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擇木道場

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擇木ブログ - 最新エントリー

 擇木道場の風印です。

 1115日~17日に開催された、さいたま座禅会摂心会に参加しました。

 さいたま座禅会はさいたま市での座禅会で、毎週水曜の夜、「仲町公民館」や「しみん会館うらわ」で座禅をしています。

https://profile.ameba.jp/ameba/saitamazazenkai

 摂心会は宿泊する施設が必要なため、さいたま座禅会の摂心会は当道場で行われます。


 私は東京支部に所属しており、所属外の摂心会では基本参禅が出来ないため、ひたすら座禅と作務のみをする摂心となりました。

 参禅の無い摂心は初めてだったのですが、公案の工夫をせずにただ坐るのも良いものですね。




 摂心会中に「芭蕉と禅」という講演会が催されたのですが、私は所用で参加出来ませんでした。

 摂心円了後の懇親会で講演の内容を少しお聞きしたのですが、「古池や蛙飛びこむ水の音」などの芭蕉の句は、確かに禅の境地を詠んでいるようにも思えます。今まで芭蕉と禅の関係について考えたことがありませんでしたので、とても勉強になりました。

 懇親会で道友の皆さんとお酒を飲むのは何よりの楽しみです。

 今度はさいたま座禅会にも顔を出してみようかな。


合掌 風印 拝


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ごきげんよう!
青年部の玉道です。さて、今週23日(土)の朝8:45~ 第7回人間形成と禅の輪読会が開催されます。
今回の内容は、「Cほんとうの宗教の在り方」「Ⅰ客観的情勢からみた新しい宗教」「16教理の合理性」からになります。

Cほんとうの宗教の在り方」の本文から引用です。
 とにかく、私が、新しいほんとうの宗教を打ち立てると申したのは、こんな意味で、要は脱皮するにしても、新しく創設するにしても、文化人に納得がいく要素を持たなければ、これからは宗教の使命を達成することはできません。で、その新しい宗教たる条件を、私は、客観的情勢と主体的要素に分けて検討してみたいと思います。
I客観的情勢からみた新しい宗教

新しい宗教として、その客観的情勢に即して、どうしても備えなければならない条件として、私は、次の三つを指摘したいと思います。それは、視野の世界性と教理の合理性と制度の民主性であります。もし、この三つの条件に適わないならば、それは古い宗教として時代から置きさられてしまうと思います。


今回の輪読会は、この3つの条件「視野の世界性」「教理の合理性」「制度の民主性」の2つ目「教理の合理性」からスタートになります。教理の合理性では、宗教の独自性、一切の神秘を説かない教理、科学は常識、理外の理、神仏・霊魂・因果の解釈、理釈と事釈。制度の民主制では、宗教改革、特権階級的意識、超人的生活様式、封建的制度、法務と事務、俸給制度、葬式においての内容に触れていきます。
毎回思いますが、いま読んでもそのまま通じて伝わる、丁寧で説得力がある熱い内容になっています。みなさん一緒に勉強しましょう!お待ちしております!!

第7回『人間形成と禅』輪読会は今週です!


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数息観座禅における質的向上のためのノウハウ(その2

丸川春潭

 

 数日前(11月上旬)に、後期数息観座禅(数息観座禅が段々と深まった段階の座禅)における工夫(ノウハウ)の一つをブログ「座禅の工夫」にしてご紹介しました。

 それは、数息をしないで10呼吸を一区切りとする高度な数息観座禅(正息観座禅)だったのですが、どうもこのブログを読んだだけではよく判らなかったようです。

そこでもう少し説明を加えます。

これはまさに数息観の質的向上をはかるための小生が考案したノウハウなのです。『数息観のすすめ』の後期数息観は呼吸を数えない数息観になるのですが、これをいきなりやってもなかなか座禅三昧に深く入ることが難しいのです。難しい理由の一つが、数息する場合は1から10まで数息すると一区切りとして反省ができ、またそれが向上のためのモチベーションにもなるのですが、数息しない只管打坐になるとエンドレスで雑念を切る座禅になるためになかなか深く三昧を掘り下げることが難しいのです。

そこで人間は数を数えなくても、前・中・後のような三段階は認識できるので、三呼吸(済んだ呼吸・今の呼吸・次の呼吸)を三回と一呼吸で10息の区切りとする正息観(呼吸を数えない数息観)のやり方を編み出したのです。

