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擇木ブログ - 心の中の僧坊としての孤独

心の中の僧坊としての孤独

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/11/7 14:39

心の中の僧坊としての孤独



現代現象学を唱えたフッサールは、考えることや判断を中止し、世界への関りを中止することが、むしろ、世界を、そのありのままの真相において捉え直すための必須の方法的態度であるとした。

 こうした方法的態度によって事象を見つめることにより、様々な物事の本質直観や本質洞察が現れてくる。こうした真相を見抜くためには、思い込みや偏見、自己忘却的な散乱や錯乱を遮断して、人間と世界を反省し直す自己集中への決意が求められるのである。

 世の中の動きに引きずり回される自己喪失状態をやめて、ほんとうの自分らしさを回復する瞬間と場所を用意し、改めて、自己を見直し、他者との関りを考え直し、世界と存在のすべてに思いを馳せようとする時間が大切である。

 憂き世のただなかにおいて、心のなかの僧坊としての孤独を、私達は自らの根底に深く宿して、絶えずそこへと立ち帰って、自己と人生を見つめる時間をもたねばならない。

 キルケゴールは、大衆社会の台頭を予感して、多くの人々が、張りつめた内面的情熱を失い、小利口な装いのもとで、皮相な外面的広がりの中に気を散らして生きるようになり、誰一人として、真剣に決断することなく、不特定多数のなかに紛れ込んで、無責任に暮らすようになった現代という時代を批判した。

 一方、西田幾多郎は「わが心 深き底あり 喜びも憂いの波も とどかじと思う」と言った。憂き世のあらゆる出来事も、心の深い奥底に、みんな呑み込まれて沈殿してゆく。そこは、真・善・美で満たされている。その心の底知れぬ深淵こそ、生命エネルギーの湧きだす処ではないか。

 自己を意識することは、そこに「見る自己」と、「見られる自己」との、分裂・対立が潜んでいる。俗世の中で喜怒哀楽に揺れる「見られる自己」を否定することはできない。ただ、「見る自己」まで喜怒哀楽の波に飲み込まれることが人間の苦悩となる。心の奥底から、それらを「見る自己」は、それらの感情に引きずられてはならないだろう。淡々と鏡に映るように「見られる自己」の動揺を観察し、強い意志の力で「見られる自己」を統御しなければならない。

 では、我々の心の底に、そのような真・善・美を基本とする「見る自己」が存在するのか。この問題は哲学の領域を超え、信心の問題であろう。

 しかし、深く、孤独の中で、また、孤独に耐えるうちに、生命の普遍性を直観することができるのかもしれない。死すべき人間としては、死への恐怖に晒されながら生きる中で、できるだけ早く、この生命の普遍性を体得できれば、それは素晴らしいことではないか。


日峰


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