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擇木ブログ - 桜色は何で染まる?(玉溪)

桜色は何で染まる?(玉溪)

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2017/4/11 1:00

花一分 枝にひそめる 残り九分

  

いきなり駄作で申し訳ないが、私は子どもの頃、桜の季節になると枝の中がどうなっているのかとひたすら考えていた。きっと小さな桜の花びらが枝の中に小さく小さく畳まれて収納されているのに違いない、枝を開けてみればピンク色でいっぱいなのだ、それが順番に外に押しされてきているのだ、いつかきっと「よいしょ、よいしょ」と押し出されてくる瞬間を見るぞ、と心ひそかに願ってきた。さなぎが蝶になるとき、羽を大きく広げて出てくるのと何か同じように感じられてならなかったのだ。

今でもどうしてもその感覚がどこかしら抜けない。一分咲いた桜を見ると、枝の中で窮屈そうに、しかしいよいよ外に出る期待でワクワクしながら順番を待っているたくさんの可愛い花びらが隠れているように感じて心楽しくなり、つい花よりもそこに目も心も吸い寄せられてしまう。

  

この非科学的な理科系能力ゼロの私の感性が、あながち、そう、あくまであながちだが間違っていないかも、と思える文章にあるとき出会った。

染色家の人間国宝志村ふくみ氏の話をご存知の方もいらっしゃるのではないだろうか。あるいはその話に感動してさらに「言葉の力」という文章を書かれた大岡信氏をご存知の方もいらっしゃるかもしれない。

あるとき大岡氏に志村さんがなんとも美しい桜色に染まった糸で織った着物を見せてくれたという。「そのピンクは淡いようでいて、しかも燃えるような強さを内に秘め、はなやかで、しかも深く落ち着いている色だった。その美しさは目と心を吸い込むように感じられた」そうで、氏はこの色が桜の花びらを煮詰めて染めたものだと思ったという。

ところが、それはあの黒くごつごつした桜の皮から取れるのだという。しかも一年中どの季節でもとれるわけではなく、桜の花が咲く直前のものだけだというのである。

  

大岡氏はその話を聞いて「体が一瞬ゆらぐような不思議な感じにおそわれた。春先、間もなく花となって咲き出でようとしている桜の木が、花びらだけでなく、木全体で懸命になって最上のピンクの色になろうとしている姿が、私の脳裡にゆらめいたからである。花びらのピンクは幹のピンクであり、樹皮のピンクであり、樹液のピンクであった。桜は全身で春のピンクに色づいていて、花びらはいわばそれらのピンクが、ほんの先端だけ姿を出したものにすぎなかった。」と書いている。

  

大岡氏はこのことを、「言葉の力」という文章に引用し、「言葉はそれを発している人間全体の世界をいやおうなしに背負ってしまうところにある。・・・このように見てくれば、言葉の一語一語は桜の花びら一枚一枚だといっていい。・・・全身でその花びらの色を生み出している大きな幹、それを、その一語一語の花びらが背後に背負っているのである。」と書いている。

  

もう少し敷衍してみると、私にはこれは『般若心経』の「色即是空 空即是色」のように感じられる。個々の命は川に浮かんだ小さなあぶくのように、縁が整った時に現れる。釈尊が説かれるように、人間は「名称と形態」、つまり形あるものを五官を通じて認識するだけで、その母体となっているものを見ることはない。桜で言うなら「ピンクの花」という形あるものだけを見る。しかしピンク色は循環する時間の流れの中で根枝に充満し、あるとき花として押し出されたほんの一部の現象でしかない。  

現象に捕らわれずに命全体を見る目で見れば、冬の間枯れたように見える幹や枝の中で、着々と力強いピンク色が実際に作られていて、気候と時間の縁が満ちたとき花となって押し出される、そんな全体を把握する直観と感性が、現実の桜の花の意味を見逃さないことになる。

世界が一本の桜の木であるとしたら、私たちはひとりひとりが一枚の花びらである。大きな共通するものから生れ出た現象なのである。日当たりやら様々な条件で同じような色や大きさとはかぎらない。しかしその母体の「いのち」とひとひらひとひらがつながっている。『般若心経』は、形ある現象である「色」しか見えないと、断絶した「個」の意識しか持てず孤独と不安で苦しむ。しかし、母体である「空」を知れば「やすらか」な境地を得る、と説く。

  

千利休は大禅者であったが、お茶の極意を訊ねられて「花をのみ待つらん人に山里の雪間の草の春を見せばや」の歌を挙げた。

花とは目に見える春の事である。しかし桜が咲いてやっと春だな、というような目ではお茶はわからない、と言うのである。春は雪の下で芽吹いた小さな緑に早や充満している。「兆し」の中に全部を感じる悟性を求めているのである。

茶道は「和敬清寂」を旨とするが、特に「寂」は悟りの境地の事であり、これ抜きには、というかこれを基盤にして初めて真の和敬清が成り立つ。悟りとは「色即是空 空即是色」つまり現象と空が同時に見えている目のことである。「空」を基盤に「色」を見よ。いや、それでは遅い。「空」と「色」は「即」の関係であることを把握せよ。ふたつの異なった姿が同時に紙の裏表のように起こっていることを見る目、そういう清らかな目でなればどうして花びら一枚一枚が敬い合い、和することができようか。どうして一座建立の茶席が成せよう。どうしてこの世がそのまま仏国土となることができよう。

ここに到って私たちはひとりひとりの絶対孤独を認識し、同時にすべてとつながっていて決して孤独ではないと知るのである。一は全体であり、全体は一でもあると納得するのである。これは『華厳経』の説く大乗仏教の精髄でもある。

  

大岡氏が言われるように、私たちが何かを話したり行為をするとき、実は全体を表わしてもいるのである。枝葉末節とはよく言ったもので、先端を調えるだけではまさに小手先である。身口意の三業が闇でなく光となるには、心を調え浄らかであることこそ肝要である、と釈尊は語られた。

私たちの身体の中にはまだまだ眠っているものがたくさんある。縁に随って表に出てくるものの色は心次第である。外に出るのを待っているたくさんの花びらをすこやかに成就させたいものである。 合掌

  

  

 

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