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擇木道場

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当直が座禅中や作務中は、電話には出られません。このホームページからお問い合わせお願いします(回答は夜以降になります)

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擇木ブログ - 最新エントリー

座禅会便り

カテゴリ : 
座禅ブログ
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擇木道場 2019/9/15 10:31

9月15日 日曜座禅会

初めての参加  0名

二回以上参加  5名

会員      3名

 

5分の休憩を挟んで、40分、35分の坐禅、2回目の35分の座禅中に10分の経行、終了後に読経(般若心経、座禅和讃、四弘請願)10分を行った。

終了後は居士寮で、冷たい抹茶とお菓子で座談会をした。

 

女性座禅会員が千葉の別宅に状況を確認に行くとのこと。昼は猿、夜は猪が跋扈する処だそうです。鋸南町、南房総の状況はテレビでも放映されるが、別宅周辺に関しては放送がされないので、状況が全く判らないとのことです。屋根が吹き飛ばされているかもしれない。

現在も停電で不自由な生活を強いられている皆様には、心からお見舞い申し上げます。電気の全面開通までにあと2週間かかるとのこと。電気が無いと何もできない。電気の有難さに改めて気が付かされました。

抹茶で雑談した後に、『人づくり肚づくりと禅』の38ぺージ、2-3肚づくりの最初の施策「こころの教育」の位置づけと実践法を読んだ。

現在、不足していると実感される「こころの教育」は「行」を伴う修練に依らなければならないが、戦後教育では「座学」による知識教育に終始して「行」が欠けていた。「教育基本法第九条(宗教教育)」の第二項の「公立の学校では特定の宗教のための教育、活動をしてはならない」が障壁となっていたためである。

特定の宗教に偏しない、普遍的な行としては「数息観法」がある。「数息観法」は座禅に繋がるものであるが、キリスト教でも「祈り」を徹底する手段として使われている。この方法を義務教育の授業に先立ち、数分間実修することは「こころの教育」に繋がると考えている。

仕事でインドによく行かれる女性が仰っていましたが、インドの小学生から高校生までの一貫教育校では「糸紡ぎ」を授業に取り入れているそうで、これは「三昧力」を養う「数息観法」に繋がっていると感じたとのこと。心を一つのことに集中させる行は全て、そのようものだと思います。摂心会における、座禅、参禅、作務、「法定の形」もその物だと思います。龍泉
 

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「停電とロウソクの火」

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/9/11 20:50

「停電とロウソクの火」

春潭

 15号台風が過ぎてから、三日目になっても未だ50万戸の停電が続いているとのこと、被災者の方々にお見舞い申し上げます。

 潮来市の拙宅も台風の進路にあたり、風害が隣近所と同様大分やられましたが、一番困ったのが停電でした。冷凍物が一度に溶けてどう始末するかを家内は心配しており復旧が時間の問題でした。そして何より猛暑のぶり返しの中でエアコンが効かないのにはジリジリとして耐えていました。

幸いこの地区は12時間くらいで電気が回復して安堵しました。久しぶりに電気のありがたさを痛感しました。

 朝6時過ぎに激しかった暴風雨の風向きが急変しまた風も幾分か収まりました。起き上がって停電に気づきましたが、未だ直ぐに見廻る状況にもないので、いつものように朝座と朝茶をロウソクの灯火のもとでしましたが、久しぶりのロウソクの灯火に魅せられました。

 電灯と違い、ロウソク(蝋燭)の灯は暗く、そして揺れるのです。灯が揺れることにより影が目立ちだすことにも気が付きました。

白い個体の蝋が温められて透明な液体になり、ロウソクの芯を伝って燃えだし辺りを照らしそして気体となって消えて行く。

 ロウソクの灯を見つめているとそれだけで絶対の切り口に入ってゆく。

ロウソクは人間の一生の全貌をそこに見事に展開して見せてくれている。

 ロウソクの灯の下で点てるお茶は茶筅を振る影も一緒に主客一味となる。

茶事の一つに秋の夜話という茶席があり、電気を消してロウソクだけでやる茶会ですが、何十年か前の夜話茶席を思い出しました。

 三日も停電で難儀をされている人には申し訳ありませんが、ひとときのロウソクの灯を楽しませて頂きました。

 


