、有り難い歌だと思うようになりました。

また、父が軽度認知機能障害の診断を受けることになったのは、私が年に数回しか実家に帰っておらず、私の無関心が原因となっているように思います。去年から父を旅行や美術館などに連れて行くようになりましたが、父と出かけるのは私の見聞を広げてくれることにもなりますので、有り難く思っています。
 
風印 拝
 

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 「湘南ダンマサークル」さん(以下「ダンマさん」)は、日本テーラワーダ協会傘下の「上座仏教の在家の実践者方の集まり」です。
https://ameblo.jp/shonan-dhamma/
 ダンマさんは、心の広い代表者のY氏の包容力、温厚かつ堅実な世話人N氏による厳格な自主瞑想会運営のバランスがよく取れています。

居心地のよい団体なので、私は、昨年12月頃から、都合がつくときにはよくお邪魔させていただいています。
 当たり前のことですが、改めて「組織って、人なのだな」と思います。
 私が、人間禅の会員であることをわかって受け入れる懐の深さがあるのですが、いい加減という訳ではありません。

自主瞑想会は、無言行として厳格に運営されている上、代表者のY氏のほか数名の会員の方は、パーリ語を勉強し、原典から仏教を学ぼうという人たちです。
 

人間禅の禅堂ですと、久参の方には、どうも「自未得度先度他」という言葉を頭で知っていても身についていないのか、おそらく御自身の三昧を優先されるためだと思うのですが、周囲の方に不快感をもたらし、三昧を中断させてしまうおそれのあることを気にせずに、坐禅中、げっぷや放屁などをすることを躊躇なさらない方が少なくありません。

ダンマさんの自主瞑想会では、そのような方はいらっしゃいません。

人目がある方が集中できるけれども、静謐な環境で坐禅をしたいという方は、坐禅と坐る瞑想に坐相としての相違はありませんから、お願いをして、ダンマさんの自主瞑想会の末席で坐禅をさせていただくのもよいかもしれません(実際、私もやっています。もっとも、私は、厚かましいので、堂々とやらせていただいていますが……)。
 
 私は、救済の技術である以上、仏道は易行として実践される必要があり、実際に易行であるからこそ、素晴らしいと考えております。

しかし、こんな私ですら、ダンマさんにいらっしゃる方々が真摯に行じ、学ばれている場に一緒にいると、何やら高まるものを感じます。

自分勝手な解釈ですが、こういう感覚も「正聞薫習」と言ってよいのではないかと思っています。
 
 ダンマさんには、専用の施設がなく、神奈川県東部から南部地域の公共施設を借りて、自主瞑想会や勉強会を実施なさっています。
今年4月に入ってから、自主瞑想会のスケジュールの中に交流会を設けるようになり、瞑想会参加者の人的交流にも力を入れています。
 私は、坐禅を通して、人間関係を豊かにしたいと思っているので、うれしいことです。
 
 5月の本部摂心が終わってから約2週間後、東戸塚地区センターで実施されたダンマさんの交流会にお邪魔しました。
 当日の参加者は、私のほかは、代表者のY氏(40代)、世話人のN氏(50代)、30代の女性2名、40代の女性1名でした。
 テーラワーダの実践をする人たちは、比較的若い方が多いです。
 ただ、20代の方の定着率は低い傾向があるとのお話でした。
(ちなみに、70歳代の久参の方も少なからずいらっしゃいます。日本に、テーラワーダの「テ」の字もないような時代に、東南アジアの国に行き、お坊様を呼んだりした黎明期のお話を聞くと、考え方が違うとはいえ、胸打たれ、やはり「正聞薫習」という感じが致します。)
 アルボムッレ・スマナサーラ長老の著書やユーチューブの動画でのクリアかつ説得的な言葉のほか、瞑想実践を通しての「実証性」を重視し、信仰を強調せず、頭ごなしのおしつけとは感じられないところが、若い人たちから支持されているのではないかと思います。
 私も、著書の中の「仏教では、信仰は邪魔です。障害です。」という言葉(注1)に惹かれたのが、初めてダンマさんの勉強会に行ったきっかけです。
 また、瞑想会の雰囲気としても、人間禅とは異なり、体育会系的な鍛錬というよりも、厳格なものではあるとはいえ、実践を通して参加者自身の救済を図るというソフトなスタンスで臨んでいるところも若い人たちから支持されている理由なのではないかと感じます。
 
