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擇木ブログ - 荻窪通信「最近気づいたこと」

荻窪通信「最近気づいたこと」

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/4/11 16:42

私が坐禅をする理由には、受動的な状態を徹底するので、感受性が高まるためか、いろいろと気づくことが多くなることがあります。

その気づきは、公案などとは関係なく、何の脈絡もなしにやってきます。
大概、冷静になって考えてみると、誰しもが知っているようなことであり、なぜ、今まで気づかなかったのかというようなことです。
しかし、誰もが知っていることでも、「自分自身が気づいた」ということが、私には、とても大切なことのように思われるのです。
それは、子供の頃に河原で拾ったきれいな小石のようなものです。
捨てるように親から言われたのですが、そっと机の引き出しの中にしまった小石。
ほかの人に見せても仕方ないように思われるのですが、ほかの人も、恥ずかしくて言えないだけで、同じような小石を持っているように思われ、見せ合うことも面白いのではないかと考えました。
そこで、最近、拾った小石のことを書こうと思います。

最近、私は、自分の人生に不安や不満が一切ないのに、どこかしら満足感を欠いている理由が、周囲に対して、純粋に愛や慈しみを注いでいなかったからであることに気づきました。
私には、大学1年生の長女と中学3年生の次女がいます。
いわゆる難しい年頃で、反抗期の真っただ中にあります。
私自身、今の部署に異動する前は、仕事に追われて余裕がなく、家族に対して、ぞんざいな態度を取ってしまったことが繰り返しあったので、俗な意味での「自業自得」です。
彼女達は、私に対して、「何もやってなるものか」と頑張ります。
彼女達は、朝、私が挨拶をしても、返事を返してきません。
誕生日にプレゼントを渡しても、感謝の言葉もありません。
しばらく前まで、私は、このような状況につらさを感じながらも受け入れることができるだけでした。
このつらさがありながらも、私の人生の価値が何ら毀損していると思われないことに対し、坐禅により培われた受け入れる力を感じ、喜びを抱いていたにすぎない状態でした。
しかし、最近になって、彼女たちの態度について、つらいなどと捉えていたことが間違いで、本当にありがたいものであると気づきました。

私は、動物に餌をやることが好きで、子供が小さいころには、子供を出汁にして、近所の川に行き、鯉や河原にいる鳩に、子供と一緒になって、パンをやったりしていました。
鯉や鳩に餌をやっても、鯉や鳩が何かを返してくれるわけではありません。
近づいていけば、こちらが餌をやったというのに逃げていくばかりです。
鳩などは、餌をやったのに、糞をかけていくようなこともあります。

なぜ、私は、鳥や魚が何も返してこなくても平気なのに、子供が何も返してこないことには、つらさを感じてしまうのか。
なぜ、私は、鳥や魚をただ慈しむように、子供たちをただ愛することができないのか。
長女と次女に問題があるのではないのです。
彼女たちは、私にとっては出来すぎたとてもよい子供です。
問題は、私の考え方にあるのです。

このような考え方をしてしまう理由は、私が、子供達に、我とか、自我とか、意志とか、心とか言いたくなるものがあると思ってしまうからではないかと思っています。
だから、私が何かを施せば、子供たちが私をおもんぱかってくれて、何かよい対価を渡して来るのが当然だと思ってしまうのです。
私は、鳥や魚には、自分と同じような「我」があると思っていません。
ですから、対価をくれなくても、何も思いません。
糞をかけられるようなことがあって腹が立っても、一瞬です。
しかし、人間を相手にすると、何かを施せば、なぜか、何かを返してくれると期待してしまう。

禅の世界では、「無我」ということが重視されます。
私は、最近まで、どういうわけか、この「無我」を私自身についてだけ適用していました。
しかし、私が「無我」なら、ほかの人も「無我」のはずです。
私の以外の人も「無我」であり、当然のことながら、私の子供も「無我」なのです。
私が、「自分の」意志や、自我や、心などと言いたくなるものは、本来、実体のない現象にすぎないということはわかっていました。
しかし、どういうわけか、私は、実際の生活の上で、このことを私以外のほかの人に適用させてはいなかったのです。

禅では、「自利利他」という言葉も、よく出てきますが、私は、しばらく前まで、自利の行為と利他の行為とでは、自利の行為の方が容易であると思っていました。
しかし、最近になって、本来的には、自利の行為の方が難しく、利他の行為の方が容易であることに気づきました。
平凡な意味での自利の行為とは、手元にない、何らかの「利」を手に入れる行為であるといえるでしょう。
しかし、考えてみれば、このような行為によって満足を得られるかは不確かです。
なぜなら、「利」を目的として、ある行為をしたとしても、未来のことは、はっきりとわかるものではありませんから、「利」が得られる保証は何もないからです。
私は、「利」が得られるかどうか不安を抱き、結局、「利」が得られないときには、そのことを不満に思うばかりでなく、無駄な行為をした労力を払ったことに対しても不満を抱く、不安と不満の相乗効果に苦しめられます。
逆に、利他の行為による満足は、極めて確実です。
利他の行為をするとき、他者に施す「利」は既に私の手元にあるからです。
与える「利」は、財物でもよいし、知識でもよいし、労働力でもよいし、暖かい言葉でもよいのです。
与える「利」は、既に手元にあるのですから、それを手放してしまえば完了です。
利他の行為において、行為と目的は完全に一体化しているのです。
行為した瞬間、その目的を達成しているので、利他の行為に生きる人生に不満の生ずる余地は、本来ありません。