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円覚寺に行ってきました

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/9/10 9:57

 擇木道場の風印です。

 鎌倉の円覚寺に行ってきました。円覚寺はJR北鎌倉駅から徒歩1分の、臨済宗のお寺です。


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


 拝観料をSuicaで支払うことが出来たので、お寺も電子化の時代なんだなと感心しました。

 今回日曜説教会に参加して、横田南嶺老師のお話を聞いてきました。

 以下、法話の内容を記載します。乏しい理解のため正確に再現することは難しいですが、どうぞご容赦下さい。


 まず始めに背筋を伸ばして姿勢を整える。


 お互い生まれてきた不思議

 今日まで生きて来られた不思議

 今日のご縁の不思議

 に手を合わせて感謝する。


 良い法話は話が終わった後に拍手をするのではなく、思わず手を合わせて合掌したくなるものである。


 以前、熱心に法話を聞きに来られていた年配の紳士と話す機会があった。

 その紳士は、かつて海外出張でホテル宿泊の際に宗教(religion)の欄に無宗教と記載すると、「宗教も持たない人を泊める訳にはいかない」と断られた。他に宿泊の当てもないので、合掌して「どうか泊めて下さい」と懇願すると、「貴方は仏教徒ですね」と泊めてくれた。仏教徒と言ったものの仏教を何も知らないので、円覚寺に学びに来られていたとのこと。


 日本人は宗教を敬遠する傾向にあるが、とっさの場合に思わず手を合わせてしまう事もある。無宗教のつもりでも仏教が身体に染み付いている。

 手を合わせて合掌する姿には言葉を超えて通じるものがある。合掌は簡単なようで奥が深く、座禅や写経をするよりももっと早く心が落ち着いてくる。

 西洋人はラジオや飛行機を発明したが、東洋人は長い間瞑想して合掌を発明した。

 合掌すれば夫婦喧嘩も収まり、皆仲良しになるのは世界共通。合掌して腹を立てる者はいない。手を合わせれば重い心も軽くなり、濁った心も澄んでくる。


 では、何に対して合掌するのか?

 もちろん、高利貸しや強盗にするのでは無い。仏に対して合掌するのである。仏壇や御本尊にご飯を供えて合掌して目を閉じれば、騒ついた心も一瞬のうちに静かになる。

 仏と言うものは天地一杯にあるもので、合掌すれば、誰の前にでも何処にでも現れる。合掌する姿はとても美しく、神々しく感じることもある。


 人は皆仏である。

 ろくに修行もしていないのになぜ仏なのか?

 法華経に、常不軽菩薩(じょうふきょうぼさつ)の「私はあなたがたを深く敬い、決して軽んじることはしない。その理由は、あなたがたは皆、菩薩の道を行じて、必ず仏と成る存在だからである」という言葉がある。


 ある施設に母に捨てられて施設をたらい回しにされ、暴れて手のつけられない少女がいた。

 その子の世話をする先生は、ついこの子さえいなければと思ってしまうこともあった。その子は大人の思いを敏感に感じ取り、更に手が付けられなくなった。

 そんな時、その子が悪性腫瘍で緊急手術をすることになった。その先生はその子に二度と会えなくなるかもしれないと思うと、ただ助かって欲しいと思った。

 その時、その先生は自分が少女の命を見ていなかったことに気付いた。


 私達は他人の姿や行いばかりが目に付くが、そうではなく命に手を合わせていくことが大切である。道端の花や犬猫にも、命あるものの命に対して手を合わせる。

 あんなことをした、こんなことをしたと目を取られるのではなく、様々な繋がりの中で親から尊い命を授かった。その命に手を合わせるのである。


 鎌を研ぐ名人は、例えどんな人が研いだ鎌であろうと、自分には及び難い点を一つは見つけることができるそうだ。

 修行僧や家庭でも「困ったな、どうにもならない」と欠点を見つけては矯正しようとする。それも必要であるが、もっと大切なのはその人の命を拝むことである。仏になれる可能性が無限にあることを信じて手を合わせる。


 仏とは可能性の無限なることである。その人がこれからどうなるか、どう成長するか誰にもわからない。一言一行の中にも、その人に自分には及び難いことがあることを見出すのが法華経の大事な心である。


 欠点ばかりが目に付いてその人の命を見ていなかったことに気づき、無限の可能性を信じて手を合わせる。そういう心になるには日常の暮らしに手を合わせることを取り入れると良い。


 山田無文老師は、「私は毎朝起きると、お日様、月、空気、水、米粒、沢庵、野菜に手を合わせる。馬鹿らしいと思う人もいるかもしれない。それでも拝まずにはいられない。私はそういう馬鹿でありたい」と仰ったそうである。