これを始めて未だ一年くらいしか経っていないのですが、朝晩の座禅で実行した結果が想定以上に効果があるので皆さんにも紹介したのです。

以上は前回の補足であり、以下が今回の新しいノウハウの紹介です。


 息は数えないが10息の正息観を数本順調にやれたら、次のステップに進みます。これは数息しないけれども呼吸に意識をしっかり残した座禅になります。本来エンドレスのものでなかなか深まらない高度な座禅ですが、上述の正息観をしっかりした後であれば十分に出来ます。これも数分間順調にできれば次のステップに行きます。

 次のステップは、完全に呼吸から離れる忘息観・離息観です。

このステップへ移行するときにちょっとしたしかし重要なノウハウがあるのです。それはしばらく呼吸を止めたままの座禅をするのです。苦しくなるほどする必要はありません。これが入ると、今までの呼吸に意識をしっかり残した数息しない正息観から全く呼吸を意識しない忘息観に切り替えがキチッと出来るのです。この忘息観はまさに宝鏡三昧であり、座禅の醍醐味がここにあります。

 試みてみて下さい。(つづく)


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親父の認知症の度合いがここへきて急激に進み、とくに夜から朝にかけては手足の上げ下げの仕方、

歩き方すらわからなくなっている。譫妄状態の親父を夜中とか朝方に風呂場に連れて行って汚物を処理して体を洗ってやるのは

結構苦労で、今のところまだいつもいつも、というわけではないが、そういう状況が確実に増えつつある。


そんな状態の親父ですが、これがゴルフのクラブを持たせると俄然、往年の時代の立ち姿にもどる。

家の中でパターの練習セットをひろげると、クラブの構え方も振り方も全然昔のまんまで、実際に打ってみると、玉もそれなりに穴に入る。


そういうわけで、先週の土曜日に、ためしに近くのゴルフの打ちっ放し場に連れて行ってみた。僕にとっては生まれて初めてのゴルフ体験でしたが。


全く不思議です。


やっぱりスイング(っていうねでしょうか?)姿はやっぱり昔のまんまだし、きちんと玉はまっすぐ正面にとんでいく。

そこだけみていると、とても84歳の認知症老人には見えない。目もシャンとしている。

ド新到者の私にドライバーの打ち方をアドバイスしたりしている( 「もっと足を広げた方がいいよ」 以外は意味不明だったけど)。


嘘だと思うなら、今度の月曜座禅会の時に見せてあげます。ケータイ電話で動画を撮ったので!


やはり親父は親父なりにゴルフについては長年真剣に、集中力をもって取り組んでいたということなのでしょう。

そして、集中する、それも身体全体でもって集中する、という種類のことに長年にわたって取り組みつづけていく、というのは、

人間であり続けるためにも、とても重要なのだと感じました。


月曜座禅会の後でそんな話を聞いてもらおうと思っていたのに、どなたかからのご供養のバランタインの17で頭がいっぱいになって思い出すことなく終わってしまったため、

この場を借りてご報告です。 ぼくもまずいなぁ・・・



寺嶋 徳隆(月曜担当)

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座禅の工夫

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/11/12 9:48

座禅の工夫

丸川春潭

 本題に入る前に、現在広報担当部長を中心にして鋭意人間禅のHPの刷新をすすめています。従来のHPは各支部・禅会毎に立ち上げて、個別のHPとしてネット広報を他の僧堂や禅会と競っていたのですが、いろいろな観点(スマホ対応、人間禅としては弱小分散などなど)を考えて、HPの刷新を決意しました。

これからは基本的に、人間禅は一つのHPを全支部・禅会全会員でもって盛り上げ、ネット広報における競争力を上げようとするものです。今年度中には完成し、順次新HPへ結集することになります。そしてわれわれがなす努力はブログをしっかり書き続けることです。

 ブログ書きは、自分のために書き続けるものと心得て、新HPが出来るまででも、出来てからも書き続けて頂きたいと思います。自分の心境、感動したこと、同じ志を持つ人への問題提起等を書き続けると、一年経って振り返ると大変意義深いことが判ります。

 

 後期数息観座禅(数息観座禅が段々と深まった段階の座禅)における工夫(ノウハウ)について参考までにブログにします。

 耕雲庵英山老師の数息観のすすめに言われる後期数息観は、数息しない数息観座禅であり、座禅経験2030年でもなかなか踏み込みがたい深い三昧レベルです。具体的に小生がこれを、息を数えないが呼吸に意識を集中する正息観座禅と、数息に全く意識をしない忘息観(離息観)座禅の二つに分けられると解説してきています。