それにもかかわらず、私が利他の行為に困難を感じていた理由は、私が往々にして利他の行為を純粋に行うことが出来ず、自利の行為としても行ってきたからなのではないかと思います。
私は、人のために、何かをしようとすると、どうしても、相手の人が、たとえば、お礼の言葉を述べたり、感謝の言葉を言ってくれるなどの対価をくれるのではないかと期待してしまうのです。
しかし、私の行為に対し、相手の人がどのような反応をするのかは、何ら保証されてはいません。
相手の人が対価をくれるか否かは、行為の後の未来に係ることであり、未来に何があるかは不確かなことだからです。
利他の行為に自利の要素が入ってしまうと、結局は、利他の行為をすることによる満足を不確かな未来に委ねることになってしまい、結局、確実な満足を得ることはできないのです。

私が、このような期待をしてしまい、純粋な利他の行為ができなくなってしまう理由は、相手の人に「我」があると思ってしまうからではないかと思います。
そして、私が、期待した対価を相手の人が渡してくれないときには、期待がかなわなかったことに失望するだけではなく、本当は、ありもしない相手の人の「我」を作り出し、それに否定的なレッテルを貼るのです。
けれども、私の「我」が私の勝手に作り出した妄想であるのなら、ほかの人の「我」も私の勝手に作り出した妄想で、相手にするようなものではないのです。

少なくない禅の語録には、徳山の棒のように不条理とも思われることが綴れていますが、「我」がある人間が打つと思うからこそ、不条理だと思ってしまうのではないでしょうか。

私は、何も対価を求めることなく、動物をただ慈しむことができます。
動物だけではなく、植物だろうが、山や川などといった無機物であろうが、何も対価を求めることなく、ただ慈しむことができるのです。
しかし、なぜ、私は、人に対しては、何も対価を求めることなく、愛や慈しみを注ぐことに心理的な障害を感じるのか。

理由の一つは、人間という生物の持っている殺し、破壊し、利用するというもう一つの性質の存在に気付いているからだと思います。
私は、これまでの人生の中で、私欲に基づいて、幾多の生命を殺し、環境を破壊してきました。
このような性質があるのに、無償の愛や慈しみを注ぐなどということは、不遜に思われます。
また、私の中には、他者による搾取の危険を等閑視して、対価を求めず何かをやるということに対する警戒心もあります。
けれども、結局、このような考え方しかしないことが、私自身の人生を貧しいものにしてしまっているのです。
生きている以上、これからも死ぬまで、私は、殺し、破壊し、利用していくのだろうと思います。
「原罪」というものがあるとすれば、私から分かつことのできないこのような性質のことをいうのでしょう。
そんな私でも、無償で、人を愛し、慈しむことが本当にできるのだろうか。
不確かな将来ではなく、今、ここで、できるのだろうか。
私は、明日死ぬかも知れない、今日死ぬかもしれない、次の瞬間には死んでいるかもしれない。
私が、満足のいく人生を送るためには、今、この瞬間において、無償で、あらゆる存在をただ愛し、ただ慈しむ能力がなければならないのです。

私が気づいたことは、長女と次女が私にこのような能力のあることを端的に教えてくれているということでした。
彼女達は、私に反抗することを通して、私に対して、私が確かに無償で人を愛し、慈しむ能力を具えている、対価なしに、ただ赦し、ただ与えることができる能力のあることを教えてくれているのです。

とはいえ、何が本当にその相手の利となるかは、厳密にはわからないことが往々にしてあります。
慈愛を注ごうと計らい、却って、傷つけてしまうことは悲しいことです。
利他の行為は、何が相手の満足をもたらすかは、厳密にはわからないという点でも、相手に対して対価を期待してはならず、無償で、ただ行われなければならないのです。

私は、何が慈愛を注ぐことになるのかわからないときは、坐禅をします。
一切衆生悉有仏性です。
元々あらゆる存在は、何の手を加えずとも、ただ、そのままにあるだけでよいのです。
そうであれば、迷うときには、変に手を加えようとせず、見守るだけにしていればよいのです。
そうすれば、少なくとも、ほかの存在を傷つけず、自由にさせてやることくらいはできるのです。

私が坐禅をする理由には、坐禅が無償の利他の行為であることにもあるのです。

合掌 折原英風

  
 

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