 ありとあらゆる物が関わり合って命になっている。その一つ一つに手を合わせる。自分を苦しめる人に対しても手を合わせるのである。

-----


 法話の後は座禅体験をしてきました。


 お尻を少し高くして座り、腰だけを縦に伸ばす。真っ直ぐに伸ばした背筋が地面に突き刺さるように宇宙の気を通す。座禅を通じて命を感じ取る。

 臍の下に身体の中心があることを意識して、丹田に意識を落とす。そうすると頭や手、足の力を発揮できる。

 右手の上に左手を重ね、左右の親指を合わせて法界定印を組む。法界定印は心の形である。身体を真っ直ぐにして、宇宙と溶け合っていく。


 座禅の後は、高台に上って国宝の鐘を見てきました。


円覚寺に行ってきました


 周囲の見晴らしも良く、お勧めのスポットです。


 近くの弁天茶屋でベジカレーを食べました。


円覚寺に行ってきました


 ヘルシーな味わいでとても美味しかったです。


 食事の後、紫陽花で有名な明月院に行きました。9月初めのこの時期は玉紫陽花が咲いていました。


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


 境内にある茶屋で抹茶を飲みました。


円覚寺に行ってきました


 暑かったので冷たい抹茶を頼みましたが、濃厚な味で美味しかったです。


 枯山水の庭もありました。


円覚寺に行ってきました


 次は建長寺に行きました。


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


 樹齢760年というイブキ(ヒノキ科)の木が見事でした。


円覚寺に行ってきました


 龍の天井画が素晴らしかったです。


円覚寺に行ってきました


 方丈には座布団が置いてあり、好きなときに座禅をすることもできるようです。


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


 最後は縁切り寺で有名な東慶寺に行きました。


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


円覚寺に行ってきました


 江戸時代は女性から離婚を申し出る事が許されておらず、このお寺に駆け込んで23年の修行を積むと、ようやく離婚を成立させることができたそうです。

 たまたま、釈宗演老師の展示がありましたが、異国の地セイロン(今のスリランカ)で苦労された様子を知りました。欧米列強の脅威や日本仏教への危機感を強く持たれていたようです。

 東慶寺には鈴木大拙氏のお墓もあるそうです。


 当道場は円覚寺に由来があり、釈宗演老師との縁も深いようですが、私は殆ど何も知らないので、少しずつ学んで行きたいです。


合掌 風印 拝


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コンサート参加報告

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/9/9 20:35

コンサート参加報告 9月6日

横浜摂心会の3日目、午後の作務終了後に道場を下山してウェスタ川越で開催された「冨田勲という宇宙」というコンサートを聞きに行った。

冨田勲さんをよく知らず家内に勧められるまま直前に前売りチケットを購入して参加した。

第一部:開演すると、聞きなれたメロディーが流れた。「新日本紀行」、「きょうの料理」のテーマ。その後は、大河ドラマ「花の生涯」、「天と地と」、「徳川家康」、「新平家物語」、「勝海舟」のテーマと続いた。琴、琵琶、龍笛の和楽器、ハープ、ピアノを含めて90ケもの楽器で構成されるオーケストラに90名の合唱団、その中には川越少年少女合唱団が含まれる。このような大規模のコンサートを私は初めて見た。大河ドラマのテーマにおける琴、琵琶、龍笛の和楽器が奏でる音は心地よかった。

第二部:

最初にシンセサイザーとオーケストラにより、組曲《惑星》の火星、水星、木星を聴いた。360度無指向性スピーカーを使ったマルチチャンネルサラウンドシステムによる演奏は目をつぶって聞いていると、自分が宇宙空間に飛び出していて遠くから音が聞こえてくるような不思議な感覚を受けた。これが宇宙的トミタサウンドの音響なのかと感心した。素晴らしかった。一階席のSS(スーパー・サラウンド)席でサラウンドシステムの音を聞いたら、より強く音に包まれた感覚を受けたのではないかと思います。二階席の最前列に座っていた私も、とても大きく身体を揺すられるような音響でした。

「NHKみんなのうた」から「鳳来寺のブッポウソウ」では、48名の川越少年少女合唱団を舞台と二階席の左右に分けて配置された。私の席の直ぐ右隣に合唱団が椅子に座った。私は合唱団を休憩させるのかと思ったら、彼女たちは椅子に座ったままで歌っていた。少女の心地良い歌声に心が休まった。指揮者は舞台の合唱団に対しては前を見て、二階席に対しては後ろを振り返って指揮を執っていた。なかなか忙しそうだったが、聴衆としては前と後ろから響くステレオ効果の音声に満足できた。指揮者の工夫に感心した。