 本日の工夫は、後期数息観の前段の正息観座禅についてです。

 これは一般的には上座仏教とか曹洞禅の只管打坐と相通ずる座禅であり、なかなか人間形成として日進月歩させることが難しいものです。その根拠の一つが、今実践した正息観座禅がOKなのかNOなのか自覚しにくい点です。

 そこで小生は、数息はしないで10息を一区切りとする正息観座禅を現在実行しています。もう少し詳しく申しますと、数を数えなくても三息は意識の中で保持できます。これを三回続けると9息になり、締めの一呼吸で10息とします。判りやすく云えば3息を三回、息を数えずにつづけるのです。息を三回数えるのであればまことに簡単ですが、息を数えないとなると厳密な1から10までの数息観(70点)を連続5回出来るよりももっと上の三昧力がなければ出来ない高度な座禅になります。ただ客観的に云えば、正息観の前段階といっても良いかと思います。

 この10息正息観法は、10まで完璧に出来たかどうかが明確であり、数息観点数としてこれを5本通して81点とすることが出来ます。ここがミソです。

 小生の朝晩の数息観実践では70点の数息観を23本通したらすぐこの正息観で10までを数本通し、そして次にステップアップすることにしています。(今日はここまで、明日はまた別の工夫を)


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座禅会便り

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/11/9 22:15

11月9日 土曜夕方座禅会

初めての参加 2名

2回以上参加 1名

会員     2名


5分の休憩を挟んで、30分、25分の座禅。終了後に日本茶、草餅をいただいて、居士寮で座談会をした。

本部行事で道場を一週間閉鎖していたため、久しぶりに初参加の方を迎えた。初めて参加されたお二人とも座相は良かった。法界定印の形だけを直させていただいた。

初めての人にいつも言っていることですが、短時間でもよいので毎日継続して坐り、一週間に一度は道場で他の人と一緒に坐ることが大切ですと話した。

色々なことが頭に浮かんできて20までは数息観ができたが、それ以後はだめになった。集中するのに良い方法はありますか?との質問があった。

自分なりの集中のしかたを色々と工夫すると良いです。私の場合は鼻先に意識を集中して出息、入息を感じるように努めたこともあります。各自、工夫することが大切です、と応えた。居士寮では全く聞こえない日暮里駅の構内放送は、禅堂ではよく聞こえます。それらの音が気にならなくなれば数息観が深まってきたと言えるので、一つのバロメータになると思います。

第73回禅セミナー、フロンティアのチラシを渡して広報した。今回の禅フロンティアは最近、新聞を賑わした事件に関する話題で、私たちも認識しなければならないテーマだと思います。龍泉

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第127回本部摂心会に参加しました

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/11/7 15:58

擇木道場の風印です。

 1026日から112日に開催された第127回本部摂心会に参加しました。

 人間禅本部道場は千葉県市川市矢切駅の近くにある座禅道場です。

http://keiyo.ningenzen.jp/


http://keiyo.ningenzen.jp/uploads/ckeditor/images/20120523221158.gif


 摂心会は禅の修行の期間ですが、座禅だけでなく作務も行います。

 今回の作務では台風で枝の折れた木の伐採を行いました。枝が折れるとそこから水が入って木の中身が腐ってしまい、住居の方に倒れると危険なので伐採する必要があるのです。

 まず、木にロープを掛けてチェーンブロック(滑車・歯車に鎖を組み合わせ、鎖を手で引いて重量物を持ち上げる装置)で引っ張って住居の方に倒れないように固定します。固定したら電動ノコギリ(以下電ノコ)で木に切れ目を入れていきます。最後はチェーンブロックで引っ張って倒します。必ずしも狙ったところに倒れるとは限らないので、倒すときは人を遠ざけます。危険な作業なので慎重に行います。


