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擇木道場

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擇木ブログ - 最新エントリー

金曜朝座禅会

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/7/19 11:03
719
金曜朝座禅会
初めての方           1
2回目以上           0
会員                     4
 

早朝座禅会にアイルランドから来日し、3ケ月滞在する予定の男性が初めて来られた。看板と英文のチラシを見て参加された。
通常どおりの受付をして15分で座禅のやり方を説明。6:15から6:55まで座った。胡坐を組む経験はなく、当然、半跏趺坐はできないので崩した胡坐で両膝が座布団に付くように坐具高さを調整して座ってもらった。だいたい良い姿勢でしたが、途中で疲れたようでした。母国ではヨガ道場に数回通って15分程度は坐ったことはあるが、40分という長い時間は初めてとのことでした。新到者への配慮が不足していました。

早朝座禅会では、時々、5分の休憩を挟んで25分ずつの座禅をやることがありますが、新到者がいるときはそのようにしたほうが良いですね。「また、参加する」との言葉を交わして別れました。東京支部員は英語を使えるようにしましょう。龍泉
 

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人は何を遺すか

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/18 21:55

人は何を遺すか

丸川春潭

 住友金属時代の大先輩であり恩人である栗田満信氏が4月にご逝去された。享年94歳でした。氏は多くの部下に慕われ、氏を中心に年に2回の懇親会を永年にわたり東京と関西で一回ずつ開催されてきました。これほど多くの部下をこのお年まで慕い続けさせ、死して尚その薫陶を及ぼし続ける人徳は、小生寡聞にして他に知りません。私も薫陶を受けた多くの部下の一人でしかないのですが、自分も多くの知友と一緒に自分が死ぬまでその薫陶を抱き続けるでしょう。

 この大先輩の遺されたものをつらつら考えて、人は死んで何を遺すのかを考えました。

 ニュートンは万有引力を遺し、アインシュタインは相対性原理を遺し、ピカソは前衛絵画を遺し、トルストイや夏目漱石は文学を遺し、利休は佗茶を遺し・・・と見てくると、その人のなしたものが後世に大きな影響を及ぼしたからそれを遺した人の名前が残ったと考えられます。

更に考えを進めて、名前はどうでもいいとして、人は生を受けてこの世に生きて後に何を遺せるのか?の考えに到ります。子供を産んで育てて孫が生まれてと云う子孫を残すという遺し方もあります。先の栗田先輩は多くの後輩に薫陶を遺されました。芸術家はその作品を遺す。その遺した物の大きさとか価値は時代背景もジャンルも違いますので容易に比較したり尺度したりすることはできません。しかしその影響がいつまで残るかはある程度尺度できます。

芸術家の作品はそれが時代を超えて感銘を残すものであれば人類が生存するかぎり残ると云えます。先生からとか親から受けた教えや愛情や薫陶のような対人関係で遺されたものは、それを与えた人と受けた人の関係性でできたものですので遺されたものを受けた人が死ねばそれはほとんど消えます。しかしそれが受けた人の人格形成にまで大きく関わるものであれば、受けた人の働きや遺した物に与えた人の影響は必ず及ぶと考えられます。

しからば振り返って、「人間形成の禅」でもっての人づくりの場合はどうかを考えてみたい。人づくりは人物づくりであり人間力が付きます。これによりその人の持って生まれた資質と個性が最大限に発揮されることになります。そのジャンルは政治・経済・科学・芸術全てのジャンルに多面的に及びそれぞれの職業や居場所で光を放つことになります。更に人を育てて残すと云うことは多面的な影響と云うより次々に人づくりが伝承するということになり、未来への繋がりと発展の可能性が広がります。すなわち人づくりによって人物を遺すと云うことは、芸術家の遺す作品とか科学者の発明と同じように人類がつづく限り残るものです。

人間形成の禅を進める人間禅はまさに人づくりをするために創られた集まり(僧伽)であり、人を育て人物を遺して来た伝統を受け継ぐものであります。この人づくりの伝承は少人数の師家だけでできるものではなく同じ志を持って集う僧伽全体でなされるものです。私はその多くの道友の中の一人としてそれに関与していることに思いをいたすとき、はじめて大きな生きがいを感ずるのであります。すなわち一人ではできない人づくりの伝承の一端を担ぎ、みんなで人づくりの輪を広げ、また未来へ向かってこの伝統を遺すのです。(つづく)

 

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”カウンセラーやあなた自身に、聖者の代わりが務まるとは思われないでしょう。
 われわれは聞き手として、じっくり相手の話を聞き、話し手が自分自身で自分の人生の知恵を見いだすことを促進する以外に有効な方法がないのです。”
(東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』85頁)
 
 東京荻窪支部の英風です。
 (その1)の続きです。
 前置き長くなって、やっと本の内容の紹介です(^_^;)
 

傾聴に興味を持ったのは、ボランティア活動をやろうと思い、地元のボランティア団体をネットで検索したところ、老人ホームで高齢者の話を聞いたり、私が実際に活動している自死した方のご遺族などから話を聞く活動をしている団体のあることを知り、「聞くだけなら短法身の自分でもできるかもしれない。」と安易に考えたことが一つです。
 