最後に《イーハトーブ交響曲》より「銀河鉄道の夜」「雨にも負けず」「岩手山の大鷲」を聞いた。第二部はシンセサイザー活用の草分けである冨田勲さんの音響体験パートだった。久しぶりに感動したコンサートでした。龍泉
 

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私は何故座禅を始めたか?③

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座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/9/7 19:11

 肝心な公案のお話ですが、この公案の取り扱い方法は、就いている老師のお考えにより、相違があると思いますが、その方はまず数息観から始まり、それがある程度こなせるようになってから公案なのでした。公案をもらったら常時公案に取り組み、公案に成り切れでした。

 そこに通い始め暫くして、老子に公案指導をお願いした事がありましたが、しかしながら許されませんでした。その時言われたのは[座禅の修行というのは、今日此処に来たら自分が今日此処に来たという痕跡を残さない事だよ]でした。

 その次の回から座禅会の1時間早めに行って、私は寺の掃除をするようになりました。痕跡を残すな。ですから座禅の後掃除するべきなのでしょうが、時間的にそれが無理だったので始める前にしていました。一人作務です。そのうち段々他の方も参加し、一緒にやるようになりましたが、廊下の雑巾がけもさることながら、棚の上の物をどかし、その下を拭き、また元あった通りにそれを戻すという事、そこにそれがそのような形で置いてあるという事は、置いた人にはそのように置く理由があると考えると、全く同じ様に戻さなければならない。そう考えるのですが、その単純な事が案外できなかったのです。

 そんな事をしながら3年ほどたった頃でしたが、老師より(もう掃除はしなくて良い)と言われました。いよいよ愛想を尽かされたかと思いましたが、その日の座禅会から独参をようやく許されました。

 それからまた瞬く間に年月が流れ、その老師に参じて25年ほどが経ちました。今はその方もお亡くなりになっています。長きに渡り良く私のような者に痺れを切らさず、お付き合い願えたものだと、ただただ感謝しております。

 ただし不謹慎な話ではありますが、老師が亡くなり、それはどうしようもなく悲しい出来事でしたが、反面これであの恐ろしい独参をしなくても良いのだ。そのような安堵感も私にはあったのです。

 しかしながらその安堵感等束の間でした。それどころか、自分は今まで老師と言う大樹に寄って立っていただけだと言う事を思い知りました。老師がいなくなれば、私はまた不安の渦中の人でした。私の中の始めの一歩の疑問はすっかり氷解した訳ではないのですから。

 それであれば、やはり新たに師匠が必要なのです。一人でやる座禅というものはあり得ないからです。座禅修行をやる上で絶対条件は、正師に就く事、また良き道友に恵まれる事。これに尽きると考えます。

 その後数年曹洞宗の座禅会に参加していましたが、やはり公案のない座禅修行に物足りなさを感じ始めました。そして、この度また当座禅会に巡り会え、良き師に巡り会えたのは、私にとり本当に幸運な事と考えます。この滅多にない好機を舐めるように吸い取らなければならないナアーと思いますが。私も非常に怠惰な人間な為、何時も自分の惰気との戦いです。これは一生そうだと思います。そこに何があるか分かりません。ただその戦いが続いて行くだろう事は分かります。それしかないと思う。

 最後に新参の方に申し上げたいのですが、師匠が弟子を救おうとするその無償の行為は、何故と思えるほど常人には理解できない無償の行為です。物事を自身の利害得失で考えるのが当たり前の昨今の日本において、まだこの様な文化が僅かに残されている事。それに今自分が触れていることの幸運を理解して欲しい。独参はその師匠と裸でぶつかり合える唯一の幸福な機会です。苦しいだろうが共に歩いて行きたいと思います。

 ご静聴ありがとうございました。


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私は何故座禅を始めたか?

