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擇木ブログ - 長寿と禅(その5)

長寿と禅(その5)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/5/21 22:13

長寿と禅(その5)


  精神的安定が肉体的安定につながりそれが長寿につながるという観点において今までストレスを取り上げてきましたが、ガラッと変えて「満足感」について検証してみたいと思います。
 満足感すなわち「欲するものが満たされているという自覚」は直ちに幸福感につながります。幸福感とか自己肯定感は医学的には免疫力の増強になるようで岐阜の船戸崇史先生の説を読み解くと癌にならない生活習慣の中心に来ると考えられます。
 ただこの満足感はあくまで主観的なものですから、どんなに粗衣粗食でも揺るぎなき満足感を持って日送りをする人も居ますが、他人との比較で自分を尺度する人は普通以上に裕福な生活をしていても不満と愚痴の多い不幸せな人が居たりもします。最近はあまり言われなくなりましたが総中産階級という言い方があり、みんな大体一緒だからと自らを慰めるという消極的な自己肯定が昭和から平成の初期の世風でありました。
 禅語に「吾唯知足」という語があり人口によく膾炙されていますが、これは禅の究極と言ってもよいほどの深い悟境を意味するものです。吾唯知足の解釈としては先の粗衣粗食でも満足という解釈が一般的でしょうが、禅的解釈はもっと本源的なものすなわちお釈迦の悟りから来る禅的境地であります。
 お釈迦様の悟りは言葉で説明できるものではなく、まさに自らがお釈迦様と同じように座禅を組んで三昧に入り正脈の師家の下で冷暖自知して悟る以外に道はありません。(東京では東京荻窪支部の摂心会が西荻善福寺の清明庵で5月29日から6月2日まで開催され、東京支部の摂心会が日暮里の擇木道場で6月22日から29日まで開催されます。これがその絶好のチャンスです。)
 しかしそれだけでは素っ気なさ過ぎということになりますので、第二義に下って少し弁を付けて方向性だけでも申し上げます。
 吾唯知足の根本は、即今ただ今の自己の存在認識が基盤になります。すなわち高々100歳くらいしか生きられない儚い命の自分に永遠の命(絶対の自己)が宿っていることに三昧を通して気付く(を悟る)。これは即今ただいまの自己の100%の認証であり、満ち足りていることを知る(悟る)ことです。ここの知るは「知性として知る」を超えた感性としての納得(悟り)です。ここを基盤としているので、「粗衣粗食でも」という相対的形容がついている満足ではなく絶対的な満足になるのです。幸福感という表現も相対的な匂いが少し付いていますが、絶対的幸福感は仏教用語的には法喜禅悦と言うのでしょう。
 精神的安定もここにいたって盤石と言うべきであり、それでも癌に罹って死ぬこともありますが、精神的な問題での肉体的変調がないと言うことはもとより、免疫力を常に高く維持するなどの健康機能の十全を発揮させるということになり、その結果として長寿が必然的につながってくるということになるのではないでしょうか?
 では見性した(悟りを開いた)人は全てこうなっているのですかと畳みかけてこられると、公式的にはそうでありますが「吾唯知足」になりきれている人は少ないのが実態でしょう。しかし一日一炷香など座禅の継続によって三昧が少しずつ身についてくるにつれてこの「吾唯知足」の境涯にも近づいて行くことはできます。ここの詳しいプロセスについては、人間禅の季刊誌【禅】65号(7月号)の巻頭言を参照下さい(一昨日書き上げたところです)。合掌

 


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