もう一つは、傾聴の技術的基礎には、心理的なカウンセリングの技術のうち、「来談者中心療法」があるのですが、同じ頃、興味本位で、臨床心理学の本を読んだときに、この方法を知り、その手法が、仏教的、あるいは、禅的な感じがしたので、関心を持っていたからでした。
 初期段階(?)で読んでいた本には、来談者中心療法について、カウンセラーが診断・指示をせず、自由に表現できる雰囲気をつくって、来談者の話を聞くことを通して、来談者が、「安心して自分自身を見つめ、今まで気づかなかった内面に気づき、解決策を見つける」(松原達哉『図解雑学心理カウンセリング』89頁)との話が出ていました。
 「自分自身を見つめ、今まで気づかなかった内面に気づき」というのが仏教や禅っぽく感じました。
 
 また、来談者中心療法のポイントとして
「① 自分をごまかすことなく来談者に接する
 ② 来談者を条件なく受けいれる
 ③ 来談者の私的な世界をあたかも自分自身のもののように感じとる」
ということも出ていました(前掲書同頁)。
「ごまかすことなく」、「条件なく受けいれる」、「自分自身のもののように感じとる」というのも、それっぽいもののように感じました。
 
 何よりも、この手法の理論的基礎には、「来談者が自ら解決する能力をもっている」という事実があるのですが、これが「衆生本来佛なり」という感じがして、強い興味を抱いていたのです。
 それで、「傾聴」なら、これまでの仏教や禅の知識を生かしつつ、人の役に立つことが出来、実際的な知識の応用もできるのではないかと考えました。
 
 とはいえ、傾聴をすると言っても、やり方がわからないことから、試しにいくつか「それっぽい本」を読んだところ、出会った本が、「来談者中心療法」を扱った東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』でした。
 読んでみると、やはり、抽象的だった禅で捉えたものを、実践的に活かす具体的な方法のように感じ、大変参考になりました。
 先にも述べたとおり、来談者中心療法は、メンタル的な問題を抱えた来談者自身に自己の問題を解決する能力が備わっていることを前提にして、来談者に対し、積極的な指示や助言をするのではなく、来談者の話を聞くことを通して、来談者自身に、自分の問題を解決する洞察を得させようとするものです。
 たとえば、仕事上の疑問が生じたときに、上司、先輩、同僚に相談をしているうちに、相談相手から、具体的な回答があるわけではないのに、どういうわけか心の整理がついて肚が決まるという経験は、誰しもあるのではないでしょうか。
 
 来談者中心療法の基本的な発想には、「抑圧された感情を意識化させること(無意識の意識化)によって生活の改善を目指す」(杉原和明監修『はじめて学ぶ人の臨床心理学』26頁)という自分の抱えている問題を明確化することにより、その問題が心理面で解消されるという精神分析の実践の基礎づけがあるようです。
 このことを、この本では
“フロイトは、抑圧していたもの(略)古代遺跡と同じで、発掘されたときから風化する、と述べています。秘密は話したときから風化します。抑圧されている秘密も風化させることが大切なのですが、急に風化させますと破壊されます。”(204頁)
と表現しています。
 
 本書には、このように自分自身に問題解決をする能力があることを前提とする記述が繰り返し出てくることに勇気づけられます。
  抽象的な思想ではなくて、臨床学的な裏付けがあるのが安心ですね。
 この辺りが、「相対」である科学のありがたいところです。
 
“自分の考えは自分にしか適用できないことが多いものです。実際は話し手が考えているほどの効果はないのです。なぜなら、経験・学習というのは、実地体験しないとわからないことのほうが大きく、自分の体験は、そのときのタイミングや状況に合って、うまくいったことなのです。同じような機会はまずありません。もし、あなたの体験が一般的な知恵を含んでいるのなら、その箇所だけは役に立ちますが、多くの聞き手にとってそうしたことは他からも聞いていたりするものです。”(5455頁)
 
“カウンセラーは相手の話を聞くことによって、話し手自らが洞察を得るようにしているのです。言い換えるなら、カウンセラーは相手の話を聞くことによって、話し手自らが洞察を得ようにしているのです。言い換えるなら、カウンセラーは相手の心を映す鏡になるように訓練されます。けっして相手の心に侵襲し、自分の個人的影響を与えてはいけないと教えられているのです。”(5859頁) 
 
“カウンセリングを受けた経験がある人は、カウンセリングが何かをしてもらう作業ではないことを知っています。神さま、仏さまならいざ知らず、人間がしてあげられることなどは、冒頭に述べたようにかぎられているのです。大切なことは自分のことが自分でできる能力をつけることです。悩みや心理的葛藤に関しても同じで、自分で解決できる能力をつけることです。”(62頁)
 
“助言として自分の体験を相手に話す人がありますが、このような話が意味をもつことはあまりありません。
 われわれは聞き手として、じっくり相手の話を危機、人格と乖離した助言を避け、話し手が自分自身で自分の人生の知恵を見いだすことを促進する以外に有効な方法がないのです。
 聞き手は話し手より偉くはないことを自覚しているべきです。それでもついつい人の悩みを聞くと、自分がその人より偉いと感じ、助言をしてしまうことが多いものです。話し手との平等性を確保している聞き手は、尊敬していい人です。“(8485頁)
 
かなり長い引用になりましたが、「話し手自らが洞察を得る」、「悩みや心理的葛藤に関しても同じで、自分で解決できる能力をつける」、「話し手が自分自身で自分の人生の知恵を見いだす」など一貫して、クライアント自身が、自分の抱えている人生の問題を解決する能力があることを前提とする考え方が、やはり、「衆生本来佛なり」という感覚と近くて気持ちよく感じました。
 また、禅に興味を持つ人には、「実地体験しないとわからない」とか、「カウンセラーは相手の心を映す鏡になるように」とか、「話し手との平等性を確保」とかいった記述も味わい深いのではないでしょうか。
 