 当日の交流会では、少し問題意識を持って臨みました。 
 しばらく前に、荻窪支部の静坐会の会場の一つである荻窪剣道場の近くの古書店(D老居士も利用)で、文庫版のアーチャン・チャー『手放す生き方』が100円で売っていたことから、購入して読んで見たところ、禅の本と言ってもよいような記述がいくつかあり、このような考え方がテーラワーダで一般的なものなのか聞いてみたかったのです。
 たとえば、こんな記述です。
「ブッダとは、時を超え、不生であり、いかなる身体、歴史、イメージと関連ないものだと理解できます。ブッダとは、あらゆる存在の基底であり、不動の心という真理の表れであると言えます。(中略)この、時を超えたブッダこそが、私たちの本当の家であり、不変の空間なのです。」(同書242頁)
 
 テーラワーダの実践をする人たちが拒絶反応を示す大乗仏教の考え方がいくつかあるのですが、悉有仏性論はその最たるものです。
 しかし、このアーチャン・チャーが言うことは、悉有仏性論そのものではないか。
 そこで、Y氏に聞いてみたところ
「これは、文学的な表現ですね。」
とつれない言葉。
 少しY氏と話していたところ、N氏が、
「ダルマ(法)については、こういう言い方するよね。」
とおっしゃるので、私も
「それならわかります。悉有仏性論でいうところの仏性とはダルマと同義で、あらゆる存在にダルマが及んでいるという考え方ですから。」(注2)
と応じて、納得。
 
 ほかにも、『手放す生き方』には
「ありのままの現実を直視することを通じて、やがて智慧、喜び、他者を助けるための類希なる能力などが育っていくのです。」(26頁)
「仏教の比丘たちは、利己的な目的ではなく、自分自身を知り、どうすれば平安かつ賢く生きられるのかを他人に教えられるようになるために、瞑想を実践するのです。」(171頁)
などの記述があります。
 Y氏は、「アーチャン・チャーは、禅をする人に好かれる長老ですよね。」ともおっしゃっていましたが、確かにそのとおりだと思いました。
 テーラワーダでは、慈悲の瞑想(心の中で、「生きとし生けるものが幸せでありますように」などと念じながらする瞑想)をしたり、スマナサーラ長老は、在家の日常生活での心得について、「ほかの人の役に立つ生活をしなさい。」などとおっしゃったりします。
 ダンマさんにいらっしゃる方々と対話をしていると、テーラワーダとの相違を意識することを通して、漠然と抱いていた禅のイメージが明確化するだけではなく、テーラワーダには、大乗仏教の基盤があるのではないかと感じることがよくあります。
 禅の指導者の方には、「よくテーラワーダ(上座仏教、小乗仏教)は、自利しか考えていない。」などということを言う方もいらっしゃいますが、このような考え方は、無理解による対立しか生まない、つまらない分別というべきものであり、嫌う底を回向せずに、大乗仏教というのはおかしいのではないかと思っています。
 
 この日の交流会では、参加者の方の質問に、瞑想実践の進んでいるY氏やN氏が答えることも行われました。
 私も、テーラワーダの瞑想法のいくつかを試したものの、怠惰な私には面倒臭く、脳の作為的な活動をしない「只管打坐」でよしとしてしまっているのですが、それでも新たな発見があり、面白かったです。
 人間禅にも、テーラワーダの瞑想実践の経験があり、今でも継続していらっしゃる方がいるところ、次の2つが余り本には出て来ない話だと思うので、参考にしてみてください。
 
(1)ラベリングで重要なことは、身体感覚を感じることなので、たとえば、足を降ろすということであれば、足を降ろした感覚のあったときに、ラベリングをする。
 足を降ろす前に、ラベリングをすると、足を降ろすことを指示したことになってしまい、ラベリングではなくなってしまう。
 ラベリングは、感覚のあったときに同時にされるべきだが、感覚があった後で、ラベリングするというイメージでやった方がやりやすいと思う。
(慧日庵老禅子は、数息観について、数を数えることが重要なのではなく、呼吸に意識を向けるためのものであり、呼吸の感覚のあったときに数を数えるのだとおっしゃいますが、それに近いものを感じました。)
 
