メインメニュー
ブログ カレンダー
« « 2019 9月 » »
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30 1 2 3 4 5
擇木道場

〒110-0001
東京都台東区
  谷中7-10-10
TEL 03-3823-7647

当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

検索
カテゴリ一覧

擇木ブログ - 続・敷居の高さ

続・敷居の高さ

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/8/16 9:46

続・敷居の高さ

丸川春潭

 在家禅においては禅修行への入門の敷居を低くしなければならないということを前のブログで書きました。その補足が少しありますので続を書きます。

 敷居を低くしてどんなレベルでもどんな考えをしていても本人が禅修行をやりたいんだと明確に意思表示すれば、全てしっかり受け入れるのが我々の変わらぬ態度です。 そして個々人の意向を尊重しつつその人の器量を勘案して、世のため人のために役に立つ人物になるように指導育成するのが人間形成の禅であり在家禅の使命です。

 敷居を低くすることをもう少し仕分けて見ますと、一つは道を求める志がそれほど高くなくてもと云う意味があり、もう一つは数息観座禅が未だしっかりできていないと云う意味もあります。後者の数息観座禅が未だしっかりできていないレベルでもというのは小生になってからの特徴と思います。小生が入門した頃のこれに対する敷居の高さは、一週間の摂心会をしっかり3回経験(約1年間)し、日常の静座会にしっかり参じている者という入門における内規的なものが厳密ではありませんでしたがありました。小生の判断は、現代の若者にこれを適用するのは敷居が高過ぎでありこの基準ではほとんどの人は来なくなってしまうと考えました。 

現代の若者は都会ほどそうですが、ネットで検索してくる場合がほとんどになっており、座禅の経験も全くない若者がネット情報を頼りに道場に足を運んで来るのです。この若者の最初の応接は極めて大切であり且つ大変難しいものです。したがってできるだけ小生がこの任に当たることにしています。(この観点はかって第二世総裁の妙峰庵老師も「新到が来たら儂のところに一番に連れて来い!」と云われていました。)この貴重な機会を生かすために、師家面談を明確化し原則にしました。

この師家面談で、それまでに座禅経験がない人であってもやりとりの中で判断して入門を許す場合もあります。これは敷居が低い典型的な例になりますが、その真意は初めての数息観座禅の指導も師家がやるということであり、数息観座禅が確立してから公案修行を始めるということではなく、数息観座禅と公案修行を平行して師家が両方を指導するということです。ここまで明確に意図して敷居を低くしているのです。そのために数息観座禅の指導ツールとして数息観評点基準と評点記録も開発しました。

 師家が学人(入門してきた人)を室内(参禅室)において公案修行の指導・育成するやり方は、師家それぞれの人柄・家風を反映して千差万別であります。小生は生涯3人の師家に師事(参禅し指導を受ける)しましたが、その指導の仕方は三人三様でした。

 小生の学人に対する指導の仕方は小生が参じた三人のお師家さんのいろいろな点を少しずつ取り込み吸収し、師家15年にして少しは自分流が確立してきたかと思います。人様に云うほどのことではありませんが、敷居の高さとの関係で少しだけ書きとどめておきます。

 敷居を下げることに徹した在家禅で且つ世界楽土の建設を大目標に掲げた人間禅が200則の公案を駆使してあらゆるレベルの学人を学人毎にどう指導し道力・道眼を付けて世に送り出すかというマクロ設計であります。

 古来より禅門ではこの人物育成のマクロ設計として、見性入理・見性悟道・見性了々の三段階をイメージしています。これに沿って云えば、見性入理は瓦筌集の大体半分の100則までで、その人の個人的な独立自尊の境涯をつくる段階です。これを昔から自利の完成としています。そしてここまでで参禅弁道の修行は終わってあとは数息観を中心にした修行になってもいい人が何割かはいます(勿論本人の意向を尊重しますが)。逆に言うと難遭遇のこの仏縁に恵まれたのであるから何が何でもここまでは修行を継続して到達していただきたいと思うところです。そしてここまではできるだけ丁寧に導く指導を心がけています。すなわち悩み苦しんだ状態から脱却ししっかりと自利を完成するこの段階は人間形成の禅の中で救済の趣を持つところと考えています。

次が見性悟道ですが、瓦筌集の後半100則から150則くらいまでがこの段階です。この段階までで生き馬の目を抜く実社会でどんな逆境にもへこたれず、どうどうと個性を発揮して活躍できる人間力を身に付けます。誰でもがここまでとは考えておらずある意味エリートの育成の趣があります。そして在家禅が人間形成を標榜し人づくりをして世に送るというのはここまでで十分だと考えています。有力(うりき)の人物はここまでは現役の間に到達して実社会で活躍して欲しいと思います。小生がこの段階で一番力を込めているのが142則「五蘊皆空」の則であり、先人の誰よりも綿密に厳密に徹底させているつもりです。

最後の見性了々は、150則から200則までおよび200則以外の公案と見直しの研鑽になり、この段階は社会で活躍してもらうと云うより、師家および特任布教師として人間禅の精神を挙揚することと人間禅に滴々相承で伝わった法の深さ高さを次代に繋ぐための人物づくりになります。この段階では兎に角厳しくに徹して説得するのを旨とし、宗旨を明確に掴まないと絶対に許さないことを徹底しています。特に嗣法者の打出という点になると、高い敷居で入門者を厳選して伝法を守ってきた明治以前の臨済僧堂と全く同じやり方になります。

入門の敷居を低くして縁ある人を全て受け入れそしてそれぞれの器量に応じて人間形成を積ませて世に送り出す。社会で活躍した後にその実社会でもまれ錬成した経験も踏まえて見性了々の厳しい修行を徹底する。この見性了々の深さ高さには最初の敷居の高さは関係ありません。すなわち低い敷居で入った人物でもその到達した境涯はかっての僧堂の嗣法者の境涯と全く変わらないということです。最初の敷居の高さの違いは最も深い人間形成の境涯には関係ないということですが、最初の敷居が低くかったからこそここまで至り得たということも大いにあり得るのです。(了)

 

  • トラックバック (0)
  • 閲覧 (131)

よければこちらをクリックお願いします(日本ブログ村のランキングに参加しています)
にほんブログ村 哲学・思想ブログ 禅・坐禅へ
にほんブログ村

トラックバック

トラックバックpingアドレス http://takuboku.ningenzen.jp/modules/d3blog/tb.php/2033
最新のブログ記事