  ほかにも、
 
“人生においては、正答のある質問や疑問などはほとんどないといっていいのではないでしょうか。(略)
 では、納得する答えとはなんでしょう。それは一人ずつ異なります。人生の疑問に対する答えは主観的なもので、納得した答えがその人なりの正答です。一般的な答えは、第三者の人びとを納得させはしますが、それは自分にとってなんの答えにもなっていないのがほとんどです。
(略)その人の人間性を高めないと答えが出ないような質問に対しては、「むずかしいですね」としか答えません。むずかいしから、むずかしいと答えているのです。つまり、正解は「むずかしい」なのです。
 でも、「むずかしい」を正答としては、納得しない人も多いでしょう。それらの人びとは、むずかしさを避けたいのです。考えるしんどさ誰かに肩代わりしてもらいたいのです。本当は誰も肩代わりできないのですが。“(7579頁)
 
“正しいことばかりを言う人はどこか信用できない(略)。なぜなら正しいことを言いつづけようとすると、自分は何もできないからです。自ら何かをしますと(略)、正しいことをしても失敗するのです。失敗するとそれは間違っていたと非難されるからです。何もしないことが失敗を避ける最良の手段です。だから、評論家の域を脱せないのです。”(137138頁)
 
といった記述も琴線に触れる人が多いのではないかと思います。
 
  とはいえ、本に書いてあっても、本当に妥当するかは別ですから、臨床心理にかかわる仕事をしているF居士に聞いてみたところ、F居士も持っていて参考にしているとのこと。 
 ちなみに、M居士もお持ちだということで、禅や、仏教で学んだことを実社会生活に本当に活かしたいという人には本当に参考になりそうです。
 
 さて、以上は本の話で、肝腎の傾聴ボランティアの実際ですが、私が初めて参加したのは、数名で、相互に「悲しい経験」を自己開示する活動でした。
 
 センシティブなプライバシーにかかわる話なので、具体的な話をかけませんが、痛感したのは、私自身が本当に平穏な人生を歩んできたのだなということでした。
 「人生、こういう別れもあり得るのか」と大変勉強になった反面、私自身には、そのような経験はなく、一緒に活動をしていってよいのか、少し悩みました。
 しかし、翌日、団体の代表の方から、次のイベントへの参加の誘いのメールをいただくことができました。
 多少は、役立てさせていただくことができそうなので、ありがたいことです。(終)
 
合掌 英風 拝
 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
 私の所属する東京荻窪支部は次の座禅会を定期的に実施しています。
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」
JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。
ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵
善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
(連絡先)中川香水
 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com

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“人間は自分中心でものごとを考えています。

そのくせに、あるいはその罪滅ぼしのゆえに、他人に何かをしたくなります。

しかし、相手がしてほしいと思っている肝心のことはなかなかできないのです。“

(東山絋久『プロカウンセラーの聞く技術』65頁)
 
 東京荻窪支部の英風です。
 
  傾聴のボランティアを始めようと考え、自死した方のご遺族などからお話を聞くボランティア団体の活動に参加するようになりました。
  禅の修行の究極的な目的は、衆生済度、今風に言えば、「愛すること」です(注1)が、どうもやり足りない。
  しかも、そのための十分な時間もないのではないかという気がして、仕事以外でも何をかやらなければならないと思ったからです。
 
  一月ほど前、勤務先で受けた健康診断の便潜血反応検査の結果が「FF」という最悪のもので、「再検査」を受けました。
 ネットで調べると、統計的には、便潜血反応が出た人の50人に1~2人が大腸がんなのだそうです。
  再検査の結果は、担当医曰く「盲腸から直腸まで、とても綺麗で健康そのもの。ただ、処置の必要はないけど『ぢ』がある」とのことでした(/ω)

とはいえ、検査をする前には、「ついに、我が道力を試すときが来たか!」と心湧き立つものがあり、身の回りのことを少し整理しました。
 50人に1~2人でも、四十代半ばの私がその立場になってみると、50人に48~49人のような感じがしたからです。
  また、同じころ、以前の勤務先でお世話になった方が、散歩途中に突然生じた脳梗塞により48歳で亡くなりました。
  こんなことがあったので、以前より「いつ死んでもおかしくない」という気持ちが強くなりました。
 
 生きるとは、愛することです。
 
 私にとって、座禅を含めた禅の修行は「愛するための訓練」です。
 座禅は、周囲のものに手を出さずありのままでいさせてやるという意味で愛する行為ではありますが、やはり、本質的には「修行」にすぎない。
  私は、とても好きなのですが、厳しい見方をすれば、所詮は「訓練」にすぎず、「実戦」ではない。
  「訓練」のない「実戦」は、不安定だが、成立し得る。
  しかし、「実戦」のない「訓練」は、無価値だ。
 