(2)慈悲の瞑想の中で、自分の嫌いな人をイメージして、その人の幸せを祈る瞑想があるところ、自分の嫌いな人をイメージするのがどうしてもつらい人については、この瞑想はしない。却って、憎しみの感情が高まってよくないから。瞑想実践が進んで、自分の嫌いな人をイメージすることができるようになってから、やればいいという長老の話があった。
 
 ほかにも書きたいことはいろいろあるのですが、既に、相当量になってしまったので、別の機会に取り上げたいなと思います。
 Y氏、N氏、ほかのダンマさんのメンバーのみなさん、今後ともよろしくお願いいたします。
 
合掌 英風 九拝
 
(注1)アルボムッレ・スマナサーラ『これでもう苦しまない』45頁
(注2)釈宗演『最後の一喝』226~227頁
「法は始めなく終わりなく、今も目前にあり又後にもあるもので、よく過去、現在、未来の三際を貫き、大は日月星辰より、小は針の目までも行き亘って居るのだ、一切の事実は悉く是れ法の顕現である。一切の因縁には法が交って織られ、因の中にも法あれば縁の中にも法がある。然し法は決して因縁に束縛されるものでない、大自在である大自由である。円転滑脱の作用がある。この法が即ち仏性とも称せられるのぢゃ、されば仏性は生きとし生ける人、鳥、獣、草、木などの有機物のみならず、金石国土の如き無機物にも猶お宿って居る。萬有の本体は、帰するところ一の仏性である。即ち法が是れ事物の本然という事になる。この法は万古不易の人力を以て如何ともする能わざるもので、人間は総て皆這箇の法の支配を受けねばならぬのである。」
 
【坐禅会のお知らせ】
*私は、(だいたい)毎週次の人間禅坐禅会で坐禅をしています。 
 私と一緒に坐りませんか(°∀°)
1 月曜日19時(初回1830分)から20時 
 場所:東京都台東区谷中7-10-10擇木道場 
 連絡先:TEL 03-3823-7647
2 木曜日1930分(初回1915分)から21時 
 場所:東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
*参加費1、2とも 初回(指導料込み)1000円、2回目以降 500円
【東京荻窪支部摂心会のお知らせ】
*私の所属する東京荻窪支部では、来る5月29日から6月2日にかけて第5回摂心会を実施いたします。
 会場は「善福寺清明庵」となります。
*伝法の師家による参禅(公案修行)の機会もあります。
 詳細は、後日お知らせいたします。
 連絡先:中川香水(090-5827-7004kousui.nakagawa@gmail.com
<善福寺清明庵のご案内>
 東京都杉並区善福寺3-8-5 清明庵
 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)

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荻窪支部の道庵です。
 

果たして禅的なお話か分からないのですが、私の仕事の整体とからめて書いてみました。
 

私が仕事として身体と向き合うとき、転換点となったアイデアがあります。
 

生命は〈モノ〉ではなく〈コト〉であると捉えること
 

これは動的平衡で有名な生物学者の福岡伸一と西田哲学の研究者、池田善昭氏の共著「福岡伸一、西田哲学を読む」に書かれていた言葉です。

福岡伸一博士の「動的平衡」はベストセラーであり、ご存知なければ是非一読されることをお勧めしますが、その主張を簡単に説明すると、
 

生命とは機械のようにカチっと固まった存在なのではなく、形を保ちつつも常に変化している存在なのだというもの。
 

私たち人間の身体にしても、口の中の細胞は数日で新しい物に入れ替わりますし骨なんかもカチっと硬くて変化しないように感じますが、これも10数年で細胞がすっかり入れ替わってしまう。物質的に考えれば10数年前の私と今の私は別のモノ、という事になります。これは例えば、川の水には常に流れがあり入れ替わってしまいますが、その「川」として存在している。生命とはその川の流れが一時的にとどまっている、よどみのようなものかも知れないという、考えです。
 

この「動的平衡」の考え方が西田幾多郎の哲学と同じだ、という池田氏の呼びかけに応じて対談することから始まるのが本書であります。正直私には難解な本だったのですが、生命とは環境に作用しながら同時に一体として環境に作用していく。自身が環境に影響されつつ自身も環境に影響を与える、それはモノではなくコトなのだ、と解釈しました。
 