私は何故座禅を始めたか?②

私は何故座禅を始めたか?③


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私は何故座禅を始めたか?②

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執筆 : 
擇木道場 2019/9/6 23:03

そこで見つけたのが鉄舟会という座禅会でした。臨済宗系の道場ですね。大森曹玄という老師の開いた道場ですが、既に老師は病に倒れご存命ではあったが、座禅の指導等出来る状態では残念ながらありませんでした。直日(じきじつ)のみいて座禅会を指導している状態でした。しかし、その直日の方が非常に親身に私の話を聞いてくれたのを覚えています。無論他の参加者に対しても熱心な方でした。

これは大事な事で、他人の不幸を我事のように共有しようとしてくれる人は、もしかしたら座禅会の看板を掲げる場でも、案外少ないのかも知れないと思います。一口に座禅と言っても、そのようなタイプの指導者がいくらでも転がっているわけではなく、自身で苦労して探す必要があるのです。私は老師不在の座禅会ではありましたが、取り敢えず自分の居場所を得たと思い、そこで修行することにしました。ここでまた二つ問題が生じます。

1.その鉄舟会の直日さんもその年の冬、田舎の大分に帰る事になった事

2.座禅を始めた事で先ほども申した通り、異常な緊張感から解放され、一定の落ち着きを取り戻した事。それならそれで良いのではないか?とお思いでしょうが、それはいけないのです。人は手前勝手なもので、喉元過ぎれば熱さを忘れるのです。直ぐに惰気を発し座禅等やる気を無くすのです。

必死に道を求めると言う事は、そうしなければ命も危ないという状態で、初めて成立するものなのか?とその頃思いました。僧堂で修行するのとは違い、在家者で緊張感を持続しながら正念工夫するにはどうするか?娑婆には何かと誘惑が多いですから。

正念工夫→正念相続

その時に公案禅をやってみたいと思うようになりました。公案についてはそれまでも本で読んだり、鉄舟会で大森老師がお元気だった頃に行われていた様子等を聞きかじってはいました。何だか良く分からないまま、兎に角公案がやりたかったのです。

何れにしろ、また良き指導者を探す必要が生じたのです。しかも公案禅の指導をしてくれる方です。そしてまた探しました。そしてそれが意外と早く意外と自分の住居の近くにあったのです。

今度は曹洞宗の大光寺というお寺でした。船田鉄門老師という方が住職をされていました。場所は井の頭線の西永福でした。井の頭線の線路端にある小さなお寺です。電車が通れば寺ごと揺れました。ご存じの通り曹洞宗では一般には公案禅は用いないのですが、その船田老子の法系ではお爺さんに当たる、原田祖岳老師という方の系列のみ公案指導をするのです。曹洞宗では非常に希少な法系になります。

私が初めてその大光寺を訪問したのは、座禅会の日ではなかったので、老師と対で面談したのを覚えています。私は今日お話ししたような事を、老師にお話ししたと思います。老師からのお言葉で今も覚えているのは、最近座禅は身体の悪い人が健康のためとか言って始めたりするが、それは健康法であって、本来アンタみたいな悩みを持っている人がやるものだと言う言葉と、それと特に用事がなければ、私はいつも此処にいるから、時間を見つけて来なさい。と言われました。この二つを覚えています。

そのようなお言葉もあり、2回目に訪れたのは次の日だったように思います。その時昨日私が使用した座布団の棚の前に連れていかれ、私の収納の仕方について叱られたのを覚えています。それは座布団の縁と棚の縁をぴたりと合わせて仕舞え。と言うことでした。そう言われ私の入れた座布団の仕舞い方を見ると、酷いものなのに始めて気がつきました。

その後も日常的な事細かな事につき注意を受ける事が多々ありました。例えばトイレから出た後、手を洗う時水道の水を必要以上に流すなとか、その水が周囲に飛び散ったら必ず拭けとか、色々でしたが今思えば、大上段に構えて人間とは何か?だの、悟りを開きたいだの言う前に、自分の行儀の悪さを知れ。それが今のお前だ。と教えてくれていたのだと思います。

禅僧恐るべしで、人を見る時その人の肩書や、お話の内容よりもその人の一挙手一投足を見逃さない物だと思いました。つまりこの人の前では嘘も取り繕いも通用しない。自分はいつも素っ裸の自分をこの人の前に晒しているのだ。という事です。このことは後にその老師に独参する事で痛感するのですが、全く誤魔化しようのない素の自分しか通用しない恐ろしさと、普段自分が如何に世間を誤魔化そうとしながら生きているのか。その事が眼前に突きつけられてきたのです。


続く


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私は何故座禅を始めたか?

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執筆 : 
擇木道場 2019/9/5 23:59

私は何故座禅を始めたか?