  生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人
 
 人生は、いつ終わるかわからない。
  「訓練」に力を入れすぎて、「実戦」不足のまま人生を終えるのはつまらない。
 
 「境涯」は魅力的だ。
 よい心持の方がよいように思うし、何らかの「境涯」があった方が愛しやすくなりそうな気がする。
 そこに、私が禅の修行を続ける価値がある。
 
 とはいえ、「境涯」は、心の問題にすぎない。
  仏教によれば、心は、単なる現象であり、実体はない。
  現代的にいえば、心と称する現象は、脳の神経系の電位変化により生じる電気信号にすぎないのだから、確かに実体はないのだろう。
  そうであれば、こだわる必要はなく、愛することができれば、何らかの「境涯」に至ることによる人生の満足は後回しでもよいと思う。
 
 境涯の至らない者には、何が本当に愛することになるのかは、きっと、わからないのだろう。
  だから、愛することは、究極的には、独りよがりだ。
  独りよがりだから、対価を求めてはならない。
  独りよがりだから、本当に望まれることは何なのか悩み、迷い、苦しむべきだ。
  さしあたりの所で決意してやる以上、やった後も、それが本当によかったのかを反省し、悩み、迷い、苦しむべきだ。
 
 愛することは、悩み、迷い、苦しむことだ。
 したがって、人生とは、悩み、迷い、苦しむことだ。
 というより、死ぬまで、悩み、迷い、苦しむべきなのだ。
  仏教で、一切皆苦といい、その第一に、生きることの「苦」を挙げたのは納得が行く
 この「苦」を解消しようとするのは誤りだ。
  「苦」を引き受けることの中にこそ、私の真の人生があるのだと思う。
 
 釈宗演老師が
“迷いが怖ろしいから、悟りの中へ逃げ込むというのではありませぬ。迷いの中へ飛び込んで、大自在を得る。”(『無門関講話』39頁)
とおっしゃり、釈宗活老師が
“大に有事にして過ごす處の人間、今日の生存競争場裡の働きが其儘無事底の境界で、何程どんちゃん働いて居ても無事じゃ。朝から晩まで、あくせくと働いて其上が、しかもそのまま無事じゃ。世間から離れる意味ではない。”(『臨済録講話』221222頁)
とおっしゃる趣旨はそこにあるのだと思う。
 
 そんな考えで、自分なりに始めてみることにしました。
 
合掌 英風 拝
 
(注1)「衆生済度」がこのように広く解されるべきことについては、釈宗活老師が
「禅の目的は畢竟如何と云えば、上求菩提下化衆生に外ならぬのぢゃ。(略)斯う云うと、否な吾々は在俗であるものを、下化衆生抔(など)と云う者があるかも知れぬが、夫れは飛んだ心得違いぢゃ、下化衆生と云うても、経を読んだり、法話を為したりする許(ばか)りが、衆生済度でない、大乗仏教を修したら、修し得た丈けの得力を、直ちに仁義道中の上に用いて、士は士として、農は農として、工は工として、商は商として働かすので、婦の夫に仕うる、子の親に孝たる等、是れ皆大乗門中の説法と云うものぢゃ。」
とおっしゃっています(『悟道の妙味』5~7頁)。
 
【東京荻窪支部主催・坐禅会のご案内】
 私の所属する東京荻窪支部では次の座禅会を定期的に設けています。
<荻窪剣道場坐禅会>
・日時 毎週木曜日 午後7時30分~
・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 

JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。
<善福寺清明庵坐禅会>
・日時 毎週土曜日 午前9時00分~
・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵

善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅が目印です。
 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)
*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。
*参加費 初回1000円(坐禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)
(連絡先)中川香水
 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com

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チェンジ ユー(その3)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/11 22:12

チェンジ ユー(その3

丸川春潭

  自分を変えたいがだんだんと深まって本当の自分探しまで行き着き、本当の自分を掴むことで根本的に自分を変えるという観点を前のブログで書きましたが、「禅は君を変える!」というキャッチコピーからもう一度、何を変えるのかと考えたときのそのanswerの一つを追加しておきたいと思います。

 小生のいつもの相対樹と絶対樹の図を先ず掲げてそれで説明します。

一般的に変わりたいという場合はその99%がこの図の左側の相対樹での思考になっているのですが、禅を修する(座禅において数息観三昧になる、あるいは公案修行において公案三昧になる)ことで、感性の場にはじめて入り込むことができます。すなわち禅をやることによって、相対思考(知性)に加えて絶対思考(感性)も併せて持つことができるようになる。これは大きなチェンジです。

チェンジするユーが多く集まって社会現象になれば、世の中がチェンジすると確信します。みんなで把手供行して、相対樹から絶対樹に渡り、正しく楽しく仲の良い社会にチェンジしましょう!!合掌
 


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チェンジ ユー(その2)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/10 12:16

チェンジ ユー(その2

丸川春潭

 自分の顔や容姿のような外見的な皮相のことではなく、自分に自信が持てない自分をなんとかしたいとか対人関係における拙劣さを変えたい、落ち着かない性癖を何とかしたい等の自己の内面的な観点から自分を変えたいと本気で思うことは、人間形成の第一歩になる大切なことです。この思いの背景をよくよく考えてみると将来何かになりたいという思いが出てくるその前に自分を反省した結果であることに注目します。深く反省しているからこそ、これではだめだと奮起し向上心をかき立てるのです。