第127回本部摂心会に参加しました


第127回本部摂心会に参加しました


第127回本部摂心会に参加しました


私は電ノコに触ったのも、木の切り方を知ったのも初めてでしたので、貴重な経験になりました。


 摂心会中は毎朝お茶会が催されます。

 お茶会には毎回違った花が生けられるのですが、お茶の先生にお聞きして、生け花ではなく茶花というそうです。


第127回本部摂心会に参加しました


第127回本部摂心会に参加しました


 上の写真の茶碗は人間禅の創設者である耕雲庵立田英山老師作です。写真では見えませんが、底に緑色の熊のような模様があります。偶然のなす模様は面白いですね。


第127回本部摂心会に参加しました


 上の写真の軸は「幽鳥弄眞如」です。鳥の鳴き声が真理を表しているというような意味ではないかと思います。自分の心の有りようを言っているのかもしれません。


 今回の摂心会では、歴代の老師の書画の展示がありました。


第127回本部摂心会に参加しました


 上の写真は人間禅の前身の両忘会を創設された両忘庵釈宗活老師作「持蓮観音菩薩坐像」です。


第127回本部摂心会に参加しました


 上の写真は耕雲庵立田英山老師作「清里山荘初秋景観之図」です。

 なかなか素晴らしいと思いました。


 道場の木々も少しずつ色づいて来ました。


第127回本部摂心会に参加しました


 121日には本部道場で紅葉狩りがありますので、休みが合えば参加したいです。

http://keiyo.ningenzen.jp/modules/bulletin/index.php?page=article&storyid=276


合掌 風印 拝


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心の中の僧坊としての孤独

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/11/7 14:39

心の中の僧坊としての孤独



現代現象学を唱えたフッサールは、考えることや判断を中止し、世界への関りを中止することが、むしろ、世界を、そのありのままの真相において捉え直すための必須の方法的態度であるとした。

 こうした方法的態度によって事象を見つめることにより、様々な物事の本質直観や本質洞察が現れてくる。こうした真相を見抜くためには、思い込みや偏見、自己忘却的な散乱や錯乱を遮断して、人間と世界を反省し直す自己集中への決意が求められるのである。

 世の中の動きに引きずり回される自己喪失状態をやめて、ほんとうの自分らしさを回復する瞬間と場所を用意し、改めて、自己を見直し、他者との関りを考え直し、世界と存在のすべてに思いを馳せようとする時間が大切である。

 憂き世のただなかにおいて、心のなかの僧坊としての孤独を、私達は自らの根底に深く宿して、絶えずそこへと立ち帰って、自己と人生を見つめる時間をもたねばならない。

 キルケゴールは、大衆社会の台頭を予感して、多くの人々が、張りつめた内面的情熱を失い、小利口な装いのもとで、皮相な外面的広がりの中に気を散らして生きるようになり、誰一人として、真剣に決断することなく、不特定多数のなかに紛れ込んで、無責任に暮らすようになった現代という時代を批判した。

 一方、西田幾多郎は「わが心 深き底あり 喜びも憂いの波も とどかじと思う」と言った。憂き世のあらゆる出来事も、心の深い奥底に、みんな呑み込まれて沈殿してゆく。そこは、真・善・美で満たされている。その心の底知れぬ深淵こそ、生命エネルギーの湧きだす処ではないか。

 自己を意識することは、そこに「見る自己」と、「見られる自己」との、分裂・対立が潜んでいる。俗世の中で喜怒哀楽に揺れる「見られる自己」を否定することはできない。ただ、「見る自己」まで喜怒哀楽の波に飲み込まれることが人間の苦悩となる。心の奥底から、それらを「見る自己」は、それらの感情に引きずられてはならないだろう。淡々と鏡に映るように「見られる自己」の動揺を観察し、強い意志の力で「見られる自己」を統御しなければならない。

 では、我々の心の底に、そのような真・善・美を基本とする「見る自己」が存在するのか。この問題は哲学の領域を超え、信心の問題であろう。

 しかし、深く、孤独の中で、また、孤独に耐えるうちに、生命の普遍性を直観することができるのかもしれない。死すべき人間としては、死への恐怖に晒されながら生きる中で、できるだけ早く、この生命の普遍性を体得できれば、それは素晴らしいことではないか。


日峰


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客観的な世界なんてあるのかな?

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/10/31 13:52

客観的な世界なんてあるのかな?