荻窪座禅会 水谷心舟


年齢は33歳、当時私は仕事は高円寺で飲食業のマスターをしていました。店を開店して丁度5年が経過した頃でした。自分なりのやり方も何とか身につけ、また景気も良い時代だったのでしょう、仕事は順調に運び始めたそんな時期でした。

その頃仕事とはまた別に店に来る常連客の何人かと、同人誌等作ったりしていました。何でそのような事をしていたか?と言えば、その時代より更に遡り、学生時代の頃より、今ここにある自分とは何か?そんな疑問に囚われる事があり、自分を追いかけ回してみたいと言う欲求がありました。その方法として文学というものに何となく興味を持ち始めていました。

それから年月が流れ、その33歳の時、非常に深い心の穴倉に落ち込むという経験をしました。これはある日突然とてつもない穴倉に落ち込んだ。そのような経験でした。

それを一言でいえば

虚無(ニヒリズム)

これです。

もう少し噛み砕けば、例えば人は産まれた事も、死んでいく事も、自身の責任ではない。そして私の身体の機能が勝手に動いて命がある事も、私の責任ではない。私の命を持続する上で私とは何か?今思えば全くの観念の遊びのようなお話ですが、それに明快に答えないことには、一瞬たりとも落ち着かない。その様な心境になってしまいました。そのような考えに至ったと言うよりは、全身全霊がニヒリズムに成りきった。それでした。生きている事を自我が了解しなければ一瞬たりとも落ち着かない。そのような異常な精神状態でした。

自我の芽生えの以前に既に命はある。命の意味を自我は元々問う立場にはない訳ですが、この当り前の厳然たる事実が、当時の自我ばかりが突出している私には不快だったのです。

一度この課題にとり付かれた人の選択は三つしかないと、これは漱石の行人と言う小説にあった言葉だったかもしれないのですが、その三つは(自殺か発狂か宗教か?)そんな言葉がリアルに当時の私に()し掛かりました。少なくとも自殺と発狂は嫌なのですが、理屈っぽい人間の性として宗教も厭なのです。特に神仏にすがれという他力宗、これは疑問だらけの渦中にある人にとってはダメなのです。

そんな時たまたま家の本棚にあった鈴木大拙という人、有名な禅者ですがその人の(無心ということ)という本を手にとってみたのです。自分の家にあるので、以前読んだ事があるのかもしれませんが、記憶にはない本でした。そこに何が書いてあったかも今となっては良く分からないのですが、兎に角禅について書いてある本なのです。そしてその本を読むうち、その本の文字に自分が引っ掴まれるような不思議な感覚がありました。書かれている事を理屈で解釈して成るほどという了解ではなく。何かそこに今自分が抱えている苦痛の解決の糸口があるように思われました。

そして次の日、以前少しかじった事のある座禅を見様見真似で家でやってみました。それがまた不思議なことに、それまで緊迫していた自分の心理状態が沈静し、緊張感が和らいでいくのが実感されました。これはどうにも理屈ではない。兎に角そうなのだから仕方がないのです。

そのような体験から、ちゃんと座禅指導をしてくれる所を探し、座禅を始めてみようと思いました。今のようにインターネットがあるわけでもなく、探す方法はやはり本でした。座禅指導をしてくれる道場、等と良く紹介されていました。良く分からないまま片っ端から電話をかけてみたり、直接出かけてみたりしましたが、中々これはと思える所に出会えませんでした。まずまともに話を聞いてくれる所が意外と少ないのです。自身の悩みを語れば、貴方の言っている事は分からない。座禅より精神科の先生に診てもらえ。等とも言われたこともありました。


続く


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私は何故座禅を始めたか?

私は何故座禅を始めたか?②

私は何故座禅を始めたか?③


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 擇木道場の風印です。
 東京の荻窪座禅会で開催中の摂心会に参加しました。今回の摂心会は杉並区善福寺公園が目の前にある善福寺会場で97日まで開催中です。


建物, 壁 が含まれている画像

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木, 屋外, 建物, 空 が含まれている画像

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木, 屋外 が含まれている画像

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 社会人のための座禅会ですので、ご自分の都合に合わせて参加できます。私は92日から参加しましたが、その日は介護関係の講師をされている先生の「幸せのレシピ」という講演がありました。