小生が20歳前後の学生の頃、耕雲庵英山老師の侍者をしていたときに、老師がわしは夜中に2回 目が醒めるのだが、その都度 前日の自分を反省しているんだと諭されました。すなわち反省が成長の前提にあり反省なくして成長はないという教えだったのです。その時老大師は70数歳でした。こういうことは年齢には関係ありません。若くても反省心がなければ成長しないし、年取っても反省して奮起すれば、何歳になっても自分を変えられると云うことです。
 次は、深く自己を反省した上で、今のままではだめだから自分を変えたいと奮起した人がそれを実践的にどう取り組むかということが問題になります。そしてこれにはいろいろな方法手段があり、沢山のハウツウ書籍が出版されています。ここまで追求して来る人も少なくなっていますが、ここから更に正しい解決策に巡り会える確率は極めて低いのが古今を通じた現在の日本の実態です。
 変わりたい自分をもう一度振り返り見つめ直して、変えられる部分と変えようがない自分に先ず分けて考える。そして変えようがない自分を更に詳細に見える部分と見えない部分に分けて追求してゆく。この見えない部分の追求が深まれば自然と「自分は何なのか」という本質的根源的課題に突き当たることになります。これはもうscienceでも知性でも解決できず、spiritすなわち感性の場でそれを探求するしかありません。この本源的な追求になるとひょっとしたら自家の珍宝を発見することができるかもしれません。こうなると自分がチェンジしたいと思っていたどんなことでもチェンジできているでしょう!!なぜなら本当の自分が掴めているのですから。こうなるとその人は全き自由を手にすることができ、はじめて個性が真に発揮できる状態になります。(つづく)

(補遺1)見えない部分の追求の方法が座禅での黙想(数息観法で良い)です。この詳細は、先のブログ「道力(胆力)を付けるには」シリーズ(その1)~(その4)をご参照下さい。
(補遺2)見えない部分の正しい追求の具体的仕方については、同じくブログ「道眼(胆識)を付けるには」シリーズ(その1)~(その5)をご参照下さい。
 


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風印です。

622日~29日まで当道場で開催された摂心会(せっしんえ)に参加しました。

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摂心会というのは禅の修行の期間で、通常1週間行います。摂心会中は道場に詰め切りで修行をするのが原則ですが、仕事などで止むを得ず外出する時は直日(じきじつ:禅堂の責任者)の許可を得る必要があります。参加者同士の会話は出来るだけ控えて、座禅や作務(さむ:主に掃除ですが、座禅の三昧を動作の中に活かすための修行)を行い、禅の指導者である師家に参禅(公案を用いて禅問答によって境地を開く臨済禅の修行)することも出来ます。

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作務では箒や雑巾を用いて掃除をしたり、草むしりをしたりします。陽射しが強く、気温が高かったので大変でしたが、普段スマホを見たりして過ごすことが多いので、いつもより健康的に過ごせた気がします。食事の前後には「食前(じきぜん)の文(もん)」「食畢(じきひつ)の偈(げ)」を一同で唱和し、静かによく噛んで食物を味わって頂きます。食べ終わったら茶碗にお茶を注いでもらい、沢庵漬けを用いて食器を洗い、布で拭き取ります。最終日の29日には懇親会にも参加し、楽しい時を過ごすことが出来ました。
 

今回、摂心会中の623日に行われた講演会、「チェンジ ユー! ~ 禅は君を変える ~」に参加しました。
 

「自分を変える」とはどのようなことなのでしょうか?

私自身に鑑みると、人間関係を良くしたい、もっと社交的になりたい、どうせなら給料もたくさん貰いたい、などなど様々な欲求があるように思います。

以下、講演会の内容をまとめてみました。
 

禅の見地から考えてみると、自分と他人との関係性(構え)を変えることが、「自分を変える」ことになります。例えば、ある人を「嫌な人だなぁ」などと感じることもありますが、「嫌な人」というのはあくまで自分の捉え方の問題であり、正しくは「私が嫌だと思った人」であって、ありのままに見れば、「嫌な人」そのものは実は存在しないのです。

私たちは、分別心、即ち自我に囚われ感情に流されて、ありのままを見ることが出来ない不安定な状態に陥りがちです。私たちの苦しみはそこから生じているのではないでしょうか。例えば、他人を見て自分より背が高いと羨んだり、逆に背が低いと下に見るような人は、自分に何かしらの劣等感を持っていて、自分自身を受け入れられないために他人を受け入れられないのです。風が吹くと湖面が乱れる様に外界の刺激や情報に心乱されるのは、自分が受け身の姿勢であるために、自分の人生を生きていないと言えます。
 

では、受け身の姿勢を変えて、主体的に自分の人生を生きるにはどうすれば良いのでしょうか?

臨済禅では、数息観といって自分の呼吸を数えながらする座禅を行います。呼吸で自分の心を鎮めることで、心が騒つかずに私自身を感じられ、主体的に自分の人生を生きられるようになるのです。座禅をして自分自身を見つめ、自分が充ちた状態、即ちマインドフルな状態になることが出来れば、自分で自分をコントロール出来るようになり、外界の刺激や情報に心乱されることなく、自分が揺れなくなります。自分や他人に×を付けて否定するのではなく、ありのままに受け入れることが出来れば、○を付けて尊重することが出来るようになります。数息観によって自律神経が整い、交感神経と不交感神経のバランスが取れます。自分に○をつけることができれば、他を尊重することができるようになるので、共感力が上がり、思いやりのある「善い人」になるのです。

ちなみに「善い人」とは、ブッダがなぜ出家したのかと弟子に聞かれ、善い人になりたかったと答えたこと、ハーバート大学の呼吸の研究で5つの効能を指摘しており、その最後に「良い人になる」と指摘していることを踏まえています。
 