風に揺れる旗を見て議論していた

旗が動いているのだ、

いや、風が動いているのだ、と。

そこに

どちらでもない

自分の心が動いているのだ、と。

その人が達磨大師の流れを継ぐ

六祖慧能だといわれている

我々は、自分が居なくても

客観的に旗が風に揺れていると思いがちだ

だが待てよ、旗には揺れているという認識はないだろう


人が揺れている旗を認識して初めて意味が出る

しかも

自分が見ようとして旗が動くのを見たのではないだろう

眼に動く旗が映じ、

それを風に揺れる旗だと認識して

初めて気づくのだ

認識している自分に


動く旗を認識したのは自分の意識ではない

自分の眼に動く旗を映じさせ

風に揺れているのだろうと思わせているのは

この自分の心や身体ではない


この不思議な力に気付くことが出発点


空気を動かし風にしているエネルギー

旗を形作り揺れているエネルギー

我々の心と身体を動かしているエネルギー


全て同じエネルギーだろう


このエネルギーが単なる塊に過ぎなかった地球に

緑を生まれさせ

生物を生まれさせ

その過程で人間が生じ

どんどん進化させている


風を起こし

旗を動かし

動く旗を認識する


全て、このエネルギーの為せる業だ

このエネルギーが宇宙を進化させているのならば

このエネルギーに任せよう


自分の外に大きな客観的な世界が存在し

後から小さな自分が生まれ

あっという間に死んでいく

そういう考えは錯覚だ


自分が認識して初めて世界は意味を持つ

ただ、自分が自発的に認識したのではない

我々の眼や心を使って認識したのも

このエネルギーなのである


この大いなるエネルギーの立場から

自分の心や身体眺めてみる

このエネルギーの流れを邪魔しないように

心や身体を使っていく


ここに創造的な人生が生まれるのだろう


日峰


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「正常化バイアス」考

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/10/30 22:33

「正常化バイアス」考

丸川春潭

正常化バイアス(Normalcy bias)と云う言葉を最近よく聞きます。

Wikipediaで調べますと、社会心理学、災害心理学などで使用されている心理学用語で、自分にとって都合の悪い情報を無視したり、過小評価したりしてしまう人の特性のこと。

人間の心は、予期せぬ出来事に対して、ある程度「鈍感」にできている。

日々の生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応して疲弊しないために必要なはたらきで、ある程度の限界までは、正常の範囲として処理する心のメカニズムが備わっていると考えられる。

台風15号、台風19号、その直後の秋の大雨で多くの方がお亡くなりになってしまいました。先ずは被災された方々にお悔やみ申し上げます。

これらの災害の中で、表題の「正常化バイアス」がしばしば使われていました。それは今までも大雨が何回もあり、警報にも何回も接してきたが特に大きな災害にならなかったので、今回も大丈夫だろうと考え、避難が遅れて大事故に遭遇してしまうということのようです。

ここでの正常化バイアスは悪い方に行ってしまった事例ですが、正常化バイアスというものは本来人間に備わっている本能であり、それ自体は悪いものでも良いものでもないものです。

こういう本能が人間に本来あると云うことを最近になってはじめて知り、そして興味を感じたので少し考えてみたいと思います。

 

「正常化バイアス」は一言で云えば、上記の定義にもありましたが、鈍感力と云っても良いのではないかと思います。

災害の時には、これが裏目に出て悪く作用するのですが、「生活の中で生じる予期せぬ変化や新しい事象に、心が過剰に反応」しないということは、特に精神的ストレスの過剰な現代においては、現代人が正常に生き延びるための必要な本能のはたらきにもなるのです。

更に小生が興味を感じたのは、人間形成や禅の悟りが、この「正常化バイアス」すなわち鈍感力と関連があるように思われるからです。

人間形成とは三昧を身に付けることでありますが、三昧が身に付けばここで云うところの鈍感力が強くなると思います。

本能として備わっている正常化バイアスが、修練によって強化されると鈍感力が段々と強くなってくるのです。そうなるとちょっとやそっとの予期せぬことが身に降りかかっても全く動揺することが無く、それを平然と受け止められるようになってくる。

なぜならば三昧が身に付いてくると云うことは、自分の中に仏がいつもしっかり生きていると云うことになるから、深い自信が揺るがないということで、外からの外乱で動揺することがなくなるのです。

こうなると鈍感力という表現ではなく不動心あるいは不動力というべきでしょう。しかも三昧が付いた不動力は、いざというときの瞬発力も同時に強化されます。

すなわち三昧が付くと云うことは、常に生き生きとした禅機(瞬発力)が横溢することになります。

本能的な正常化バイアスを基盤にして、後天的な修練により、この正常化バイアスは、不動力と瞬発力の両方を兼ね備えた人間力に発展すると考えられます。

すなわち何もないところに人間形成されるということではなく、基盤がもともとあった上に修練で人間形成が構築されるのです。

如何でしょうか? 


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