 幸せのレシピ
 あ 朝日を浴びる
 か 感動する
 さ さっさと寝る
 た 体操する
 な なんとかなるさ な~な~にやる

 穏やかな呼吸をするとセロトニンが分泌されて、体温や脈も整う

 幸せホルモン、オキシトシンが分泌されるには人と触れ合うことが大切。残念ながら触れ合う人がいない場合は、人の役に立つことをしたり、ペットと触れ合うことでもオキシトシンは分泌される。

 というような内容でしたが、私には共感しかなくてとても良かったです。講師の先生が時間の都合で話せなかったことが沢山あると仰っていたので、今度お会いした時に教えて下さい(^o^)

 摂心会中の朝は茶席が催されるので、希望者はご相伴にあずかることができます。

荻窪座禅会の摂心会に参加しました

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文房具 が含まれている画像

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 同じ抹茶でも点て方やお茶の量でかなり味が変わります。お茶碗の模様は狙ってそうなるのではなく、焼き具合で自然に模様が付くそうです。

 摂心会中は師家(禅の師匠)に参禅(公案を用いて禅問答によって境地を開く臨済禅の修行)することも出来るのですが、公案を座禅をして工夫し、その見解(けんげ:回答のこと)を師家に呈しても中々許してもらえず、日常生活においても意識して工夫することが必要なのだと実感しました。

 本日94日は参禅はお休みの放参日でしたので、皆で深大寺に行ってきました。深大寺は奈良時代に開かれたそうですが、苔むした門が印象的なお寺でした。

木, 屋外, 建物 が含まれている画像

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屋外, 木, 空, 地面 が含まれている画像

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 飛鳥時代に作られた釈迦如来像(通称:白鳳仏:はくほうぶつ)は国宝にも指定されているそうです。パンフレットに仏像をアップにした写真が載っていたので思ったより小さいなと思ったのですが、穏やかで青年のようなお姿が印象に残りました。

室内, 壁, 床 が含まれている画像

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 深大寺は水木しげるさんゆかりの地ということで、ゲゲゲの鬼太郎のキャラクター達に会うことができました。

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木, 屋外, 建物 が含まれている画像

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 子どもの頃にTVで見ていたのを思い出して、しばしノスタルジックな気分に浸りました。

 参拝の後は近くの水車小屋を見学したのですが、水の力だけで大きな水車が動いているのに感心しました。川の水量を調節することで回る速度を調節し、水車の力で粉を挽いたりすることも出来るそうです。

水車, 屋外にある物体, 木, 建物 が含まれている画像

自動的に生成された説明


 近くのお蕎麦屋さんで、そば粉九割、つなぎ一割で作られている九割そば、そば豆腐、深大寺ビール、そば羊羹などをいただきましたが、どれもとても美味しかったです。


 最後は湯守の里の天然温泉に入ってきました。黒くてしょっぱいお湯に驚きましたが、海藻類が分解されて出来たという「フミン酸」が含まれているために黒くみえるそうです。


 最近あちこちの道場に顔を出すようになりましたが、なんだか自分の家のような感じがして落ち着きます。勝手知ったる他人の家という感じで今後もお邪魔させていただくつもりです。

合掌 風印 拝


【東京荻窪支部主催・座禅会のご案内】

<荻窪剣道場座禅会>

・日時 毎週木曜日 午後7時30分~

・場所 東京都杉並区荻窪4-30-10 トヨタマビル5階「荻窪道場」 

 JR荻窪駅東口より線路沿いの道を新宿方面に歩いて5分です。

 ビル1階奥のエレベータ脇のインターホンで501号室を呼び出して下さい。


<善福寺清明庵座禅会>

・日時 毎週土曜日 午前9時00分~

・場所 東京都杉並区善福寺3-8―5 清明庵

 善福寺公園の上池ボート乗り場東横の家です、大きな欅(けやき)が目印です。

 荻窪駅から南善福寺行のバス乗車、善福寺公園下車(約15分)


*初めての方は事前に御連絡の上、座り方を説明しますので、15分前にお越しください。

*参加費 初回1000円(座禅指導料込)、2回目以降 500円(善福寺清明庵では、抹茶・お菓子代+300円)


(連絡先)中川香水

 090-5827-7004 kousui.nakagawa@gmail.com


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擇木座禅会便り

カテゴリ : 
座禅ブログ
執筆 : 
擇木道場 2019/8/31 23:18

8月31日 擇木道場 土曜夕方座禅会

 

初めての参加   2人

二回以上参加   0人

会員       3人

 

5分の休憩を挟んで、30分、25分の坐禅を行った。

終了後は居士寮で、冷たいキウィジュースとクッキーで座談会をした。

 