私たちの目に見えているのは、大きな生命の中から縁起によって現れ出た現象であり、氷山の一角に過ぎません。自分を形成している全体は見ることができないものです。それは因果全体を指しますが、因果は縁起によって生じ、また自分自身も世界全体の因縁の一原因として生きているのです。このように因縁が充満した状態が「空」であり、「空」があるからこそ私たちが存在するのです。一即一切・一切即一と言いますが、そこには過去も未来も無く、一切が平等です。

座禅によって空を体得出来れば、そこから自他不二の観念が生まれ、慈悲が生まれます。色即是空はあらゆるものの本質は空であり、そこでは一切は平等であると説きます。対して、空即是色は平等な生命の中から縁起によって現れ出てきたものには区別があると説きます。智慧をもって区別を知るからこそ慈悲の念が生じ、他者に対して自然とアクションを起こし、態度と生き方が自ずから変わるのです。行動につながるものが智慧であると大乗仏教は説き、その生き方を菩薩道と言います。

大いなる生命の中から因縁の果てに出てきた身体に×を付けることはないのです。私はこのような因縁で生まれてきたという宿命を受け容れ、自分を分別せずに受け止め切ることが出来れば、次の行動、即ち菩薩道に繋がります。本当に苦しんでいる人こそ、慈悲の念を持てるのです。今仏教講座で講じている『維摩経』では現象である苦楽の価値は本来同格、煩悩即涅槃であると説き、だからこそ苦しんでいる人はその苦ゆえに他への慈悲が生じ、行動となって利他を行ずることができるので菩薩道が生じると説きます。
 

私たちは、自分や他者を判断し、分別しているから受け入れられないのです。悩みに悩んで自分を非難しても構いません。それでも逃げずに自分を受け入れ切れれば、どうすれば良いかが見えてきます。ありのままを受け入れれば、そこには肯定しかないのです。
 

数息観は自分の心に湧き出てくるものを裁かない呼吸法です。何も頼らずに呼吸だけを見つめ、マインドフルな状態を持続して正念相続できれば、自立性、主体性が生まれてきます。自分一杯に成り切ったからこその無私であり、色を乗り越え、何かに依存することなく独りで立てることが本当の自己救済です。執着を離れた先にある空の中で苦楽を区別せずに自分という現象を受け入れるのです。どんな大きな風が吹いても自分自身の足で立ち、自分を大肯定した上で自然と出てくる行動が慈悲なのです。

空から智慧、慈悲が生じ、行動として現れるのが菩薩道です。自分を他者のために育てる誓願を自ら起こすことによって、共に菩薩道を歩んで行こうではありませんか。-----
 

私のメモではこのような感じでしたが、空の概念はとても難解であり、私自身理解出来ていないところが多々あります。また、私は相変わらず外界の刺激に心乱されて菩薩道にはほど遠いです。それでも、座禅や仏教を学ぶようになってから、自他の分別に苦しむことは少なくなってきたように思います。
 

生きていれば心が乱れ騒つくこともあるでしょう。そんな時は是非当道場にお出でになって、一緒に座禅をしませんか?

「チェンジ ユー」、あなたを変える、自分を変えることが出来るのは、あなただけなのですから。

合掌 風印 拝
 

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チェンジ ユー(その1)

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/7/6 13:41

チェンジ ユー(その1

丸川春潭

 

 623日に東京支部摂心会における講演会があり、慧日庵笠倉玉渓老禅子が「チェンジ ユー」のタイトルで講演されました。新到者に判りやすく禅の深いところまでを説きそして感銘を与える良い講演でありました。その後小生はこのタイトルで考えるところがあり、全然別の角度からの話をしたいと思いブログを書き始めました。

自分を変えたい!このままの自分では満足できない。その内実はいろいろなニュアンスの違いがありますが、こういう気持ちを持つ若者が多いと言うことを聞きました。自分を変えたいなどと云う気持ちを持つと云うことは人間しか持ち得ない極めて人間らしい気持ちであると思います。

仕事でも事業でもそうですが、現状肯定の場合は新しい展開も飛躍も望めません。今朝のネットのニュースに、トヨタの社長がこの10年間で最高の収益を上げながら、100年に一回の大改革を大々的に打ち出していました。こういう会社は必ず伸び続けると思います。現状を否定するところから将来の目標が明確に出てくるし、現状に対する不満とか危機感が現状打開のドライビングフォースになるのです。

ただ、自分を変えたいという人の内実を踏み込んでいろいろ調べてみると、ほとんどが皮相的で、人それぞれの好みのようなもので、客観的には別に変わらなくても良いのではと思えるようなことを本人は変えたいと思っている場合が多いようです。そういうものはちょっとしたきっかけで気分が変わってどうでも良くなったり、逆に変わる必要が無いことに気づいたりするのです。

数年前まで自分探しと云う言葉が流行りましたが、チェンジ!と出てくる心情は大体同じところからと思います。そしてこちらの方も、それに対する思い詰めも含めて、皮相的な場合が多かったように思います。

しかしわずかな人においては、自分の現状に不満で今の自分を本気で変えたいと思い、いろいろな娯楽とか趣味とか仕事とか恋愛とか結婚とかでは自分探しもチェンジしたい欲求も紛らわすことができず、思い続けている人がいつの時代でもいるものです。自分の現状に満足できない、しかも表面的なところでごまかすようなことをしても納得できないのですが、得てしてこういう人はどう変わりたいかが明確にわからないものです。まさに自分探しと似ているところです。

皆さん!もう少し本気でどう変わりたいのかを、あるいは自分探しをもう少し深く掘り下げてみませんか?