さて、私が整体師として生命=身体をあつかうとき、どのようにこれと向き合えば良いのか。
 

以前、私が持っていた考え方はあたかも機械を修理するように身体を調整することでした。

例えば自動車なら、もともと新車として納品された完成形があるのであって、壊れても部品を入れ替えればそれに近づけることができます。身体もどこかが故障しているのだから、そこを全て修理すれば身体は完全な健康な身体になる「はず」だ、というものでした。

しかし、想定上とはいえ、完成形を目指して人間の身体を修理しようとすると無理が生じます。これだけ調整しているのに整わないのは何かがおかしい、何かが間違っているというような思いでムキになり、時にはかえって痛めてしまう失敗も起こるわけです。
 

でも、身体をコトとして捉えてみると「完成させる」という考えが自体がおかしいことに気づきます。コトとは歴史と言い換えられるかもしれません。

 

では、その歴史である身体を整体師はどう扱うべきか。
 

整体はその人の歴史に事件として入り込むわけです。そうした結果として、以前よりもその人は快適に生活を送れるようになる。それを健康と呼んで良いのではないかと考えております。
 
合掌 道庵 拝
 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」

JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵

善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
*5月25日は、擇木道場で禅セミナーが行われることから、土曜日の善福寺清明庵坐禅会は、お休みします。
*5月29日(水)~6月2日(日)は、第5回東京荻窪支部摂心会(善福寺清明庵)のため、別日程となり、荻窪剣道場坐禅会は、お休みします。詳細は後日お知らせします。
(連絡先) 中川香水 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com

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私にとっての坐禅

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/5/17 16:51
私が坐禅を始めたきっかけは「マラソンマン」という漫画を読んで、坐禅をすることで趣味のマラソンでタイムを上げたいと思ったからです。
また、人間関係の問題や、ミスなく素早く仕事を終わらせるために、トラブルを起こして道場に行かなくなった後も一人で坐禅を続けていました。
マラソンは止めてしまいましたが、仕事ではミスも減り、時間内に終わるようになってきており、何より仕事を続けられていますので、坐禅の成果は出ているように思います。
先日より再び道場に行くようになりましたが、4年も行かなかった私を温かく受け入れて下さり、坐禅をされている方の心の温かさを感じ感謝しております。
 
仕事が辛いときにTVで唯識の番組をやっているのを見て、目を瞑って自分という言葉に対応するものを見つけられないように、自分など存在せず自分という言葉の響きがあるだけという教えを知り、随分救いになりました。
それから時間があれば仏教書を読むようになり、他と比較して自分を不幸と感じることも多かったのですが、
喜びがあるから悲しみがあり、幸福があるから不幸がある。
餓死しそうな人が食べ物をもらえば喜ぶが、飽食の人が食べ物を貰っても喜びは少ないように、幸福も不幸も直前にその人が置かれていた状況に決定づけられる相対的な概念に過ぎない。
渇愛に囚われて幸福を求める煩悩こそが人の苦しみの原因となる。
無心に遊び回っていた子どもの頃のように、感覚を研ぎ澄ませばただ歩くだけでも幸福を感じる。
例え些細な事であっても縁起によって生かされている喜びに気付かないのは、過去への執着により感覚が鈍磨しているためである。
という教えを学び、幾分気が楽になりました。
 
仏教には中道という教えがありますが、これは儒教にいう中庸とは異なり、的中したというような意味であり、具体的には正見、正思惟、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の八正道のことを言うそうです。
山川草木悉皆成仏(さんせんそうもくしっかいじょうぶつ)と言われるようにあらゆる物に仏性があるとしても、悪事を働く人もいるのであり一定の指標は必要なのではないかと思います。
八正道というと難しいので、上座仏教の日本人僧侶であるプラユキ師が言われるように自他の抜苦与楽を基準にすると分かりやすいと思いました。
八正道の一つに正精進がありますが、自他の抜苦与楽に資するためにも、坐禅とは別に仕事上、生活上の精進は必要なのだと思います。
そういうわけですので、今日も仕事の研修会に参加してきます。
 
風印 拝
 
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