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擇木ブログ - 悟りについて

悟りについて

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/5/29 5:53
悟りについて、言葉で語ることの出来る性質のものではなく、このようなブログを書くこと自体間違いかもしれませんが、乏しい知識で思っていることを書かせて頂きます。
 
私は4年前の摂心会(せっしんえ)で見性(けんしょう)を認めて頂いたのですが、その時にたった一度、数秒だけの経験だったのですが、何とも幸せな気持ちになりお釈迦様とも対等に会話できるような気分になりました。
それ以降同じ経験はありませんが、そのような経験が出来たのも公案(こうあん)があったからこそではないかと思います。
また、『マラソンマン』という漫画のエピソードにある「考えまいとして心を閉ざすのでは無く解放する。イメージするのは闇では無く光だ」ということをイメージしたのも助けになったように思います。
 
欧米では悟りのことをPNSEpersistent non-symbolic experience:継続的な非記号の体験)と言うそうですが、超音波を脳に照射することで機械的に悟りと同一の状態を生み出す試みもなされているそうです(興味のある方はPNSEWEB検索すると詳しい情報が分かるかもしれません)。
悟りの状態に入っている人は脳波に変化が生じていると聞いたことがありますが、その状態では強い幸福感を感じることが共通しているそうです。
仏教では悟りに至るまでのプロセスを重視するため、機械的に悟りの状態を作り出すのと、修行の結果悟りに達するのとはやはり違うのではないかと思いますが、適切な指導者の下で指導を受ければ、期間の長短はあるかもしれませんが、誰でも同じ経験ができるのではないかと思います。
おそらく、お釈迦様やイエス・キリストも同じ経験をされており、その状態をより深く、長く継続することが出来たため、他人からは後光が差しているように見えたのではないかと思います。
 
見性が認められても、十牛図(じゅうぎゅうず)にありますように牛(真の自己:悟りのこと)は直ぐに逃げて行ってしまうのであり、牛を手懐けるのは容易なことではないと思います。
初めて公案を受けた際に、途中で修行を止めると却って害になるという戒めを受けましたが、見性したことを鼻にかけて思い上がったまま止めてしまっては却って害になるということではないかと思います。
有名な禅問答で、仏とは何かと問われた禅僧が、「乾屎橛(かんしけつ:糞かきベラのこと)」と答えたという逸話がありますが、それも「悟りなど大したものではない。思い上がるなよ」という戒めではないかと思います。
道元禅師は座ること自体が悟りであると説かれているそうですが、日々変わりゆく環境の変化に合わせて悟りもアップデートしていかなければならないのであり、見性したからそれで良いのではなく、一生修行を続けることが必要という意味ではないかと思っています。
義務のような堅苦しいものではなく、楽しいから続ける。それで何か良いことがあれば儲けもの程度の気持ちで続けられれば良いのかなと思っております。
 
海外でマインドフルネスが戦争に利用されたり、かつての日本の武士は死の恐怖を克服するために坐禅をしたという話を聞いたことがありますが、仏教の戒律を守らずに見性だけしても危険な方向に向かってしまう可能性もあると思いました。
蚊の出てくる季節になりましたが、仏教には不殺生戒(ふせっしょうかい)がありますので、蚊を殺さずに寄せ付けない菊花線香を注文しました。肉や魚を食べておいて偽善かもしれませんが、不必要な殺生をしないという意味と勝手に解釈して、出来るだけ守っていきたいです。
 
風印 拝
 

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