そういう人が出てきた時にどうお話ししどう対応するか、小生なりの見解を次回に申うさせていただきます。(つづく)
 


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 東京荻窪支部の英風です。
 
 今年6月23日の慧日庵玉渓禅子による「第3期仏教講座 維摩経第7回」を受講していたところ、確か翌日、M禅子から「昨日の仏教講座のこと、擇木道場のブログに書いてくれない?」と頼まれました。
 経緯はわかりませんでしたが、私自身、この回の仏教講座の内容については、勇気づけられること大であり、自分自身何らかの形でブログに書きたいなと思っていたので、快諾させていただきました。
 
 維摩経の仏教講座も、七回目ということで、「香積品仏品第十」が扱われました。
 この部分のテーマは、「この娑婆世界とそこではたらく菩薩の意味と菩薩であるための心得など」です。
 
 禅修行の目的は、衆生済度ですから、私たちは、「自未得度先度他」の精神の下、己のことはさておいても、どうやったら他の人の幸福を実現できるか悩み、反省しながら、短者は短法身とはいえ、他の人の幸福を実現する活動に日々邁進しているところです。
 今回の仏教講座では、その実践の上で、大切だと思われる心得に触れられたことが、私にとって、とても意義深いことでした。
 
「衆生のためにはあらゆる利益になることをするが、果報を望まないこと」(レジュメ12頁)
 
 利他行為をするに当たっては、この“果報を望まないこと”ということが、まず大切だと思っています。
 人間禅は在家禅であり、日々の仕事をするなかで、利他行為をはしてはいるのですが、それは、「売上」「報酬」「給与」等の対価に結び付いたものであり、それを期待しながらやってしまうきらいがありますから、そのことに問題意識を持たねばならないところです。
 「売上」「報酬」「給与」等の対価を期待する限り、私たちの心は現在の行為を離れ、不確実な将来にある結果の有無に一喜一憂し、自己を離れた存在である他者に自己を委ねざるを得なくなります。
 本当に自由自在、独立独歩で生きるためにも、「果報を望まない」ことはとても大切なのではないかと思っています。
 
 釈宗演老師も
“徳行とは即ち善い行いで換言すれば解脱の道である。(略)
 宗教的善行は隠徳に属するものであって、報酬を求むる心の無い善行が隠徳である。然るに人の情として、小善も広く伝わらんことを希い、大悪も人に知られざらんことを望むの弱点がある。(略)
 左手に善事を行うて右手に知らしむる勿れと云う箴言もある位で、隠れたる善行は絶対的に善行である。右手に与えて左手に受けんとする相対的善行を卑しむべきものである。”
(釈宗演『最後の一喝』129~130頁)
と仰るところです。
 
 しかし、このような「果報を望まない利他行為」などは、非現実的なものだと思う人もいるかもしれません。 
 なぜなら、私たちが実際に生きている世界が弱肉強食の競争社会であることも明白な真実だからです。
 禅堂の中では、座禅をして心の波立ちを押さえ、分別はよくない、謙虚でなければならないと口では言っていても、禅堂から一歩出れば、他人を蹴落とし、自分や家族の食いぶちを確保することに窮々としているのが、私たち一人一人の“真実の姿”なのではないでしょうか。
 そのような私たちの“我他彼此根性の塊である真実の姿”からすると、果報なしに、利他行為をするなど述べることは、私たちの“真実の姿”から目を背けた不遜なことではないかとも思われます。
 
 私は、今回の仏教講座を聞いて、維摩経には、この点に対する答えも書いてあるのではないかと思われました。
 維摩経では、「菩薩がなすべき十法」というものが語られているそうです。
 
「布施をすることで、貧乏な者を導きます。
 戒を守ることで、戒を破る者を導きます。
 常に耐え忍ぶことで、怒りを懐くものを導きます。
 精進することで、怠ける者を導きます。
 禅定に入ることで、心を乱す者を導きます。(後略)」(レジュメ11頁)
 
 慧日庵老禅子は、この十法について
 
「菩薩は衆生にこのように接しなさい、という方向だけでなく、菩薩道を歩むものはすべからくこの行為によって自らが救済されるのだという方向も押さえておかねばなりません。
 未熟であろうとも菩薩道を歩み始めたものは、この善法をよすがにするべきですし、これによって救済が成就されます。逆に読めばわかります。」(同12頁)
 
と指摘された上で 
 
「貧困にあっても布施を積む
 戒を破る存在だからこそ戒を積む
 憎悪を抱くときは忍辱を積む
 怠惰であるからこそ精進を積む
 心が散乱するからこそ禅定を積む……」(同12頁)
 
と解説をなさいました。
 
 ここでレジュメから離れておっしゃっていたこととして印象に残った内容は、大乗仏教における戒についてのことでした。
 
「戒は禁止事項ではなくて、禁止できないことを前提とする。
 たとえば、不殺生戒についても、日常生活で徹底することできない。
 戒は、できない自分を省みるためのもの。
 できないとして、ではどうするか?を考えて実践するのが大乗仏教」
 