仏教講座の終わりごろ、初めての参加者の気配に気づき階下に行くため禅堂の扉を開けたとき、二人は禅堂入口に現れた。直ちに一階の居士寮に案内して座禅のやり方を説明した。初めてのためか、少し緊張しているようだった。脚は正しく組めたが猫背になりやすいようで、頻繁に助警を回し修正を試みた。座禅終了するころには、座相はかなり改善された。

座談会では座相、数息観のやり方、座禅中の幻覚、腰を入れ過ぎて発する腰痛の回避のしかたなどを話した。擇木道場での催しもの、摂心会の意味、仏教講座の他に、9月禅セミナーのチラシを渡して内容を概説した。話をするうちに打ち解けて笑みがこぼれ、いろいろと話ができた。18:30に座談会を切り上げた。良い印象を持っていただけたと推定する。

尚、キウィジュースは先日の布団作務用に購入したキウィを使ったもので好評だった。龍泉
 

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「座禅するから暇になる」

カテゴリ : 
老師通信
執筆 : 
擇木道場 2019/8/29 21:18

「座禅するから暇になる」

春潭

 前回のブログで、「座禅しないから忙しくなる」を書きましたが、「では座禅をしたら暇になるのですか?」と突っ込む人が居ましたので、返答の代わりにこのタイトルでブログを書きます。

 先ず、字のつくりですが、旁の意味はかぶせるという意味で、日へんがついて、所用の日時の上にかぶせた余計な日時ということのようです。

 意味を大辞林で見ますと、名詞(1)仕事や義務に拘束されない自由な時間、(2)休み・休暇、(3)主従などの関係を絶つこと。いとま。形容詞(1)仕事や義務に拘束されず、自由に出来る時間がある様。

 座禅をすると30分から45分の時間は仕事が出来ないことになります。

時間に追われている現代のサラリーマンにとって、朝の出勤前にはこの1時間に満たない時間といえども貴重であり分秒で毎朝戦っているのにとんでもないというのが実態であり、そんな暇はないよ!が本音ですよね。

また電話が鳴りっぱなしとか机の上に処理を待っている書類の高さを見ても、勤務中においてのこの短い時間といえどもこれまた猫の手も借りたい代わりようがない貴重な時間でしょう。

アフターファイブはもう死語であり今ではアフターナインでしょうが、お客さん相手にしても上司相手にしても待たせるわけに行きませんし、そんな暇はありません!!でしょう。

 また逆に、定年になって毎日が日曜日になった途端に暇になりすぎてうつ病になる人もあるとか。

また一時流行った言い方では、家庭の奥さん方にとっては元サラリーマン戦士も濡れ落ち葉だと云われていましたね。(判りますか?乾いた落ち葉であれば掃いても直ぐ集めて捨てることが出来るけれども・・・・、ということのようです。)暇を持て余して家で三食たべてゴロゴロしているからそんなことを言われるのです。

現役時代は気の利いた秘書の作ったスケジュールに従うだけで一日は過ぎ、多くの部下が忖度で仕事を進めてくれていた。こういう人ほど、スケジュールも作ってくれない、忖度もないとなると、チコちゃんに怒られるようなぼおーと生きてしまうのかもしれませんね。

 

人間と時間の関係は不思議な関係ですね。

過去は済んでしまってもうないし、未来はまだなにもないし、あるのは過去と現在の接点である「今」だけしかない。

しかし考える葦である人間は、過去にも未来にも拘束されてしまい、唯一存在している「今」に生きていない状態になりがちです。

 座禅をすると云うことは、「今」をしっかり取り戻すことです。

座禅をすることによって、「今に生きる」がはっきり確保でき、過去にも未来にも煩わされることがなくなるのです。

座禅をすることによって(前回書きましたが)、「忙しい(こころを亡くする)」という言葉と無縁になり、仕事に追われることがなくなり、余裕が出来て暇になります。

また逆に、定年退職などして追いかけられるような仕事から解放され暇になった人が座禅をすれば、暇がなくなります。ここで云う暇は、「やることがなくて手持ち無沙汰」という意味です。

座禅をすることにより、充実した「今」を持つことにより、やることが無限に出てきます。もちろん忙しいということはないけれども、充実した今を生きるということになります。

繰り返しになりますが、総括して云えば、忙しい人が座禅をすれば暇ができ、暇な人が座禅をすれば暇がなくなるのです。


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