との趣旨のお話でした。
 
 私たちは、実社会生活の中では、他人を蹴落として生きる至らない存在であるからこそ、どこかで埋め合わせをしなければならない。
 人格的に優れているから、利他行為をするのではなくて、人格的に至らないからこそ、利他行為をしなければならないということなのではないか、と捉えました。
 
 利他の精神が端的な思いとして自然と現れるのが本来的なものだとは思います。
 しかし、なかなかこのような境涯までは至らないでしょう。
 おそらく、私たちの多くは、このような境涯に至る前に死ぬのです。
 至らないとして、「できないとして」、どうやったら利他行為に邁進していけるのかの気持ちの整理としては、このような考え方でもよいのかなと思っています。
 
 こう考えると、利他行為の実践といっても、理想の高い遠いものではなくて、身の丈にあった身近なものに感じ取れるような気がするのです。
 
 利他行為に邁進する元気の出るよいお話で、次回の講座も楽しみです。
 
 ちなみに、今回、聴講者に配布されたレジュメはオールカラーでした。
 擇木道場のコピー機でカラー印刷すると費用がかさむことから、これまで白黒印刷だったようなのですが、R前支部長がカラー印刷をした場合の費用が擇木道場でカラーコピーするよりも安くなる印刷業者を見つけてくれたそうでして、低価格でカラー印刷が実現したとのことでした。
 これまでも慧日庵老禅子の手持ち資料としてはカラーのものがあったようなのですが、私たちも、カラーの美しい資料を手にすることができ、講座終了後、G禅子が「『空』の泡の図が新しくなりましたね!」との感動の声を挙げたのに対し、速攻で、慧日庵老禅子の「変わってないから、今まで白黒だったのがカラーになっただけだから」とのツッコミが返されるほほえましいやり取りもあったところです。
 カラーの資料というだけでも気持ちが変わるところもありますから、これを安くできる手段があるということもご参考までに。
 
合掌 英風 拝
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「道眼(胆識)を付けるには」(その5

丸川春潭

 

臨済宗の公案修行は古来から途中でやめるくらいなら最初からやらない方が良いと言い伝えられています。理由はいくつかあるのですが、臨済宗の公案修行は頂上を極めるのに最短距離で真っ直に急勾配に登るのではなく、ジグザグに大きく左右に振りながら急勾配を避けて登らせているので、途中での中断は真上の頂上が視野から外れたところで止まってしまうことにもなります。またもう一つは、頂上まで上がり切らないと四方の眺望ができないのですが、得てして途中でやめた人間ほど自分の通ってきた路だけがこの山の全貌だと思い込みやすく、自分の外れた見地からや部分的な見方であることが判らず、他にその偏見を拡声してしまい大いに世間に誤解をまき散らすことになります。ということで、途中で止めるくらいなら初めからやらせない方が良いと昔から云われてきているのでしょう。

ただ小生は今の時代はもう少し柔軟であっても良いのではと考えております。多様性の時代であり、人間形成の禅もワンパターンでなくて多様な価値観の中で禅が多様な文化とコラボレーションするのは当然の流れであり、見性入理の初関の透過だけで例え終わったとしても、そこまででもその人の素晴らしい個性を引き出し、その人のこれからの思想・行動に精彩を加えるのは間違いないと確信しています。勿論うたた登ればうたた高く、うたた入ればうたた深い東洋的無が臨済禅(公案修行)によって拓かれてゆき、その淵源を極めることは人間として生まれてきた特権だとは思いますが、何が何でもそこまで行かなければ全面否定的なかっての伝法のための伝法の禅の呪縛から、現代の実社会に浸透する臨済禅(公案修行)を解放して行くべきと思っています。

前置きが長くなりましたが、前回は見性入理についてお話ししましたので、今回は更に進んだ公案の修行(後悟の修行)について簡単に触れておきます。

次の段階は見性悟道でありこの代表的な公案が、五蘊皆空という則(人間禅の瓦筌集142則)です。この則では、見性入理では想像もできない細やかな人間の精神構造が明められ、その五つの蘊の性格を明確に認識するとともに五蘊の一つずつの空じ方を師家に参じて会得してゆきます。これはインドから中国へそして日本へ伝えられた仏教の素晴らしい重要な法財の一つです。これを日々の座禅行によって毎日毎時毎分毎秒において蘊を空じて行く、すなわち五蘊皆空の修練をするのです。これを見性悟道といいます。

更にその先も公案修行はいよいよ佳境に入ってゆきます。登山で例えれば七合目あたりから頂上まで、臨済宗のみならず曹洞宗の法財も含めて人類の最高の精神文化の凝縮としての公案(祖師方が工夫し残された1500年間の公案)が瓦筌集の中に収納されており、これを師家の指導の下に一則一則明めてゆく見性悟道から見性了了底の修行になるのです。 

見性入理、見性悟道、見性了了と臨済禅の修行階梯は明確であり、その登る高さにつれての眺望の素晴らしさがあり、志の高いインテリゲンチャには格好の人材開発ツールであります。

歴史的にも鎌倉時代から武家のしかも為政者層に支持され継承されてきた日本の臨済禅の特徴である公案修行が現代に生き生きと伝わっているのです。新しい時代の担い手の、一人でも多くの人のバックボーンになり見識(胆識・道眼)になることを願って、この拙いブログ「道眼(胆識)を付けるには」シリーズを終わります。(おわり)
 

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